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        16系統(大塚駅前—錦糸町駅前)









10.061km

大塚駅前-大塚車庫-大塚辻町-大塚仲町-大塚窪町-教育大学前-清水谷町-竹早町
-同心町-伝通院-富坂2丁目-春日町-真砂町-本郷3丁目-春木町-天神下-広小路
-御徒町3丁目-西町-竹町-小島町-三筋町-桂町-厩橋-厩橋1丁目-石原町1丁目
-石原町2丁目-石原町3丁目-太平町1丁目-太平町3丁目-錦糸町駅前

S24.11

S46. 3

 厩橋から御徒町3丁目までの7停留所のうち6停留所名がS36→S45の間に変わっています。上野広小路は8本の系統の都電が交差していて、都内最高の都電集結地点でした。8路線が集まる地点はもう1ヶ所ありましたがどこでしょう?

太平3丁目の時計塔

 都電の写真というのは、真正面とか真横とかの写真もあるが、なぜか奥行きといおうか立体感が出ないので、この写真のように電車が直角にカーブを切るところが好まれる。しかも、直角にカーブを切るようなところは大抵大きな十字路なので、その角々には目立つ建物があって、道を歩く際に目印とされている。
 蔵前橋で隅田川を渡って東へ来る道は蔵前橋通りといわれ、東の方が遠く霞んで見えるほど、長い長い一直線の道路である。
 石原町を過ぎて、途中で三つ目通りを越し、法恩寺橋で大横川を渡ると、太平3丁目に来る。大塚駅からはるばるとやって来た16番の電車が90度右折して、錦糸町駅のガードの手前で終点となる。
 左角に時計塔を持つ建物は、明治26年に、時計王の服部金太郎がここで、はじめて業を興した精工舎である。昔の町名でいうと、本所区柳島町26番地となる。
 2階建の赤煉瓦造りの広大な工場で、周囲にには石垣と鋼鉄で洒落た塀がめぐらされてあった。角の交番の位置は100数年前と同じで今もある。
 精工舎で拵(こしら)えた時計は正確無比、しかも低廉価で供給できるので、たちまち世界の精工舎にのし上がった。
 精工舎は服部時計店の製作工場なので、その製品はすべて服部の注文による製造であり、他の店からの注文は受け付けないようになっている。
 今、16番の電車が曲がっている手前の石畳をたどって左に行くと、亀戸天神の手前の横十間川に架る天神橋まで行って止まっている。
 これは戦前までの電車の道で、昭和初期には42番天神橋〜門前仲町が、昭和19年には29番亀戸天神〜馬場先門が通っていた名残である。
 また、上野公園〜今井をつなぐトロリーバスが、ここで16番とは逆に双曲線の形をとって、押上から来てカーブを左に切っていた。
 昭和3年12月8日、石原町〜亀井戸天神橋間が開通してここを電車が通る。42番天神橋〜門前仲町間である。昭和6年には、28番亀戸天神橋〜東両国緑町〜九段下がここを通る。これが昭和15年には28番亀戸天神橋〜門前仲町〜日本橋間となる。
 戦後は、昭和24年11月1日に錦糸町駅〜太平3丁目にレールが敷かれ、16番大塚駅〜錦糸町駅間が開通、同時に、太平町3丁目〜亀戸天神橋が廃線となる。16番は昭和46年3月18日から廃止される。

