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1系統(品川駅前—上野駅前)








10.993km

品川駅前-高輪北町-泉岳寺-田町9丁目-札ノ辻-三田-東京港口-金杉橋ー大門
-浜松町1丁目-新橋5丁目-新橋-銀座7丁目-銀座4丁目-銀座2丁目-京橋
-通3丁目-日本橋-室町2丁目-室町3丁目-今川橋-神田駅-須田町-万世橋
-旅篭町-末広町-黒門町-広小路-上野公園-上野駅南口-上野駅

M36.11

S42.12

品川

 ここは東京でも最も古い品川ステーションである。明治5年5月に、横浜桜木町〜品川間に最初の蒸気機関車が往復したときに始まる。
 明治18年には、山手線の元祖が赤羽からここに通じた。その上、東京の路面電車の元祖が品川〜新橋間に、約100年前には、ここから出発していた。東京の乗り物の先駆けは品川からといえる。
 明治、いやつい戦前までは、海が駅近くまで入り込んでいて、青い海に、お台場の石垣がくっきりと浮いて見えた。
品川といえば、泉岳寺、東京見物にきた人は必ず詣でたから、想い出の額絵にもこうしてかかれている。

第一京浜国道品川駅前

 
明治5年(1872)10月15日、新橋駅(現汐留貨物駅跡地・再開発)を出た横浜駅(現桜木町駅)行き汽車の絵や写真は、品川辺りで海岸を走っている。その線路も、台地の裾を削ったり、盛り土して敷設したようである。当時の品川絵駅は、今より400mほど南にあった。

 この日本最初の鉄道の開通に合わせ、前年に開通した京浜ホテルの窓から見た風景は、大正時代末から第2次大戦中にかけて、海を埋め立てた土地である。

 道路は、江戸時代からの東海道を広げた第1京浜国道で、産業道路も兼ね、トラックの往来が激しかった。左の高台は高級住宅地で、商店は国道に沿って並んでいた。この道を新橋と結んで、東京最初の路面電車が走ったのは、明治36年(1903)8月22日のことである。

 写真手前に大きく写っている都電は、特別注文のアメリカ製で「PCCカー」と呼ばれ、昭和28年から30年に6台輸入された。そもそもは、衰退する都電の人気を盛り返そうと導入された車両らしいが、交通形態の変化には抗しきれず、都電は次第に減らされていった。この1系統【品川〜新橋〜日本橋〜上野〜浅草)の都電も昭和42年ついに廃止された。また、駅に隣接して昭和51年、秀和品川ビルが建設されると、続々沿道にオフィスビルが立ち並び、丘のホテル群と呼応して街の様子を一変させた。

品川駅は品川区でなく港区にある。これは港区高輪台上空から見た風景。白く横たわる屋根は、開業を22日後に控えた東海道新幹線の車両基地である。

 品川駅は、横浜・桜木町駅と共に日本最古の駅で、最大の車両基地でもある。しかし、駅舎は以外に粗末な戦争中の建物で、海側改札口など、田舎の無人駅といったわびしい建物であった。左は沖電気の工場、右は屠殺場があって、灰色の風景を見る思いがした。今では、沖電気跡にNTT品川ツインビルがそびえ、屠殺場は、昭和41年から公園のある東京中央卸売市場食肉市場にイメージチェンジしている。

 
沖の埋立地に走る白い線は、この年8月に開通したばかりの首都高速1号羽田線である。その先の埋立地で白煙を上げるのは、昭和33年11月操業の東京電力品川火力発電所である。

 品川駅近くに昭和37年スケートリンクが誕生した。翌38年にボーリング場、39年にはプールと、続々スポーツ施設が揃い、若者の街となった。そこへ昭和46年、白い屏風のような高層のパシフィックホテルがそそり立つと、高輪の模様は変わり、今日のホテル団地を形作った。スケートリンクも、高層ホテルに変わり、品川プリンスホテルである。

 ちなみに、京浜急行が品川駅に乗り入れたのは昭和8年、都営地下鉄浅草線との相互乗り入れは、昭和43年である。

 品川駅のホーム下を抜ける地下道は300mもあるが、いかにも手荒い造りだ。それは、戦時中の軍隊の素人細工のせいである。

 
東口改札を出て200mほど直進して、旧海岸通りを横切ると、すぐ高浜運河の御楯橋がある。御楯とは、戦争中運河を隔てた芝海岸通り(現、港南4丁目)埋立地に、海軍経理学校や軍の施設があって、天皇陛下のためには命を棄てて楯となろうという教育理念から、そんな名が付けられた。現在では、歴史的な語り草に過ぎない。戦争中に架けられたその木橋は痛み放題で、足を踏み外そうな穴がいくつもあいていた。

 それが昭和36年、首都高速1号羽田線の工事が始まると、橋の架け替え、新道開設、都営港南団地の建設が平行して進められた。その後、都営住宅が南側にも増設され、埋立地は立派な人の住む街になった。

