このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

酔古ざつがく

むかしの那覇

那覇 久米大門

久米村(くにんだ)には14世紀後半から中国・福建から移り住んだ人達が定住していた。その久米村の入り口に建てられたのが久米大門(うふじょう)である。久米大道(現在の久米大通り)の北西側である反対側には西武門(にしんじょう)があった。西武門交番や西武門ビルにその名を残している。大門(うふじょう)の名もビル名として泉崎ロータリー付近に残っている。
久米大門から天使館跡に続く道は現在無くなっているが戦前「大門前通り」と呼ばれ市役所や山形屋、円山号百貨店などが有り那覇で最も賑わった道であった。
大正10年測図 5万分の1 那覇 陸地測量部
「むら咲むら」に復元された久米大門
今に大門の名を残す「大門ビル」西武門付近、久米大通り

那覇 天妃宮

天妃宮とはかつての久米村にあった上下の廟で航海安全の神である媽祖(天妃・天后)を祀っている。造られたのは15世紀初めの永楽年間と伝えられている。現在建物は無く上天妃宮の跡地は天妃尋常高等小学校として1899年(明治32年)に出来ており、戦後の一時期は現在の那覇市役所が出来るまで市役所として使われていた。その後現在の天妃小学校となっている。天妃小学校の東南角には石門だけが今でも残されており、昭和52年には那覇市の文化財に指定されている。下天妃宮には1880年に師範学校が造られており、現在の西消防署、東町郵便局付近にあった。現在、神像は波之上にまつられている
陸地測量部 大正12年発行 5万分の1 「那覇」より
沖縄歴史地図 明治初年頃の那覇市街図より
谷村のむら咲き村(旧南海王国琉球の風)に復元された天妃宮

現在の久米1丁目付近赤丸内が天妃小
天妃小に残る文化財の石門は平成10年から通用門として開門されている。
また、脇には那覇市が建てた説明板が設置されている。
この石門の写真を撮っている時のこと。天妃小の児童らしき子に「暗くなってから写真を撮ると死んだ人が出るよ。」と言われた。この辺りは心霊スポットなのであろうか。勘の悪い私には特に何も感じなかった。帰り際校庭で遊んでいた先ほどの子にまた出会い、再び同じ事を言われた。ずいぶん人懐っこい子である。東京辺りでは会えない子供らしい子であった。

那覇 天使館 下天妃宮跡 王府時代

その昔、那覇東村の大門前通りには王府時代の「親見世」や「天使館」「那覇里主所」「下天妃宮」などが建ちならんでいた。明治以後は警察署や区役所、郵便局、沖縄小学師範学校などに変わっていった。大門前通りは戦後の区画整理で消えている。ここでは天使館にスポットを当てて移り変わり紹介します。
王府時代の天使館をイメージとして表現するには写真が一番と思い、場所は全く違うのですが読谷村のむら咲き村(旧南海王国琉球の風)に復元されている天使館を使用しています。どの程度正確なのか分かりませんが雰囲気だけでも味わえるかと思います。
左図は明治初めの東村の絵図です。赤丸の位置が天使館です。天使館は冊封使の宿泊施設で16世紀初頭に創建されています。冊封使は夏から冬にかけての半年間滞在したといいます。また、それ以外の時は砂糖座として使用されました。天使館の南側には市場が有り昔の東町は繁栄した地域だったのです。天使館前の道は海中道路である長虹堤を経て首里城へとつながっていました。

左図 沖縄歴史地図より

那覇 東町 戦前

写真は昭和初期の大門前通りと那覇市役所の高塔  (昭和の沖縄より)
左の写真はかなり高い所から撮っているので市役所の高塔から撮ったと思われます。那覇市役所は天使館のあった所に建てられています。1896年に那覇区役所となり1917年に新庁舎ができこの時5階建ての高塔も出来ました。しかし1944年10月10日の大空襲で破壊されてしまいました。



