このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

荒川線(三ノ輪橋〜早稲田)



 





三の輪橋<営団地下鉄日比谷線「三ノ輪駅」> ー荒川一中前ー荒川区役所前 ー荒川二丁目<荒川自然公園>ー荒川七丁目ー町屋駅前<京成線、営団地下鉄千代田線「町屋駅> ー
町屋二丁目ー東尾久三丁目ー熊野前ー宮ノ前ー小台ー荒川遊園地前<あらかわ遊園>ー
荒川車庫前ー
梶原ー栄町 ー王子駅前<JR京浜東北線、営団地下鉄南北線「王子駅」>
飛鳥山 ー滝野川一丁目ー西ヶ原四丁目ー新庚申塚<都営地下鉄三田線「西巣鴨駅」>
庚申塚ー巣鴨新田ー大塚駅前<JR山手線「大塚駅」> ー向原 ー東池袋四丁目<営団地下鉄有楽町線「東池袋駅」> ー雑司ヶ谷 ー鬼子母神前 ー学習院下 ー面影橋 ー早稲田

総距離 12.21㎞

開通   昭和49年10月 1日路線名を”荒川線”に改称 

 荒川線は、唯一の都電として都民の皆様に親しまれ1日約6万2千人のお客様に利用されています。荒川線の前身は明治44年開業の王子電気軌道(株)でしたが、昭和17年の陸上交通調整により東京市に統合され市電となり、翌18年の都制施行により都電となりました。
 かつて都内の大衆輸送の花形だった都電も昭和30年代から始まった自動車の増大により輸送効率が著しく低下し経営は極度に悪化しました。東京都は財政再建のため都電撤去に踏みきり、昭和42年〜47年に35路線を廃止しました。27系統(三ノ輪橋−赤羽)・32系統(荒川車庫前−早稲田)も廃止予定でしたが路線の大部分が専用軌道であり、他に代替輸送がないこと、沿線住民の強い存続要望などにより、27系統の併用部(王子駅前−赤羽)のみを廃止しました。昭和49年には27系統と32系統を1本化(三ノ輪橋−早稲田)し、名称を荒川線と改め存続することになりました。昭和52年10月からワンマン運転を始め、53年4月には全車をワンマン化しました。59年3月から冷房付車両の運転を開始し、61年4月から運行管理システムを導入しました。また、平成2年5月には28年ぶりに新造車両が登場しました。
 
 都電荒川線の普通運賃は大人160円、子供80円ですが、
お得な1日乗車券は大人400円、子供200円です。3回乗れば元が取れますのでお勧めです。
 当日券は車内販売しています。営業所で売っている前売り一日乗車券はスクラッチ式で任意の日に使えます。
 豪気な方は貸し切りもできます。一般は片道
13,820円です。

 都電荒川線は三ノ輪橋から早稲田まで全長12.21キロを約48分で日中は5〜6分間隔で走っています。
(平成13年3月1日より新駅の開設に伴い三ノ輪橋〜早稲田間約50分での運行に変更)

6000型
車両数:1両(イベント専用)
高さ;3.7m

幅;2.2m
長さ;12.3mm
重さ;16.4トン
定員;96人(座席22人)
モータ;一両に60kwが2個
線路の幅;1,372mm

最高速度;40.0km
7000型
車両数;25両
高さ;3.7m

幅;2.2m
長さ;12.3m
重さ;16.5トン
定員;96人(座席24人)
モータ;一両に60kwが2個
線路の幅;1,372mm

最高速度;40.0km
7500型
車両数
14両(内1両イベント専用)
高さ
;3.9m
;2.2mm
長さ;12.3mm
重さ16.5トン
定員
96人(座席22人)
モータ;一両に60kwが2個
線路の幅
;1,372mm
最高速度;40.0km
8500型
車両数;5両
高さ
;3.8m
;2.2m
長さ;13.0m
重さ18.5トン
定員
64人(座席26人)
モータ;一両に60kwが2個
線路の幅
;1,372mm
最高速度;40.0km

都電荒川線資料より

路面電車の日

 6月10日は「路面電車の日」だそうで、6(ろく)10(てん)の語呂合わせで「路電」にちなんで定められた。全国でも数少なくなった路面電車、東京では「荒川線」が唯一、今でも残っていて一日平均乗客数は約5万6千人だが、同線の人気は貸切で、昨年は250本が運行され、内、50本は映画やCMの撮影があり、有名人に出会える穴場スポットらしい。かっては全盛期には、都内で41路線が道路の真中や専用道路を闊歩していた事もあった。






     
            三ノ輪橋                            西ケ原

                          向原付近

あらかわ遊園 

 都電荒川線「荒川遊園地前」(日曜・祝日には日暮里・南千住より無料送迎バス有り)
 開園時間=am9:00pm17:00(夏休みpm18:00)・休園日=月曜日(7、8除・入園料・大人(高校生以上130円