 駅周辺の工場や倉庫は、さらに沖の埋立地へ移り、その後、オフィスビルが続々と建ち並んだ。しかし、この景観も、天王洲アイル構想がすすで、高層のビルが林立している。
 
 
お台場は、現在東京人の間でも親しみを持って語られる。かっては東京湾の奥に点在する人工島であったが、昭和51年8月の東京湾海底トンネルの完成で、大井埠頭埋立地と、13号埋立地青海とが結ばれ、にわかに親しまれるようになった。

 すでに昭和49年に開館していた船の科学館と、貯木場構築のため13号埋立地北端と陸続きになった第3台場海上公園は都心に最も近い海浜休息地として注目され出した。

 続く湾岸道路の延長によって、路線バスの運行が始まると、一挙に人気は高まって、休日は湘南の海のような混雑振りを見せる。

 そもそも、お台場は嘉永6年(1853)ペリー率いる米艦隊来航で慌てた幕府が、急きょ江戸防衛の為築いた大砲お据え付け場所である。
石垣の用材は、真鶴半島や伊豆半島から、安山岩舟で運んだ。安政元年(1854)6基を完成させたが、途中、日米和親条約が調印されて、計画の12基は中断した。そのうち、大正末期から戦後の昭和30年代中頃にかけての埋立てで、原形をとどめるのは第6台場だけとなった。

 現在、この傍を通って、首都高速12号線の東京湾横断京の工事が着々と進んでいる。後にレインボーブリッジと名付けられ首都高速の迂回路的に利用されている。

 東京オリンピックに間に合わせようと、首都高速1号羽田線の工事が急ピッチで進められる港区海岸通り(現、海岸3丁目)である。

 右に整然と倉庫が並ぶ桟橋は、駐留軍の物資補給基地である。桟橋に接岸できず、湾内に停泊中の輸送船も多い。朝鮮動乱の体験によって、日本の技術力が向上したとはいうものの、戦勝国人の贅沢に耐える品ではなかったのか、ほとんど本国から運んでいた。これがまた、一部日本の市場に流れ、舶来信仰者の気持をくすぐったわけである。政府の国産品愛用の呼びかけに対して、「良ければば買ます国産品」などと皮肉った標語も見られた。とにかく、汐留貨物駅からの専用引込み線を、終日貨車が走っていた。遠く白い倉庫が見える埠頭が、大正14年(1925)完成した日の出桟橋である。このシーンの写真は付近の消防署の火の見櫓を借りたが、東京のビル高層化で次第に視界を遮られ、火の見櫓は、昭和47年に廃止された。

 しかし、消防署の庁舎では低いため、隣接のケイヒン株式会社ビル屋上に立たせてもらった。この地域が現在、芝浦、港南地域構想の下で、流通関係のビル建設が、猛烈な威勢で進んでいる。

 この風景は、ほとんど慶長11年(1606)以降の埋め立て造成地である。大八車もなっかった時代、鋤(すき)、鍬(くわ)、鶴嘴(つるはし)程度で山を削り、畚(モッコ)で土を運んで広い海を埋め立てた先人の努力に頭が下がる。それを足がかりに、明治次第末期から大正にかけて、芝浦運河と現在の海岸3丁目の埋立地が築かれた。さらに大正末期から昭和にかけて、現在の海岸2丁目が造成された。そうして埋立地は、初め軍用地、官用地に当てられ、戦後は民間の巨大な倉庫が建ち並んだ。

 
そこに、東京オリンピックを契機として、首都高速1号線が建設され、羽田空港まで開通したのは昭和39年8月である。これに左から、京浜東北、山手、東海道、まだ開業していない東海道新幹線を跨いで、首都高速道路を、浜崎インターチェンジでつなぐ工事が進行中である。そのまた上を東京モノレールが走り始めたのは、昭和39年9月東京オリンピック開催直前である。

 その後、倉庫は新しい埋立地へ移り、昭和55年から超高層ビルが次々に建ち始めた。今では、浜松町駅西側に、昭和45年に完成した40階建て152mの世界貿易センタービルも、目立たなくなった。こうして変貌する巨大都市東京にとって、寛永年間(1640頃)築造された旧浜離宮恩賜庭園と、延宝年間(1670頃)築造された旧芝離宮恩賜庭園は、貴重な緑の景観である。

泉岳寺

 雪の魚籃坂を撮影した帰り、雪の高輪泉岳寺をも・・・・・・・・・と伊皿子から汐見坂を下りて来たが、もう、すっかり日が沈んで、雪を頂いた山門だけが辺りの夕闇に暮れ残ったいた。
 「高縄」と書かず「高輪」と書いてあっても、殆どの人が正しく「たかなわ」と、読めるほど、昔から人々に知られている。萬松山泉岳寺は、播州赤穂の浅野家の菩提所であった所から、主君のそばに47士も眠ることとなった。画家の日野耕之祐は、「東京百景」(昭和42年刊)でこう述べている。
 「いまは知らないが、戦前は地方から東京に出てくると、必ず1度は泉岳寺に参ったものである。30年前、僕も九州から出てきてすぐ父につれられていったことがある。(中略)本堂は第2次大戰の戦災で燃えて昭和28年に再建、未だ新しい。山門は天保年間に建てられたものだそうだが、時代色がついていて風格がある。楼上に極彩色の16羅漢像が安置してあって、階下の天井には関義則という人の青銅の龍のレリーフがはめ込まれている。絵でない所がミソである。山門を入って右の所に等身大の大石内蔵助の銅像が立っている」
 元禄15年12月14日、本所松坂町の吉良邸に押し入った大石内蔵助以下赤穂浪士は、首尾よく吉良上野介を討ち取った。芝居や講談では雪が降っていることになっているが、実際にはどうも雪は降っていなかったらしい。
 元禄15年12月14日は、現在の太陽暦では1月の大寒の頃、雪が降っても不思議は無いし、舞台に花を添えるものとして雪を降らせている。近頃12月14日には、高輪ホテルを始め、近くの会社員が47士の装束で銀座まで行進をしているが、昨今では本所松坂町の方でも、吉良上野介だけが悪くはないと、吉良方の行列も行われるようになった。
 大正8年9月18日、この写真の汐見坂を、伊皿子から坂下の泉岳寺前までの線路が完成し、品川線に合流する、『11』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜泉岳寺前が開通した。大正12年には、『11』番は品川駅前まで直通運転された。
 昭和5年までの昭和初期は、『9』番、四谷塩町〜品川駅前となる。翌6年の改正で『9』番から『3』番と変更される。戦後は、『7』番、四谷3丁目〜品川駅となったが、昭和42ねん12月10日からは、四谷3丁目〜泉岳寺前に短縮の後、昭和44年10月26日から廃止された。一方、『1』番の方は泉岳寺前は、明治36年8月22日に品川八ッ山〜新橋間が開通した時に始まる。東京電車鉄道線の最古参の線で、八ッ山、八ッ山交番前、品川ステーション前、東禅寺、庚申堂、泉岳寺、いさらご、札に辻、田町、薩摩原(三田)、芝橋、金杉2丁目、金杉橋、大門、宇田川町、霜月町、源助町、しばぐち、新橋と続いていた。大正3年から昭和42年12月10日の廃止の時まで、徹頭徹尾『1』番を通した名門コースであった。

 都電の系統数は、昭和25年には38系統まででした。最終段階の39・40系統は、昭和28年に、最後の41系統は、志村坂上から志村橋まで線路が敷設された昭和30年でした。

(1)木造から半鋼製
 木造四輪単車で発足した東京の路面電車も、半鋼製ボギー車が主力となった。動力源である電気の集電方式も、当初は2本ポールを使用していたが、これが一本となり、次ぎにはビューゲルとなった。
 これは、変電所から送られる直流電気のマイナス側の、変電所への帰し方が、従来のポール・架線方式から、レールを経由してと変わったためである。
 又、ポールのビューゲルへの改良は、ポールでは分岐点で乗務員が操作をしなければならず、ビューゲル化でこの手間が省け、架線の断線事故も減少し電車運行の信頼性が向上した。
 最盛期の都電は、1日180万人近いお客様を運んだが、現在は荒川線のみとなり、1日の輪送人員は6万人程度となっている。

(2) ポールからビューゲルに
 都電は、直流の電気で走ります。従ってプラスとマイナスの2本の架線が必要で、初期の電車は、2本の架線に対応するために2本のポールを必要とした。その後マイナス側はレールを利用する事でポールも一本になった。ポールがビューゲルになるのは、昭和24年から、パンタグラフを装着した”PCCカー”が走ったのは昭和28年でした

 海と運河に囲まれた芝浦工場は船路橋を渡った先にあった“島”だった。大正9年()10月この場所に東京市電気局の工場の支場が設置されたのが始まりで、その後関東大震災で浜松町と本所にあった工場が被災したため全施設が芝浦に移された。都電の電車の修繕・改修を手がけ、終戦直後は戦災車の復興を手がけ昭和30年代頃は新性能車の開発なども手がけ無軌条電車の修繕も手がけていた。
 昭和40年代都電の廃止とともに規模が縮小され、都電廃止後は自動車工場として都バスの修繕を行っていたが平成3年合理化により工場が移転その後跡地は再開発の計画が進められている。
 今も敷地跡は海が多少遠のいたものの、東京モノレールとゆりかもめに挟まれ運河に囲まれた“島”になっている。そんな“島”へかつての入り口が船路橋だった、JR山手線の田町の駅から海へ向かいモノレール沿いの運河を渡った先の交差点の奥に船路橋はまだ残されていた、橋の上の路面には2本のレールが鈍い輝きを放っている。周囲をビルや倉庫の建物に囲まれた橋の向こうの“島”は再開発が進んでいるようだ、橋の方向から振り返ると交差点を越えてかつて工場入りする電車が通った通りが金杉橋方向に真っ直ぐに続いていて、その方向に橋からのびた線路がアスファルトの中へ消えていた。    

 船路橋の下には繋がれた船がゆったりと揺れ立入禁止の橋の上には水鳥が羽を休め喧噪のなかでゆっくりと時が流れているように見えた、しかし都電の歴史を秘めてきた橋も傍らに立つ再開発の計画書によれば早晩消える運命にあるようだ。

二つ並んだ旧女学校

 都電三田車庫から真北に行く道は、芝園橋から日比谷を経て神田橋に通ずる。明治の頃には東京市街鉄道線が走ったコースである。三田車庫を出ると間もなく右に赤煉瓦が見える。江戸時代ここに薩摩藩の蔵があり、その反対側、現在の日本電気のところに薩摩邸があった。慶応4年3月13日、14日、勝海舟、山岡鉄舟が西郷隆盛に会見して、江戸を戦火から救うことに成功したところである。
 右側の明治調の煉瓦造りは、明治22年5月、千葉県出身の池貝庄太郎が創立した池貝鉄工の三田工場である。その、お隣りが東京女子学院、その北隣りの三角屋根の建物が戸板学園である。いずれも明治時代に創立された旧女学校である。
 手前の東京女子学院は、戦前は、東京女学校と呼んだ。」「東京」と自ら名乗れる程その創立も古く、明治36年、棚橋絢子の夫君は文学士棚橋一郎で、文京区の郁文館学園とは関連校である。棚橋絢子女史は昭和14年秋に101歳の高齢で大往生された。定命50といわれた時代の101歳である。今日なら130歳くらいに相当するのだろう。当時大変に話題となったので、私の記憶の中にある。ところで、この東京女学校の服装上の一特色はスカートの裾には白線が一本入っていることだ。地方の学校にはその例が多いが、都内ではここと、品川区立の東海中学校のスカートの白線と、たった2校のみである。
 また、戸板学園は、明治35年に戸板関子女史が和裁の学校として創立したもので、今は短大まである。演劇評論家戸板康二先生は、創立者戸板関子女史の従兄弟にあたる。
 『37』番の電車は、三田から北に千駄木2丁目まで通っている。沿線に話題となる建物が三つも並んでいて、嬉しいやら、説明に苦労するやらで、贅沢な悲鳴ではある。
 鉄道馬車の後を受けて明治36年8月22日に、品川八ッ山〜新橋間に開通した時に、東海道沿いの電車が通った。これはその後、品川駅〜上野浅草廻りとして走った。一方、この写真のように南北には明治37年6月21日に、東京市街鉄道線の三田〜日比谷間が開通した。

芝のだらだら祭り

 「芝で生れて神田で育つ」とは、浪花節の「森の石松」ではないが、芝っ子には江戸っ子としての自負がある。9月11日から21日まで、11日間も長いお祭をやっているのが芝明神様だ。芝のだらだら祭りといわれる所以である。その9月15日が、祭儀のお行なわれる日である。現在は、9月15日は敬老の日として旗日になっているので、1年おきに氏子各町連合渡御がある。芝プリンスホテル前の広場に、33ヶ町の御神輿が正午に集合、午後1時から発進する。
 今、新橋5・6丁目の御神輿が、集合場所に出かける所だ。新橋5・6丁目町会は、昔の路月町と宇田川町である。横町の神酒所から出てきたばかりなので、まだ担ぐ方も本調子ではないので、その日によって、一緒に担ぐ仲間によって肩がなかなか揃わない。集合地点に行く前に疲れても困るので、こういう時の担ぎは、比較的平担ぎで軽く担いで集合地へ急ぐのが得策である。見せ場はまだ後に控えているのだから、それまで力を溜めておく方がよい。音頭をとっている頭の半天は「め組」である。東都でも、「い組」「は組」と共に人気のある組だ。
 頃は、文か2年、芝明神の境内で四ッ車大八と九竜山の花相撲が催された時、め組の方に挨拶がなかったということから、血の雨を降す大喧嘩にまで発展した。この評判がたちまち江戸中に広がッた。歌舞伎でも「神明恵和合取組(かみのめぐみのわごうとりくみ)」として上演され、5代目菊五郎の演ずる「め組」の辰五郎は、東都の芝居好きをうならせた。「め組」の纏は形がよく、「籠目鼓胴」の纏とも「籠目八ッ花形」の纏ともいわれた。また、「めぐみ」に通ずることから、お正月の縁起物のミニ纏がよく売れる。
 浜松町1丁目で折返したばかりの、本来は『33』番の電車は、北青山1丁目まで行ってから、天現寺橋の広尾車庫に帰るのであろう無番号で出発した。
 明治36年8月22日、東京電車鉄道会社線が東京での最初の電車を、北品川八ッ山〜新橋間に通した時に始まる。この方向には、大正4年5月25日に、御成門〜宇田川町(浜松町1丁目の旧称)に線路が敷けた。この時は、『8』番、宇田川町〜青山1丁目(又は、青山6丁目)間、『1』番、品川〜上野浅草間がここを通っていた。
 昭和に入り5年までは『13』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜宇田川町、『1』番、品川〜雷門、『2』番、三田〜吾妻橋西詰、『27』番、神明町〜芝橋、『32』番、南千住〜芝橋間が走る。
 戦後は、『33』番、四谷3丁目〜浜松町1丁目、『1』番、品川駅〜上野駅、『4』番、五反田駅〜銀座間が通る。『1』番、『4』番は昭和42年12月10日、『33』番は昭和44年10月26日から廃止された。

ドイツ風の日赤本社

 四谷3丁目をスタートする『33』番の電車は、青山、六本木、飯倉、神谷町を経て浜松町1丁目に終点を置く、大正時代からの伝統的な路線である。昔は四谷鹽町と宇田川町という方向板をつけていた。終点は、御成門の交差点から南に来た道が第1京浜国道にT路地として突き当たる辺りにあった。めのまえのに東京美術倶楽部があって、内外の高級美術品のオークション(競売)が行われる所である。ここで折返して四谷3丁目に向う電車が、すぐ左手に眺める煉瓦造りの堂々たる建物は、日本赤十字本社である。サンケイ新聞社の「日赤百年」には、「大正元年9月、現在の港区芝大門1丁目1番3号に新しい社屋が完成した。総面積11,926平方メートル(3,614坪)、延べ面積8,200平方メートル(2,485坪)、ルネッサンス風のいかにもシャレタ建物だった。この社屋の完成は、大正時代の日赤を端的に象徴しているといえるようだ。というのも、全国各地で病院が開設されたこと、つまり施設の拡充が、この時代の最大の特徴であるからだ」と、解説してある。設計者の妻木頼黄(よりなか)は、辰野金吾、曽禰達蔵と共に明治建築界の三重鎮といわれ、他にも東京府庁、東京商工会議所、横浜正金銀行などをてがけた。
 東京大学の村松貞次郎教授は、その著「西洋館を建てた人々」で、「明治の中期に突如として巨大な一勢力が侵入してきた。ドイツ系の建築技術であり、そのチャンピオンと目されているのが妻木である。(中略)その数少ない作品は、いずれも重厚なドイツ風の大建築である。
 技術的には実に充実し堅固な施行が行われた名建築で、やはり明治建築界の三大ボスの一人たる技倆は見事なものである」と、帰している。この日赤本社は関東大震災で焼けたが、岡田信一郎が妻木の設計を忠実に復元したというから、この写真の建物は昔のままといえそうだ。今は近代的な高層ビルに建てかえられてしまった。                    
 ここは以前は宇田川町といった。東京電車鉄道会社の最初の電車が、明治36年8月22日に開通したが、この写真の方向は、大正4年5月25日に御成門〜宇田川町間が開通した。『8』番、宇田川町〜青山1丁目(または、青山6丁目)間、『1』番品川〜上野浅草間が通る。
 昭和初期には『13』番、四谷塩町(四谷3丁目)〜宇田川町、『1』番、北品川〜雷門、『2』番、三田〜吾妻橋西詰、『27』番、神明町〜芝橋間、『32』番、南千住〜芝橋間が走る。
 戦後は、『33』番、四谷3丁目〜浜松町1丁目、『1』番、品川駅〜上野駅、『4』番五反田駅〜銀座間が通る。『1』番、『4』番は昭和42年12月10日、『33』番は昭和44年10月26日から廃止された。

銀座7丁目の夜景

 五反田駅から来た4番の「銀座行」は、銀座2丁目で折返していたが、神明町車庫から来た、40番は、同じ「銀座」行とあっても、銀座7丁目で折返していた。
 銀座が京橋寄りの1丁目から新橋寄りの8丁目までになったのは、昭和5年3月である。それまでは、ここの停留所は竹川町、銀座4丁目は尾張町といっていた。
 日本橋に江戸時代から商家が軒を競っていたのに対して、銀座は職人の町で、明治5年に汐留スティションができ、築地に外人居留地ができてから開けた。、寧ろ新開の土地であったはずだ。昔は南金六町、出雲町、日吉町、弓町、 鎗町、南紺屋町などの町名があった。
 銀座の柳は、明治5年に銀座がことごとく火災に遭ってから煉瓦街を建設したときに始まる。しかし対象10年、東京市は街路樹はすべて公孫樹(いちょう)にしるということで、地元銀座の人達の反対をも押し切って柳を根こそぎ引き抜いてしまった。だが、2年後の関東大震災で再び焦土と化し、昭和7年にまたまた復活した。
 西条八十はそれを記念して「銀座の柳」を残してくれた。その記念碑は、銀座8丁目先の新橋郵便局のたもとに建っている。写真に見られる柳の枝も、その後の道路改修で今は無く僅かに銀座1丁目と2丁目の横丁に命脈を保っている。だが、近年復活している。
 銀座の朝は、何処かけだるい。まだ眠りから覚め切っていない感じである。やはり銀座は、灯りともし頃からが、活き活きとして輝いて見える。街路灯やネオンの光りに照らされて都電が行く。都電という細長い大きな部屋、それも電気が煌々と照らされた部屋が街中にあることでこんなに暖かく、人間味が感じられる。この街から都電が消えてからもう30数年、エゴイズムでがつがつした車のみが先を急いでいる。

銀座4丁目

 鉄道馬車の後をそのまま引き継いだ東京電車鉄道会社線は、東京の路面電車の草分けで、第1系統の電車は、品川から上野までの伝統的な路線を走っていた。
 途中、一度も轍を変えさせられることなく、あくまで一直線、東海道から御成道を堂々と走っていた幹線の風格があった。
 しかも大正から戦前戦後を通じて、徹頭徹尾、第1系統を守り通した。この第1系統には、銀座4丁目の風景が最も似合っていた。
 昭和7年から建っている銀座の、いや東京のシンボルともいうべき、服部時計塔の下を通る都電の姿は、昭和の東京の一時代を物語る代表的なひとこまである。