曲線美の厩橋

 大正末期から昭和初期にかけて架けられた隅田川の橋は、東京市の大傑作で、一つ一つの橋のテーマがそれぞれの個性をで出すように出来ていて、さながら橋の展示場である。
 「橋上にいる者は橋を見ず」ということになるのだろうが、一つ川上の駒形橋から眺める厩橋の姿は美しい。柔らかい曲線を描いた三つのアーチが厩橋のテーマである。永代橋の大アーチ橋が雄大な男性美ならば、こちらの方はソフトな女性美といえそうだ。
 橋の西北に幕府の厩舎があったので、ここにあった渡しを「おんまやの渡し」といっていた。明治になって木橋が架けられてからも「おんまやばし」とか「おんまいばし」と呼ばれていた。
 江戸火消しの浅草「ち組」副組頭をしていた大柳雅夫さん(大正3年生まれ)が、子供の頃から口にした言葉に、「どんどん どんがらがった おんまい橋のなんとかさんは 御飯も食べずにしんたくあん」というのがあって、なぜそんなことをいうのか、わけはわからないが、昔はよく口にしたり耳にしたということである。近くに、親に虐待されて殺された、お初地藏があることから、こんな文句が生まれたのであろうか。
 厩橋を渡る都電は、大塚駅から上野広小路を通ってきた16番の電車で、厩橋を渡って右折、石原1丁目を左折して、太平町を経て錦糸町駅まで行っていた。
 早稲田から来た39番は厩橋が終点で、厩橋の西のたもとで折返していた。
 厩橋の西詰の交差点は、西南の角が第一勧銀の厩橋支店で、赤褐色のタイル張りがなかなか美しい。北西の角には、町田と店の石造りのビルがあって、糸屋さんとしては目を見張る建物であったが、昭和56年暮れに取り壊され、新築中だった。また、厩橋を東に渡った所は、昔は外手町といったが、今は外手小学校にその名を留めている。
 明治37年2月1日東京電車鉄道線が浅草橋〜雷門間に電車を通した時に厩橋の停留場ができる。翌明治38年7月18日に、本所から厩橋を渡って小島町まで東京市街鉄道線が開通して、厩橋は交差点となる。明治末期には、品川から雷門行と、三田から本郷〜本所行きが交差していた。
 大正3年には、1番品川駅〜雷門、2番中渋谷ステーション〜築地〜浅草間、3番新宿角筈〜築地〜浅草間、5番外手町〜大塚ステーション前と江戸川橋行が厩橋を通る。
 昭和に入って5年までは、1番品川〜雷門、30番千住大橋〜蔵前片町、31番南千住〜東京駅、32番南千住〜芝橋間が南北に走り、20番早稲田〜外手町、23番外手町〜大塚駅間が東西に走り、厩橋で交差していた。
 戦後は臨時の1番三田〜雷門、22番日本橋〜南千住(新橋〜雷門)と、16番大塚駅〜錦糸町駅、39番早稲田〜厩橋が交差していた。1番は昭和42年12月10日、39番は昭和43年9月191日、6番、22番はともに昭和46年3月18日から廃止された。

本郷切通し坂の連合渡御

 本郷台の東を下る切通坂は、丁寧に積み上げた石の坂であった。長四角の花崗岩を規則正しく敷き並べ、両脇の車道は波模様になるように、小さな四角の石を組み合わせ、こちら側湯島天神と、向う側岩崎邸の亀甲形の崖石を積み上げた、贅沢な手作りの坂だった。
 そこを通る『16』番、『39』番が、車輪の響きがあたりの静寂の中に吸い込まれて行った。買物姿が印象に残る。
 待ち遠しかった花見も終わると、青葉薫る5月が間もない。春風に乗って「ぴいひゃらら」と祭り囃子が聞えてくると、もう落ち着かない連中が町のあっちにもこっちにもいる。秋から冬の間は、茶髪や七三にきちんと分けた長髪の若者も、何時の間にか祭りに合わせて角刈りに仕上げている。下町には樽型の面長の若衆がいて、角刈りがよく似合うから不思議だ。
 東京の祭の魁は、5月3、4、5日の鉄砲州様、次が下谷神社と神田明神、その次が17、18日頃の浅草三社祭、入谷の小野照様、25日頃の湯島天神祭がある。6月入ると、東向島、京島、立花の各神社、南千住天王様、品川の天王様、四谷の両社祭、蔵前の第六天様。続いて鳥越様、波除様、山王様、合羽橋、松葉町の矢先様が終わると、7月はお盆月、8月は佃の住吉様まで祭はない。
 湯島天神のお祭で、氏子各町の神輿連合渡御がある。ここの連合渡御は下廻りと上廻りとがあって、今年は上廻り。
 神社の大鳥居前を午後1時に集合出発。湯島1丁目から金助町、本郷元町、本郷3丁目、春木町を通って切通し坂を下る。あとは天神下から、同朋町そして長者町を通って流れ解散となるコースだ。ここは湯島公道会、湯島会など、都内でも知られた同好会があって、なかなか祭りのやり方は上手だ。
 「おりゃ こりゃ おりゃ こりゃ」「すいや すいや そりゃ そりゃ」いろいろな掛け声が入る。
 今、目の前を行くのは妻恋町会、次が天三こと天神町3丁目町会である。湯島は文京区にあるのに、半分は山の手、半分は下町だ。芸大の周囲の上野桜木町は台東区なのに下町という人はいないだろう。文京区でも根津や天神下は完全に下町だし、台東区でも上野桜木町や谷中町を、江戸的であっても下町というのはおかしい。だから区の名前だけで区別できないものがある。16番の電車は、ゆっくりゆくり切通し坂を上がっている。
 『地理教育 東京電車唱歌』にうたわれているように、東京市街鉄道線が、明治37年11月8日に本郷3丁目〜上野間に電車を延長させて切通し坂を下る。当初は、須田町を振り出しで、本郷、上野行が通る。
 明治末期には、三田〜本郷〜本所行という方向板の電車も通過する。
 大正3年には、5番外手町〜大塚ステーション前と江戸川橋とが切通し坂を通った。
 昭和に入って5年までは、20番早稲田〜春日町〜外手町、大塚〜上野広小路〜外手町が通る。翌6年には、前者が15番、後者が17番と、番号が変更される。
 戦後は、39番が早稲田〜厩橋と、16番が大塚駅〜錦糸町駅とがここを通る。
 39番は昭和43年9月29日、16番は昭和46年3月18日から廃止となる。

