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映画「再生の朝に」(2009・中国)
この作品は中国映画界で今注目を集めている実力派、劉杰(リウ・ジエ)監督が死刑制度や臓器売買を題材に作り上げた、検閲制度の存在する中国では珍しい社会派のヒューマンドラマである。
舞台は1997年の中国・河北省?州市。主人公は市の裁判所に務めるベテラン裁判官のティエン(ニー・ダーホン)である。彼は娘を盗難車によるひき逃げ事故で亡くし、以来塞ぎ込むようになった妻と共に無気力に暮らしていた。そんなある日、彼のもとに青年が車を二台盗んだという事件が回されてくる。当時の刑法の規定では3万元以上の窃盗は死刑に処すことになっていた。罪状・量刑を決める裁判所内部の裁判委員会で若手の部下が、公表された新刑法では窃盗に死刑を科すには厳格な基準によるべきだと主張する。また物価の上昇で、3万元の価値も現刑法が整備された10年前に比べ極刑を適用するほどの重大さは無くなっているとの指摘も上がる。しかし法に従い粛々と仕事を進めてきたティエンは、新刑法はまだ施行されていないのでその青年には現行刑法に忠実に従い、死刑を言い渡すべきだと主張し、結局青年には死刑判決が下るのだった。
青年は死刑判決に絶望し、刑の減軽を求め上訴中に腎臓の移植提供を申し出るという予想外の行動に出る。彼の腎臓は腎臓病に苦しむ地元企業の社長のものと適合し、社長の弁護士が裁判所に移植実現を求めてやってくる。しかしティエンはここでも法に忠実に、移植を認めようとする裁判所長に対し、法にそうした行動を認める規定はない、と待ったをかけた。地元有力者でもある社長からの圧力にも屈さず、あくまで法に忠実であり続けようとするティエン。彼は父を殴り殺された友人の「犯人を死刑にしてほしい」という仇討の願いも、「そうした事案で法は死刑にできない」と聞き入れない。
そんな頑なな主人公が物語中盤に転機を迎える。娘が亡くなって以来、妻の唯一の心の支えである飼い犬が警察によって取り締まられようとする時、初めて法を無視し、体を張って犬を救うのだ。この行動によりティエンの心にはある変化が生じる。
その後上訴が棄却され、青年の死刑判決が確定する。なんとしても青年から臓器移植を受けたい社長は、弁護士を使って青年の家族に金を掴ませようとし、それが失敗するや青年自身に「死刑になった時にできる最後の孝行だ」と遺族への10万元支払いを条件に移植を承諾させる。死刑囚からの臓器移植を認めた最高裁の措置を盾に、青年の死と移植の準備は着々と進められていく。
いよいよ刑の執行当日。刑場に向かう車の中でティエンは気づく。それは死刑を厳格にした新刑法が、刑の執行日である今日には有効になっていること、そして青年に最終的な判決を言い渡したのがその執行当日であるため、彼は新刑法の適用を受けうるのだということに。多くの民警が動員され、立ち入りの規制された河原で死刑執行の準備が着々と進められる。意を決したティエンは、判決言い渡しが刑の基準日であり、彼の場合は刑が軽くなるのだからこの執行は中止すべきである、少なくともいったん上級機関への照会を、と同行した副所長に詰め寄る。副所長は執行中止など前代未聞だと体面を気にしてそのまま銃殺刑の準備をさせる。傍では死刑囚の体を臓器摘出のために運ぶ病院の車も待機していた。そして死刑執行人がいよいよ銃を構えたその時、ティエンはとうとう執行人に駆け寄り、実力で刑の執行を中止させるのだった…。
この映画はほぼすべてのシーンがロケで撮影されたという。そのため普段では目にすることのできない中国の刑務所内や裁判所の様子をよく知ることができる。実際の受刑者がエキストラとして参加しているそうで、そのおかげか真に迫る映像が撮れていた。以下では日本で教育を受けている法曹志望者の観点から、気になったシーンをいくつか挙げていきたい。
