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          12系統(新宿駅前—両国駅前)









9.539km

新宿駅前-角箸-四谷三光町-新宿3丁目-新宿2丁目-新宿1丁目-四谷4丁目
-四谷3丁目-四谷2丁目-四谷見附-本塩町-市ヶ谷見附-一口坂-九段北3丁目
-九段上-九段下-専修大学前-神保町-駿河台下-小川町-淡路町-須田町-岩本町
-東神田-浅草橋-両国-東両国2丁目-両国駅前

S 4. 4 

S45. 3

新宿駅西口

 
駅前広場というには、粗末な雑草広場であった。むなしい表情の人がたむろしているのは、この後に場外馬券売場があったから。これが甲州街道沿いの現在地へ移ったのは昭和40年である。馬券の場外発売は農林省職員の思いつきと聞くが、財源難の敗戦後、監督官庁が窮余の策とはいえ、今からすれば巧妙な計らいであった。

 こんな広場に、昭和34年営団地下鉄丸の内線が、池袋から銀座経由で到達、さらに荻窪に向って延長工事が進められると、急に活気が満ちてきた。まず昭和36年に、安売り商法で話題を投げたヨドバシカメラが創業、続いて昭和37年に小田急百貨店、昭和39年京王帝都電鉄駅を兼ねた京王百貨店ビルがオープン。さらに、安田生命(昭和38年)、朝日生命(昭和40年)、スバルビル(昭和42年)など大型ビルが相次いだ。

 一方、昭和35年に着工した重層式西口広場の建設も昭和41年11月には完了した。地上1階がバスターミナル、地下1階がタクシーと一般者のロータリー、地下2階が380台収容の駐車場で、そのすさまじい人為的空間は、原写真と見比べて同じ場所と判断することは難しい。

 この駅西口開発の終わりが、昭和42年11月の西口駅ビル完成に伴う小田急電鉄新宿駅の開業と、小田急百貨店の開店である。これによって小田急百貨店は旧館と合わせ、当時売場面積日本一となった。そして、昭和40年、淀橋浄水場跡地の超高層ビル街建設が着工された。

南口(旧角筈)

 
甲州街道(国道20号線)に面した新宿南口の西より交差点は、戦後の広く貧しい風景の中を、京王帝都の電車が路上を人や車と一緒に走っていた。行く手の角筈のガスタンクが大きく目を引いた。この辺りは、現在西新宿と町名変更されているが、昭和45年までは新宿駅を挟んで
角筈と呼んでいた。昭和39年に京王帝都電鉄は地価に潜り、昭和55年から甲州街道の下を都営地下鉄新宿線が走っている。

 向いの角のルミネは昭和51年に開業、その右隣の小田急新宿駅ミロードは昭和56年、国鉄南口駅舎も昭和57年面目一新した。さらに昭和61年には、貨物駅跡に埼京線のホームが建設されて、南口の向かい側にも新宿駅舎が誕生した。

 ところで甲州街道は、新宿駅南口のある新宿陸橋に向って上り坂になっている。これで山手、中央、埼京、小田急の4線を越えると、青梅街道との分岐点に達する。その近くに昭和20年まで京王電鉄の起点駅があった。

 大正2年(1913)調布から笹塚まで開通した京王電気軌道が、新宿追分まで乗り入れたのは大正4年(1915)である。初めは専用橋で省線(現JR)をまたいだが、大正14年(1925)新宿陸橋が架設されると、この路上を走った。ところが、昭和20年5月25日のB29の無差別爆撃によって、新宿は焼け野原となり変電所も災害を受けた。この為電力が低下、電車はこの坂が上がれず、線路を急きょ新宿駅西口へ移し変えた経緯がある。

東口広場

 
昭和31年の経済白書が、朝鮮動乱以来の景気上昇を捕らえ「もはや戦後ではない」と評した中野好夫の言葉を引用して流行させたが、所詮は浮草景気、輸入増加も手伝って翌年はもう鍋底景気へ転落した。当時の「3種の神器」電気洗濯機、電気掃除機、電気冷蔵庫も庶民にとっては高嶺の花に過ぎなかった。こうした欲求不満の隙間を狙って急激に普及したのが、日本的発想の実用品・電気釜であり、週刊誌であったような気がする。

 実際には、住む所があっても間借りかバラック、運良く2DKの公団んアパートに入居できたとしても、3種の神器を置くスペースがなかった。この新宿駅表口写真が、ようやく衣食足りて住及ばずといった時代を表している。戦後いち早く「光は新宿より」のうたい文句で始まったヤミ市が、少しはましな建物に代わりつつあっても、多くはトタンぶきの住宅兼平屋建て商店だった。わずかに新宿駅舎とデパートのビルくらいが、かっての繁華街をしのばせていた。左に見える新宿駅舎は大正14年(1925)の建築、東京オリンピックの年、昭和39年5月にげんざいの民衆駅ビルに衣替えした。25年間の時の流れは、西口に高層ビル群を出現させたが、わずか4半世紀の間に、日本人の体形、表情がこうも変わるものかと、改めて興味をそそられる。

山手線最高峰

 
山手線は、明治18年(1885)開通した日本鉄道会社の品川〜赤羽線に始まる。そのとき新大久保駅はなかった。明治39年(1906)日本鉄道も甲武鉄道も国有化され、明治42年(1909)日本鉄道線が山手線、甲武鉄道線が中央線と名称決定した。こうして山手線に新大久保駅が誕生したのは、大正3年(1914)である。同じ年、東京駅も開業したが、東京〜上野間が完成せず、現在のような、一周34.5㎞の間嬢運転が実現したのは、関東大震災後の大正14年(1925)である。