陸地測量部 大正12年発行 5万分の1 「那覇」より
 左図は大正10年頃の那覇の旧版地図です。東町には警察署や市役所、郵便局が書き込まれています。赤丸が市役所です。道の様子も現在とかなり違っています。明治初年の絵図とほぼ同じだと思えます。この地図には路面電車の軌道や港への県営鉄道の路線も印されています。

那覇 東町 現在

上左の写真は天使館のあった辺りで現在那覇市医師会のビルになっています。上右は下天妃宮跡で戦前も郵便局だったのですが現在でも東町郵便局があります。周りの道筋は昔と全く変わっています。当然戦前を想像させるものも有りませんし、ましてや王府時代を忍ぶものも有りません。ただ、天使館跡に那覇市の案内碑が建っているだけです。
東町郵便局のあった場所は沖縄県電信電話発祥の地でもある。
この図は現在の地図に戦前の道を私なりの解釈で書き込んだものです。厳密には少し違っているかも知れませんので念のため。沖縄電気軌道や沖縄県営鉄道のルートもついでながら緑で書き込んでいます。
王府時代、戦前、現在と辿って来た訳であるが調べてみてびっくりした事がある。私が沖縄で初めて借りたアパートがどうも天使館の跡に重なりそうなのである。本当に不思議な思いであった。住んでいた当時は天使館のての字も知らなかったのである。自分の昔を思い出したり、少しずれても大門前通り辺りかなといろいろ考えながら作ったのが左図である。

那覇 東町 親見世


明治初年 那覇市街図 

大正10年測図 5万分の1 那覇 陸地測量部

空襲後の東町
親見世は当初王府の店として海外交易で得た財物を扱っていたが1609年の薩摩侵入以後その存在理由を失い、那覇の行政の中心としての役所に変わっていった。1638年那覇里主所が出来ると那覇4町(東村、西村、泉崎村、若狭町村)の民政を担当した。明治になると1875年には熊本鎮台沖縄分遣隊営所となり1884年から1915年までは那覇警察署、その後1930年に山形屋百貨店となっている。戦後、山形屋は神里原に再建され、1955年に国際通りに移転している。親見世の跡地は山形屋商品管理部として使われていたがその山形屋も1999年8月に閉店している。現在も山形屋時代の建物は残っており、シャッターには懐かしい山形屋の赤いマークがはっきりと残されていた。現在は沖縄大原簿記専門学校となっている。
親見世の敷地は特徴的な形をしており五差路の一角に位置している。東側の道は長虹堤を経て首里まで続く王府時代からの道で戦前は大門通りと呼ばれていた。大正時代の地図には警察署の記号が記入されいる。また、親見世の前には路面電車も開通し、停留所「見世の前」も設けられている。空襲後の写真には中央に親見世跡の敷地がはっきり残され地図と同様の形を見せている。なお、この写真は北側から那覇港方向を撮影しており地図とは逆になっておりそのつもりで見てください。戦後この辺りは区画整理で道は全く変わり、王府時代からの道は消えてしまった。

親見世跡旧山形屋

突き当たりが親見世跡

親見世跡 現在は専門学校

親見世跡の説明版
上の2枚の写真は現在の親見世跡付近である。左が山形屋商品部跡(現在は専門学校)。右が仮屋跡付近から親見世方向を撮ったもの。右図は昭和5年の見世の前である。写真には開店したばかりの山形屋や路面電車も写されている。この電車は3年後の昭和8年に経営不振のため廃止されている。詳しい事は沖縄電車軌道をご覧ください。