           一球さん

 都交通局は、平成15年3月26日「一球さん」の愛称で親しまれてきた都電荒川線のレトロ車両「6152号車」を荒川区に譲渡することを決めた。同区は区立荒川遊園内に車両を移設し、来園者に公開する。 
 「一球さん」は、死傷事故を起した京福電鉄の車両とブレーキ構造が似ているため、一昨年12月から運休となっていた。修理に多額の費用がかかることから廃車が決まったが、処分を惜しむ鉄道ファンの声を受け、都が譲渡先を公募していた。
 都によると、荒川区や米国の博物館、私立幼稚園などから計7件の応募があったが、公共性や地域性を考慮し、地元の荒川区を選んだという。車体は無料だが、運搬、移設費用は同区が負担する。
 同区は「新たな観光資源として譲り受けることにした。夏休みに間に合うよう移設したい」という。

 乗り物などの規模は浅草の花屋敷よりも小さいが、緑が多い。
ローラーコースター・観覧車・足こぎモノレール・ミニ汽車などの乗り物は、大人が200円、子供
(2歳〜中学生)は100円。 園内には動物園や釣り堀(別料金)もある。 4〜10歳の子供ならポニーに乗れる(1日3回、先着20人で整理券が必要)

 都電停留所から入り口までの道には子供向けの駄菓子屋などがある。「こどもの家・きくや」ではもんじゃ焼き
(300円から)が食べられる


 あらかわ遊園の裏、水上バス乗り場近くの隅田川の手摺りにメロディー鉄琴がはめ込まれている。「花」のフルコーラス16小節、音符57個分の鉄琴が順に並べられている。

 所々の鉄琴が抜けていた。 「誰かが壊したのでは
...」と思ったのは早合点で、休符の部分を開けた親切設計だった。 左から順に叩けば、誰でも「花」のメロディーを正確に奏でられる。適当な太さの棒を忘れずに持って行こう。 ネジ回しの杖で叩くのも良いかもしれない。

 季節が春ならば最高だが、とにかく隅田川を眺めながら、♪春のうららの隅田川
...♪と奏でるのは、何とも言えない気持良さだ。この場所へは、あらかわ遊園の周りを迂回して行ける。 あらかわ遊園に入園した後で、裏口から川岸に出た場合でも再入園できるようだ。 出る時には出口で係員に確認した方が良い。

北とぴあ JR京浜東北線・地下鉄南北線「王子」駅前

 
JR京浜東北線「王子」 駅前の歩道橋が造られるようになったのは、1962〜63年頃だったろうか。当時の都知事・東龍太郎が、東京の前にオリンピックを開いたローマに行った際、歩道橋を見て、いたく感心した。 おりしも東京では、オリンピック(64年)に向け高速道路建設や道路拡張が進められていた。 しかし環七通りの新規開通部分では、歩行者が横断する時の死亡事故が多発した。 歩道橋は、歩行者事故対策の決め手として次々に作られることになった。

 王子駅前にも歩道橋がある。 横断歩道はない。 歩道橋下には自転車用の信号と横断レーンがある。
しかし、渡っているの自転車より歩行者の方が遙かに多い。 階段を登るのが辛い年輩者だけではなく、高校生などの若い人も多い。 と言うよりは、歩道橋を使う歩行者は殆どいない。

交差点脇には交番があり、お巡りさんがたっているが、とくに歩行者を注意する様子もない。 歩道橋が歩行者に優しくないのは、誰もが認める事実だろう。

 「北(ほく)とぴあ」は、大小のホール、結婚式場、プラネタリウムなどのある総合施設。 最上階の17階には、北・東・南に面した展望ロビー
(無料)と、西に面したレストラン(しゃぶしゃぶ・鉄板焼)がある。

 北展望ロビーからは赤羽・川口方面が見渡せ、見晴らしの良い日であれば赤城山・日光男体山・秩父連山が眺められる。

 東ロビーからは隅田川・荒川放水路などの下町方面が見渡せ、天気が良ければ筑波山も見られる。

 南ロビーからは都心
(文京・池袋・新宿)方面が見渡せ、東京ドーム・サンシャイン60・新宿副都心などを眺めることが出来る。 桜の咲く季節であれば、ピンクの絨毯の様に広がる飛鳥山の見事な桜を眼下に見られる。

本物のSL

 また、北区の飛鳥山公園には本物のSLが、都電の車両と共に置いてある。飛鳥山は江戸時代から桜の名所として知られている。一時は野球グランドを作るために桜の木が切られ、春には砂埃が舞い上がっていた。しかしその後にまた桜が植えられ、きれいな公園として整備された。 今は桜の名所として江戸時代の賑わいが復活している。

