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独断と偏見                                     

過ぎし日を思えば、いくばくかの情は残っても、変えることはできぬと知る。今に身を置けば、せせこましい世界があるだけで、動くことさえままならぬ。先を思えば気が重く、行く先も どうせ決

ま っている。 そうなると、自由な世界、「文」の世界に入りたくなる。そこでは独断と偏見も許され、好きなことを、好きなように言うことができる。そしてエッセイが生まれる。

あれ?なんだかこれ、何かに似ている。  「やーめた。」    と思ったが、  マ、消さずにおくとする。   情け無いね。    この後、がんばろう。



「この世」

、「人は何のために生きるか」、と悩んで自ら命を絶った学生がいた。だが、いまどき、そんな殊勝な若者はいない。そして、さびしいことだが、いまどきの若者が、案外、正解なのかも知れない。人は自分の意思でこの世に生まれてきたわけではない。知らないうちにこの世に放り出されただけである。芥川の「河童」のように「おまえはこの世界に生まれてくるかどうか、よく考えて返事をしろ。」と尋ねられて、生まれてくるなら、「何のために」に答えはあるかも知れない。

「人はいかに生きるか」には答えがあるだろう。この世を生きていくからには、否応なしに考えざるをえない。だが、どんなに考えても、思う通りに生きられない。持っている力もしれているし、運命という流れもある。流れの中を泳ぐわけだから、あらぬ方向に流される。泳ぐに精いっぱいで「いかに生きるかなんて考えちゃいられねえ。」が、本音だろう。
いやはや、この世は住みにくい。

神が人間を作ったとする。よくまあ色々の人間を作ったものである。良い人あり、悪い人あり、強い人あり、弱い人あり。そして、そういう人間の中で生きていくのは結構しんどい。人は、良い人を愛し、悪い奴は憎む。強い人にはひれ伏し、弱い奴は蹴散らす。おおかたの人間はそんなものであり、そうしていかなければ自分が危ない。
だが、考えてみると、悪い奴とて、生まれ出る時、悪くなってやろうと思ってこの世に出てきたわけではない。クルト・レヴィンによればB=f(PxE)、行動は「資質」と「環境」の関数、ということになるが、悪い資質を望む奴はいない。まして、悪い環境を好む奴は無い。この世に放り出されたら悪い奴になるようになっていたのでは悪人も浮かばれない。だが、こう考えてはみたもの、これ、自分ながら気に入らない。聖人・聖者でない限り、悪人を愛するわけにはいかない。悪を憎むのが普通の人。強者になれないし、弱者になるのは嫌である。中間にいてもいいことはない。
やっぱり、この世は住みにくい。

この世は、案外、いい加減である。同じ電車に乗っていても「暑いから窓を開けろ」と言う奴がいれば、「寒いから閉めろ」と言う奴もいる。同じ温度も感じ方は人によって違う。色だって「昼間」見る時と「蛍光灯」の下で見るのでは違う。犬は全色盲で白黒しか認識できないと言う。とすると、犬の世界は人間の見る世界と全く違うものなのだろう。人間には見えない紫外線、赤外線を見ることのできる生物もいるという。人間が、犬の世界を笑ってはいられない。
人間だって他人の目を通して見たら、いつも見ている自分の世界と違うかもしれない。お互いの眼だって違うかもしれないのである。この世は絶対的ではない。「何か」はあるんだろうが、それは、見る者によって違っているらしい。
結局、この世は住みにくい。

「夢」

この世が住みにくい、となると、せめて夢ぐらいは「いい夢」であってほしいと思う。ところがそうはいかない。いい夢なんてめったにない。もともと夢なんて断片的で不合理なもの、意味をなさぬことが多い。小説の虚構としては夢はいい手段で、夏目漱石の「夢十夜」などは素晴らしい。だが、現実の夢はつまらないし、すぐ忘れてしまう。それはそれでいい。

ところで、昨夜は久しぶりにいい夢を見た。それで、そのあとしばらく色々と想像を広げて、もの思いにふけった。そうしながら、ふと、ものを思うことも夢と違わないなあ、という気がした。夢を見るなんていうが、実際は見るんではなくて思うものである。ただ、その思いはでたらめに近い。脳内にある記憶のようなものが、変な形で行き来するのではないか。フロイトの「夢分析」には、やや、こじつけのようなものも感じるが、脳内にある思いが出て来るという点では同意できる。
白昼夢という言葉もある。昼間、ふと、もの思いにふけることを言うんだろうが、その思いと夢は同質のものなんだろう。昼間の方が一貫性があるんで夢と同一視しないが、どうも本質的には同じもののような気がする。夢は視覚的に見るんではなく、思うもの。たとえ論理性には欠けているにしても。

「心」

脳の中にある何かが変形して「夢」となって出る、なんて思った時、脳が妙に奇怪な物体であるような気がしてきた。
アメリカでの話。
ごく真面目な男が、交通事故で頭に損傷を受け、その時点から急に凶暴になり凶悪な犯罪を繰り返すようになった。調べてみると、事故の後遺症で、脳の一部 に問題が発生していることが分かった。それで、当時、凶暴な者に使われる「ロボトミー 」という脳手術をした。男はおとなしくなったが、同時に人格変化が起こり無気力になった。その後、「ロボトミー」はあまりにも非人間的な手術ということから、禁止されるようにはなった。 脳に手が加えられると、人間は変わってしまうとは恐ろしい。
本で読んだ話である。

だが、脳が性格の形成に関係していることは確からしい。人の心が、心臓にあるなんて考えている人は、いまどきいないだろうが、「心も脳の働きの一部」 とまで言われると、少しむなしい。「頭がいい、頭が悪い」くらいは脳に由来していても仕方ない、と納得はするが。

最近、脳科学が進歩して、脳内物質の存在とその働きが明らかになってきた。分裂病、うつ病なども、
ドーパミン、セレトニン、ノルアドレナリンなどの脳内物質が関係している、と言う。それにしても、人間の心、性格、が脳内物質に左右されているとは、あまりに味気ない。精神はもう少し高い所にあってくれたら、と思いたくなる。優しさも、残酷さも、単なる「脳内物質の働き」では さすがさびしい。「ジキルとハイド」の物語が、現実味をおびてきたことも脅威である。

それにしても思うことは、人間には楽観的な人もいれば、悲観的な人もいる。楽観的な人は何があっても苦にしない。悲観的な人はすべてが苦痛である。地位、名誉、金などにギラギラした目をむけ、動物的な欲望をむき出しにする強者もいれば、そういう人間におびえる植物的な弱者もいる。幸せが心の状態とすれば、どうみても前者はいつも幸せ、後者はいつも不幸である。これも脳内物質のなせるわざとすれば、幸せに感じさせてくれる脳内物質を注入してもらいたいものである。
やれやれ、ますます「ジキルとハイド」的になってきた。

