このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

南九州訪問記(2009・2・4〜9)鹿児島編

2月7日(土)
今日は最後の主目的地、鹿児島へと向かう日である。朝7:29の特急「きりしま」3号に乗るべく、我々は6:50には起床し、ロビーに降りた。昨日より早起きである。東横インの朝食は朝7時からで、これが駅前でなければ朝食をあきらめるところであったが、我らがIの「間に合うだろう(間に合わせる!)」という言葉を信じおにぎりとみそ汁を食べた。
その言葉通り出発5分前にはホームに上がれたのだから大したものである。ちゃんと宮崎日日新聞を買う余裕もあった。ちなみに宮崎は鹿児島の勢力圏らしく、南九州新聞も売られていたが。

↑この日は国鉄色車両が充当されており、喜ぶ同業者の姿があった。

↑宮崎駅は高架で、非常に近代的でデザインもよかった。今度はゆっくり訪れたいものである。
自由席はそこそこの埋まり具合であったが、今回も一ボックスを二人でゆったり占拠することに成功した。土曜の朝なだけにスーツ姿のビジネスっぽい客や、家族づれ、カップルなど客層は様々だったが、場違いなことに中一くらいの女の子が乗り込んできてから発車。どんな遠距離通学だろうか…と見ていたら南宮崎で下車していった。このときは不正乗車とばかり思っていたが、後に宮崎〜南宮崎間は特急も普通列車の扱いで運転していると知り、なるほど規模の小さい都市部の効率的な輸送形態だと合点がいった。
しかし朝早くから列車に乗ることは何だか気分がいい。普段しないから余計だろう。朝日のさすシラス台地を横目に、朝刊を読みつつリクライニングシートでまったりと…。しかし山間部に入ると霧が出てきて、途中区間では外がほとんど見えないくらいになった。さすが「霧島」と名が付いている(?)だけのことはある。乗客は都城や国分、隼人などで若干の入れ替わりがあったほかは、終点まで乗りとおした。鹿児島市に入ると俄かに都市圏鉄道の雰囲気が。国鉄時代の色を濃く残す鹿児島駅を過ぎ、9:43、新幹線の高架橋もまぶしい近代的な鹿児島中央に到着。
鹿児島は本格的に暖かかった。我々は荷物とコートををコインロッカーに預け、真冬にしては身軽な格好で本土最南端の路面電車の乗りつぶしに向かう。駅の案内所で手に入れた鹿児島市電の一日乗車券は、熊本のものとよく似た、使用日を削って使うスクラッチ式であった。

↑駅前の停留所。鹿児島中央駅はなぜか観覧車があった。↑緑化事業の一環で、路面に芝生が植えてある。

↑車両                         ↑市街地を走る
最初に一番遠い谷山を目指す。駅前から直通はしていないようで、途中の郡元で乗り換える必要があった。
←乗り換える客は多くなかった。
次の涙橋からは、ずっと路面だった熊本市電と異なり専用軌道上を走るようになった。
南鹿児島でJRの駅と接続していた。客は各駅でぽつぽつ降りる。鹿児島中央から30分ほどで終着、谷山。

立派な駅舎である。谷山はJR指宿枕崎線の駅もある。もっとも本数は少ないが。
市電の駅とJRの駅は離れているようであった。
折り返しの列車に乗り、今度は鹿児島駅前を目指す。都心部に向けての列車のほうが混雑するようで、途中の天文館通りまではちょっとしたラッシュ状態であった。

↑鹿児島駅電停。                   ↑屋根も付いていて思いのほか立派だった。
JRの駅は新幹線さえ来ている鹿児島中央(旧西鹿児島)駅がもはや中心であるが、本家本元の鹿児島駅はこちらである。特急も停車し有人駅であるのがその名残だろうか。

↑鹿児島駅駅舎                   ↑改札。閑散としていた。
これで天文館の付近を残して完乗を果たしたことになった。少し観光でもしようかと、市電で市役所前までもどる。

