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        19系統(王子駅前—通3丁目)









9.628km

王子駅前-飛鳥山-一里塚-西ヶ原2丁目-西ヶ原1丁目-霜降橋-駒込駅前-駒込橋
-上富士前町-駒込富士前町-吉祥寺町-本郷肴町-逢来町-本郷追分町-東大農学部前
-東大正門-東大赤門-本郷3丁目-本郷1丁目-湯島2丁目-神田明神-松住町-万世橋
-須田町-神田駅前-今川橋-室町3丁目-室町2丁目-日本橋-通3丁目

T12. 4

S46. 3

王子駅

 上野駅から鈍行の東北本線に乗ると、尾久、赤羽、大宮と停車するが、以前は今日のように京浜東北線の電車がなかったので、この王子駅にも汽車は停まった。
 「汽笛一声新橋を・・・・・」の歌い出しで知られる「大和田建樹」の『地理教育 鉄道唱歌』は、東海道線を歌った第1集が余りにも有名であるが、これは全部で第5集まで出ており、発行は、
ちょうど西暦1900年の明治33年であった。
 その第4集に出てくる王子辺りはこうである。

1・車輪のひゞき笛の声  みかへる跡に消えて行く
  上野の森の朝月夜  田端は露もまださむし
2・見ぐる岸は諏訪の台  それにつゞきて秋の夜は
  道灌山の虫のねを  ここまで風や送るらん
3・見よや王子の製紙場  はや窓ちかく来りけり
  すきだす紙の年にます  国家の富もいくばくぞ
4・春は桜の飛鳥山  秋は紅葉の滝ノ川
  運動会の旗たてゝ  かける生徒のいさましさ

 王子周辺は江戸の郊外として、丘あり水あり、花あり紅葉ありと、庶民のリクリェーションとして絶好の場所であり、昭和になってからも、戦前は自然の景観に富でいた。春の桜、秋の紅葉には、よく出かけていった。
 戦前は、王子駅に来る電車は三ノ輪方面から赤羽や早稲田に行く旧王子電車(王電)のみであった。この王電は昭和17年に市に吸収された。
 戦後は、『19』番が飛鳥山から王子駅まで延長された。今、『27』番の上下線がポイントを切っている所である。王子駅の停留所は屋根着きのプラットホームといった感じで、郊外電車的雰囲気がある。
 写真の左側の橋の下には、音無川が流れている。川の流れがあるということはありがたいことで写真を撮っていても、清々しい風が頬を撫でて行く。やっぱり水を見ていると、人の気持ちはなごむものだ。
 たいしょう2年4月1日に、王子電気軌道株式会社が、三ノ輪橋〜飛鳥山下間に電車を通した時に始まる。写真にある線の、王子駅から赤羽までは、昭和2年12月15日に開通した。王子電車は昭和17年2月1日に東京市に吸収された。吸収後は、『32』番王子駅前〜大塚〜早稲田、(37)番三ノ輪橋〜王子〜大塚駅前と(38)番三ノ輪橋〜王子〜赤羽の3系統が王子駅に集まる。
 戦後は、『27』番、三ノ輪橋〜赤羽、(32)番、荒川車庫前〜早稲田、『19』番、八重洲通〜王子駅とになる。
 『19』番は、昭和46年3月18日から廃止され、47年11月12日から王子駅〜赤羽間は廃止された。三ノ輪橋〜早稲田間は一本化され、「荒川線」と呼称される。53年4月1日からすべてワンマンカーとなり、車掌は乗務しなくなって今日に到る。