「無限」

無限とは奇妙なものである。1次元は線の世界だと言う。この線の世界が丸く、円になってつながっていると、その世界は無限である。どこまでいってもぐるぐる周って終わることは無い。2次元は面の世界である。地球儀のような平面上では、どちらを、どう行こうと、やはり限りは無い。無限だと感じられるだろう。3次元ではどうだろう。3次元とは我々の世界である。立体の世界である。ところが3次元の無限はまったくわからない。所詮、我々が3次元生物だからだろう。だが、もし、4次元生物がいたら、彼らは3次元を無限と思っている我々を笑っているかもしれない。2次元世界を無限だと思っている2次元生物を 、3次元の我々が笑っているように。

「4次元」

2次元をすぱっと切ればその断面が1次元の線、3次元の切り口は2次元の平面、そうすると4次元の切り口が3次元かも知れない。じゃ、4次元というのはどういうものなんだろう。わからない。2次元の平面世界からは3次元の立体世界は想像できない のと同様、我々3次元から4次元を想像するのは不可能である。4次元の片割れが3次元なのだろう、と勝手に想像してはみるが。
3次元に時間が加わったものが4次元という考え方もできる。ミンコフスキーの時空、アインシュタインの相対性理論なんていうのもある。だが、これ、やたらむつかしい。つい、大学での「位相幾何学」など学んでいた頃を思い出した。純数学的にN次元上で計算すれば4次元の球の体積1/2π²r⁴、確かにそうなる。だが、4次元の球なんて想像もできない。 単に数学的発想なら、5次元、10次元、26次元、何でもありである。ただ、つたない平凡人の頭では、4次元ってなんだろう、が限度である。 

ただ、こんな空想を広げることもできる。我々は3次元生物なので、3次元のものは自由に作ることも壊すこともできる。ただ、時間だけはどうすることもできない。見ることも、いじることもできない。存在することは知っていても制御不可能である。それはひょっとして2次元世界で、3次元があることを感じていても、3次元をどうにもできないのと同じだろう。だから、その2次元で、何かの拍子で上に飛び出せば、3次元空間に入ったことになる。その3次元世界を通過すると、「どこかわけのわからないところを通って、見も知らない所にでた」、ということも起こる。我々の世界でも真偽はともかく、4次元空間を通ったんじゃない?という話がある。3次元が2次元にどこかで関係しているように、4次元が3次元に微妙にからんでいるかもしれない。時間という異質とも思えるものを介して。

「時間」

3次元生物の我々は3次元のものなら自由にできる。とすると、 4次元生物は、時間を自由にできるのかもしれない。ならば、それは神のような存在である。時間を制御できるということは、即ち、不老不死ということになる。時間をいじることができないわれわれは、否応なしにトシをとり死んでいくが、時間を支配できる4次元ではそういう必然性はない。また、時間を操れば、どんな物体の中も自由に通り抜けることができる。物体は永遠にそこにあるわけではない。時間を、その物体が無い「時」に移せば、そんなことは簡単である。                                

「時」は運命を支配する。
山道を歩いていて、突然、岩が落ちてきて死んだ、というようなことはよくある。それを人は「運が悪かった」と言う。しかし、これは岩が落ちて来た「時」に、そこを歩いていたから事故は起こったのである。少しでも「時」がずれていればこの不幸な運命に遭遇することはなかったのである。
2人の男女がある時、出会い、ハッピーなゴール、っていうこともある。出会いも「時」の一致である。少しでも「時」が違っていたら、二人の出会いはありえなかったし、幸せもなかった。よくメロドラマで、ちょっとした時間の差で何度も会えない、なんていうこともある。

運命とは不思議なものだが、時が支配しているのかもしれない。運命は運命でどうにもならないものには違いないが、「時」で運命を説明すると意外に簡単に理解できる。運命の不思議さが生じるのは、われわれの支配下に無い「時」が働いているから だろう。

「確率」

車で走ると信号に出会う。青で、すいすいと調子よく行く時もあれば、運悪く、赤、赤、赤の連続ということもある。しかし、そこは、確率、「青」「赤」半々ぐらい、ということが多い。宝くじやお年玉ハガキ、これは、まあ、当たらない。ごく少数のものが大きな金を仕留めるんだから、大多数のものは泣くのが当たり前。競馬、競艇、オートレースはそれほどではないと思うんだが、儲かったという感覚はない。ならしてみても損をしている。宝くじなどと同様、最初から25%引かれているんだから当たり前と思うが、25%ばかりの引かれ方ではない。お前は下手なんだ、と言われればそれまでだが、賭けごとで身代をなくすものも多いところをみると、自分だけではないのだろう。それに、レース場に行くと、皆、損した、損した、と言っている。

ただ、長い人生を考えてみると、幸あり、不幸ありで、だいたいの人は「中」ぐらいの人生を送っているのではないのだろうか。やっぱり「確率」は正しいらしい。

「寿命」

平均寿命が長いのは確かにいいことだろう。ただ、それがどんな生き方なのか、が問題である。寝たきりで意識がなくても生きているわけだし、管に囲まれていても生きている。それで将来明るい未来が待っていればそれなりの意義はあるだろうが、本人が希望もしていないのに、ただ、生かされているだけならば首をかしげる。少なくとも私はそんな生き方はしたくない。
ドイツでの話を聞いたことがある。子供がハエを叩き落とし、ハエがばたばたと苦しがっているのを見て、「ハエが死にかかっているなら、最後まで、しっかり殺しなさい。可哀想だよ。」と、母親が言ったという。
西部劇で見たことである。可愛がっていた馬が負傷して、もう助からないと思った男は、その馬を拳銃で射殺した。それが馬に対する彼の愛情だったのである。
「Doctors」 という本を読んだことがある。数百ページの分厚い本で、しかも英文だったので、あまり正確に読んだとは言えないが、文字通り医者達の話である。その中で、ある医者が救いようのない患者の求めで死なせてやる話がでてくる。 そして、それがその医者の信念に基づくものであったのが問題になったのである。だが、私は、と言えば、そういう医者にめぐり逢いたい。安楽死が悪いこととは思っていない。生まれる時はわけもわからずこの世に出てきたが、せめて死ぬ時ぐらいは自分で決めたい。と言っても、自から命を絶つのはしんどいもの、まして苦痛を伴う死に方はきつい。穏やかに死ねるなら、単に安楽死と言うだけでなく、積極的な安楽死も肯定する。
最近の医療は生かすということでは凄まじい進歩を遂げている。一度死んだ女性を蘇生させた話が身内にある。その後、何日かは生きたが、もともと無理な病態で、地獄の苦しみの中で死んでいった。
もちろん、どんな状態でも生きたい、という人もいよう。その人のためには、科学の粋をつくして生かしてやればいい。しかし、それを強制 し、「どんな人も生かす」、という考えには賛同できない。
最近、科学の進歩は著しい。それをいいことに、人間がいい気になると、どこかでしっぺ返しを食うような気がしてならない。科学は科学であってそれ以上のものではない。神になってはいけないのである

世を処する」

「トシをとるのは悲しいことである。」 と書いて、「はて、」 と浮かぬ気持ちになる。そして書き直す。「トシをとることは利口になることである。」 「うん、この方がいい。」
振り返ってみると、今まで何と多くの失敗を重ねてきたことだろう。だが、失敗のたびに、何かしら学んできたことは確かである。経験は人を利口にするのである。
昔、パリで三人組のアラブ人に襲われた。そして、両足骨折、頭蓋骨損傷で救急病院に運ばれた。その後、つくづく考えてみると、「服装」がまずかったことに気付く。海外旅行ともなると、やっぱりいい格好をしたくなる。それがいけない。「いい服」を着た「日本人」ともなれば、やっぱりいい「カモ」である。
それ以後、旅行にでるときは、つとめて「普段着」を心がけている。そのおかげかどうか、ともかく、以後十数回、無事帰国している。
人は経験を積むにつれ、この世の処し方はうまくなる。トシをとるにつれて利口になる。
孔子のように「吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って、矩を踰えず。」 なんていうわけにはいかないが、普通人でも、トシをとれば「ああ、これからは上手に生きていけるぞ。」 ぐらいにはなる。
ところが、である。そうなった時には、皮肉なことに、もう時間がないのである。余命いくばくかの状態なのである。
ああ、やっぱり、「トシをとるのは悲しいことである。」 

「経験を、生かせる頃には、時がない。」

そう言えば、「親孝行、したい時には、親はない。」 なんていう言葉があったっけ。
だが、最近は「親孝行、したくないのに、親がいる。」 なんだそうだ。

いよいよ、 トシをとるのが悲しくなってきた。

「幸・不幸」

「 ヘレンケラーは幸せな人だ。」 なんて言ったら、「ばか者!」と、怒鳴られるだろう。ヘレンケラーは、言うまでもなく、猩紅熱の後遺症で視力と聴力を失い、その苦悩の中で、もがきながら、それでも立派な業績を残した女性である。その苦悩を思えば、幸せなんていうものでないことは確かである。それでも、あえて「幸せ」というのは、彼女は類まれな精神力を神から授けられていたからである。普通の人なら視力を失っただけで、容易に立ち直れない。いや、指一本なくしただけでも生きられない人もいるだろう。頭の毛が抜け、禿げてしまっただけで人生をめちゃくちゃにした人も ある。もちろん、それを「情けないやつ」だ、と片付けることは簡単である。しかし、そういう心を持って生まれついた弱い人、と考えると、話は別になる。どんな金持ちでもウツの人は幸せにはなりえない。どんな貧乏の中でもはつらつと生きられる人は、それだけで幸せである。人の幸、不幸をきめるものは、どういう心を持って生まれてきたかによるような気がする。最近の脳の研究によれば、躁も鬱も脳内物質の働きであり、また、様々な性格も脳の働きの一部であるらしい。そう考えると、強い精神力を持って生まれ、生きることに幸せを感じる人こそ幸せな人なのである。そいう力は、知能、運動能力と同じ能力であり、おそらく一番大切な能力なのではなかろうか。若い頃は、「箸が転んでも笑いこける」が、年をとると「何を見ても興味がわかない」ということが起こる。脳内物質の重要なものがトシと共に欠落してくるからかもしれない。また、それでなくては死ねないのだろう。よくできている、人生は。
でも、嫌だなー、トシをとって精神力が衰えることは。

「車」                                   

有料道路が無料化されて混雑しているバイパスを走行中のことである。突然、合流点近くの左の細い道から大きなトラック割りんできた。辛うじてそれをよけ、抜けることはできたが、その大型のトラックはぶーぶーと警笛を鳴らし、すぐ後ろをつけて走ってくる。よけたくても一車線。しばらく我慢して走る以外ない。幸い、普通道路への出口を見たので予定ではなかったが、そこでおりた。だが、トラックもそこを出て、そのままつけてくる。そして、信号で止まった時、トラックの運転手が降りてきて、「てめー、喧嘩を売る気か」と、怒鳴る。自分の 「大きな」トラックの言うことを聞かなかった「小さな」車に腹を立てているのである。しかし、あの場合、避けて抜け出るのが精一杯。だが、大きなトラックを見れば誰でも 言うことを聞くと思っている運転手には頭にくる出来事だったのである。だが、言うことを聞いていたらこちらが危ない。見れば、運転手は、ちゃちな、小さな男である。 虎の威を借りたちゃちな若造である。

高速道路を走っていると、追い越し車線で「軽」のすぐ後を、大きなトラックが、ぶつかりそうになるまで接近して、走っているのをよく見る。「軽なんか、どけどけ。」と、いうのである。普通、「軽」は左の走行車線に入る。強者にはかなわない。ある時、走行車線を普通に走っていた「軽」が その前を走る3ナンバーを追い越したのを見たがことがある。すると、3ナンバーは、突然、怒ったように猛烈なスピードで「軽」を追い始めた。「軽」のくせに生意気だ、というのであろう。普通「軽」は「すみません」とばかり、左に逃げるが、時として、「軽」が猛烈なスピードでそのまま逃げ切る時がある。すると、大変である。猛烈なスピードのまま、2台とも瞬く間に視界から消えていく。「軽」が走り続けたのも、ひょっとしたら劣等感の裏返しかもしれない。

だが考えてみると、トラックも軽も3ナンバーも、言ってみれば「かぶりもの」である。本人の実態ではない。よく、車に乗ると人が変わるというが、車を自分だと錯覚するからだろう。車に応じて、強くなったり、偉くなったりするのである。滑稽ではあるが、恐ろしいことで もある。
だが、と、再び考える。車社会だけでなく、現実社会でも、こういうことは結構起こっている。地位や身分があるだけで自分は偉いと思い込んでいる人も多い。地位や身分は自分を覆っている「殻」に過ぎないのに、 中身だと勘違いしているのである。おかげで世の中、住みにくくなる。

「酒」                                   

酒を飲むと気が軽くなる。少なくとも心の中にあるウツ的傾向がなくなる。そして、そんな時、普通の人は、酒を飲まなくてもこのくらいの気分でいるのではないかと思うと、妙にうらめしくなる。しかし、酒を飲んで普通の人になったところで、酒はやがてさめる。 そして、もう一度、普通の人はいいなあ、と思う。だが、普通の人も案外、ウツをもっているかもしれない。そうでなければ酒があんなに売れる筈はない。もちろん、特別なハイを求めて飲み、 ハイから覚めて普通にもどり、後悔する人もあるだろう。酒は薬にもなり、魔物にもなるが、人間はえらいものを作ったものである。
脳内にはドーパミンという神経伝達物質(神経ホルモン)があり、そのドーパミンが快感に関係していると言う。そして、いわゆる「覚醒剤」はドーパミンを構成している一部「水酸基」 というものが欠けている分子だという。その「水酸基」が無いだけで、ドーパミンに似ていながら、依存性を生じ、脳内活動を狂わせてしまうのだそうである。また、ドーパミンが過剰に分泌されると今度は精神分裂症を引き起こすという 。最近の脳科学によれば、それほど単純でもなさそうだが、 脳内にドーパミンのような物質を「もう少し」ほしいとは思うのは私だけだろうか。

「百人一首」

百人一首なんていうものは、およそ縁のないものと思っていた。だが、たまたま触れる機会があり、たどってみると結構面白い。
「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立」
よく聞くうたで、「ああ、そう」ぐらいの知識しかなかったが、これが和泉式部の子、小式部内侍のうたと聞いて興味深かった。和泉式部は言うまでもなく、歌人として有名、また、恋多き女としても名をはせていた人である。小式部内侍もうたをよくしたが、お母さんが優れていただけに 、実は「お母さんの代作」なんだろう、 という噂も流れていた。それで、ある歌合せの前、藤原定頼という貴族が、「お母さんからお手紙は?」と聞いたのだそうである。 これは、「お母さんからのいいうたをもらって、歌合せに発表するんでしょう」という嫌味である。お母さんの和泉式部は、当時、遠く丹後の国にいたのである。それに対して、小式部内侍がとっさによんだのが「大江山いく野の道の遠ければまだふみも見ず天橋立」である。 「母のふみなんぞみていません」を、うたにして詠んだのである。内侍がとっさに詠んだそのうたのすばらしさに、 さすが、定頼も返事ができず、そそくさと逃げて行ったという。知っている人は皆知っている話だろうが、門外漢の私には面白かった。
「夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」
このいきさつも面白い。清少納言のうたである。大納言行成から「まだ、話したりない気がするので、またお会いしたい」と、いう手紙がきたのに対する返事である。
中国の故事に、函谷関という関所があり、その関所は鶏が鳴くまで開けない規則があったが、鶏の「鳴真似」にだまされ早く開けてしまった、という故事がある。それにちなんで、「鳥の空音」で開いた「函谷関」 と違って、こちら逢坂(忍び逢いの坂)の関は絶対開きません。 ダメ。
それが、 「夜をこめて鳥の空音ははかるともよに逢坂の関はゆるさじ」 なのである。
それに対して行成は「逢坂は人超えやすき関なれば鶏鳴かぬにもあけて待つとか」と、返したとか。 逢坂は「函谷関」と違って楽な「関」で、鶏が鳴かなくても開けるのではないですか、という返歌である。ふたりともやるーー!
それにしても百人一首は恋のうたが多い。おおらかな恋で、これなら昨今のような不倫騒動も起きそうもない。現代にも似ている自由恋愛の時代であるが、比べて、現代の恋愛はなんとがさつで、肉体が先行していることか。一度、「うたをよんでから でないとダメ」、という規則でも作ったら面白いと思うのだが。

「エッセー」

小説はどんなに長くてもよい。それを短くしたらあらすじになってしまって、味も素っ気も無い。しかし、短編となると、ちょっと違ってくる。ある一面をすっぱり切り取って、それだけで全体を表現するんだから難しい。短歌や俳句は字数が決まっているから、短いのは当然として、一字一句に気を使う点では短編に似ている。ただ、短いだけに、読む方も気を使ってくれて、言外の意味にまで思いをこめて読んでくれる。だから、
「古池や蛙飛び込む水の音」という芭蕉の句も、「古池」だからいい、「古池」ではだめだ、という議論さえ起こるのである。さて、エッセーであるが これが難しい。中間にある上、本来、筋のようなものはないから面白くない。長くては嫌になる。短くすれば意が足りない。まして、第三者が読めば、何かよくわからない、と言うだけで捨てられてしまう。何か意味のありそうな「短歌」なら、隠れている部分まで考えてはくれるが、エッセーでは、そうはいかない。結構一字一句に気を使うのだが、そんな苦労 も「勝手にしろ」と、投げ捨てられてしまう。それでも、エッセーを書く。自分が満足すればいいんだと。

「気」

「病は気から」と言い、「病気とは気を病むと書く」と、古来言われている。それは一面真実かも知れない。加持祈祷で病が治ると信じた昔はともかく、現在でも、気の持ちようによって、病気が治ることはあるのかもしれない。所詮、薬はひとの治癒力を助けるものに過ぎない 、となれば、なおさら、「治る」と信じたほうが治癒力が高まるだろう。「火事場の馬鹿力」と言うのもある。火事の時に、普通では持ち出せない重いミシンを持ち出したという話が残っている。 ひとは「もともと」持っている力をフルにふだんは出し切っていない。火事という急場で、ふだん使っていない力を出したんだ、と言う。脳だって、そうだ。勉強する気になれば、もっとできる。アインシュタインにもなれるんだ。
エジソンも言っているじゃないか。天才とは99%のperspiration (汗)と1%のinspiration (霊感)だと。やる気になれば何でもできる。
ほんとかな?
だが、「気」と言う奴は変な奴である。天気がよければ明るくなり、雨の日は暗くなる。ちょっと叱られれば死にたくなり、ちょっとおだてられれば天に昇ってしまう。だが、概して、良いことで嬉しくなるより、嫌な事で不快になっていることが多い。「気」とは損な奴でもある。

「雑草」

「雑草のように強く生きよ。」と、言う。だが、それは無理である。「雑草だから強く生きられるのである。」

ひとはもって生まれたものがある。それを変えることはむつかしい。肉体の能力には、差を認める奴も、心となると、「気の持ちようさ。」で、片付けてしまう。暗い顔をしていると、「君、考え方がいかんのだよ。僕を見たまえ」であり、のんびりしていると、「そのだらしない気持がいけない。僕なんか」である。気の持ち方だけで性格が変わればこんなに簡単なことはない。だが、いくら言葉を並べられ、いくら自分で努力しても、 性格を変えることはむつかしい。何かの出来事で、性格が変わった、と言う人の話を聞く。それだって、たまたま、そのひとに「もともと」そういうことに反応する力があったのだろう 。

人間のDNAも解読されるこの頃である。そして、そのDNAがいかに個々の生命に深く関わっているかを知るのである。ひとは、もって生まれた自分のDNAから逃れるのは簡単ではないのである。

「私はひょっとしてバラの花を咲かせることはできるかもしれない。だが、雑草にはなれない。」と、よく思う。 そして、その雑草になれないことをどんなに口惜しく思っている ことか。

「心理」

ひとの心理とは妙なものである。自分の身体の状況を知るために「血液」検査などを受けることがある。その前の晩など、検査の結果がよくなるように食物などにも気を使う。自分の身体の検査である。入学試験じゃあるまいし、その時よければいいっていうものではない。ありがままの身体の状態を知った方がずっといい筈である。だが、何となく、よくなるようにと考えてしまう。