 写真で線路は10本ある。右の複線が山手線、中の複線が山手貨物線、左端の単線が西武鉄道新宿線である。西武線は、いっきに高田馬場駅まで走り抜ける。それは、もともと西武鉄道は、武蔵野鉄道とか西武農業鉄道という名称で、逆に西武地方の農産物を東京へ運ぶために延びてきた鉄道で、初めは高田馬場を接続駅としていた。

 西武鉄道株式会社と社名を決定したのも、終戦直後昭和21年で、新宿に到達したのは遅れて昭和27年である。しかし、新宿駅に余地がないため300m離れた現在地に、独立した西武新宿駅を設置した。

 写真で山手線が越える坂の下は中央線である。山本淳さんの「山手線東京案内」によると、ここが標高30mで、山手線の最高地点であるらしい。山手貨物線は、昭和61年から通勤新線埼京線に生まれ変わった。

新宿通り

 
同じ通りが、建物によってこれほど違った感じになる。戦後の焼跡に堂々と立っていた伊勢丹百貨店の塔(占領軍に接収)が、今では両側に並び立つビルで目に入らない。

 青梅街道沿いの、この辺りの発展は、明治18年(1885)の日本鉄道品川〜赤羽線の新宿駅開業と、続く明治28年(1895)の甲武鉄道飯田町〜立川間の開通による。また、京王電鉄が、大正4年(1915)甲州街道を調布から新宿追分(現、3丁目)まで乗り入れ、江戸以来の盛り場を北へ移動させた。

 すでに果物屋の高野(明治8年)、洋食の中村屋(明治33年)が創業していたが、関東大震災後続々百貨店が進出して新宿通りを賑やかにした。

 大正15年(1926)には四谷見附のほてい屋、続いて神田から松屋が進出した。しかし、ほてい屋は昭和8年、神田から進出した伊勢丹に合併吸収(昭和10年)され、松屋は後に撤退した。代わって、駅前にマーケットを出していた三越が現在地に百貨店を構え(昭和5年)、三越の跡には食料品の二幸(現、アルタ)が建った。その間、紀伊国屋書店が開業(昭和2年)している。

 一方、娯楽施設では、洋画封切館の武蔵野館が昭和3年に開場、新宿第一劇場が昭和4年に、帝都座とムーランルージュが昭和6年に開館した。現存するのは武蔵野館のみで、帝都座は割賦販売の丸井に建て替わり(昭和49年)、新宿第一劇場には、平成3年三越新館が建った。

内藤新宿3丁目

 江戸城の半蔵門を出て甲府に通ずる甲州街道と、青梅街道の分岐点が追分。その隣接地・高遠藩主内藤氏の江戸下屋敷の一部を割いて元禄11年(1698)新しく宿場が設けられることから「新宿」名が付いた。
 
 以来、内藤新宿は、この辺りを中心に栄え老舗・大店舗が軒を連ねる繁華街となった。特に、今日のような都市に発展したのは関東大震災後で、鉄道ターミナルの地の利が大きい。戦後、昭和34年地下鉄の開通と地下街の開発で躍進した。

 しかし、昭和40年代、淀橋浄水場跡地に高層ビル街が出現すると、人の流れも変わりはじめ、現在この辺りは、対抗策に懸命である。その具体例が、甲州街道(国道20号線)新宿陸橋近くに、平成3年開館したばかりの三越新館と、貨物駅跡地への高島屋の進出決定である。

 いずれにしても、平成3年4月の都庁移転で、副都心新宿が新都心を目指して発展を続けることは間違いない。

新宿5丁目交差点

 
この広々とした三光町交差点は、戦災復興事業によって形作られたものである。前後、つまり東西に延びる道が靖国神社通りで、道の左側を三光町、右側を新宿3丁目といった。この靖国通りの右に300mほど離れて平行する甲州街道は、江戸城半蔵門から来て新宿3丁目で南西に折れ青梅街道と分かれる。この青梅街道の始まる分岐点が追分で、今は、近くの「追分だんご」がその名をとどめている。分岐点から新宿駅東口にかけて青梅街道が目抜きの新宿通りである。

 戦後、この新宿り通を歩行者専用道路に改造する計画で、新宿3丁目から三光町交差点へ斜めに新道を設け、昭和24年都電を移した。したがって、終点新宿停留所は駅前から靖国通りの歌舞伎町入り口へ離された。

 戦災復興計画のほとんどが無為に終わった中で、靖国通りの拡幅が実現で来たことは、今日の発展に大いに貢献している。その過程において、明治36年(1903)以来庶民の足として町の繁栄を支えてきた都電。写真の11系統は、四谷見附〜桜田門〜銀座〜築地〜月島を結び、特に人気の路線だったが、昭和45年3月廃止された。

 また、三光町の名も昭和45年に消えて新宿5丁目となり、広い交差点、四ツ谷警察署御苑大通り派出所こそ変わらないが、いくつかのビルが建ち、街の様子は大きく変わった。

新宿・角筈・歌舞伎町

 新宿通りと明治通りの角地に建つ伊勢丹は、空襲を免れたために、戦後米軍に接収されてしまったが、地続きの都立新宿病院と、都電新宿車庫とは戦火を蒙って焦土と化した。
 昭和22年3月の毎日新聞に「きのうのゆめ・銀メシ横丁」という見出しで、新宿駅東側の露天街200軒余、主食販売のかどで10日間営業停止。遅配にあえぐ都民を尻目にパリパリの銀メシの天丼、親子丼、握りずしを販売していた・・・・・・・・・・。という記事がある。
 『11』番、『12』番は、伊勢丹前を通り新宿駅前が始終点だった。昭和23年12月24日に、この間が廃止され、すべての電車が角筈に変わった。元来『12』番を管理していた大久保車庫に、新宿車庫関係が同居する形で都電廃止まで続いた。「都電新始終点の向側は区画正しい新市街が歌舞伎町、歌舞伎新町の呼称も耳新しく、さながら往年満州各地に営んだ日本人都市のように突如として現出すれば、それに遅れをとらじとばかり旧新宿始終点二幸に平行すり大小幾多の横町は今や道路の修築にいそがしい」と奥野信太郎は『随筆東京』でいっている。
 あれから50年、不夜城新宿歌舞伎町は若者のメッカとなった。角筈は歌舞伎町側のビル化が幾分か早く、山手線のガード下の角地から『11』番、『12』番、『13』番の3系統が勢揃いした場面を撮るには大変苦労した。