江戸の内と外、本郷3丁目

 本郷通りと春日通りとの交差するところ、本郷3丁目にある老舗の小間物商「かねやす」を詠った古川柳に  
本郷も かねやすまでは 江戸のうち  というのがある。昔はここから北は江戸の郊外的感覚で把えられていた。
 本郷3丁目周辺を航空写真で見ると、真砂町や菊坂の一部、弓町1丁目区と森川町は焼けていないが、本郷3丁目、4丁目、春木町は焼かれているのが解る。従って、かの有名な菊富士ホテルも、旧女子美大も、燕楽軒(旧本郷館勧工場)も、本郷座も灰燼と帰した。
 赤門が焼けなかったのはせめてもである。何でも米軍は、東京に進駐してきたら、東京大学をGHQとして接収する目算だったので、燃やさなかったのだという。ウソかホントか知る由もないが、結局GHQは日比谷の第1生命相互ビルになった。
 本郷3丁目から東大前にかけての西側には、古くから沢山の古本屋があった。戦後はバラック小屋の中で、戦前出版された本を並べて売ることから、古本屋がポツりポツリと店を出した。

都電のメッカ春日町

 ペルリが来訪した寛永6年の「江戸切絵図」を見ると、水戸家の上屋敷は、とてつもなく広くて、現在の後楽園すべてと、講道館、文京区役所、礫川公園、戦没者霊苑の丘を含めた範囲である。後楽園球場の西には、昭和25年から発足した競輪場はまだかけらもないことが空からの写真で解る。
 春日町交差点は、三角地帯の真ん中に信号塔が建ち、南方から来る『2』番、『18』番、『35』番と『17』番と分かち、西方からの『16』番、『39』番と『17』番とを分かつのせ、結構忙しいポイントマンだった。背後の古ビルは東京都の変電所で、電車を動かす電流を管理していた所である。交差点内のスペースというのは結構広くて、歩行者天国にでもなれば、ちょっとした球戯なら出来そうだ。
 激変した街の中を『17』番の、代替バス池「67」系統・『18』番が、水「57」系統に、『39』番が、上「69」系統に、そして『16』番の代わりには、デラックス路線バスのグリーンシャトル都「02」系統が走り抜ける。背後の変電所変じて都営住宅となる。今はここを文京区役所前という。下を走る都営地下鉄三田線の駅名は春日である。春日通りと白山通りの交差点。春日町は変形交差点で、三角形に線路が交差している。

拡幅の波、春日通り(昔、小石川同心町)

