このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
酔古ざつがく
沖縄そば むかし地図
沖縄そばの歴史は支那そばの伝来と共に始まったようである。それが沖縄独自の発展をとげ、今日の沖縄そばになったのである。沖縄そばがまだ支那そばと呼ばれていた頃の店を大正8年の地形図に載せてみた。 始めて那覇に出来た店は福永義一氏の「支那そば屋」であった。大阪から清国人の調理人を雇い、那覇市警察署下り・肥料会社裏で営業を開始した。支那そば・支那料理が店の品目であった。そば専門では無い様であるが通称「唐人そば」と呼ばれていた。明治35年4月9日付けの琉球新報に開業の広告を出している。当時那覇警察署は東町の親見世跡に位置していた。その後警察署は山形屋になっている。この店の具体的位置は不明である。「下り」とは南側の通りを指すのであろうか。肥料会社裏とはどこであったのであろうか。 明治38年唐人そばで奉公していた比嘉牛がベェーラーそば「比嘉店」を開業する。おそらく警察下の唐人そばと思われる。卵のヒラヤーチーをのせるなどして有名になる。ベェーラーとはおしゃべりの意である。 明治40年10月に「観海楼」の開業が新聞広告に出ている。この店も支那そば・支那料理各種を提供していた。福州の料理人張添基さんを使い、前の毛に出店していた。この店も唐人そばと呼ばれていたようである。明治40年に辻の前之毛で「観海楼」と「比嘉店」が客の争奪戦をして、比嘉店が勝利したとの記事が見える。 石門通り角の「森屋」は鹿児島出身の森さんの開業である。広告のメニュー内容から見ると日本そば屋であるが支那そばも出していた。私見であるが和風のかつお出汁とシナソバの豚を使用したスープが融合した沖縄そばの汁の原型はここにあるのではないかと思っている。「森屋」は明治40年ころにはすでに営業していたという情報もある。明治43年に「森屋」の広告があることからそれ以前から営業していた事がわかる。大正4年の新聞広告では琉球そばの名称を使っている。広告の住所表記は那覇石門角となっている。森屋の通称は「森そば屋」。東恩納寛惇の説では沖縄のそば屋の最初としている。昭和初めの地図に森そばや(三角)の表記があるが大正14年に「森屋」は廃業し、「三角屋」を開業した吉本氏にそば屋を譲っている。吉本氏は大正14年に県下最大の二階建ての食堂「三角屋」を開業している。(昭和2年(1927) 三角屋開業 、吉本氏の店。店名を改称。)の記事がある。おそらくこの時まで「森屋」の店名で営業していたものと思われる。戦後は国際通りの三越近くに「三角屋」の名で再開している。 「ウシンマーそば」は大正2年頃の開店。辻の元尾類(ジュリ)が始めた店でそばの具に初めてカマボコとショウガをのせて人気を得た。住所は石門交番所隣とある。昭和21年(1946)「うしんまやそば」として丸国マーケット裏で再開している。 大正4年6月「不勉強屋」で支那そばを琉球そばとして表示。那覇警察署長の指示だと云う。この店も森屋と同じく和風のそば屋と思われ、支那そばとは分離しつつある様子が伺われる。「不勉強屋」は大門前通りで営業していたが具体的位置は不明である。 「ゆたか屋」大正8,9年頃の開店。大正15年頃まで続いた。そばのだしに改良を加え現在の沖縄そばに近いスープを作る。具にはシシ(肉)や蒲鉾をさいの目に切って上にのせていた。 「井筒屋」 森そばで修行した新里有一郎氏が波の上通りに「井筒屋」を大正9年に開業。戦後は牧志通り国際劇場横で営業。 「万人屋」 昭和4年、中里誠吉氏が市役所前に開業。大門通りにあった。サイドメニューに、いなり寿司をだし人気店になった。戦後も那覇市役所前で営業とある。市役所は戦前と戦後では位置が変わっており本当に間違い無いのであろうか。やや疑問が残る。市役所前が確かだったにしても、那覇市役所は昭和20年安里八幡宮の民家に移転。昭和22年牧志公設市場敷地に移転。昭和23年開南に移転。昭和24年開南から牧志町(4区)に移転。昭和28年天妃小学校へ移転。昭和40年現市庁舎落成。このように戦後は移転をたびたび繰り返しており、戦後のどの年代の市役所前だったのかは不明である。 |
大正8年測図 2.5万分の1 地形図から |
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