 (1) 線路の移設や延伸
 開閉する橋で有名だった「勝どき橋」上の都電路線が開通したのが昭和22年12月でした。新宿では、新宿駅東口の新宿通りから出ていた線路が、靖国通りに移されたのが昭和23年12月でした。
 都電と同じゲージの京王線の電車が、新宿追分(現在 新宿三丁目付近)を起点としていたが、昭和20年7月に新宿駅西口のほぼ現在地点(地上)に移転している。(京王50年史)。他の鉄道会社でも、かつては東京市電との直通運転を目指して、市電と同じゲージの電車もあったが順次ゲージが変えられた
 (2)新宿車庫と大久保車庫
 『11』、『12』、『13』系統の受持。大正15年新宿車庫の分庫として開設され、昭和14年11月営業所となった。戦後は戦災で焼失した新宿車庫が大久保車庫に同居していたが昭和38年12月統合されている。昭和43年2月11系統が廃止された後、昭和45年3月27日12・13系統の廃止とともに閉鎖され、現在敷地跡は都営アパートと新宿区文化センターになっている。
 かつての13系統、抜弁天方向から専用軌道跡の道を下ってくると大久保車庫の跡へ出るが、近代的な建物に変わった車庫跡は往時の面影は無くなっていた。
 
 両国駅前で下り返して来た『12』番の電車は、岩本町、須田町を通り、九段坂を上がって、市ケ谷見附から外濠に沿って、ここ四谷見附を右折していた。
 よく知られた割りには駅舎の小さい四谷駅の屋根だけが見える。その背後の大きな欅は、江戸、明治の四谷の景に描かれている古木だ。
 その左の建物は雙葉学園である。ポイント操作をする信号塔が印象的な四谷見附である。

新宿1丁目の火の見櫓

 上智大学と雙葉学園の前に架る四谷見附橋を渡ってくると、もう昔の四谷区である。四谷2丁目、四谷3丁目を過ぎると、次が四谷4丁目である。「四谷4丁目大木戸」と電車の車掌は乗客に伝えたものだ。半蔵門前から来たこの道は、甲州街道と青梅街道とがまだ分かれない共通の道で、江戸時代は、五街道の一つとして町の出入には厳重な警戒を以って臨んだ。その木戸があるところが四谷大木戸で、高輪大木戸と共に、広重の「江戸土産」にも描かれている。
 四谷大木戸の次が新宿1丁目で、右手に火の見櫓と秋葉神社が見える。正式には四谷消防署新宿御苑前出張所という。板張りの旧形の火の見櫓で、南北朝時代の砦のようだ。お隣りの秋葉神社は、都内では他にも下谷の南入谷、向島などにある神社と同様、火祭で有名な遠州の秋葉神社を勧請したものであろう。防火の神社として、火消し仲間には昔から信心されている。
 この火の見櫓の向かい側辺りは、内藤新宿と、新宿御苑でよく知られている。家康公江戸入府に先立ち、三河以来の家臣内藤駿河守(高遠城主)に小田原から江戸の下見をさせた。その後、江戸に入った家康は内藤駿河守に、自分の欲しい所を馬で一廻りし、そこを自分の邸にするがよいといった。内藤駿河守が馬で一周したのが、新宿御苑一帯の90,000坪に上る広大な地域である。
 明治5年以来、暫くの間は「内藤新宿試験場」として、欧米の新しい種苗を植えつけて実験をしていた。ダナーいちごは、明治5年に、ここで栽培されたのが、日本での最初であった。また、この御苑の中の池から涌き出る清水が、千駄ケ谷、代々木を洗い、渋谷川となって麻布の湧き水を集めながら、金杉橋をくぐって東京湾に注いでいる。これこそ東京では、数少ない川の一つ。古川である。
 明治36年12月29日、東京市街鉄道線が半蔵門〜新宿間に電車を通した時に始まる。当初は、日比谷公園を起点として新宿行を走らせた。
 大正3年には、新宿車庫のナンバー『3』番の電車が、築地両国、築地浅草、九段上野、九段両国と方向板を掲げて、新宿1丁目を通過した。
 昭和に入り5ねんまでは、『16』番、新宿駅〜築地と『17』番、新宿駅〜両国駅前とが走る。翌6年には、前者が『11』番、後者が『12』番と番号が変更された。
 戦後になっても、珍しくもこの番後が継承されて、『11』番、新宿〜月島、『12』番、新宿〜領国駅間が通った。『11』番は昭和43年2月25日から廃止。『12』番は昭和43年3月31日に、岩本町までと短縮されたが、昭和45年3月27日から廃止された。