王子駅前歩道橋

 この他、現在も残る荒川線の王子駅前電停も、歩道橋と直結している。こちらは、併用軌道上に電停があるわけではないが、昭和44年6月に架かった駅前大歩道橋の階段の一つが、大塚、早稲田方面行のホームにつながっている。
 王子といえば音無川の急流が、音無しどころか、沢騒ぐ感じで東へ流れ、飛鳥山の王子権現や不動の滝、装束榎、紅葉寺など、江戸近郊の行楽地だった。広重はよほど王子が気に入ったのだろう「江戸名所百景」の中に、六景も描いているほどだ。
 音無川は、ここを大変好んで訪れた八代将軍吉宗が名付けたといい、彼は飛鳥山に吉野の桜を植えさせたと伝えられる。正式には音無川を石神井川と呼ぶが、水質水量ともに優れ、明治の昔、渋沢栄一は、この流れを水車で利用して製紙工場を造った。
 以来、工場地として発展。特に近くには陸軍造兵廠や火薬庫などを持つ軍需工場地帯となったので、戦時中の王子は、大塚、池袋などよりずっと賑やかな盛り場だった。それだけに、周辺には爆弾を含む空襲が度重なり被害をもたらした。造兵廠跡は、ベトナム戦争のとき、米軍の王子野戦病院として使われ、反対闘争の的となった。昭和42・3年には、眼前に立ちはだかるトロリーバスの架線が無くなったと思ったら、今度は都電のレールと、上り下りの電車の位置関係は二昔前とそっくりだが、上下左右の景色は一変した。頭上を、東北・上越新幹線が蓋を下ようになり、かなり薄暗くなった。

飛鳥山(新旧2つの車型)

 飛鳥山線は、ずっと以前は巣鴨車庫の所属であった。その後は駒込車庫所属の飛鳥山線の折り返し点なり、その時代が長いあいだ続いていた。
 駒込駅そばの駒込橋で山手線の溝を越え、妙義坂を下ってきた電車は、霜降橋を過ぎると左手に古河庭園を見る。さらに、滝ノ川の農業技術研究所、大蔵省印刷局を右手に見ながら進と、日本橋から2里の地点に建っている1里塚にさしかかる。そこをすぎて、右上に青洲渋沢栄一の邸を見上げながら坂を下ると『19』番の飛鳥山停留所である。ここは戦前から王子電車が通っていた。『19』番が王子駅まで連絡するようになったのは、、戦後になってからである。
 昭和10年頃の飛鳥山の桜は大したものだった。花見時には全山これ桜花爛漫、しかも手入れのいい若い樹が多く、東都の人々の絶好の行楽地であった。
 8代将軍吉宗は、ここを近くの王子権現の領として上地し、桜樹を1000本も植えたという。
 明治になって、飛鳥山は東京の第1次の公園地として指定されたほどである。昭和15年に開催予定だった東京五輪の運動場に指定されていたが、戦争でご破算になった。戦時中、心ない人たちが桜樹を切って薪にし、荒廃を重ねる一方、運動場として丘を切り崩してしまったりで、昔の面影はなくなった。
 今、旧王電時代からの160形と、新しい2500形とが、飛鳥山ですれちがう。車型ファンにはこたえられない光景であろう。
 昭和47年11月からは、この路線だけが、それも最初は5ヵ年という期限づきで延期になった。その後の利用客の増加などもあって、とも角も存続に漕ぎつけたのはよかった。
 昭和53年4月からは、車掌さんのいないワンマン電車となったが、今日でもこの角度からの都電を眺められることは幸である。
 ここは以前の王子電気軌道株式会社の王子電車の停留場で、明治44年8月20日に大塚〜飛鳥山上間が開通、飛鳥山下から三ノ輪橋間は大正2年4月1日に開通した。
 一方、東京市電は、対象2年4月15日に駒込橋から飛鳥山まで延長された。