 春日通りを北へ行く道を、江戸中期の「江戸大絵図」では、川越道と記されているものもある。小日向・小石川台地の尾根に通じた道で、台地上の平らな部分は50メートルに満たない場所もあリ、歩いていると馬の背を行く感じになる。大空襲で辺りが焼け野原となると、土地というものは今まで気がつかなかったが、起伏のある事が目で確認できて、今更ながら驚いたものである。
 煉瓦造りの建物は、2等郵便局(集配局)の小石川郵便局である。日本橋局、京橋局、下谷局などと並んで、戦前の逓信省時代の所産で、屋根の低かった街の中で大いに目立った存在だった。駅舎にしても郵便局にしても、戦前の建物の方が重厚で、人々からも親しまれてきた。お金をかけてまで新しい建物にして、果たして使いやすくなったり、街の風物詩として、我々が誇りにする事が出来るだろうか・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
 春日通りは、現在、本郷3丁目から西へ拡幅が進行中で、取分け、伝通院附近はマンションラッシュで、平均階数8〜9階になっている。小石川郵便局も、来るべき拡幅を予定して、左手奥に引っ込んで建てられている。

大塚駅前の赤煉瓦

 遠くに山手線の大塚駅のガードが見える。その下を潜るのは、旧王電の32番の早稲田行です。この大塚車庫は、神明町車庫とそっくりの煉瓦造りである。その理由をと聞れれば、少し説明を要する。そもそも市電大塚車庫は大正年に創設され、その場所は、現在の都バスの大塚車庫である。地下鉄丸の内線の茗荷谷駅から北に向うと、跡見女子大とお茶の水女子大へ行く途中に都バスの車庫がある。ここが大塚車庫の元地である。
 乗合自動車と呼ばれたバスは、関東大震災の大正末期から東京市民の足として親しまれた。これに対応して市電の大塚車庫を市営バスの車庫とし、対象14年に大塚駅近くのこの車庫を新築して移った。
 神明町車庫は、大塚車庫の分車庫として大正9年に建てられたから、分車庫であるが神明町の煉瓦造りの方が古い。大塚に車庫が建てられたときには、恐らく神明町車庫の設計を参考にしたのであろう。両社は誠によく似ていた。
 今でこそ、池袋の方が大塚より発展しているが、戦前の一時は、大塚が城北の中心地になる兆が見られた。
 山手線の他に王子電車が開け、武蔵野電鉄(西武池袋線)も大塚辻町が始発となる計画であった。駅の北側に白木屋デパートもあり、なかなか賑やかであった。大正13年に生まれて以来、大塚にお住まいの高橋敏正さん(小学館編集部長)は、大塚駅前の戦前について、こう話してくれました。
 「大塚駅前の東南隅にある山海楼の所は、以前は三好野という食堂だった。また、反対側の角のドミノ会館の所には、宮本フルーツ・パーラーがあった。既に昭和14年頃に、アイスクリームを食べさせてくれた、東京でもモダンなお店だった。
 大塚車庫そのものは、大正2年に大塚窪町の、現在の都バスの大塚車庫のところに開設されたが、大正14年に現在地に移転した。明治43年10月14日に伝通院から大塚窪町まで開通していた線路が大正2年4月5日に大塚車庫ナンバー5番の外手町〜大塚ステーション前と江戸川橋とを管理した。
 昭和初期にの5年までは、21番大塚〜新橋、23番大塚〜外手町間を管理した。翌6年には、前者が16番、後者が17番と番号が変更された。
 戦後は、17番池袋駅〜数寄屋橋(昭和43年3月31日に文京区役所前までに短縮の後、昭和44年10月26日から廃止になる)。
 16番大塚駅〜錦糸町駅(昭和24年11月1日に太平町3丁目〜錦糸町駅間、開通)を管理していた(昭和46年3月18日から車庫と共に廃止された)。

大塚公園の6162号

 大塚公園に眠る6162号です。現在、都電荒川線で唯一動態保存されている6152号と同じく、昭和24年に製造された6000形車両です。青山・大久保・荒川・錦糸堀車庫と巡り、昭和46年に廃車となりました。現在は、車内での喫煙等、非行防止のため、写真のように金網の中にひっそりと保存されています。帯の色が青(6000形は最後まで赤帯でした)であること、方向幕が埋められていることが残念です。




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