このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

沖縄地理雑学 沖縄電気軌道(戦前の路面電車)

 

沖縄電気軌道→沖縄電気 大正3年〜昭和8年

 戦前の那覇には鉄道があり、崇元寺から首里を経て与那原まで通っていたと聞いた事があり、長らく私はそう信じこんでいた。首里から与那原は山越えのルートであり、少しおかしいと感じていたが特に調べる事も無く時が過ぎ去っていった。最近になり、この時の話を思い出し調べてみるとかなり違っている事が分かった。どうやら軽便鉄道の与那原線と路面電車の沖縄電気軌道をごっちゃにして説明されたようである。
沖縄電気軌道は那覇港の通堂から首里山川までの路面電車であった。営業していた期間は短く大正3年から昭和8年までの20年間である。軽便鉄道と違い戦火に消えた訳では無く、バス路線との競合で営業不振になり廃線に至っている。当時の路面電車は電力会社が経営することが多く、沖縄電気軌道は開業の翌年、関連の沖縄電気に吸収合併されている。なお、首里の都ホテルの裏側には遺構である橋脚が残されている。

沖縄電気軌道経路

路線の停留所を列記すると 通堂ー渡地前ー見世の前ー郵便局前ー市場ー松田矼ー大門前ー久米ー西武門ー裁判所前ー若狭町ー潟原ー兼久ー泊高橋ー泊前道ー崇元寺ー女学校前ー坂下ー観音堂ー首里 である。現在では馴染みの無い地名も多く、今でも分かる地名は通堂、久米、西武門、若狭町、泊高橋、崇元寺、観音堂、首里だけである。
渡地(ワタンジ)は明治橋が出来る以前の渡船場で対岸の小禄に通じていた。民話の「奥武山のみみず」には渡地の地名が出てくる。
見世 は「親見世」の事で琉球国の国庫であった。旧山形屋の商品管理部とその北の一部がその場所とされている。
郵便局 現在の沖縄郵政管理事務所のところにあった郵便局と思われる。大正時代の5万分の1の地形図でも同所に郵便局のマークが記されている。
市場 東町にあった久茂地川前の市場
松田矼 「まつだはし」と読むが現在の泉崎橋南側にあった当時あった橋のことである。古い地図で泉崎橋の位置を見ると孔子廟前付近にあり現在の泉崎橋より北側に有ったようである。最近の調べでは現泉崎橋の100mほど南に橋があった。
大門(ウフジョー) 久米大門のこと。旧市役所前の通りは「大門前通り」と呼ばれた。大門前通りは戦前那覇でも有数の繁華街であった。
裁判所 は若狭大通りに面した旧那覇中央郵便局の跡地に出来た労働基準監督署がそれに該当するようである。バスの停留所は久米郵便局前となっている。地形図でも裁判所の記号が見てとれる。
潟原 那覇中の東側の旧地名。この付近の東側は塩田が広がっていた。前島の飲み屋街は地形図で見ると海の中になっている。
兼久 泊高橋の南側で国道58号線付近の旧地名。当時の地形では泊から岬状に細長く延びた形で両側は海となっている。
泊前道 崇元寺方向からみて泊の手前。
崇元寺 崇元寺の向かい側に車庫と軌道部事務所があった。
女学校 大正10年発行の5万分の1の地形図には安里付近に女学校が記載されている。これを現在の地図を重ねてみると栄町リュウボウのところにあったと推測される。学校名は県立第一高等女学校と思われる。悲劇的な最後を遂げたひめゆり女子学徒隊の通っていた学校。ひめゆり通りやひめゆり橋はそれとの関係から付けられたのだろうか。
坂下 首里から坂を下りきったところ。大道東側。現在、首里からの道は坂下通りと名付けられている。
沖縄電気軌道2
 大正10年発行の5万分の1の地形図で那覇の町をみると現在の姿とあまりにも違うのに驚かさせる。久茂地川の北側の部分は区画整理され、戦前の道が残されているのはほんの一部だけである。海岸線も全く変わってしまっている。かなり埋め立てが行われたのがわかる。そんな事を思いながら地図をながめていたら、路面電車の経路と思われる黒点が道路上に記されているのに気が付いた。通堂の所では駅らしいマークも描かれている。道路上には黒点でルートが示されている。首里までのルートがこれで分かると思い通堂から路線のあとを追ってみた。しかし、坂下までは楽にたどれたのであるがそこから先の首里までは判読が難しく何とか辿ったのが上図である。坂下から首里までは勾配がきつく道路上を離れて蛇行しながら進行していたようである。当時の首里、坂下間の絵はがきを見ると道路より少し下の専用軌道を走っているのが見てとれる。ここでこの絵はがきを紹介出来ないのが残念である。終点の首里の位置は首里高校の前と判明している。