駒込車庫

 都電の車庫は、田町駅そばの三田車庫をはじめとして、山手線に沿って置かれたものが多い。以前は、東京の西や北を区切るひとつの線として、山手線があった時代の所産であるからなのであろう。
 大正初期には、三田車庫を1番として、時計と同じ方向に、渋谷の青山車庫が2番、新宿車庫が3番という、車庫単位で番号をつけていた。
 この駒込車庫は、巣鴨車庫の分車庫なので同じく、6番つけていた。今日、都電廃止後の都バスになっても、この考え方が踏襲されていて、品川車庫がA、渋谷車庫がB、新宿車庫がCとなっている。
 駒込駅前は、巣鴨車庫の分車庫として同じくHを使っている。駒込車庫は、山手線に沿った最後の地点の車庫としてあった。
 もともと駒込の地は起伏に富んだ丘陵地帯で、往古、日本武尊がが東方に攻め入ったとき、ここの妙義神社のところに立ち寄って、「駒込みたり」とうたったので、駒込と呼ばれるようになった。恐らくこの辺りは馬の牧場があったのであろう。
 江戸期には、この辺りは電通印の領域であったが、その残った土地を藤堂高次に与えた。藤堂家出入の伊藤伊兵衛は、造園の技術抜群で、又、植木の品種改良にもみるべきものがあった。藤堂家はもとより、城中の御本丸にも植木を数多く収めた。
 伊藤家は代々植木業を営み、霧島のつつじを改良した「染井のつつじ」とか、「染井よしの」など、今日まで伝えられた名品の改良に力を尽くした。
 染井には他にも植木屋が集まり、江戸の園芸業者の土地として知られる。団子坂の菊人形も、染井の造園業の人々によって、意匠を凝らして技を競われてものであった。
 陽春の頃ともなると、駒込車庫そばの、山手線駒込駅の土手には、色とりどりの「つつじ」が咲き誇り、山手線の名所となっている。
 大正12年、巣鴨車庫の分車庫として開設された。本郷から駒込方面への電車開通は送れ、大正4年3月8日に白山上と本郷肴町間が開通して、巣鴨車庫の電車が本郷肴町経由で三田までいっていた。
 大正11年4月10日になって、やっと駒込橋まで開通した。飛鳥山までは大正12年4月15日になって、開通した。
 昭和になって5年までは、『25』番、飛鳥山〜須田町〜日本橋〜新橋と、『26』番、飛鳥山〜駒込橋〜本石町〜東京駅の2系統を管理したが、四区年には、『19』番の飛鳥山〜新橋駅北口間の1系統のみに整理される。
 昭和19年10月5日の改正では、『33』番、飛鳥山〜須田町〜京橋となったが、戦後は『19』番、王子駅〜八重洲通となった。
 昭和46年3月18日から車庫ともども廃止となった。

本郷追分(高崎屋)

 お江戸日本橋から来たに、神田駅のガードをくぐり、万世橋を渡って神田明神の前を通る道は、中仙道と岩槻街道との共通の道で、日本橋を原点としてちょうど1里目に当たるのが、この本郷追分である。ここを左に行けば中仙道、右の道をとれば岩槻街道となる。この角地に建っている堂々たる瓦葺の商家は、もう300年近くもここで酒屋を営む高崎屋である。
 同家に保存されている絵巻物を見ると、道を挟んで旧水戸家の中屋敷の側にまで土蔵と家が伸びており、豪商であったことを物語っている。
 初代高崎長右衛門が、宝暦年間に高崎からここへ出て店を構えたのである。屋根瓦に「今日無事」という字があったといい、今でも鬼瓦の丸の中に「高」という字が入っている。
 何でも昔は、ここから以北の東京中の、お酒はすべて高崎屋を通さなければ販売できない程の、お店である。この並びのパン屋や郵便局はすべて高崎屋一門の渡辺さんがやっている。
また、戦前はここに1里塚があったが、今は近くの根津権現の境内に移されている。
 明治の風俗を調べるには、まず繙(ひもと)かねばならない「風俗画報」の臨時増刊の「新撰東京名所図絵」の本郷区之巻」にも、この風景が描かれている。
 以前は物を配達するのに、大八車の小さい車の上に箱形を取り付け、後ろから扉を空けられるようなものを引っ張っていた。よく牛乳配達の人が戦前に引いていた車で、箱には商品名が書いてあったのがある。高崎屋もそんな車を持っていた。
 この目の前は今は東京大学の農学部であるが、以前は旧制第1高等学校の敷地で、門の突き当たりに木造の時計塔があった。
 昭和8年に駒場にあった農科大学と入れ替わったのである。その農学部の北の塀づたいに鍵の手に曲がる道は、江戸300年以上も前からある間道で、その入り口からすぐ左手に、八百屋お七の家があった。寛永時代からここに八百屋をやっていたといわれる。
 以前ここは高等学校前といったが、対象2年3月15日、本郷3丁目〜本郷追分間が開通して電車が通る。
 大正4年、『6』番、巣鴨車庫前〜薩摩原(三田)がここを通る。大正12年には『18』番、駒込橋〜日比谷間が通る。