拡幅される四谷3丁目

 皇居の西の玄関、半蔵門から一直線に新宿に向う道は、新宿追分で甲州への道と青梅への道の2つに分かれる。都内では青山通りが戦後の拡幅の元祖で、この四谷はその次ぎの口だ。それでも昭和47年ごろには、もう拡幅が始まっていたのに、完全に通行できるようになったのは最近の事だ。
 私がたまに食べに寄る天ぷらの天春の小黒邦彦さん(昭和12生)は、四谷についてこう語る。「うちが店を開いたのが昭和5年です。四谷という所は最初はなかなか土地っ子扱いをして呉れないが、馴れると今度はとても良くしてくれるんですよ。こうして高いビルが増えちゃうと、大家さんは1階にいないで上の方に住んじゃうんです。昔は道路からよしず越しに声を掛け合えたんで人間関係がうまくいってたんですね。そういう下町っぽい四谷のいい所が段々と薄らいじゃって、物足りませんねぇ」
 四谷3丁目の都電は、『7』番は品川駅へ、『10』番は左折して渋谷駅へ、『12』番は新宿駅へ『33』番は浜松町1丁目へ通っていた。
 四谷3丁目を通る新宿通りは、大幅に広げられたので、昔の交差点の角地は、現在では大通りの真ん中近くの位置だろう。ビルは増えたが道路が広くなったのでかえって空が大きくなったのは信じ難い事実だ。

新宿通り四谷

 東京の山の手にあって、四谷ほど多面的な顔を持った町も珍しい。中央線の四ツ谷駅は、名前が全国に知れ渡っているのにマッチ箱みたいな1階建のつつましいたたずまいがいいではないか。駅の出札口を出ると北側に、かっての四谷御門の石垣と、その上に空を圧するばかりの大きなケヤキが、江戸時代から明治・大正・昭和の戦前戦後の四谷の変遷を眺めてきた生証人として、健やかに昔を蘇らせる。
 南をを振り向けば、旧赤坂離宮の迎賓館で、内部はベルサイユ宮殿、外部はバッキンガム宮殿をお手本として造ったというだけあって、あの鉄門の模様越しに眺めると、西欧にいるようだ。加えて、上智大学の聖イグナチオ教会、その対岸の雙葉学園の古い赤煉瓦の門柱なども、洒落た雰囲気だ。黒いヴェールをかぶったシスター何人も歩いている四谷には、中央出版やドンボスコ書店など、聖書を扱う店がある。
 一方、この四谷は江戸時代から、甲州・青梅方面への重要な通り道、昔は四谷2丁目を四谷伝馬町と呼んだことによっても知られる。四谷1丁目と四谷2丁目のニュー上野ビルの横町は「四谷大横町」といって、明治・大正の頃の夜の賑わいは、昼をも欺くかとばかりで、飲食店.や寄席で東京中の盛り場の一つに数えられた。その西奥には「津の守」という三業地があって、これは旧幕の頃、松平摂津の守の屋敷地だったのを明治から一帯を花柳界とした。中には、信じられないほどの窪地と崖から落ちる新滝があり、東京の娯楽センターとして知られていた。近くには岩井半四郎をはじめ、咄家などが住んでいて、四谷はなかなか江戸的な粋な面をも合わせ持っている町である。
 佃煮の有明家、うなぎのさぬき屋を始め、元は箪笥町というのが北の並行した通りを中心にあって、加賀安箪笥店はその名残である。漫画家西川辰美さんの実家である。江戸城中への御用達であったから、四谷の箪笥町は、下谷、小石川、牛込、赤坂の箪笥町とは異なって、御箪笥町と御の字がくっついていた。
 昭和41・2年、都電の写真を撮りまくっていた頃には、四谷の通りも軒の低い静かな落ち着いた街並みだった。昭和47年頃には、もう拡幅の前ぶれで所々で店の面を引っ込めて新築しているところが目立った。でも、その頃は今日のように土地ブローカーが暗躍する事もなく各自のお店が、工夫して後ろに引っ込めたり、同じならびに工面して移動したりして東京都の行政に合わせていた時代だった。四谷の北側の通りを昭和47年としょうわ57年で比較すると、かっては33棟で合計75階だったのが10年後には、21棟で90階と棟数は減って合計階数が増えている。1棟平均2.26階から、3.80階と高くなっている。
 この四谷1丁目辺りから四谷3丁目、大木戸へかけては、やっと最近拡幅が完成して通行が始まった。今流行の一つの典型である。

四谷見附

 四谷という土地は、江戸城の西側の高台にあるため、紀伊国坂上の喰違見附と共に四谷御門を持つ四谷見附が設けられていた。現在、正面に眺められる美しいい四谷見附橋は、大正2年の架設で、それまではコの字型に、右折、直進、左折とカギの手に迂回しなければ、四谷を通り抜けられず、明治時代の電車は、丁寧にそうやって西に進んで行った。
 左に雙葉学園、右に上智大学、学習院初等科、迎賓館がある。四谷には高燥の地を利用しての建物が建ち、西欧調の雰囲気をいやが上にも高めている。終戦直後は、迎賓館の1階に国会図書館(当時の館長は金森徳次郎さん)があり、20年後に四谷見附に立ってみると思いの外、景観は変わっていない。
 やはり、外濠の幅広い空間が中央に介在するため、これに蓋をしない限り、ゆったりとした都市空間が保たれるだろう。
 四谷見附橋をわたる『11』番は、5000形が走っていた。四谷見附橋も架け替えられることになったが、橋の唐草模様の欄干と鈴蘭灯は、新橋に継承される。橋の袂には信号塔があり『3』番、品川駅〜飯田橋間が走っていた。『11』番に直角に交差していた。