まず死刑判決を受けた青年が足枷を嵌められている描写があった。従って彼が歩く時の映像には鎖が床とこすれ合う寒々しい音が響くのだが、20世紀も終わり近くになって、こういった道具をまだ使用している国があるのは驚きである。また刑務所内で密告が奨励されていて、密告の内容によっては刑が減軽されるというのもあまり聞いたことがない。犯罪の摘発には有用なのかもしれないが、無実の人間が罪に陥れられる危険が常に付きまとうのではないか、と感じた。そして捜査への不協力が量刑に反映されるという描写があった。裁判所は本来捜査の在り方をチェックするべき組織のはずなのだが、その機能を軽視して捜査機関に肩入れするかのような裁き方に日本の民主主義的な刑事訴訟法を勉強した身には強い違和感があった。さらに、作中ティエンが青年に死刑を言い渡したことについて言い訳のように使っていた言葉に「裁判委員会」がある。これはある被告人に言い渡す判決は、1人の裁判官の裁量で決まるのではなく、各裁判所に作られ複数の裁判官や副所長が参加する委員会で合議の上決められるのだとする制度である。社会主義国ならではの制度と言えるがこれは裁判官の独断や暴走を防ぐ役割を持つのだろう。しかし司法の独立の観点からすると、裁判官個人の良心が侵害される恐れも否定できない。党の圧力にこうした委員会制度がどこまで独立を保てるか、少なからず疑問を抱いた。
次にこの作品を検閲制度との関係性で捉えてみる。本作で主軸となるのは窃盗罪への死刑適用を厳格にした刑法改正である。裁判所所長が終盤近く、「我が国の刑法も人間性を重視したものに変わった」と賛美し、刑の執行を実力で止めたティエンを実質上不問に付す場面が出てくる。映画としてはこの所長の、主人公に対して厳しかったという設定がここで大きく変容してしまうため話の流れとして違和感を覚えるシーンなのだが、ここには『この作品は昔の話で、今は制度が改善されたのだ』という隠れたメッセージを垣間見ることができる。検閲を乗り切るための苦肉の策だろうか。他にも政治に関する話は全く出てこず、臓器売買の問題についても1人の有力者の悪事、という風に矮小化され、そもそも死刑制度の是非には直接触れられていない。パンフレットで監督は「中国映画の検閲の枠を押し広げたい」と語るが、未だにその検閲の壁は高いようである。近年同じように検閲制度の枠内で作られ高い評価を得た中国映画に、「戦場のレクイエム」(フォン・シャオガン監督、2007年)というのがある。こちらは人民解放軍の軍人を主人公に、中国国内では台湾との関係上ある種のタブーとされている国共内戦を題材にしたものだ。人民解放軍中隊長である主人公グー・ズーティはある戦闘で部下を全て失い、自責の念にさいなまれる。その後、自分の率いた部隊が事実に反し軍や政府内部で不名誉な扱いを受けていると知った彼は、部下らの名誉回復を志し思い切った行動を取る、という筋書きなのだが、官僚や軍上層部の冷淡さや保身ぶりがきちんと描かれ、中華民国軍の扱われ方も偏見がなかったので観賞して驚いた記憶がある。「戦場のレクイエム」がここまで描けた背景には、人民解放軍という大きな権力を物語に取りこんだおかげではないかと感じた。また1989年に実際に起きた国有林盗伐事件を題材に、政治や社会の矛盾を書き中国国内で話題となった本、張平(ジャン・ピィン)著の「凶犯」(2001年、群衆出版社刊。日本では荒岡啓子訳で新風社文庫より刊行)でも、主人公は人民解放軍の元兵士であり、作中では軍を好意的に扱う場面が複数あった。こうした部分に今の中国の検閲制度の限界が表れているようだ。
最後にこの作品の映像作品としての面をもう少し記しておきたい。オールロケによる迫真のシーンは上に書いたとおりだが、作中からは音楽も排されていて、そのおかげで食器のぶつかる音や足音といった、出演者たちの立てる些細な音が鮮明になり臨場感溢れる映像が生まれている。この仕掛けによりまるでドキュメンタリーを見ているような気分にさせられた。「この映画は、私にとって一つの賭けでした。最初の十数分は非常にテンポがゆっくりの静かな画面にし、それによって観客を強制的に静かな世界に引き込む。観客は静かな世界に慣れると、ほんのわずかなものによって表現されるメッセージを受け止めてくれるのです。」と監督はインタビューで語っていたが、彼の狙いは大きく成功したようである。なぜなら、粛々と進む映像は途中から力強さを持って私を作中に引きずり込んだのだから。また明暗の使い分けも素晴らしかった。刑務所では特に青年の心情がその光と影の使い分けによりよく表現されていたように思える。こうした芸術面でのレベルの高さが、この作品を単なる社会派に終わらせず、さらなる高みへ導いたのだろう。
検閲という制約と戦いつつも、映画それ自体の持つ「映像としての価値」を忘れなかった監督の努力には本当に頭が下がる。劉杰監督は本作の前に、雲南省の山奥の村々を馬に乗り巡回する裁判官たちを扱った作品「馬背上的法庭(馬上の法廷)」(日本未公開)を撮っているのだが、こちらも機会があればぜひ観賞したいものである。
おわり
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