京橋角の赤煉瓦

 都市や町は、いったい何で構成されているのだろうか。外見的には、道路と建物が大部分を占め、その他に、川や公園や広場などの空間で成り立っている。坂は道が傾斜したもの、橋は道の延長と考えられる。従って道路の広さ、敷石や舗装の程度、街路樹や花壇の計画などが都市の景観に大きな役割を演じている。だが、何といっても建物のもつ役割は大きい。
 日本橋から銀座に通ずる中央通の京橋交差点、東南隅にそびえる英国式の8階建の赤煉瓦は、第1相互館である。緑青を頂いた中央の塔は40メートルで、昭和11年に国会議事堂ができるまでは、東京市の高さを誇っていた。その建設には、大正4年から10年まで満6年の工期を費やした。実に堂々としたビルで、赤煉瓦にも貫禄が出て、都電の黄色と好対照を成していた。第1相互館の真向かいには、永田雅一の大映本社ビルがあったが、映画の斜陽化と共に姿を消した。また、この並びの浜野繊維の建物は元は豊国銀行で、昭和3年の曾禰・中條建築事務所の作という。
 一方、路面電車の都会に占める役割も忘れてはならない。路面電車というものは、よく考えると都市の道路の主だとさえいえる。線路の下にはちゃんと砂と砂利で土台を拵え、その上に枕木が敷いてある。さらに石畳を上に載せた軌道を走る電車は、土地に這いつくばい、路面にしがみついているようなものである。バスなら今日からでも直ぐ走らせるし、明日からでも廃止できるが、電車はそうはいかない。
 路面上の設備の他に、架線上の設備もある。だから、都会から電車がなくなるということは、都市の景観が、いや、都市そのものが変わることを意味している。
今では、京橋の赤煉瓦も都電もなくなり、のっぺりしたビルの谷間を自動車が喘(あえ)いでいる。

京橋たもとの映画館

 電車は日本橋から中央通を南に進むと通3丁目で右に東京駅八重洲口を眺め、更に南に来ると京橋の十字路がある。ここを通過すれば以前ここにあった、石造りの京橋を渡って一路銀座八丁へとさしかかる。京橋は八丁堀にかけられた橋で、日本橋、江戸橋というのに対して名付けられたという。
 東京市中の橋で擬宝珠のついていた橋は新橋、日本橋、とこの京橋のみであった。明治34年には石造りに架けかえられている。
 八丁堀の橋としては、上に桜橋、下に比丘尼(びくに)橋があった。ところで八丁堀は、京橋の下あたりを京橋川といった。京橋川が埋めたてられたのは戦後まもなくで、昭和27年頃ではなかったろうか。
 その京橋の南詰の東に、テアトル東京があった。終戦後は、まだ戦いの傷跡の癒えない昭和21年の大晦日、「わが心の歌」という映画でデビューし、当時は銀座唯一の米国映画の封切り館であった。銀座4丁目の交差点にが米軍MPが交通整理をしていた頃で、進駐軍の軍服姿が銀座街頭に溢れ、映画館の中は字幕の要らない米国兵で賑わった。この写真に見る映画館は、昭和30年に建て替えた小屋だが、昭和57年初冬から取り壊しが始まった。右側にある茶舗の池田園は、昔も今も変わらない老舗である。
 京橋を挟んで、テアトル東京と反対側の河岸を、江戸以来「竹河岸」と呼んで「竹屋が多かった。京橋川の上流の方大根河岸といった。その大根河岸を右に曲がった所に、終戦直後からやっていた、恐らく都内でも草分けのジャズ喫茶「ユタカ」があって、よくジャズを聞きにいった。丸坊主の名物マスターは、デキシーランドジャズが好きで、モダンジャズをリクエストしても、「デキシーを聞かなきゃだめだ」と意固地なまでにデキシー党で凝り固まっていた。今は京橋川も埋めたてられ、テアトル東京も、ユタカもなくなってしまった。