沖縄電気軌道の今昔

起点 通堂
路面電車の始発駅であった通堂付近の現在である。那覇埠頭船客待合所のあるビルの前にあたる。ここから電車は東に進むのであるが現在の港前の通りとは方向がやや違っており、金城キク商会のある四つ角まで直進していたようである。
沖縄電気軌道の起点は県営鉄道那覇駅からの引き込み線に沿って走り通堂橋のたもとが首里行きの乗り場であった。
 渡地
金城キク商会と沖縄製粉の四つ角に相当すると思われる。ここで電車は北に進行方向を変え「見世の前」へと進んでいった。そして、「見世の前」で久茂地川方向に曲がり東町通りの「郵便局前」を経て久茂地川に突き当たり、向きを北に変え久茂地川沿いに進んでいた。「郵便局前」の次の停留所は「市場」であった。
見世の前
警察署跡に建てられた山形屋の前に停留所はあった。電車はここで右に曲がり市場方向へと進んだ。
現在この通りは裏通りとなってしまった。
斜めから写されているので分かりにくいが「見世の前停留所」と書かれている。また、その下には小さい字で「渡地前」とある。
考えてみれば沖縄電気軌道は電力会社である沖縄電気と関係の深い会社であるから電柱に停留所名を書くのは至極当然である。
上の写真は戦前の見世の前の写真である。左手には山形屋、中央には電車が写されている。この写真は前からよく見ていたものであったが、ある日突然右側の電柱に停留所名が書かれている事に気が付いた
赤い線の中を拡大したものが右の写真である。
市場
公設市場があり、ここには交換設備があり、電車は行き違うことができた。
 松田矼
久茂地川に架かっていた橋でここにも停留所がおかれていた。現在ここには橋は無く泉崎橋の南側に当たっている。ここから「大門前」方向に進むのであるが道筋はかなり変わってしまっている。松田矼は乗降が少なく昭和5年7月に廃止されてしまった。
 大門前、久米
泉崎の交差点から西武門方向を撮った写真である。「大門前」が写真の左側そして久米通りを少し入った所が「久米」の停留所と思われる。古写真では電車のりば久米と表記されている。その付近の右側に那覇教会が有ったはずである。
この写真は大門前(ウフジョウメー)十字路の角にあった文具店の三笑堂であるが見てもらいたいのは左上の看板である。首里行き 電車のりば とある。この乗り場は通堂線開通以前のものだという.
因みに通堂線(大門前〜通堂間1.2㎞)は大正6年9月11日に営業を始めている。

久米 電車のりば
写真はパブティスト教会那覇のガラス写真である。
ご覧の通り左側の電柱に「電車のりば 久米」とある。やはりこちらも電柱に表記しているが、見世の前では停留所となっており、久米はのりばとなっている。どうして表記が違うのか興味があるところである。
 裁判所前
西武門で方向をかえた電車は「裁判所前」を通り「若狭町」へと向かっている。旧那覇中央郵便局の跡地に出来た労働基準監督署が戦前の裁判所に相当する。若狭町に向かう経路はここから先、街並みに消えている。
 潟原
那覇中南側のこの道は戦前の道が残されたものでは無いかと想像している。この一画だけ周囲の道と違っているのである。
 兼久
潟原からきた電車はこの辺りで現在の国道58号線まで進み、今は消えてしまった地名である「兼久」を経て泊高橋に向かっていた。写真は58号線であるが当時この両脇は海であり塩田が広がっていたという。
 泊高橋
泊高橋で安里川を渡り崇元寺通り方向へ大きくカーブし、泊前道へ向かう。
 泊前道
泊高橋で方向を変えた電車はほぼ現在と同じ崇元寺通りに進行した。「泊高橋」の次の停留所は「泊前道」であった。この通りのどのあたりにあったのであろうか。ただ想像するのみである。
 崇元寺
電車の経路上でここだけが戦前と変わらない風景を醸し出している。
崇元寺前の乗り場
崇元寺の向かいに電車の車庫と軌道部事務所があった。現在車庫跡には沖縄実業という会社が建てられている。
 女学校前
崇元寺から県営鉄道嘉手納線の下をくぐると女学校前の停留所があった。安里交差点の付近は現在モノレールが上空を走り、女学校跡のリユウボウ前には安里駅ができている。
 坂下
ここの南側には旧県道が細い道のまま残っている。途中には茶湯崎橋(チャナザチハシ)跡がある。かつてはここまで船が昇ってきたという。
坂下から首里へ向かう電車専用軌道跡。現在は道路となっておりカーブは往時そのままに残っている。
観音堂下の沖縄都ホテルの東側に橋脚の土台であるコンクリートが残っている。
観音堂下を行く電車 電車はこの先、大きく蛇行し観音堂へと登っていった。写真の電車の上手辺りが観音堂。
 観音堂
民謡上り口説にも唄われた観音堂である。
終点 首里
県立第一中学校の裏手に首里駅はあった。現在の首里高校の門の前あたりになるのであろうか。
沖縄電気軌道
トップページ   沖縄もくじ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください