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日本のいちばん長い日(2015:日本)

【あらすじ】
 
戦後70年を迎える今、伝えたい。 日本の未来を信じた人々、 その知られざる運命の8月15日—。 終戦70年という節目に、日本を代表する豪華キャストを迎え、原田眞人監督が新たなる映画化に挑む超大作。 昭和史の大家・半藤一利の傑作ノンフィクションを完全映画化。2015年8月8日(土)全国公開!(公式twitterより)

【感想】
 この映画は1967年に公開された岡本喜八監督「日本のいちばん長い日」のリメイクである。
筆者は先に喜八版の方を観ており、最初このリメイクの方は観に行くつもりが無かったのだが、一緒に喜八版を観た友人Iに誘われ、反ソデーから4日後の8月11日、難波で観賞した。


 リメイク元が傑作だと、どうしても新版が低評価にならざるを得ない。ゆえに喜八版との比較は抑えつつ、この作品独自の良いところと悪いところをつらつらと書こうと思う。

 まず観終えて思ったのが、阿南陸相、鈴木貫太郎首相、昭和天皇の3人がやたらと美化して描かれているな、というところである。
 昭和天皇はそもそも喜八版にあまり出てこないので、陛下を出す時点で作風を大幅に変えることにしたのだろう。いわゆる菊タブーがあるところ、出したことについては評価したいが、自分の決断で始めた戦争で多くの犠牲が出てしまい、その戦争を終わらせるのだというのに葛藤が一切見られなかったので、描き方についてもう少し人間味が欲しかったところである。
よもや人間宣言前の現人神ゆえああいった聖人君子描写であるはずはなかろうな…?
 阿南陸相についても、家庭を愛する一面を見せていて、また終戦を望む穏やかな軍人のように書かれているので、最後に切腹して果てる部分との釣り合いがどうも取れない。凄味が足りないと言ってしまうと演じている役所広司は頑張っているので申し訳ないのだが、やはりこれも美しく描きすぎたゆえの不整合だろうか。
 鈴木貫太郎首相はスーパーおじいちゃんみたいになっている。2・26事件を生き延びているのでスーパーおじいちゃんであるのは確かにその通りかもしれないが、原爆が落ち、ソ連が参戦しても動揺することなく終戦工作を進めている姿に「こんなことならもっと早く終わらせてくれなかったのか」と思ってしまう。
 戦後70年を経て、「きれいな終戦」を描きたかったのか、主要登場人物の頭の中に終戦までのスケジュールが収まっているかのようにスムーズに終戦に向けて話が進む。ゆえに宮城事件を起こす畑中少佐が、空回りしているように見えて浮いてしまっている。彼の自決にも森師団長の死も重みが無い。さらに東条英機が出てくるのだが、主要人物を美化したしわ寄せを一手に引き受けるようなポジションに堕ちてしまっていて、少しかわいそうである。一緒に見に行ったIは大西瀧治郎海軍中将が阿南との対比のせいか小物のように扱われていて非常に残念だと語っていた。(確かに車を修理しているおじさんにしか見えない場面などがある。私なんかは、そのシーンで阿南陸相にタメ口なので初見で大西瀧治郎軍令部次長殿だと気付かず「なんやこの無礼なおっさんは」と思ってしまった。)

 そうした登場人物の造詣には大きな疑問があったものの、小道具などのディテールは素晴らしかった。原田監督、クライマーズハイでも80年代後半のワープロや電話、車を集めてしっかり撮影していたし、「突入せよ!あさま山荘」でも長野県警と過激派の最初の銃撃戦シーンでちゃんと米軍お古のM1911A1を機動隊員が装備していたので、そこまで心配はしていなかったのだが、期待以上の再現だった。建物も取り壊されつつあり、現物も失われていく戦後70年でも視聴に耐えるディテールの再現はあっぱれである。軍隊経験がほぼゼロであろう近衛兵や陸軍兵も軍人らしいきびきびとした所作を見せてくれていたので、近衛師団出動シーンや宮城占拠シーンは迫力が出ていた。この撮影のために旧陸軍の軍服が40着作られたそうだが、その他の小物も含めて、戦中を描く邦画にどんどん活用されてほしい。

 また、本作では製作者に当時の首脳部、いわゆるエリートたちへの憧憬があるのか、一兵卒や庶民が殆ど出てこない。取ってつけたような戦災孤児や防空壕のシーンが数分見えるのみである。阿南家でトランプをするシーンは現代チックすぎて画面から浮いているし、皆血色もよく敗戦濃厚という雰囲気がみられない。ポツダム宣言の字面をごちゃごちゃ解釈したり、返答文に手間をかけたり、終戦の詔の文でまた揉めている間にも南方や中国で兵士がどんどん死んでいるという表現が一切ないのである。喜八版には「上層部がもたもた終戦を遅らせている間にどんどん人が死んで行くのだぞ」というメッセージが込められていたのだが、本作はそれがごそっと落とされていて、ただ今は見られない戦前エリートのかっこよさを見せたいだけの作品になってしまっている。これが戦後70年に作られたというところに、危機感を覚えるのである。

おわり

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以下は内務省の検閲により不許可とされた部分である。心して読むように。

 話が横道にそれるが、近時「艦これ」というゲームが巷で大人気である。これは旧軍の艦艇を女性化(萌え絵)して戦わせるというゲームなのだが、1つの艦船には数千の兵士が乗り、それが沈むということは数千の死者が出て、本土に数千の未亡人や遺児を生むという見過ごしてはならない戦争の悲劇をまるっと省いたゲームに仕上がっている。「ゲーム」という娯楽なのだから目くじら立てるなと言う向きも多かろう。しかしそれならばなぜ実在の艦艇を素材にしたのか、それが全く解せない。この艦これブームで私の周囲は猫も杓子も提督として着任、といった具合なので大っぴらにこうした批判を開陳できず、悶々とした日々を過ごしている。夕張に行こうとして検索かけた時の絶望感凄いし、旧国名や山、川の名前が悉くあられもない姿をした美少女に置き換えられていくのがつらい。

 本作も艦これも、先の大戦での多くの犠牲から意図的に目を逸らしているように思えてならない。戦争では人が死ぬ、特に一般市民が多く犠牲になる、というのは当たり前のことのはずだが、戦争が終わって70年もたつと、戦争を経験していない国の民はそうした当たり前を忘れるようになるのだろうか。(もちろんだから戦争すべきとは全く思わないし、この国が戦後戦死者を全く出さなかったことは誇るべきで、今後もその記録を極力伸ばすべきだと思う。)

さらに余談を言えば、本作のパンフレットはネタ的に一見の価値ありである。法学徒としては用語解説部分に「天皇の意思≠国家の意思 英国式立憲君主制のジレンマ」と書いてあって頭を抱えてしまった。大日本帝国憲法がプロイセン憲法に見習った部分はどこへ…??解説者はK谷という自称歴史作家のT進講師だそうだが、これを読んでT進が地元になかったことを神に感謝した。


今夏のお薦めとしてはこれなんかより「マッドマックス 怒りのデスロード」なのでそこんところよろしく。V8!V8!

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