日本橋高島屋

 日本橋を越えると、直ぐ左側に蚊帳と布団で有名な西川があり、その並びの角は東急日本橋店(元の白木屋)も閉店し、その向いに、都電があった頃には瓦葺の漆屋の黒江屋があった。その並びに日本橋の西南隅の柳屋、そして洋書や舶来物で有名な丸善がある。何れも江戸や明治からの老舗である。丸善の斜め向いに、いつも「丸高」の紅白一対の旗を出しているデパートが高島屋である。
 高島屋の東京店は、通3丁目から京橋に向った所に初めて店を出した。この日本橋店は昭和6年に建てられたものだから、70年にもなる。京都の四条河原町に京都高島屋があるが、ここに入って驚いたことは「ここは日本橋の高島屋にいるみたいだ」と錯覚に陥るくらい、売り場の配置と硝子ケースが似ていることだ。ネクタイ売り場の場所といい、カバン売り場の場所といい、日本橋店とそっくりである。京都にいても東京にいるような、アットホームな感じを持たせる辺りは流石だ。また、「このお店の陳列ケースの高さがわれわれお客には最も見易い高さだ」という評判があって、確かにその点でも京都と日本橋とでは同じであった。
 そもそも高島屋は、大阪市の難波にある高島屋が本店である。初代の飯田儀兵衛は近江の国高島郡の出身で、文政4年に、京都の烏丸に出身地の名を取って高島屋という米屋を開いた。そして文政11年、長女おひでの婿養子として迎えたのが新七で、この人は同じく京都の烏丸で呉服屋に修行していた。高島屋に婿入りしてからは、商売熱心で、店も大きくなった。この飯田新七が事実上の開祖とされている。高島屋の向うに建築中の建物は16階建のDICビルである。
 明治36年11月25日、新橋〜上野間に東京電車鉄道線が開通したときに始まる。一方、明示43年5月4日に茅場町〜呉服橋間が開通して交差点となる。
 大正3年には1番品川〜上野〜浅草と、4番大手町〜洲崎間が交差する。

旧帝国製麻本社ビル

 その名の通り、日本の中心点の日本橋は、明治44年4月3日に開通した13代目の石造りである。その西北の角に、大正元年から人目を惹(ひ)いている細長い煉瓦造りは、かって帝国製麻の本社として使われたビルだ。東京駅や赤坂の霊南坂教会と似た格調高い煉瓦造りは、その共通のテーマから辰野金吾の設計だとわかる。今は高速道路の影でよく見えないが、南側の日本橋川に面した側面には、テラスのついたベランダがあって、ソフトなアクセントもついている。以前は、ビルの上の角に、麻の葉のマークと、その下にローマ字で「TEIMA]と入っていた。ちょっと汽船のようなスマートさを感じさせる。
 帝国製麻は明治40年に、日本製麻と北海道製麻とが、合併して出来た。現在のようにビニールが発達していなかった時代には、我々の日常生活の中で麻の占める役割は大きかった。消防ホース、郵便局の行嚢(ぎょうのう)、衣服、麻縄、麻糸など、麻の需要は多かったが、昨今の非植物性繊維の発展でその需要は激減してしまった。今は、帝麻ビルは大栄不動産ビルとなった。しかし、時代を経た赤煉瓦が、塔上の録青に映えて、人々に親しまれ続けた建物である。
 昭和44年3月12日、3月としては珍しい大雪となり、日本橋を渡って南千住に帰る22番の電車の方向板の文字は雪で読めない。この煉瓦造りが無かったと仮定すると、どんなに殺風景になるかは想像に難くないだろう。

昔は超A級の
室町3丁目

遠くに見えるのはJR神田駅のプラットホーム、ここは室町3丁目の交差点である。以前は、ここは本石町の交差点といった。神田駅の方から南に中央通りを走っていたのは1番、19番、40番で、これと交わる東西には31番が交差し、22番はここでポイントを切って曲がっていった。左端微かに見えるのは、ここに立っていた信号塔の柱で、今は電動装置が故障しているのだろう。転轍手が鉄の棒でポイント操作をやっている。まるで二昔も前の光景だ。差し込んだ棒を向うに倒すことによって、鎖で線路を引っ張って曲げるようになっている。カメラを向けると、転轍手は照れくさそうに、苦笑いをした。そばには赤い旗を掲げて、他の通行者に注意を喚起していた。
 昭和初期には、26番の電車が飛鳥山から来て、ここで右折して東京駅前まで行っていたので、ここの交差点の転轍手は大童であっただろう。
 戦後は、十文字の他に別々の方向にポイントをきる電車があるところ、つまり二つの曲げ線のあったのは虎ノ門の交差点だけであった。本石町の交差点も戦前は超A級交差点であったわけだ。
 写真奥の神戸銀行は、その後太陽神戸銀行、三井太陽神戸銀行、いまでは、三井住友銀行となっている。その手前の路地は「鐘撞堂新道」といって、道をどんどん歩いて行くと左側に十思公園があり、「石町の鐘」が保存されている。そのとちゅうの右側で明治18年から天ぷら屋をやっている「てん茂」の奥田倉蔵さんは『石町の鐘』という小冊子を著わしている。初代夏田茂三郎さんの「茂」をとって「てん茂」という。
 また、神戸銀行の向いを入った所には、そばで有名な「砂場」がある。以前は常盤小学校の並びの、31番の電車通りにあったが、今は横丁を一つ入った所にあって、いつもお客でごった返している。
 一方、この信号塔を南に行ったところが、昔は雛市や羽子板市で賑わった「日本橋十軒店」の跡で、今は「玉貞人形店」と海老屋美術店」が、昔の暖簾を守っている。
 ここ本石町は東京鉄道線の新橋〜上野間が、明治36年11月25日に開通したときに始まる。鉄道馬車の線路は本石町ではなく、少し南の博物館のあった通りから浅草橋に出ていたので、本石町〜浅草橋間が開通したのは明治42年11月30日になった。
 大正3年時には1番品川駅〜上野〜浅草がここを通ったが、むしろ対象10年常盤橋から東京駅周辺の完成によって、がぜん電車王国となった。
 昭和初期には5年までは、1番北品川〜雷門はここで東に曲がり、2番三田〜吾妻橋西詰、25番飛鳥山〜新橋、26番飛鳥山〜東京駅は西に曲がった。さらに、27番神明町〜芝橋、31番南千住〜東京駅、32番南千住〜芝橋は南に折れた。十文字の他に曲げがニ方向もあった。 昭和6年には、1番はそのまま、2番、26番、32番は廃止、25番は19番に、27番は21番神明町〜大門に、31番は24番南千住〜市役所前となった。
 戦後は、臨時の1番三田〜雷門、22番南千住〜新橋、1番品川駅〜上野駅、19番王子駅〜八重洲通、臨時の20番池袋駅〜八重洲通、40番神明町車庫〜銀座(7丁目)、31番三ノ輪橋〜都庁前となった。