本郷森川町

 両側の木立は銀杏の並木、空を蔽うような常緑樹は東大名物の楠の並木である。これだけの楠の巨木が立ち並んでいる所は都内でもここだけである。
 この本郷通りは、日本橋からやって来た中仙道と岩槻街道とが、このあたりまで一緒になっている。やがて本郷追分に出ると道が二つに分かれ、中仙道は左に、岩槻街道は右を真直ぐ北に進む、この辺りは日本橋から、ちょうど1里目に当たる所で、ここから1里北に行ったところが、西ケ原の1里塚である。
 江戸時代この辺りは、森川金右衛門という幕府の御手先組の頭とその与力同心がいた。与力は殆ど森川氏の親族で、森川姓を名乗っていた。ここには中仙道の建場があって、森川宿と称し、明治になってから森川町と呼ぶようになったが、この辺りの右奥には、明治時代からある有名な木造3階建ての下宿、本郷館がある。電車通りの右の瓦葺の商家岡野は、昔は和菓子の岡埜栄泉堂で、今は寿司屋さん。
 森川町は大学のお膝元で、下宿や旅館が多かったが、最近の東大生は本郷よりも遠くに住んでいる人が多く、今やほとんど修学旅行用の旅館となっている。この森川町には作家徳田秋声の旧居や、石川啄木がいた下宿蓋平館があって、文学散歩の人々がよく訪れる。
 こんなに広大な敷地の東大も単位を1軒と考えれば、本郷3丁目の角までは僅か数10軒である。

江戸の内と外、本郷3丁目

 本郷通りと春日通りとの交差するところ、本郷3丁目にある老舗の小間物商「かねやす」を詠った古川柳に  
本郷も かねやすまでは 江戸のうち  というのがある。昔はここから北は江戸の郊外的感覚で把えられていた。
 本郷3丁目周辺を航空写真で見ると、真砂町や菊坂の一部、弓町1丁目区と森川町は焼けていないが、本郷3丁目、4丁目、春木町は焼かれているのが解る。従って、かの有名な菊富士ホテルも、旧女子美大も、燕楽軒(旧本郷館勧工場)も、本郷座も灰燼と帰した。
 赤門が焼けなかったのはせめてもである。何でも米軍は、東京に進駐してきたら、東京大学をGHQとして接収する目算だったので、燃やさなかったのだという。ウソかホントか知る由もないが、結局GHQは日比谷の第1生命相互ビルになった。
 本郷3丁目から東大前にかけての西側には、古くから沢山の古本屋があった。戦後はバラック小屋の中で、戦前出版された本を並べて売ることから、古本屋がポツりポツリと店を出した。

江戸っ子のふるさと神田駅

 広沢虎造の浪花節「清水の次郎長」の森の石松ではないが、「芝で生まれて神田で育ち、末は火消しの纏持ち」というのが、意気といなせを旨とする江戸っ子の憧憬(あこがれ)である。上野と日本橋の真中にある、商人町で職人町の神田には、確かに他の場所とは異なる意気と張りを重視する気質があると思う。「神田っ子」という言葉まで生れ、神田明神の氏子としての自負も相当なものであった。
 「雨なんか なんだ神田の まつりかな」と神田っ子がいばれば、口の悪い他所の若い衆も、だまっちゃいない。
 「まんだ神田と威張るじゃねェよ 手ばなかんだも神田のうちよ」なんて、お返しをしたものだ。
 須田町から中央通りを南に進んでくる電車は、間もなく神田駅に近づく。長くて暗いガードにさしかかると、電車がライトをつける。私が子供時から50年以上も眺めていて変わらないガードだ。途中何度か修理をしているのだろうが、随分と丈夫なものだと思う。駅上のプラットホームから、陽春の頃ともなると、紺屋町の藍染めの木綿を春風に晒す光景が眺められたのは数年前まで、安藤広重の「江戸名所百景」に描かれた眺めであった。駅周辺には紺屋町や鍛冶町、多町や旭町など古い町名が残っていて嬉しい。
 