那覇 薩摩藩在番奉行所

 
薩摩藩在番奉行所跡の史跡碑
 
大正9年までの沖縄県庁
 解説文より
在番仮屋(ざいばんカイヤ)、大仮屋(ウフカイヤ)ともいう。 1609年の島津侵入の後、薩摩藩が出先機関として1628年に設置した。以来1872年までの250年間、薩摩藩による琉球支配の拠点となった。在番奉行や附役(つけやく)など約20人が常勤し、薩琉間の公務の処理や貿易の管理にあたった。 1872年の琉球藩設置後、外務省、ついで内務省出張所となり、1879年(明治12)沖縄県設置(廃藩置県)で仮県庁、1881年(明治14)から県庁となり、1920年(大正9)に泉崎(現在地)へ移転するまで県政の中心地となった。
 奉行所の前は「道ぬ美らさや仮屋ぬ前(ミチぬチュらさやカイヤぬメー)」と唄われ、那覇四町(なはユマチ)の大綱引もこの通りで行われた。上の絵図「那覇綱引図」の中央が奉行所であり、見物する役人たちも描かれている。 
 
仮屋ぬ前
 在番奉行所跡

那覇 三重城

那覇港入り口にある三重城は16世紀後半に倭寇への防御のためつくられたという。その対岸にも対をなすように屋良座森城がつくられている。上図は琉球貿易屏風の三重城部分を抜き出したものである。港には多くの船が描かれ古琉球時代の那覇港のにぎわいが伝わってくる。三重城は海上に延びる長堤で那覇港を彩る印象的な建造物であった。当初は城塞であったが、後には船旅の見送りの場所ともなった。琉舞の「花風」で三重城はその舞台となっている。
左図は江戸の浮世絵師葛飾北斎が描く琉球八景「臨海潮聲」である。江戸時代琉球は将軍の代替わりに慶賀使を送り、中山王つまり琉球国王が即位すると謝恩使を江戸に送った。これを琉球では「江戸上り」といった。使者の行列の服装は中国風であり、奏楽も異国情緒豊かな中国風のものであった。この使節の江戸までの行列は幕藩時代の多くの人々に目に触れ琉球への関心は深まったのである。北斎の琉球八景もそのような大衆の好奇心に対する一端と理解できる。

陸地測量部 大正12年発行 5万分の1 「那覇」

明治初年の那覇市街図部分 沖縄歴史地図から

現在図
三重城は明治初年の復元図を見ると古琉球時代と変わらず海上に突き出た長堤として姿を留めている。しかし左図上の大正期の地図を見ると三重城の東側は埋め立てられ陸地となり、突堤の雰囲気は既に失われている。そして「西の海」と呼ばれた部分も埋め立てられ現在は西3丁目となりホテルやガスタンク、バスの操車場、下水処理場などができている。
旧南海王国琉球の風(スタジオパーク)の海岸に復元された三重城。堤の途中に何カ所か有った橋も無く少し小振りであるが雰囲気だけは味わえるかと参考のため載せています。
下側3枚の写真は現在の三重城です。昔は海であったろうと思われる部分はホテルの駐車場となっている。三重城跡内部には拝所があり、故郷を離れて本島に定住している先島出身の人たちが故郷を忍ぶ場所ともなっている。

那覇 夫婦岩(みーとじー)

夫婦瀬公園内の夫婦岩
那覇の海岸線は近世以後埋立てられ、たえず変化を見せている。若狭にある夫婦岩は大正の頃の地図でもまだ海中に存在している。その当時夫婦岩の近くは塩田が多く浅瀬であった。公園名も夫婦瀬としてその名が残っている。公園内に残る夫婦岩の下部は海水で浸食されたあとがあり、かつては海の中にあったとすぐに理解できる。今でも潮が引いた後の砂浜にぽっかりと浮かんでいるかのようである。
大正10年測図 5万分の1 
那覇 陸地測量部

仲島の大石(なかしまのうふいし)

泉崎村の仲島は球陽八景にも描かれた名勝の「仲島蕉園」があった所で現在地名としては消えてしまっている。ここには明治の頃まで仲島遊郭があり、絵地図にも遊所と表記されている。現在の「大石」は明治期の埋立で完全に陸地の中にあり、泉崎の那覇バスターミナル構内となっている。ここは戦前の沖縄軽便鉄道の那覇駅のあった場所でもある。
那覇バスターミナルにある大石沖縄歴史地図より 明治初年の那覇市街図
むかしの那覇
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