水温む外濠

 九段上から西に進んでくると、今日でも運がよければ、暮れの方の富士山を拝む事が出来る。その富士見町を過ぎて真直ぐの突き当たりは、中央線の市ケ谷駅である。電車はここでいったん道なりに90度右折して、また、左に曲がって外濠に沿って進んで行く。市ケ谷駅から外濠まで緩やかなスロープになっていて、その左へ曲がるところに貸しボート屋が在る。近頃では三角帆を着けたヨットまで貸している
。冬の間は堀の水も薄氷なんかが張って、水が重たく静まり返っている。寒さが緩むと春の訪れを告げるように、堀の面が春風に漣(さざなみ)を立てて、柔らかい感じになってくる。水温むとはこのことだろう。貸しボートも春風に靡いて、自然と程よい配置に出来上がるのが面白い。
 この風景、日野耕之祐の「東京百景」(昭和42年刊)を借りれば以下の如し。
「中央線飯田橋と市ケ谷の間、貸しボートが浮かぶ濠端である。町に表と裏の表情あるとすれば、これはまあ明るい表の部分である。青と赤のペンキを塗ったボートに、若い二人が仲良く乗っている。薄暗い喫茶店にいる、ふたりよりは遥かに健康的である。ボートのふたりには、ここは全く外界孤立した世界である。
 不思議なもので、どんなに浅い所でも水の上にいると一種緊張感というか、恐怖感に襲われる。それが二人を一層緊密にしているようである。ところで、濠のこちらが側は電車がひっきりなしに通るし、向う側は車の列である。それにパチンコ屋のジャン〜、ジャラ〜の音まで聞えてくる。水溜りのアメンボ−のようだ」
 地下鉄有楽線の工事の時、すっかり水が涸れてしまったが、「完成後は元通りにしてお返し致します」のプラカードの文句通りに復元した。誠に嬉しい限りだ。
 外濠線の東京電気鉄道会社線が、明治38年8がつ12日に神楽坂〜四谷見附間が開通して、外濠に沿って電車が通った。一方、東京市街鉄道線が、明治39年1月20日、三番町〜市ケ谷間に開通し、この写真の場所は大正9年9月19日に開通した。それまでは、九段上と市ケ谷見附間の短距離運転であった。
 
九段坂上の火の見櫓

 東京の子供というのは駄洒落が好きだ。それは江戸時代からある、地口や言葉遊びの勢だと思う。今から考えると、実にくだらないことを言って喜んでいたものだ。友達と遊んでいて、
 「剣道も十段、柔道も十段、囲碁も将棋も名人は誰だか知ってるかい?」
 「そりゃあ大村益次郎だろ、だって、九段の上に立っているからね」なんて、いっては悦に入っていたものだ。
 今では、これでもかなり緩やかになった九段坂を上がり切ると、大きな黒い鳥居があって、玉砂利が敷かれている。参道の真中に立っているのが大村益次郎の銅像で、望遠鏡で上野の山の方を見ている。ちょうど、その辺り左側の電車道にこの火の見櫓がある。九段上から見返りざまに瞰下ろす東京の眺めはすばらしかった。神田、下谷、日本橋、そして遥かに東京湾も眺められた筈だ。だから、ここに建っている火の見櫓からの眺望は格別のものだろう。麹町消防署九段出張所である。少し離れて見える小塔のようなものは、今は南側にあるが以前は反対側の偕行社という陸軍関係の倶楽部のそばに立っていて、夜となると灯が入った。昔は、東京湾を行く船からもこの灯りが見えて、灯台の役目を果たしていたという。九段という所は、江戸時代から地形の起伏が激しく、加えて牛ヶ淵、千鳥ヶ淵などの濠の眺めもよい所で、安藤広重、小林清親、井上安治、河鍋暁斎など浮世絵師の題材にもなっている。
 皇居を取り囲む坂としては、三宅坂、紀伊国坂なども、かなりスケールの大きい眺めを持っているが、この九段坂は、神田という下町を見下ろせる坂として昔から浮世絵にも描かれて来た。見上げる坂としては、北斎や広重も描いているが、見下ろす方は明治このかたで、小林清親、河鍋暁斎などである。明治の東京写真帳にも、見下ろす方が断然多くて、駿河台のニコライ堂が写っている。
 九段といえば、明治2年、上野の彰義隊との戦いで倒れた霊を祀る事から始まって、今次の戦争で命を捧げた246万余人の霊を合祀してある靖国神社がある。右手の田安門内には、戦争中まで近衛師団があり、坂下には、昭和9年、在郷軍人会によって建てられた旧軍人会館『九段会館があって、どうしても戦争・陸軍の関係の建物が多く、割り切れないものを感じる人も多いだろう。
 戦災を免れた日本風の鉄筋ビルの軍人会館は、1階のホールが、東洋一の音響効果ありとうたわれ、敗戦後、米軍の極東空軍の劇場として使用されていた。昭和32年になって返還されてから、九段会館となった。既に戦前から結婚式場として使われていたが、今や結婚式場のほか、宿舎、レストランと多方面に利用されている。
 火の見櫓と灯台との間には、川上操六と品川弥次郎の銅像が立っている。戦中から戦後に、取り除かれてしまったが、取り除く際の考えとか決まりが曖昧(あいまい)で、不公平だったように思う。意外な銅像があったり、なかったりするたび毎に、そう感じるのだが。
 九段坂の難所の工事が終えて、明治40年7月6日に電車が開通した。この時の線路は、九段坂の南側に専用道路を作り、千鳥ヶ淵沿いに進んで三番町に出ていた。大正3年には、『2』番、渋谷駅〜九段両国行と、(3)番、新宿〜九段上野行、九段両国行が九段上に来る。一方、九段上から市ケ谷見附間には別線を走らせた。千鳥ヶ淵沿いの専用道路は、大正15年4月17日に営業休止される。
 昭和初期の5年までは、『15』番、渋谷駅〜上野、『17』番、新宿駅〜両国駅がここを通る。翌6年には、『10』番、渋谷駅〜須田町、『12』番、新宿駅〜両国駅間となる。
 戦後は、『12』番、新宿駅〜両国駅と『10』番が通る。昭和38年10月1日から四谷見附廻りと路線変更され、九段上は分岐点ではなくなる。『10』番は昭和43年9月29日、『12』番は、昭和45年3月27日から廃止された。