新聞などでよくみることだが、スカートの中を見ようとカメラを使って、有名人が逮捕されたりする。スカートの中を見たって、見えるものの実態は海水浴場での水着姿より少ない筈である。ものは同じでも、隠しているから見たくなる、変な話である。薄いレース 衣服から透けて見える下着が、「見せますわよ」っていう下着姿より魅力的なのもそのせいかもしれない。見えるような、見えないような、が一番効果的なのである。

パンドラの箱の話は有名である。見るな、と言われてますます見たくなり、ついに箱を開け、この世に様々な悪を放ってしまったパンドラ。そんな人間の心を知って 「見るな」と、神は言ったに違いない。人間の心とは厄介なしろものである。

「思い出、そしてーー」

「思い出は美しい。」と、よく言う。ほんとだろうか。
残念ながら、何かの拍子に、頭に浮かんでくるものは、あまりいいものはない。ひとから受けた嫌なこと、しゃくなこと、そして、自分自身の失敗や悔い。どうも、いいことより、悪いことの方が、心の奥深くにわだかまっているようである。その逆のひともあるんだろうが、そのひとは幸せなひとである。

「昔はよかった。」「今の若者はーー」。こういうことを言うようになったら、トシをとった証拠だという。「なるほど。」 納得。「ああ、嫌だ。」
でも、みんなトシとるんだ。「ざまーみろ。」

何かあった時、相手を責めるか、自分を責めるか、と考えると、どうも自分を責めることが多い。自己に厳しい傾向が強いのだろう。その反対に、自分はいつも正しく、相手がいつも悪い、と思っているひともあるらしい。周りは迷惑この上ないが、本人は幸せなんだろう 、きっと。
ちょっとしゃくにさわる。

集団の中で、嫌な奴がいると、全体が嫌になる。おそらく、よいひとも沢山いて、いい集団なんだろうが、どういうわけか2,3の悪い奴がいるだけで嫌になる。そんな奴、気にならないというひともいるんだろうが、そういうひとの方が社会的には適応力がある。

相手のことを思いやるひとと、自分さえよければというひとがある。どちらの数が多いかわからないが、相手のことをあまり思わないひとは政治界や経済界に多いようだ。そんなことを感じさせる今日この頃の世相である。

「マイ アフォリズム」

「有名人の作品のように人々が注釈をつけてくれたら、私の作品だって芸術になるかもしれない」

私の「マイ アフォリズム」のたくさんの中の一つである。
学校の国語の授業などで、有名人の文学作品の読み方をやる。そして、実に、微に入り細を穿つ解説に「へー」「なるほど」とうなづく。だが、そうしながら作者がそんなことまで意識しながら書いていたら、一つの文を書くのに何日かかるだろう、と疑問に思ってしまう。おそらく作者はそんなにまで意識して文を書くのではなかろう。ただ、その道の研究者なるものがいて、きわめて好意的に読み、一字一句に意味をつけ、わからせてくれる?のである。もっとも有名作家となれば、たいして意識しないで書いて、それが自然にそういう深い意味合いになっているのかもしれない。そして、有名人にならなければ、それだけの解説をしてもらえない。
それにしても、大学入試の国語問題に対して、それを書いた作家自身がその解答を見て、「私はそんなことまで考えてはいなかった。」と、言った、という話もある。

「死、君ぐらい律儀な友はいない」 

私の「マイ、アフォリズム」の一つである。と言っても、「何、これ、平凡!」ぐらいで片付けられてしまいそうである。「死は誰にでもくるを、ちょっと格好つけて言っただけじゃん。」 なんて陰口をきかれそうである。
だが、私には「死」は文字通り「律儀な友」がぴったりだったのである。ひと時、ウツに悩まされた時期があった。ふっと「死」が頭をもたげると、「死」は、振り払っても、振り払ってもついてくるのである。まあ、「なんと律儀」に!「もう、いい加減についてくるのやめてくれよ。!」だったのである。
かといって「忠実な友」ではない。「忠実」と言っては好意がこもりすぎている。自分の気持ちとは少し離れる。「死」とは、もう少し嫌な奴である。
「律儀な奴」でもいけない。「奴」というほどそれほど突き放せない。「死」とは、嫌いながらも、何となく惹かれる「友」のようなところがあった。
だから、「律儀な友」になったのである。
ところで、こんなふうに読み取ってもらうには、やはり有名人にならなければならないだろうな。

それ以外のマイ アフォリズムを二、三.

「夢」  老人が金を大切にするのを笑ってはいけない。若者は、夢ならば、ただで得られるが、老人は、夢さえも買わなければならない。
「不公平」  世の中は不公平である。才能ある人間は、それだけで恵まれているのに、さらに賞賛という賞品まで与えられる。
「花」  花の命は短くて、苦しきことのみ多かりき。 短くて幸いである。
「平均」  平均からはずれた人間は、いつの世にも苦しまなければならない。上は芸術家から、下は冷房に悩まされる人間まで。

「アフォリズムなんて独善的で鼻持ちならない。ただ、幸いなことに、一応は考えてくれる善意の人々がいる?  ダンケ。」

私の「マイ アフォリズム」を沢山書いた後の「最後の言葉」である。 アフォリズムは、つい口に出てくる言葉だが、どうしても「独断と偏見」になりやすい。ついこんな言葉でしめくくり、言い訳したくなる。気が弱い私の最後の言い訳でもある。

「東洋と西洋」

昔のことになるが、アメリカで勉強していた時、休みを利用してあちこち案内してもらった所がある。最初に行ったのが、まず、ダム。誇らしげに彼らが説明してくれたのが、「この川は曲がりくねっていた川で、始末の悪かった。だが、技術の粋をつくしてまっすぐにして、ダムまで作ってしまった。」
確かに立派な川ができていた。だが、続いて、「ここは昔、森だったが開発して、宅地にした。」 「ここは原野を畑にした。」と、得意げに話す彼らに、何か違和感を覚えたのを覚えている。「自然を征服する」と言う言葉を、彼らがやたら使うのも気になった。
考えてみると、我々東洋人は、川が曲がっていれば、川はそのままにして、その特徴を上手に利用して生活する知恵を身につけていた。自然と共に生きる共存の精神である。自然を征服する、という傲慢さ とはなじまない生き方である。そこにあの時感じた違和感があった。
だが、最近は日本もアメリカ的になってきて、金になれば木を切り倒し住宅地にし、湾を埋めたてて利用することさえ平気でする。アメリカに習うことが進歩である、という風潮さえある。ただ、ごく、ごく最近になって、ちょっとばかりそういったことに疑問を投げかける人々が増えてきている 。