         「んだ ぢちょう どの んぶつやで った
          ちぐり たくて めねェ」

なんて「か」の字遊びにあやかって、現在、駅前には「かんだ かぢちょう かどの かぐや」という看板のかぐやさんもある。
 ここの江戸火消しの頭は、「よ組」といって、第1区1番組である。「よ組」の纏は「しちりんの纏」といわれ、三ノ輪の「丸うちわ」の纏と共に、頭連中からよくふざけて、火事が大きくなると纏である。先年亡くなられた俳優の佐野周二さんの実家は、「よ組」の頭の関口さんである。
 日曜・祝日だけ臨時の『20』番が池袋駅〜八重洲通行きがハしていた。
 以前はここを鍛冶町といった。明治36年11月25日、新橋〜上野間に、東京電車鉄道会社線が開通したときに始まる。当初、北品川八っ山から上野へ進んだ電車は雷門を廻って本石町から帰り、浅草橋、雷門に進んだ電車は、帰りに上野を廻ってここを通って帰った。

昔は超A級の
室町3丁目

遠くに見えるのはJR神田駅のプラットホーム、ここは室町3丁目の交差点である。以前は、ここは本石町の交差点といった。神田駅の方から南に中央通りを走っていたのは1番、19番、40番で、これと交わる東西には31番が交差し、22番はここでポイントを切って曲がっていった。左端微かに見えるのは、ここに立っていた信号塔の柱で、今は電動装置が故障しているのだろう。転轍手が鉄の棒でポイント操作をやっている。まるで二昔も前の光景だ。差し込んだ棒を向うに倒すことによって、鎖で線路を引っ張って曲げるようになっている。カメラを向けると、転轍手は照れくさそうに、苦笑いをした。そばには赤い旗を掲げて、他の通行者に注意を喚起していた。
 昭和初期には、26番の電車が飛鳥山から来て、ここで右折して東京駅前まで行っていたので、ここの交差点の転轍手は大童であっただろう。
 戦後は、十文字の他に別々の方向にポイントをきる電車があるところ、つまり二つの曲げ線のあったのは虎ノ門の交差点だけであった。本石町の交差点も戦前は超A級交差点であったわけだ。
 写真奥の神戸銀行は、その後太陽神戸銀行、三井太陽神戸銀行、いまでは、三井住友銀行となっている。その手前の路地は「鐘撞堂新道」といって、道をどんどん歩いて行くと左側に十思公園があり、「石町の鐘」が保存されている。そのとちゅうの右側で明治18年から天ぷら屋をやっている「てん茂」の奥田倉蔵さんは『石町の鐘』という小冊子を著わしている。初代夏田茂三郎さんの「茂」をとって「てん茂」という。
 また、神戸銀行の向いを入った所には、そばで有名な「砂場」がある。以前は常盤小学校の並びの、31番の電車通りにあったが、今は横丁を一つ入った所にあって、いつもお客でごった返している。
 一方、この信号塔を南に行ったところが、昔は雛市や羽子板市で賑わった「日本橋十軒店」の跡で、今は「玉貞人形店」と海老屋美術店」が、昔の暖簾を守っている。
 ここ本石町は東京鉄道線の新橋〜上野間が、明治36年11月25日に開通したときに始まる。鉄道馬車の線路は本石町ではなく、少し南の博物館のあった通りから浅草橋に出ていたので、本石町〜浅草橋間が開通したのは明治42年11月30日になった。
 大正3年時には1番品川駅〜上野〜浅草がここを通ったが、むしろ対象10年常盤橋から東京駅周辺の完成によって、がぜん電車王国となった。
 昭和初期には5年までは、1番北品川〜雷門はここで東に曲がり、2番三田〜吾妻橋西詰、25番飛鳥山〜新橋、26番飛鳥山〜東京駅は西に曲がった。さらに、27番神明町〜芝橋、31番南千住〜東京駅、32番南千住〜芝橋は南に折れた。十文字の他に曲げがニ方向もあった。 昭和6年には、1番はそのまま、2番、26番、32番は廃止、25番は19番に、27番は21番神明町〜大門に、31番は24番南千住〜市役所前となった。
 戦後は、臨時の1番三田〜雷門、22番南千住〜新橋、1番品川駅〜上野駅、19番王子駅〜八重洲通、臨時の20番池袋駅〜八重洲通、40番神明町車庫〜銀座(7丁目)、31番三ノ輪橋〜都庁前となった。


参考文献
「東京都交通局80年史」東京都交通局
「わが街わが都電」東京都交通局
「夢軌道。都電荒川線」木馬書館
「王電・都電・荒川線」大正出版
「鉄道ピクトリアル95年12月号」鉄道図書刊行会
「東京・市電と街並み」

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