このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

古道2.


古道1.は予想外の展開に気を良くし 続いて古道2.へ挑みました



観光橋を渡り少し進むと黒臓の入り口となる分岐点を左に折れ、数十メートル行った場所がここです

昔は橋(若葉橋)が架かっていたのだが今は面影も残っていません  川を渡ります


上の写真の赤矢印の場所です

美代子さんの手記によると黒蔵の『若葉橋』の袂に狛犬さんと鳥居がありました そこから道が続いていましたが、
とても人では怖くて行けない所だったそうです
と書かれ、鳥居こそ残ってはいませんがまさしくこの場所です

私もこの先へ行ってみたのですが道路が出来た影響により道は全く消えたと思われます



谷を渡ると、谷に沿って上流方面へ続く、道らしいのがありました


道はこの先で上に向かって延びています




上に石垣が見える





後で聞きました 中之川のカキナルのMさんによると戦時中この場所で出兵達を見送っていたそうです
当時は見見通しがよく、観光橋から上に続く道なども見渡せたそうで部落の住民が「バンザイ!」と手を上げ、いく度となく叫んだそうです
表向きはバンザイだろうけれど心の中は涙、深い悲しみの場所でした

B地点 私が名を付けました「見送りの峠」



石垣の上には放置された古いお墓が在りました



峠からは道はほぼ水平に続きます



下を見下ろせば道路とおん淵が



ここは当時の様子が色濃く残る場所です
この真下がこうやけのおん淵で「ゴー、ゴー」と唸っています}



C地点 この場所から下の道路へ一気に下ります


道路が見えました



出発点から20数分で小さな谷の手前に降りました
最初に登った古道1.と同じく道路から侵入口は全く判りません

この事などにより私の頭の中では古道は完全に消えていましたが今日は思いもよらない収穫となりました
古道1.と同様めん淵を干した時、佐々連の人達がいっぷく峠や薬師峠経由で多くの村人達が見物に
訪れたに違いありません ひょっとすると高知県からも土佐峰を越え、来たのではないでしょうか




今度はめん淵を上流から覗いて見ました

目の前に珍しいシーンが現れました
 川幅が2m程しかなく、川と言うより水路に近く中之川でこの様な場所は初めて目にする  大発見!





上流から眺めました 奥がおん淵へと続いています





右手の岩の上をへっぴり腰で進みます





足を滑らすと明日の新聞を賑わす事になります




不気味さも漂う淵が見えましたが ここで止め、上へ這い上がりました





今度は下流から攻めてみました もちろん川へ降りるのは初めて 左岸を進みます



美代子さんも書いていましたがこの正面の岩の裏側に人が座れるくらいの空洞があると聞いています

はたして今もあるのか? 

昔の川口探検隊なら当然潜るのですが私が潜ると2度と出てくる事は無いでしょう




龍神さんが祀られていたと聞いた事があるので探したが判らなかった
上部に道路が出来たため消えたのではないか





岩の上から見た下流方面です  道路が見えます またその上に今日歩いた古道が在ります


後書き

 カキナルのMさんの話です
 中学生時、中之川から久保が市中学校へ通う時、炭俵を2俵背負って久保が市まで運びアルバイト代として10円もらっていたそうです。
 当時の10円は今の金額にすると幾らになるか私には解りませんが1俵は3貫と言っていましたので6貫(24kg)を背負ってあの山道を…声が出ません
 
 私には姉がいます。姉も中学時代、久保が市中学校へ通っていました。話によると片道2時間ほどかかったそうです。
 困るのは冬期、朝は家を6時に出るので真っ暗、帰省時、家に着く頃も真っ暗、灯りは?と聞くと「さァ?解らん」
 そう言えば当事は懐中電気などなく提灯かアセチレンランプでした。当然山火事などをおこすと大変な事になるので灯りは持っていかなかったはず。
 通信手段など全く無く、夜遅くなった時など親父が心配して迎えに行っていたのを覚えている。
 お袋の方も大変だったと思う。朝6時に家を出るとなると5時前には起きてお弁当と朝食の準備をしなくてはならないのだから。
 
 

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