↑風格ある市役所                  ↑裁判所は建て替えられたばかり。隣の検察・法務合同庁舎の古さが際立っていた

↑旧鹿児島県庁舎                  ↑西南戦争時の弾痕が残っていた…
県庁は数年前に県警とともにこの官庁街から港のほうに移ったようで、薩摩の威厳が感じられる旧庁舎の一部が資料館として残されていた。
官庁街というのは城の近くにたいていあるが、ここも例外ではなく鶴丸城のすぐ近くにあった。その鶴丸城には黎明館という歴史資料館があり、歴史好きの私とIは迷わず入館。昼も過ぎ少々空腹だったが、隼人族の盾や島津家の興り、戦国時代の話に幕末、、戦前の鹿児島市など見ていて飽きることがなく、二時間以上もここで時間を費やすこととなった。貧しい時代には、学者が食費を浮かして本代にそれを充てたという話をどこかで聞いたことがあったが、知的好奇心が食欲を上回るというのをここで初めて実感した。
一般人とは少々ピントのずれた観光を終え、遅い昼食へ。大学で同じサークルに鹿児島出身の友人がいたので、彼に事前に聞いておいた一押しの鹿児島ラーメン屋に向かう。市電で二つ、いづろ通電停下車。

↑電停前にあった百貨店、山形屋。戦前からの建物らしく、レトロであった。↑しかし鹿児島は市電がよく似合う。
昼時を過ぎていたからか、行列などはなかった。しかし店内に入ると席はかなり埋まっていた。

↑ラ−メン「ふくまん」                 ↑豚骨系。だけどあっさりしていておいしい。
今回の旅では食に恵まれたようだ。このラーメンも鹿児島中のラーメンを食べ歩いたというその友人に聞いただけあって。大当たりであった。ちなみに鹿児島ではラーメンとともに漬物が出てくるのが風習らしく、ここでも胡瓜と大根の漬物が出てきた。これがまたラーメンときちんと調和していた。
遅い昼食を終えた我々は、今夜の宿泊地である指宿に向かうべく中央駅に戻る。
1540発のなのはなDX7号は帰宅する学生なども乗っておりそこそこ混んでいた。また車内は二月とも思えぬ陽気で、直前に温かいお茶を買った私は後悔した。一時間弱で指宿着。

↑指宿駅にて
すぐに接続する枕崎行に乗り込む。こちらは先ほどまでと違い旧態依然としたキハ40である。指宿枕崎線は、山川で系統が寸断されており、この列車を逃すと2時間は間があく。そして一本前にのるとなると、3時間前の列車に乗る必要がある、という具合の閑散ぶりで、この区間を優先して今日の行動予定は立てられたといっても過言ではない。

↑山川駅。日本最南端の「有人駅」として売り出されていた。↑途中区間では開聞岳がよく見える。

↑枕崎駅。1809着。                ↑駅前。
枕崎駅に着いた時にはまだ陽はあった。さすがは南九州である。枕崎の駅付近は意外にも(と言っては失礼かもしれないが)栄えていた。人口2万3千の市である。駅前のスーパー(ここもCOOPだった)でせわしなく買い物し、折り返しの列車で指宿まで戻った。
←途中で通った日本最南端の駅。
指宿駅からはまずタクシーで公営の浴場へ。有名な砂蒸し風呂を堪能するためである。閉館間際に入ったためか、客はほとんどおらず、独占状態で楽しめた。砂風呂自体は砂浜にあり、温泉の蒸気で熱せられた砂を浴衣の上からかけるというものである。手持無沙汰だったような砂かけの係員は容赦なく砂で体を埋めてきた。熱に弱い私は十分と経たずにギブアップしたが、Iはまだ入れそうであった。
砂蒸し風呂のあとは砂を落としてから普通の浴場に入った。温泉を出たのは夜も九時過ぎであった。
さて、晩御飯をどうしようか。温泉のカウンターで聞いたら「飲み屋ならあるんですが…」とのこと。仕方なく我々はとりあえず駅の方向を目指し歩く。車もなく、人通りもほとんどない指宿の町を大荷物抱えて歩く二人の姿はかなり不審であっただろう。幸い歩いて十分くらいで個人商店に毛の生えたようなコンビニを見つけ、ほか弁を仕入れた。しかしここからが大変であった。予約してあるホテルに向かおうと、タクシーを止めようとするのだが、みんな停まってくれない。両手を振ってアピールしても無しのつぶてである。十五分くらいしてようやく一台捕まえ、ホテルに向かった。着いた時はへとへとであった。

つづく?  戻る

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください