このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

酔古ざつがく

沖縄県営鉄道 糸満線の今と昔


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茶色のラインが糸満線です
津嘉山駅北側の汽車道、この先の左側に津嘉山駅があった
津嘉山駅
車の後側辺りの砂糖キビ畑が津嘉山駅跡。
山川駅
山川橋手前に公園がある。軽便鉄道山川駅の説明板もあり、ここが山川駅跡かと思ったが実際の跡地はこの公園から50m西側にあったと説明板から知る。
駅跡は現在国道となり駅跡の痕跡は何も残っていない。
山川駅跡の説明板から
戦前、ここから約50m西側には、軽便鉄道山川駅がありました。1914(大正3)年から1945(昭和20)年までの31年間、沖縄にも鉄道が走っていました。他府県の鉄道よりも規格が小さな軽便鉄道といわれるもので、人々からは「ケービン」と呼ばれ親しまれていました。沖縄県軽便鉄道(のちに沖縄県鉄道に名称変更)は、1914(大正3)年に与那原線、1922(大正11)年に嘉手納線、1923(大正12)年には糸満線がそれぞれ開通し、それまで人や荷物を運ぶ手段として活躍していた馬車から鉄道へと輸送手段はしだいに移り変わっていきました。当時、南風原村内には与那原線の南風原駅と宮平駅、糸満線の津嘉山駅と山川駅、喜屋武駅という5カ所の駅がありました。しかし、1945(昭和20)年の沖縄戦で多くの人命や文化遺産とともに鉄道も破壊され、人々から親しまれていたケービンも沖縄から姿を消してしまいました。
喜屋武駅
山川駅と稲嶺駅の間の線路は異様に出っ張っている。これを世に「幸之一カーブ」という。大城幸之一という県会議員が大きくカーブを描く経路に変更させたという。喜屋武駅はこのカーブの北側にあった。現在の自動車道の北側辺りであろうか。
喜屋武駅跡から東側に延びる汽車道。汽車道の面影が残る未舗装の道。
稲嶺駅駅
喜屋武駅を出た汽車は東から南に向きを変え切り取りを抜け道路の下のトンネルを通り稲嶺駅に着いた。写真ではキビ畑の左側付近が稲嶺駅跡。稲嶺には駅長がおり駅前からは百名行きの県鉄バスが発着していた。。
稲嶺駅跡の北側にある軽便駅かりゆし市。野菜や果物などの直売所かつて軽便駅があった事を今に知らせる軽便駅の文字。
屋宜原駅
昭和9年1月に開設された停留所。稲嶺から畑の中の築堤を走り途中県道77号線(当時郡道)と平行して進み岡を越えると屋宜原の駅が左側にあった。駅跡はコンビニの駐車場となっている。
東風平駅
屋宜原駅から先は屋宜原団地が出来て汽車道は消えている。団地を抜けると農道があり、やがて大きな新しい南西に向かう道にでる。これがかつての汽車道である。県道77号線と交差する手前の左側に東風平駅はあった。この駅は糸満線で一番乗降客の多い駅であった。ここからは県鉄バスが湊川に走っていた。
在りし日の東風平駅。
世名城駅
東風平駅を出た汽車は東風平小、東風平郵便局の西側を通り、汽車道跡の産業道路を通り、世名城駅に向かっていた。世名城駅は測線がありキビの積み出しを行ってが無人駅であった。世名城駅跡は道路拡張で消えている。
高嶺駅
世名城駅を出た汽車はしばらく南下すると向きを西に変え今は土地改良事業で消えてしまた線路跡を通り高嶺駅に向かった。高嶺駅跡は構内が広場として残っている。写真右側辺りが駅舎跡。駅舎は南側を向いていた。
当時の高嶺駅 出征兵士を送る風景
高嶺駅北側は高嶺精糖工場となっており、戦後工場跡には与座の住民が移住し民家が建ち並んでいる。その中に糖蜜を入れた槽が水槽として現在でも使用されている。写真中央左側。
高嶺駅と兼城駅の間の汽車道。今は農道として利用されている。高嶺駅をしばらく西に進むと線路跡は畑の中に消え県道77号線と交差する手前辺りから再び現れる。その先は未舗装の農道として写真の様に残っている。
高嶺側の兼城駅近くに残る築堤の橋の土台(コンクリートの残骸)。畑の中に奇妙な三角形が突き出ている。
兼城駅
「JAおきなわ」の駐車場が兼城駅跡。ここから先は行き止まりで糸満駅までは辿る事は出来ない。
糸満駅
兼城駅から先の消えた線路跡はわずかに残っている。県道77号線と平行する南西に向かう道がある。これがそうである。その先照屋モータースの裏からきた鉄道はここで県道77号線を斜めに横切り糸満中学校の南側にあった糸満駅に着いた。現在駅跡構内は住宅が建ち並んでいる。
糸満駅構内の東側に当時のトイレ跡とされるコンクリートが残されている。
旧糸満駅
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