 桜の名所飛鳥山公園の隣に、旧渋沢邸庭園がある。 たまたま通りかかったら、入園無料と書いてあったので入ってみた。 この庭園の開園時間は9:00〜16:00で、休園日は年末年始。

 1887(明治11)年に、渋沢栄一の接待用別邸として建てられた旧渋沢庭園は「曖依村荘(あいいそんそう)」とも呼ばれ、1901(明治34)年から栄一が亡くなるまで本邸として使われた。 

本館や庵など大部分の建物は空襲により消失し、広大な敷地の多くの部分が飛鳥山公園の一部になっている。現在残っているのは「青淵(せいえん)文庫」と「晩香廬(ばんこうろ)」の2軒の建物だけ。

 お客の接待に使っていた晩香廬は、暖炉・机・椅子を備えた和風茶室。内部にはいることは出来ないが、窓から室内を見ることが出来る。 この写真は、暖炉のある談話室を窓の外から撮した。

 
それにしても、渋沢栄一とは、どういう人物だったのか。 この庭園を歩き回っているだけでは分からない。 栄一に関する資料などを展示した「渋沢資料館」が、飛鳥山公園内に「紙の博物館」・「北区飛鳥山博物館」と並んで建てられている。

 入館料は大人300円・小中高150円、3館に入館できる共通券は大人720円・小中高320円。渋沢資料館の開館時間は10:00〜17:00、休館日は月曜日・年末年始。

JR「王子」駅より徒歩5分、地下鉄「西ヶ原」駅より徒歩9分、都電「飛鳥山」停留所から徒歩4分。

 板橋区の城北公園内にある城北交通公園には、本物の蒸気機関車がある。最も人気のあるSLのD51と、小さな蒸気機関車が置いてある。 小型機関車はいかにも古そうで(D51も古いが)、おそらく明治時代の鉄道創生期に活躍した機関車だろう。

 誰でも電車やバスの運転手になりたいと思ったことがあるだろう。 大人になっても、その気持ちは変わらず、電車運転ゲームには人気がある。
この公園では、SLの運転席に乗ることができる。 レバー1本で運転できる最新の電車とは違い、SLには圧力ゲージ・バルブ・レバーなど機器がずらり並んでいる。 D51の運転席に立つだけで圧倒される。

 交通資料館にはパノラマ模型の他に、歴代の新幹線・機関車の模型があり、日本の鉄道建設の歴史がパネルで展示されている。

 北区西ヶ原に「ゲーテ記念館」がある。 ここにゲーテの生家があったのか、そもそも北区がゲーテに縁の地であるのか、ちょっと疑問だ。

 地下鉄南北線「西ヶ原」駅から飛鳥山・王子駅に通じる本郷通りを、旧渋沢庭園の前で曲がり、ゲーテ記念館に向かう道は「ゲーテの小径」と呼ばれている。 ここをゲーテが散歩したとでも言うのか。 これも疑問だが、まァいいだろう。

 本当に気になるのは、このゲーテの小径に面した変わった家だ。 ゲーテ記念館に行くに人達も思わず足を止める。 「ゲ〜」って言ったかどうか知らぬが、みんな驚いているようだ。

 塀と家の前面は、黄色と濃い緑に塗られている。 窓には見事な零戦の画が掛かっている。 よく見れば軒先に小さな電球がぶら下がっている。 夜には電飾イルミネーションが見られるのだろうか。

 
都電荒川線が国道17号を横切る「西巣鴨三丁目」交差点、「新庚申塚」停留所脇に立っている標識。 そこには「お岩通り」と書かれている。


 



どんひゃら村豊島区西巣鴨2−1都電荒川線「庚申塚」50m

  とげ抜き地蔵(高岩寺)で有名な巣鴨商店街を板橋方向に800mほど行った所に、都電荒川線の停留所「庚申塚」がある。

 停留所の名前の由来になっている庚申塚は、停留所から巣鴨商店街に向かって100mほどの交差点の角にある。そもそも庚申とは...庚申の夜に眠ると、三尸(さんし)の虫が体内からぬけ出し、その人の罪科を天帝に告げ口するため、その夜は眠らず三尸の昇天を阻む行事が室町時代に中国から日本に伝わった。

中山道

 江戸時代には、各地に庚申講が組織され、庚申の夜には酒を飲みながら夜明けまで宴を催す「庚申待ち」が盛んに行われた。 この庚申待ちの神祭を奉った塚が庚申塚だ。

 ここ巣鴨の庚申塚も、江戸時代には茶屋などが並びあり、中山道を旅する人達の休息所として賑わったという。祭神としては、仏教では青面金剛を、神道では猿田彦を祀る。 ここに祀られている猿田彦大神は、明治時代に地元の有志が千葉県銚子から猿田神社から分祀した。

 神社の入り口には狛犬がいる。 稲荷神社ならば狐がいる。 ここには赤いずきんをかぶった猿がいる。 猿が鎮座する台座には三猿(見ざる・聞かざる・言わざる)が彫られている。

 この停留所の手前にあるのが駄菓子屋「どんひゃらむら」で、大きな足の突き出した看板が目印。大人にとっては懐かしい、子供にとっては楽しい、お菓子や玩具が店内一杯に並べられている。
値段は10円、20円、30円...高い物でもせいぜい100円くらいだ。100円玉と5円玉(消費税)があれば、袋一杯のお菓子が買える。

 江戸時代の五街道のひとつであった中山道は、江戸と京都を結ぶ145里
(約570Km)の街道で、途中には69の宿場(板橋は最初の宿場)が設けられていた。それでは、書き方は「中山道」「中仙道」「仲仙道」のうち、どれが正しいのだろうか?

 調査してみると、実は意外と古くに決められていたことが分かった。 徳川幕府は、正徳6年
(1716)4月に「五幾七道之中に東山道、山陰道、山陽道いずれも山の字をセンと読み申し候。東山道の内の中筋の道に候故に、古来より中山道と申事に候」との触書を出した。

 つまり、読み方は「ナカセンドウ」で、書き方は「中山道」が正しい
...ということになるらしい。ところが、この法令は徹底せず、今でも表記方法がバラバラとなっている。

 そこで、巣鴨から志村に至るまでの「旧中山道」沿いに、「ナカセンドウ」の表記方法を調べてみた。

1.中山道

 旧中山道にある道路名、信号機に付いている交差点名、国道にある道路名は中山道となっている。国土交通省が管理する国道17号の歩道橋や道路案内板も中山道だ。

2.中仙道


 JR板橋駅前にある「いたばしの史跡観光案内」に載っている地図
()には「旧中仙道」と書かれている。志村付近の国道17号に面した空き地には、レンタカー会社の移転案内板(上)があった。 その地図(下)には中仙道と書かれている。旧中山道の板橋の下を流れる石神井川。 その川沿いには遊歩道があるが、国道17号で分断されている。 橋のたもとには注意書きがある。

3.仲仙道

 巣鴨商店街の外れ、都電の停車場近くにある庚申塚の石塔には仲仙道と書かれている。旧中山道とJR埼京線が交差する踏切は仲仙道となっている。 群馬県内のJR踏切では中仙道の表記も使われいる…との情報もある。

一里塚

 江戸時代の五街道には、日本橋から1里(4km)ごとに「一里塚」が作られた。

板橋区志村1丁目

 三田線「志村坂上」より巣鴨方面に約
100m
一里塚は道の両側に作られていたが、ここは中山道(国道17号)を挟んだ両脇に1対の一里塚が残されている。 (道路拡張の際に塚を守るため?)歩道が裏側を迂回するように作られている。

北区西ヶ原2丁目
 南北線「西ヶ原」より飛鳥山方面に約
100m、どいういう経緯かは分からないが、ここは本郷通りの真ん中に一里塚が残されており、両側を自動車が通っている。

雑司ヶ谷鬼子母神 豊島区雑司が谷1ー15 鬼子母神前より徒歩3分

 
インドの鬼神「鬼子母神」は千人もの子供がありながら、他人の子供を殺して食べていた。仏は最愛の末子「愛奴」を隠してこれを戒めた。仏に帰依した鬼子母神は求児・安産・育児の神として信仰されている。

 境内にある売店は駄菓子屋の雰囲気で、ススキで作った名物の「みみずく人形」を売っている









板橋
 2001年9月29日の午後に板橋駅前を歩いていたら「中山道・新・板橋宿エリア・統一イベントデー」の横断幕が目に入った。 中仙道の開闢
(かいびゃく)400年に「あと1年」だそうで、板橋宿に沿った商店街では色々なイベントが行われた。
 ここで歴史的な疑問が起きた。 399年前の中山道開通式でテープをカットしたのは、徳川の何代将軍だったのだろうか? いや、それより前に、中山道と青森はどんな関係があるのだろうか?
 そんな疑問はさておいて、生まれて初めての「ねぶた祭り」を見物することにし、運行が始まる夜6時まで、駅前の公園で津軽三味線を聞いて時間を過ごした。
 昼間に、明るい所で見ると単なる紙の張ボテなのだが…夜になり、電飾が点灯すると色鮮やかな「ねぶた」に変身する。本物のねぶたを見ようという人達で、板橋駅前商店街が始まって以来の人出で力強い太鼓の響き、哀愁を帯びた笛の音色、そして公募で集まったハネト達が「ラッセー、ラッセー」の威勢の良い掛け声で飛び跳ねていた。

 仲宿商店街では、これまた中山道に因んだ徳島の阿波踊りが行われた。 しかし駅前公園で無料配布された










 

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