本屋街の三省堂

 江戸時代、神田駿河台は武家の屋敷町であった。この一帯は防火用の空き地で、その一画に、旗本・神保伯耆守の土地があったことから神保町の名が起ったとされている。

 明治になると、新政府の官用、軍用施設が配置された。軍事施設は、広いスペースを求めて他の地へ移され、その跡へ学校が続々建てられた。教育機関が集中したことで、本屋が増え特に神保町に集まった。

 この現象は、関東大震災直後にピークに達し、第2次世界大戦中から、店の数は減少傾向にあるらしい。

 それでも今、数百メートル四方の地域内に120軒余の書店が軒を連ね、外国人にも知られる書店のメッカの地位を確保している。

 すずらん通りに面した冨山書房は、明治16年創業、向いの東京堂は明治23年創業、ブックマート書泉がモダンな書店ビルを建てたのは、昭和42年のことである。

 近頃では都内の各地に大型書店が誕生して、近間で本を入手できるが、以前は、本を買うとなると必ず神田神保町にやって来た。それも、この三省堂か、裏のすずらん通りの東京堂で本を探し、そこになければ諦めるというくらいのものだった。

 駿河台下の停留所の真前にあった。決してスマートではないが、継ぎ足し継ぎ足しで大きくなった温か味のある三階建ての三省堂書店の建物は、学校を卒業してもそこを通る度に懐かしく眺められた。ことに春の新学期ともなると、真新しい制服に身を包んで参考書アサリをやっている学生に、昔の自分の姿を見る思いがする。また、以前、三省堂で使っていた、都内の学校の校章を散ばめた包装紙は大変に人気だあった。あれは昭和7年から使い始めたという。私のように中学・高校・大学と、すべて都内で終えた者は、自分の母校の校章が三つも入っていたことになる。

 三省堂は、明治14年に亀井忠一が創業したから、もう1世紀を超える。昭和56年4月には、新しく出来たビルで百年祭を祝った。三省堂の三省は「さんしょう」か「さんせい」か、今は、半々に読まれているらしい。論語の学而篇の中の「吾日三度省吾身」から社名をとっているので、漢文の授業の盛んだった戦前は、大部分の人が「さんせい」と正しく読めたのだろう。幕末の洋学者、信州松代藩の佐久間象山の塾も「三省塾」といったと思う。

 駿河台下は昭和19年までは、十文字に電車が交わる交差点であった。南北の方に、お茶の水駅前から下りて来た電車がここで交差し、錦町河岸まで行っていた。これは明治の外濠線の線路で、伝統ある系統だった。東西の方向には、『10』番、『12』番、『15』番が通っていた。安全地帯の上にこんなに乗客が待っている。電車がはずされてから、この人達は何を利用しているのであろうか。

 明治37年12月7日、東京市街鉄道線の小川町〜九段下間が開通し、駿河台下に伝写が通る。そのいちにちの遅れで12月8日に東京電気鉄道(外濠線)の、土橋〜御茶ノ水間に電車が通り、早くも交差点となった。当初は小川町を起点に江戸川行と、外濠線は赤坂見附を起点に環状線として走った。大正3年には『3』番、新宿〜九段上野、九段両国行、『6』番、巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)、『10』番、江東橋〜江戸川橋と、『9』番、外濠線が赤坂見附を起点として一周する。

転轍手泣かせの小川町

 この辺りの高台は、江戸時代には武家屋敷で、ふもとに職人町ができたらしい。明治になると、台地には学校、ふもとには学生相手の店も混ざった商店街が発展した。左折して、中央大学前の坂を登り、ニコライ堂(明治24年完成)横を通って聖橋へ出る。

 日比谷のほうから北に進んで、神田橋を渡り、右手に茶褐色のスクラッチタイルのYMCAを眺めると、まもなく小川町の交差転に出る。「おがわちょう」ではなく「おがわまち」と、正しく呼んでほしい。

 昭和55年3月都営地下鉄新宿線が開通して、小川町駅を作ってくれたお陰で、「おがわまち」と読んでくれる人とが増えて嬉しい。

 小川町の交差点はレールが十文字に交わることは無く、三角形をした特殊な交差点である。都内では、港区の古川橋の交差点と全く同じレールの敷かれ方で、三方から来る電車のいずれもが、ポイントの選別を必要としたので、転轍手泣かせの交差点であった。10番と12番の電車が、東西の方向に一直線で通過し、東の方から25番と37番が左折して日比谷方面へ向い、西の方からは15番が右折して大手町へ向った。更に、南からは25番と37番が右折、15番が左折するので、信号塔の上で電動スイッチを入れる転轍手は大童であった。前方ばかり見ていられないので、目の前に大きなバックミラーがついていた。

 写真は、15番が左折する最中ですが、背後の信号塔が印象的です。この上に乗って操作する転轍手は、「猛暑の夏はコンクリートで蒸され、凍てつく冬の夜など、交代員が来ないと、お手洗いにも行けないのが辛かった」という話しも、よく聞きました。都電が道路を右折する所には必ずといっていいくらい設置されていました。

 時たま、出前の「おかもち」を下げて信号塔の梯子(はしご)を登って行くのを見たことがある。最終電車には、この日の最後の勤めを終えた持ち転轍手を乗せて車庫まで帰るので、電車の乗客は小川町で暫く待つのが常だった。

 電車の左方の古いビルは、関東大震災後に出来た共同店舗の小川町ビルで、九段下の中根速記者のあるビルと同じ。

 当時は、お店によっては、共同ビルの中に入るのを潔しとしなかったというが、今なら争って入るのだが。

 緑色の電車の街鉄線が明治36年12月29日に、神田橋〜両国間を開通し、電車は小川町を右折した。一方、同じ街鉄線の小川町〜九段下間は明示37年12月7日に開通、乗り換え点となる。

 当初は日比谷公園から神田両国行がここを通り、一方、小川町を起点として江戸川橋行とが通る。

 大正3年時には、6番巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)、2番渋谷駅〜九段、両国と九段、上野、3番新宿〜九段、両国と九段、上野、10番江東橋〜江戸川橋が小川町に集まっていた。