やはりアメリカにいた頃の経験である。アメリカ人の自己主張の強さにには辟易した。自分は、これこれをした。自分にはこういう良いところがある。その上、失敗しても謝らない。謝りは失敗を認めること になるからである。訴訟もやたら多い。隣のピアノの音がうるさければ、騒音計を片手に訴え出るのがアメリカ的である。
日本では、自分のやったことを誇らしげに述べれば嫌われる。自分の売り出しには謙虚である。失敗には素直に謝る。少しぐらいのうるささなら、「こちらの犬も時々吠えるから 、お互い様」、と我慢する。近所づきあいが大切である。「和」の精神である。だが、最近は変わってきた。隣の風鈴の音がうるさい、と言って殺傷沙汰がおきるくらいである。おとなしくしていれば、蹴散らかされる。自動車の教習所さえ、「事故にあっても、謝るな。」と、教える。どうもアメリカ的になることによって、世相は荒れてきたような気がしてならない。

西洋は動物的、東洋は植物的のような気がする。また、西洋が「相手を押しのけても自己を押し通す」に対して、東洋では「相手を押しのけること」に抵抗がある。それで、文化的にも生活的にも低い水準、いわば、世界の脱落者になっていた。 もちろん、貧乏の原因はそれだけではないが、「相手を押しつぶしても」という民族性があれば、今とはかなり違った状態になっていただろう。相手ことを考えていては、 金持ちにはなれない。釈尊の教え、「人間にとって一番大切なものは、人や自然をいたわる慈悲の心である。」に従っていては、資本主義社会では生き残れない。ただ、今、そ ういう国々が変わりつつある。いいことか、悪いことか。日本が早い時期に西洋的になり、中国も勢いを増してきているが、その行き着く先が資本主義のメッカ、アメリカでは、いいこととは言 えない。日本的なものが失われ、東洋が西洋化するだけなら、あまりいいことはない。
ただ、そのアメリカも、今、少しずつ変わりつつある。それが 唯一の救いである。

「宗教と科学」

宗教と言えば、キリスト教を思い浮かべる人が多いと思う。イエスの出現を境にBC.ADと歴史が分けられるくらいであるから、歴史上、キリスト教の果たした役割は大きい。もちろん、それ以前にも、紀元前6世紀頃には、旧約聖書のモーセの「十戒」を基本とするユダヤ教があったし、紀元前6世紀末には、釈尊による「慈悲」の仏教もあった。また、ムハマンドによるイスラム教が生まれたのは610年(AD)と言われ、そのコーランには旧約聖書、新約聖書との共通部分がみられる。
こうした宗教に大きな影響を与えたのは、1543年、コペルニクスが発表し、100年後にはガリレオも主張した地動説だと思う。今までの地球中心の世界観ががらりと変わり、地球は太陽系の単なる1惑星になりさがってしまったのである。地球を中心と考える宗教は、その基盤を半分以上失った筈である。そして、今、DNAの解明が進み、今度は人間そのものが単なる1生物になりさがってしまった。もちろん、19世紀にはダーウィンの進化論もあった。しかし、DNAほど露骨に人間そのものをさらけだすことはなかった。この後、宗教がどう変わって行くかわからない。ただ、人間が弱いものである以上、おそらく宗教は存在し続けるであろう。また、そうでなければ地球の将来は暗い。

「科学と社会」

18世紀から19世紀にかけて、蒸気機関などの発明により、産業革命が起こった。今、原子力、コンピュータの発展により、再び新しい産業革命が起こっているのだろう。これがどういう結果になるか、後代の学者が判断するだろうが、必ずしも明るいものばかりではないような気がする。前の産業革命にも光と影があった。確かに飛躍的な産業の進歩はあった。しかし、その影に貧富の差が生まれ、貧しい労働者は過酷な生活を強いられた。そのため労働者階級の平均寿命が15歳(工業都市 リヴァプール、1842年、エンゲルスの調査、幼児の死亡率が高かったせいもある、と言う)だったというのだから驚きである。その後、資本主義の極度の発展が独占資本を生み、さらには帝国主義呼び込み、2つの大きな戦争へともつながっていった。21世紀の現在、格差が広がり、再び、同じことが起こりつつあるが、過去の愚かな過ちを二度と犯してはならない。

「嫌な夢」

嫌な夢を見るのは嫌なものである。たかが夢じゃないか、と言う人もあろうが、後味が悪いのは誰もが経験することではなかろうか。それに目が覚めてみればたいしたものでないのに、夢の中では、なぜか、ひどくおびえたり、涙を流しているのが気になる。夢の中では、神経が異常に敏感になっているらしい。だが、と、考える。ひょっとして、そういう敏感な神経を普通の時にも持っている人があったとすれば、その人にとってこの世はさだめし住みにくいにだろうと思う。すこしのことにびくびくし、ちょっとしたことに打ちひしがれるのでは毎日がたまえらない。私個人決して図太い神経の持ち主ではない。むしろ、細い神経に悩まされている方である。だが、夢の中ほどひどくはない。それで、まあ、このくらいならよしとするか、と自分に納得させて何とか生きている。

「仕事」

仕事に追いまくられている時は、こんな仕事無ければいいと思う。だが、もし、仕事が無くなったら、どんなに不幸なことか人は悟るであろう。
1日、2日は何もしないのんびり過ごす毎日は天国である。だが、3日目あたりから退屈になり、やがて耐えられなくなる。まして、生活が絡んできたらたまらない。今、社会に職のない人がたくさんいる。これほど悪い社会はない。
一方、それほどではなく、悠々自適な生活をしている人もあろう。だが、その人でも全くやることがなかったら、これは悲劇である。何かしたいが、それをするだけの金も能力もない。ただ、いたずらに毎日が無為に過ぎて行く。これはやりきれない。やることを探せ、というのは簡単だが、やりたくないことをやっていたらやっぱり不幸である。やりたいことを自由にやれ、満足な毎日が過ごせるせる人が一番幸せな人だろう。だが、そんな人はそう多くはない。

「世に出るということ」

世に出る人物は、よきにつけあしきにつけ、それなりの能力はあったと思う。能力とは、知的、精神的、体力的に言って、という意味だがーー。ただ、それだけでは 十分ではない。運命とでもしか言いようがない何かが必要である。ナポレオンもヒットラーも世の中に彼らを生み出す素地があったからである。もっと手近な話では、野球の時代、ゴルフの時代でなければ王も長嶋も石川遼もなかっただろうし、徳川家の世継でなければ吉宗もただの人だったろう。タレントに至ってはそれこそ同じ能力をもった人間はゴマンといる。何かのきっかけで 世に出てきただけである。
運命というものはきわめて不可解なもので、説明しようがないが、能力はわかりやすい。学者には知的能力が不可欠であり、画家には画才がなければならない。サッカー選手には体力が、宗教家には妙な魔力が、そして、政治家にはタフさと金が必要である。
「とは、いってもねえ。」 なんてぼやいているのは、やっぱり平凡人の証か。情けないね。

小説家は神様である。人を殺すこともできれば、人を生かすこともできる。人を好きなところで、好きなように動かすことができる。万馬券を当てさせて、人を救うこともできれば、人を死なせることもできる。だが、万馬券が当たるなんていうことは、どんなに馬場に通いこんでも、まず、起こらない。それはレース場に行ってみればよくわかる。
殺人事件が起こる。完全犯罪!絶対にばれる。また、ばれなかったら、そんな小説は売れない。ばれるから「完全犯罪小説と称するもの」は売れるのである。妙なものである。第一、そんな犯罪を犯せるほどの知恵のある奴なら 、絶対、人は殺さない。殺すぐらい割の合わないことはないことは、知っている筈だからである 。万馬券と同様、そんな事をするのは、めったにない変人である。もっとも、そんな変人を扱うから小説なのである。普通のことだったら日記にしかならない。
だが、小説家、ってすごいな、とは思う。だが、自分だって小説家になれそうだ、と思う時もある。三文小説なんていうものを読んでいる時は、特にそうである。ただ、その程度の能力があっても 自分の小説は売れないのだろうな、とは思う。その程度の能力を持っている人間は、うやうやいて、みんな世の闇の中に消えていくのを知っているからである。だが、時に、そんな 程度の能力でも世に出る奴もいるのだから、世の中、変である。なんていっているのは、やっぱりヒガミか。これまた情けないね。

「宗教」

ホーキングの発言「神はない」「死後の世界もない」が宗教界をゆさぶっている。だが、三分の二ぐらいは肯定したくなる。
「宗教はアヘンである」はマルクスの有名な言葉である。マルクスは、「宗教は追い詰められたものの溜息である」、と言い、「人民の幻想的幸福としての宗教を廃棄することは人民の現実的幸福を要求することである」とも言っている。わかる気がする。確かに苦しい時は宗教である。そして、それに頼ることは現実からの逃避であり、それによって体制は安泰となる。宗教のような幻想を必要とするような 「状態」を廃棄することこそ必要な 時にーーー。この世は不合理で、矛盾に満ち、苦しみが多い。それをどうすることもできないところに、宗教が生まれる余地がある。色々な宗教があるが、その宗教に入った動機を みれば、追い詰められた時が多いのに気づく。
アメリカの奴隷にキリスト教が広まったのは、その方が主人に都合がよかったのかもしれない。さらに勘ぐれば、キリスト教の自殺禁止は、案外、主人にとってありがたかったのではなかろうか。奴隷に自殺されたんでは元がとれない。
だが、宗教がなくなっても、現実の状況は変わらないであろう。となれば、正義の神が必要であり、死後の世界に夢を託すことにもなる。この矛盾、どう解決したらいいんだろう。

「三大宗教」

世界の三大宗教と言えば、キリスト教、イスラム教、仏教というjことになるのだろうが、他にユダヤ教、ヒンドゥー教など沢山あってわかりにくい。ことにわかりにくいのはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の関係である。結構、 ケンカしているが、もとは同じ根をもつ宗教である。旧約聖書には、最初の人間アダムとイヴ、はじめ的存在?のアブラハム、ユダヤ教の原点的存在のモーセなどがでて くる。そして、次に新約聖書でキリストがでてくる。そこから分かれてコーランがムハマド(マホメット)によって、といった具合である。簡単にいえば、ユダヤ教は旧約聖書、キリスト教は旧約聖書と新約聖書、ムハマドはこれらを根にしたコーラン、となるんだろうが、ともかくそれらの話を読んでみるとわかりにくい。読むと言っても、ちょっとかじるといった程度だが、それでもお手上げとなる。
これらの人々が神の子かどうかは別として、また、話の信憑性は別として、偉大な力をもった人間であったことはたしか なだろう。ともかく、大きな影響力を後世に残したのだから。
仏教も少しかじってみたが、東洋人のせいか、仏教の方が分かりやすいし、身近に感じる。ただ、「ブッダ最後の旅」を読んだとき、少々退屈したから、あんまり熱心な信者ではないのかもしれない。「般若心経」は興味深かった。

この世に住んでいる限り、悩みを抱え、苦しむことは多いわけだから、宗教がなくなることはないだろう。それに、なくなったら、その時は恐ろしい。

「金持ち」

企業に「儲け」がでるのはなぜだろう。それは従業員が稼いだものを、少しずつかすり取っているからである。稼いだものを全部ペイしていたら企業は絶対もうからない。金持ちもそうである。
必ず別な人から金をかすめ取っているいるはずである。それが合法的にしろ非合法にしろ、誰かが損しなければ、金持ちにはなれない。世はそれを、損した者を、能力がないと言い、得した者は能力があると言う。ギャンブル、宝くじなどは、損得がはっきりしている。沢山の者の損の上に少数の儲ける輩がでるのである。ただ、これは単純で明白で、そのうえ、承知でやっているのだから文句は出ない。困るのは金持ちの輩である。誰が損をし、どうやって儲かったのか釈然としない。文句の言いようがない。ただ、漠然と不満が残る。いや、場合によっては富者を偉い人として尊敬したり、あやかろうしたりするひともでるんだから、この世はままならない。

「男女の仲」

世の中にジョークというものがある。こんな場合、新婚さんはジョークのいい対象となる。

新婚列車に乗った新郎、その日の夜のことを思って身もそぞろ。そこへ検札係がやってきて、「切符拝見いたします。」 すると、新郎、何をあわてたか、思わず結婚証明書を出してしまった。
検札係いわく。「それがあれば何回も乗れるでしょうが、この列車のものではありません。」

これは、まだまだかわいらしい新婚さんの話なんだが、検札係の言葉に新婦が顔を赤らめたかどうか見てみたい。次は、

新婚のベッドで、コトをすましたあと、いつものくせがでて新郎が、ウッカリ財布から金を出して新婦へ。すると新婦もウッカリ、「はいよ」と、受け取ったと言うお話。

これじゃあねー。 もっとも、新婦がおつりを渡したという更なる話もあるんだそうで、こうなれば、何をか言わんやである。

これが中年ともなると、

「おれは何人コキュ(妻を寝取られた男のこと)を作ったことだろう。」と、夫が誇らしげに言うと、妻が、「あら。わたし、一人しかコキュを作らなかったけど」と、返したという。 わかるかな、これ。

二人ともやるねえ。だが、次の話の方が深刻かも。

ある王様が片田舎へ出たとき、身なりこそ違え自分とそっくりの男に出会った。王様、いささか胸に思い当たるふしもあったので、「もしやお前の母親は、むかし宮中に出入りしたことがなかったかな?」 男はうやうやしく 答えて、「いえ、母はありません。ただ、父がお妃様の馬丁をつとめていました。」

じゃ、王様は?まさかーーー?。子供出生の秘密、知るのは女性のみ?

「政治」

ジョークも政治となると、だいぶ趣がかわる。

ジャーナリストが識者に問う。「あのう、政治家の中でだれが一番悪い奴だと思います?」
識者いわく。「それがむつかしいんじゃ。こいつが一番悪い奴だと思っていると、次にもっと悪い奴がでてくる。」

なるほど、なるほど。

ある日のこと、一人の若者が「フルシチョフは馬鹿だ、馬鹿だ。」と叫んで赤の広場を走り抜けた。その男はすぐに捕まえられ、23年の禁固刑に処せられた。3年は党書記に対する侮辱罪であり、あと20年は国家機密漏えい罪であった。

うーむ、うーむ。でもねえーーー。国家機密が、この程度で、ハッハ、ハッハ、ハ で、すませられるうちはいいのだが。

「ミーハー旅行」

トシのせいか、それとも行く所が無くなったせいか、ここしばらくミーハー旅行をしている。

その第一は東京の「お台場」。昔は、およそ行きたくない場所であった。ミーハーの代名詞みたいで、何とも気が進まない。それでもカタキに出会うような気持ちで行ってみると、ものすごい人出。さすが圧倒され た。テレビ局はあるし、遊ぶ所は多いし、人ごみに紛れ込んでしまうと、ミーハーになった気持ちにもなる。そして、まあ、いいじゃない、と妙に納得する。少々、人ごみに飽いて少し離れた所まで歩いて行くと「未来科学館」なんていう時代の最先端をいく科学の世界がある。妙な組み合わせに驚きながらも、変に満足する。何とも奇妙である。

東京といえば大阪。京都、奈良には出かける機会も多かったが、大阪は何となく肌に合わないので、めったに行っていない。じゃ、行ってみるか、と、心斎橋筋の商店街を歩く。平日というのに人、人、人。よくも暇な人が多いものだと感心。こちらもその一員なんだから他人のことはいえないが、道頓堀を見て、法善寺横丁までとなれば、こちらの方がよほどミーハー。「包丁一本、さらしに巻いて」 なんて歌がよみがえってくれば、本当の古い、古い、ミーハー。

また、東京へ出る。今度はトシヨリの原宿という「トゲヌキ地蔵」、ついでに「寅さん」の「柴又」、そして、そのまたついでに、上野動物園の「ジャイアントパンダ」。パンダ見物の ながーい、ながーい列について、一瞬だけ見て、「止まらないで、止まらないで」の声に送り出された時は、さすがミーハーも嫌になった。

そのくせ、また、東京。浅草の浅草寺からスカイツリーを見て、アメ横を見て、秋葉原の電気街を見て、丸善本社をみて、何と最後は銀ブラ。「有楽町で逢いましょう」なんて歌が聞こえてきそうで、ああやっぱりトシをとった、と自分のミーハーぶりにあきれる始末。

そして、軽井沢。軽井沢はすぐ近くの小諸まで行った時にも、ミーハーだという理由だけで、寄らずにUターンした帰った場所である。考えてみれば、軽井沢の周りはほとんど行っているのに軽井沢だけは行っていない。別に軽井沢族に特別の反感をもっていたわけではないんだが、敬遠したくなる場所ではある。上流社会の軽井沢、鹿鳴館の軽井沢、高級別荘地の軽井沢、そして今は若者がかっぽする軽井沢である。それ で何となく避けたくなる。それでも、旧軽井沢銀座を歩き、万平ホテルを見て、別荘地を通り、宿に戻った時は「ア、ソウ」。ついでだが、宿の宿泊費は「万平ホテル」の3分の1ぐらい。どうせ寝るだけなんだ、と、ふて寝。、翌日は「鬼押出し」へ。浅間山は素晴らしかった。「白糸の滝」は、「まあね」というくらい。「寅さん」が愛用したという 温泉宿は「なるほど」、そして、かの有名な上流階級の社交場「三笠ホテル」。当時としては珍しい水洗便所、高級なベッド、だが、今となっては重要文化財ぐらいにしかならないようなホテルである。とても、現在のホテルとしては通用しない。時代の変化を痛感したひと時である。鳩山さんの別荘もみたが、こちらはさすがである。鳩山通りと言う名ができた程の大きな別荘地で、鳩山さんが総理になった時、ここで沢山の人を招いて野外晩餐会を開いたそうである。 総理になるには「金」がいるなあーー。  

「人生は筋書きのないドラマ」だって?

人生は誕生で幕が開き、死でもって幕が閉まる。確かにドラマである。ただ、「筋書のない」ドラマというのにはいささか疑問がある。この世ではキャストが決められているからである。まず、生まれながら王家の息子だったり、乞食の子だったりする。金持ちの家に生まれる者もあれば、貧乏人の長屋に生まれる者もある。身体が丈夫な子もいれば、弱い子もいる。気の強い子もいれば気弱な子もいる。頭の良し悪しもあれば、美人とブスさえある。キャストはこのように決まっているのである。キャストがきまれば三分の二は筋書がきまってくる。 筋書とは脚本である。そして、その脚本とは運命というものかもしれない。運命というのは不可解な奴で、それだけに「筋書きのない」、という言葉も生まれる。ただ、運命といっても、だいたいの人間はあまり突拍子なことは起こらない。宝くじに当たって金持ちになるのはわずかである。貧乏人から成り上がって成功をおさめるのも、生 まれる時に受け取った能力のおかげである。脚本はキャストからあまりかけ離れることはできない。だから、キャストが決まっている以上、筋書もほぼきまっている。 だいたいのものは持って生まれた力なみにしか生きられない。それが証拠に、ほとんどの人間が親とたいして変わらぬ一生を送って死ぬ。だいたいドラマになるような人生を送るものなんてわずかである。だが、その「わずか」にかけて人は生きる。そして、その「わずか」もいい方を願い、悪い方は願わない。そして、そのどちらも起こるのは全体からみればわずかである。 最近、DNAの研究も進んで、個人の持つDNAによってそのひとの色々のことが決まってくるらしい。いつ頃、どんな病気にかかるかさえわかるとか。そうなると、ますます筋書は見えてくる。 筋書がみえても、やはり、人はいい方向へのドラマテイックな人生を願う。

「サルカニ合戦」  と 「棚田」

絵が下手である。だが、何とか描いてみたい。それで、ソフト「PHOTOSHOP」を使って、合成写真「サルカニ合戦」の図を作ってみた。マ、何とかできたので載せてみることにする。

 

サルカニ合戦の図に少し気を良くして、次の図を作ってみたいと考えていた。そんな時、たまたま、「大栗安の棚田」を見て、その美しさに感動した。これを幻想的に表現したらどうなるだろうか、と妙な欲を出して作ってみたのが次の図である。自分では満足しているが、他人が見たらどう思うだろうか。マ、あまり期待できないが、絵の下手な人間にとっては、絵のようなものが描けるのがともかくうれしいのである。

 

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