このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

歴史

プティト・サンチュールの歴史

パリの街を取り囲む外郭に、今では使われていない裏寂れた線路があります。
これはPetite Ceinture プティト・サンチュール(小環状鉄道)と呼ばれ、その歴史は1860年、さらに計画まで含めると1852年、ナポレオン三世の時代までさかのぼります。

元々環状線の前身として、現在の16区・17区にあたるパッシー、オートゥイユの町とサン・ラザール駅を結ぶオートゥイユ線という鉄道がありました。この地区はパリ市拡張が行われる以前から近郊の町村として重要な位置にあり、さらにパリ編入後はブルジョワが好んで住む高級住宅街となりました。そうした地理上と市民の要求から、交通手段として早くから鉄道が導入されていたのです。

そして1860年。この年はパリ市の大拡張が行われた年です。ナポレオン三世の号令のもと、当時のパリ市知事オスマン公が、パリ市を当時の12区から現在の20区までに拡張しました。
そしてその新生パリの外周部を取り囲むように新たな城壁が建造され、そのすぐ内側に環状鉄道を建設しました。これがプティト・サンチュールです。

Saint LazareからAuteuilまでのオートゥイユ線をもとに、パリの南西端Auteuil駅から反時計回りに出発するプティト・サンチュールは、東端のLa Rapée Bercyを拠点にセーヌ川を渡って右岸へ、そして右岸ではベルヴィルやビュット・ショーモンの山間を切り抜けて北部を回り、Courcelles Ceintureへ回るとオートゥイユ線に合流し、サンチュールはパリを一周します。

パリには幾つものターミナル駅があります。最初に建設されたサン・ラザール駅をはじめ、北駅、東駅、リヨン駅、オーステルリッツ駅(当時の名称はオルレアン駅)、モンパルナス駅、さらに当時はバスティーユ駅、アンヴァリッド駅、そしてオルセー駅と、全部で9つのターミナル駅がありました。これらは全て放射状にパリから郊外・地方へと延びる線ですが、これらを連絡する線としてもプティト・サンチュールは大いにその役割を果たしました。

当時のパリ市民はパリ外周部の移動にこのプティト・サンチュールを使い、パリ市内の移動はトラムおよび乗合馬車(バスの前身)や辻馬車(タクシーの前身)が主な交通手段でした。
1900年代には数千万人の利用者を抱える重要な交通手段としての環状線でしたが、同じ1900年、初の地下鉄メトロが開通、この二者は競争を始めます。
とくに旧城壁(1860年以前のパリの境界)の大通りに沿って作られたメトロ2番線と6番線(現在の呼称)により、パリはその内周部に新たにもう一つの環状線を持つことになり、これによりプティト・サンチュールの存在意義が半減しました。
その後もメトロは次々と新しい線が開通し、さらに1920年以降のモータリゼーションでバスや自家用車が登場すると、利用者は徐々にメトロや自動車へと移行して、ついに1934年プティト・サンチュールはバスに営業を移行し、貨客鉄道としては廃止されました。
貨物線としてはその後も使われましたが、第二次世界大戦中Pont du Jourの高架橋は激しく損傷を受け、環状線は途切れてしまいます。
前述の16区・17区の部分を走る旧オートゥイユ線は、その後も貨客線として細々と走り続けましたが、それも1985年には廃線となりました。
1992年まで貨物線の駅間移動として細々と使われていたようですが、それも今は走っていません。

今サンチュールは線路としてはほぼ全く使われておらず、静かに眠っています。
パリ市内にはサンチュールをまたぐ橋も多く、その上からひっそりとした線路を眺めていると、かつてそこを走ったSLの黒煙と息吹が聞こえてくるような気がします。
ごくまれに、鉄道ファン向けの特別列車がサンチュールの上を走ります。そしてそのうちのいくつかは、何と昔そのままのSLです!
さらに今パリ郊外を走るトラム(路面電車)をパリ市内に延長誘致し、サンチュールの上を走らせる計画も持ち上がっています。
将来サンチュールが再びパリ市民の足となり、活気を取り戻す日も近いかもしれません。


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