 昭和初期の5年までは、3番三田〜吾妻橋西詰、15番渋谷駅〜上野、17番新宿駅〜両国駅前、19番早稲田〜洲崎、33番浅草駅〜日比谷、37番錦糸堀〜日比谷、間小川町に来る。

 翌6年には2番三田〜浅草駅、10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、14番早稲田〜洲崎、29番錦糸堀〜日比谷間となる。

 戦後は10番渋谷駅〜須田町、12番新宿駅〜両国駅前、15番高田馬場駅〜茅場町、25番西荒川〜日比谷、37番三田〜千駄木2丁目間となった。

 37番は昭和42年12月10日から廃止、25番は43年3月31日短縮、同年9月29日から10番、15番らと廃止、45年3月27日から12番が廃止となり、小川町から電車は消えた。

秋葉原駅周辺

 万治3年(1661)改修されて舟便も可能になった神田川の、昌平橋辺りは河岸(湊)として栄え、神田多町には青物市場が設けられた。そして明治23年(1890)、日本最初の佐久間町貨物専用駅が誕生、発展を続けた。明治末期には<
東京一>の地かを誇ったという。

 しかし、関東大震災で一面が消失、その復興途中の大正14年(1925)東京〜上野間に電車が開通すると、駅名は秋葉原と改められ、旅客も扱うようになった。さらに昭和7年、総武線も交わる全国初の乗換駅に造り替えられ、日本の駅の最初のエスカレーターまで付けられた。

 また、一帯に広がる駿河台は、明治10年代(1880)から学校の街として成長したが、この地は、徳川家康に仕える駿府<靜岡>の家臣団を移住させたことから、駿河台と呼ばれるようになった。

 明治18年(1885)イギリス法律学校として創立された中央大学が、昭和53年八王子市へ移転したのをキッカケに、高層ビルのオフィス街へと変わりつつある。その中で、ニコライ堂だけは、どっしりと歴史を重ねて行く。ビザンチン風のこの建物は、キリスト教の一派ギリシャ正教が東進してロシア正教となり、その寺院として建てられた。設計は、ロシア工科大学のシュチユ−ルポ教授。建築は、かのコンドルの指揮で明治24年(1891)完成した。

 なお、世界的に知られた秋葉原の電気専門店街の出現は、大正末期ラジオ放送の開始期に遡るが、現在のような街となったのは、昭和26年、秋葉原のヤミ市一掃のさい、電気部品店がまとめられ、昭和30年代の家電ブームに乗って急成長を遂げたためである。

だだっ広い岩本町交差点

 都電王国、須田町の交差点から東に歩いて来ると、昭和通りに交差する所が岩本町である。ここまで来ると東の方に、日大講堂(戦前、相撲の殿堂国技館)のドームが見えて来る。この交差点では、東西に12番、25ばん、29番が、そして南北に13番、21番が交差する。ただ、ここは道幅がだだっ広いので、これだけの電車が交差しても、あまり車輪の音が反響しないのが私には物足りない。やはり交差点の音は「ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン ガタンガタン」と、前後合わせて4つの車輪が、交差したレールをクロスする時の響きが聞えてこなければつまらない。

 関東大震災前には、須田町から岩本町辺りをとおって柳橋までの電車通りは、現在の道より1つ北の神田川に沿った細い道であった。神田川の南の提に柳が植えられていて、柳原土手と呼び習わされていた。今は柳森神社というのがあって昔を偲んでいる。そこの柳原通りは、セコハンの着物を売る店が軒を連ねた古着屋街で、新橋から芝大門にかけての裏通りの日陰町と共に有名であった。震災後に改正道路ができ、電車は広い路を通るようになった。

 昭和18年頃には、この岩本町の書籍配送所には、中学生が学校の休みに勤労奉仕に来て働いていた。今次大戦中、若い働き手は次々と戦地に送られ、中学生がその代わりに労働をしていた。

 東京の中学生達は、全国の中学校や女学校に、新学期用の教科書の荷造りと輸送を手伝っていたのである。各地方の学校ごとに教科書を束ねてリヤカーに積み、秋葉原なで運ぶのが仕事だった。春風に自転車のぺタルを踏んで、流行歌など口ずさんで、この辺りを走ったのは、もう半世紀も前のことです。

 今は、昭和通りの上を高速道路が蓋をしたように蔽いかぶさり、大きな空は望めない。
 東京市街鉄道が明治36年12月29日に、神田橋から両国まで開通させた時に始まる。当時は須田町の交差点から神田川に沿った南の柳原土手通りを走ったので、現在の和泉橋の近くを走った。停留所名は和泉橋であった。

 南北には、明治43年9月2日に、人形町〜車坂町間が開通して、ここが交差点となる。
 大正初期の3年時には、2番中渋谷ステーション前〜九段、両国、3番新宿〜九段、両国、10番江戸川橋〜江東橋、7番人形町〜千住大橋間が交差した。関東大震災後の改正道路で現在地が交差点となった。

 昭和初期(5年)までは、14番渋谷駅〜両国橋、17番新宿駅前〜両国橋前、29番千住新橋〜土州橋間が交差する。翌6年には12番新宿駅前〜両国橋前、28番亀戸天神橋〜九段下、29番錦糸掘〜日比谷間、22番千住新橋〜土州橋間が交差する。

 戦後は、12番新宿駅〜両国橋、25番西荒川〜日比谷、29番葛西橋〜須田町、13番新宿駅〜水天宮、21番北千住〜水天宮となる。

 昭和43年3月31日から12番、13番は岩本町で折り返し、28番は須田町止まりとなった。同年9月29日から25番は廃止、21番は44年10月26日から、12番、13番は共に45年3月27日、29番は47年11月22日から廃止となった。

江戸情緒の浅草橋

 武蔵野の井の頭池に源を発する神田川は、江戸に入るや小日向や駿河台の麓を洗って、浅草橋まで来ると、下流の柳橋一つ残して、隅田川に注いでいる。この橋の南の方(左側)に、江戸時代には浅草見附あって、浅草御門という桝型があった。明暦の大火の折、逃げ場を失ってこの浅草御門に押し寄せた群衆は、お上の厳しい取締りで門を閉ざされたために、2万人もの犠牲者を出した。それまで極度に橋をかけることを嫌った幕府も、これを期にやっと御腰を挙上げ、両国橋やその他の架橋を許可した。今も昔も、結果が出ないと対応しないお上のやり方は、少しも変わっていないようだ。

 橋上を行く31番の電車は、三ノ輪橋から入谷、菊屋橋、三筋町を通り、蔵前の玩具外を南進して、それから小伝馬町、室町3丁目を通過して都庁前まで行く。

 浅草橋から柳橋にかけての北側の河岸には、あみ船やつり船の船宿が並んでいる。春ともなると、そこかしこにもやっている和船の上に柳の緑が風に靡いて、江戸情緒を漂わせてくれる。
 もう50年も昔、ここから船に乗って、木更津沖まで潮干狩りに行ったことを想いだします。沖合で干潮を待っていると次第に海底が現れ、船が砂浜にぺたっとついて、暫くの間、潮干狩りを楽しんだ。再び船上で満潮を待って、そのまま浅草橋まで船で帰ってくるので、子供心にもなんだか不思議な気がした。

 この神田川の南に沿って建っている女子高校は、創立明治39年の日本橋女学館で、下町のお譲さん学校として知られ、私ども東京の中学生は「橋館」と呼びならわしていた。

 関東大震災までは、神田川の南に沿った道を、新宿から来た電車が、九段、須田町を経て、和泉橋、美倉橋、左衛門橋の停留所を通り、この浅草橋の南側を経て、両国に行っていた。
 鉄道馬車の跡を受け継いだ東京電車鉄道線が、明治37年2月1日に、浅草橋〜雷門間を通過させる。浅草橋、かや町、瓦町、すがばし、森田町、くらまえ、厩橋、こまかた、雷門である。

 この線は、品川八つ山から浅草雷門に来たものは上野を通って帰り、上野へ来たものは、帰路浅草雷門を右折して浅草橋を渡って帰った。

 大正3年には1番品川駅〜浅草間、2番渋谷〜築地〜浅草、3番新宿〜築地〜浅草が通る。

 昭和初期には1番北品川〜雷門、31番南千住〜東京駅間、32番南千住〜芝橋間が浅草橋を渡った。昭和6年の大改正でも1番はそのままで、南千住からは、24番南千住〜市役所前の一本となる。

 戦後は22番南千住〜日本橋間(同じ22番の雷門〜新橋間)と、日祭日に限っての1番三田〜雷門間となる。1番は昭和42年12月10日、22番は昭和46年3月18日から廃止となる。

始発駅の風格両国駅

 この貫禄はどう見ても始発駅であり、終着駅の雰囲気である。上野駅もそうだし、かっての汐留駅、飯田町駅、桜木町駅のように、始発駅、終着駅は、すべての線路が車ま止めでなければつまらない。東京駅や新宿駅のように、通り抜けの終着駅では風格がない。明治41年の「新撰東京名所 本所区之部」を見ると、「総武線にして区内を東西に通ずるもの即ち横網町より錦糸町に至る鉄道は、高架線にて屋頭を経過するの観あり。総武線の両国停車場は、横網町1丁目20番地に在り。明治36年の開設に係る。是より先は、明治7年に開設せし本所停車場(錦糸町)を以って総武線往来のは発着所と為し居たり」と、ある。

 この線は都内高架線の元祖ではないかと思う。思うに、江戸時代から明治時代までは、東京の文化の中心地は隅田川の両岸に集中していた。向島、浅草、両国、浜町、深川などに、芝居、相撲、料亭、遊里などが集中していて、乗物の主体は船であった時代には、隅田川と、そこから散る掘割を縫って往来していた。この両国駅も、往時の繁栄の名残をまだ十分留めていた明治時代からの、両国の停車場であったわけである。

 私は幼い頃、毎夏房州の片貝や上総湊で過ごしたので、両国駅仕立ての汽車によく乗った。昔の千葉駅は現在よりも東にあった。内房線は千葉駅からスイッチバックして進むので、幼い私は汽車が戻ると大騒ぎして、車中で笑われた事が在る。又、戦時中、私の京華中学の春の年中行事で、この両国駅前の広場に、軍服に鉄砲を担いで完全装備のまま集合、市川の国府台まで遠駈けしたのを想い出す。早朝に集合するため、前日に学校の兵器庫から鉄砲を持ち出して、自宅に一晩保管するので神経を使ったものである。これから5000形の電車が、新宿を目指して出発しようという所である。

大正14年11月1日、両国2丁目から両国駅までが開通した。それまで「両国停車場前停留場」というのは、両国橋を渡って東に進んだ相生町との間に在ったが、両国駅のそばまでの引込み線はこの時に完成した。また、この両国駅は、もと「両国橋駅」といった時も在ったので、昭和初期の5年までは、『17』番、新宿駅〜両国橋駅前が来ていた。翌、6年には『17』番から『12』番と番号が変更になった。

 戦時中の昭和18年3月9日から、両国2丁目〜両国駅前までの引込み線が廃止となり、その後、『12』番は新宿駅〜岩本町までに短縮された。

 戦後、昭和30年頃に復活され、『12』番、新宿駅〜両国駅となったが、昭和43年3月31日に岩本町までに短縮されて、両国駅から都電の姿は消えた。

 



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