江戸っ子のふるさと神田駅

 広沢虎造の浪花節「清水の次郎長」の森の石松ではないが、「芝で生まれて神田で育ち、末は火消しの纏持ち」というのが、意気といなせを旨とする江戸っ子の憧憬(あこがれ)である。上野と日本橋の真中にある、商人町で職人町の神田には、確かに他の場所とは異なる意気と張りを重視する気質があると思う。「神田っ子」という言葉まで生れ、神田明神の氏子としての自負も相当なものであった。
 「雨なんか なんだ神田の まつりかな」と神田っ子がいばれば、口の悪い他所の若い衆も、だまっちゃいない。
 「まんだ神田と威張るじゃねェよ 手ばなかんだも神田のうちよ」なんて、お返しをしたものだ。
 須田町から中央通りを南に進んでくる電車は、間もなく神田駅に近づく。長くて暗いガードにさしかかると、電車がライトをつける。私が子供時から50年以上も眺めていて変わらないガードだ。途中何度か修理をしているのだろうが、随分と丈夫なものだと思う。駅上のプラットホームから、陽春の頃ともなると、紺屋町の藍染めの木綿を春風に晒す光景が眺められたのは数年前まで、安藤広重の「江戸名所百景」に描かれた眺めであった。駅周辺には紺屋町や鍛冶町、多町や旭町など古い町名が残っていて嬉しい。
 
         「んだ ぢちょう どの んぶつやで った
          ちぐり たくて めねェ」

なんて「か」の字遊びにあやかって、現在、駅前には「かんだ かぢちょう かどの かぐや」という看板のかぐやさんもある。
 ここの江戸火消しの頭は、「よ組」といって、第1区1番組である。「よ組」の纏は「しちりんの纏」といわれ、三ノ輪の「丸うちわ」の纏と共に、頭連中からよくふざけて、火事が大きくなると纏である。先年亡くなられた俳優の佐野周二さんの実家は、「よ組」の頭の関口さんである。
 日曜・祝日だけ臨時の『20』番が池袋駅〜八重洲通行きがハしていた。
 以前はここを鍛冶町といった。明治36年11月25日、新橋〜上野間に、東京電車鉄道会社線が開通したときに始まる。当初、北品川八っ山から上野へ進んだ電車は雷門を廻って本石町から帰り、浅草橋、雷門に進んだ電車は、帰りに上野を廻ってここを通って帰った。

上野駅前

 この電停は、ターミナルの駅前にふさわしい幅広の安全地帯を持つもので、中央通りの
、昭和通りの21の各系統が集まり、4本の線路が並ぶ様子はヨーロッパの駅前風景を思わせるものがあった。

 ここには、昭和43年4月1日に駅前大歩道橋が架けられ、安全地帯と直結していた。
 昭和44年5月31日には首都高速道路1号線が開通、同年10月25日限りで
系統が廃止され、昭和通りからレールが消えた。

 昭和45年には、首都高速の上野ランプ建設に伴い、Uターン路確保のため、安全地帯が大幅に削られてしまう。

 そして、昭和47年に都心から全ての都電が廃止され、当然のことながら安全地帯もなくなった。歩道橋から安全地帯への昇降用階段も取外された。歩道橋は、平成元年10月に幅の広いペデストリアン・デッキ「ジュエリー・ブリッジ」に生まれ変わったため、今では電停への階段も全く分からなくなってしまった。

 ところで、上野駅前には、昭和2年に、日本初の地下鉄が東京地下鉄道によって上野〜浅草間に開通した時、すでに安全地帯への連絡階段が設けられていた。「東京地下鐵道史・坤」に収載の平面図に見られるように、市電乗り場への2か所(後に1か所)の出入口があった。

 東京地下鉄道では、当時他の各駅でも意匠を凝らしたデザインの出入口が設計されたが、上野駅のそれも、曲線状の屋根を持つモダンなデザインであった。戦後は直線的な機能本意の形に変わったが、昭和42年8月に、首都高速道路1号上野線の工事に支障となるため、出入口上家が撤去されている。

 今、かつて安全地帯だったところは人を容易に寄せつけない中央分離帯となっているが、ここに取り残された地下鉄出入口は、シャッターを閉ざされ、非常用出入口になって今も見られる。

    

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