このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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SL北びわこ号


SL北びわこ号は、湖北地域活性化のため、沿線の各地町村がJR西日本に働きかけ、平成7年から運行されている。直流化となり、廃止が危ぶまれたが、現在も変わらぬ姿をみせてくれる。
運行区間は米原-木之本間で、下り列車のみ2本運行される。木之本から米原へは機関車に牽引されて回送される。

使用される車輌は、蒸気機関車が梅小路機関区所属のC56 160、または同機関区所属のC57 1である。だがC57 1での牽引は平成19年以降行われていない。
客車は京都総合運転所所属の12系客車5輌で、全国に13輌が残った原型12系である。また平成21年10月で宮原総合運転所に転属した。
回送時に使用する電気機関車は下関総合車両所所属のEF65形で、客車の回送と蒸気機関車の回送と木之本から米原への回送に使われる。平成19年春の運転までは蒸気機関車と木之本から米原への回送には宮原総合運転所のDD51、客車の回送には下関総合車両所のEF66を使っていた。


SL運転時にやってくる列車


C56 160

C56型蒸気機関車は、戦前から戦時中に派生形含め165輌が製造された小型テンダ機関車である。

中長距離のローカル線においては、C12型などのタンク機関車では航続距離が足らず、全線を通しで走らせるためには中間駅に水・石炭の補給設備を設けなければならなかった。そのような線区向けにC12型にテンダを取り付けた仕様の蒸気機関車としてC56型が製造された。このため、ボイラや走り装置などC12型と設計を同じくする部品が多数あり、非常に似通ったスタイルをしている。同機最大の特徴はスローピングバックテンダとよばれる斜めにカットされたテンダを持っていることにある。簡易線向けに作られた同機は、転車台の無い線区での使用を前提としており、バック運転時に後ろが見やすいように設計されている。
昭和10年から昭和14年までに1号機から160号機までの160輌が製造され、昭和16年に北海道の雄別鉄道(現・廃止)に1001号が1輌、昭和17年に樺太鉄道庁にC52型(後にC56 161〜C56 164に改番)が4輌製造され、最終的に国鉄C56型と同型の機関車は165輌製造された。

日本国鉄の160輌のうち、1号機から90号機までは、小型軽量かつある程度の長距離運行が可能であったことから、1941(昭和16)年暮れに軍部に供出された。軌間を1,000mmに変更・連結器交換・キャブ屋根煙突などの高さ縮小などの改造を行った上タイ・ビルマへと送られた。
タイに送られた車両は泰緬鉄道で使用されたが、太平洋戦争の日本軍の戦局が悪化するにつれ砲撃や地雷などで破壊されていき、また鉄道線そのものの線路状態が非常に良くなく、脱線転覆する車両も少なくなかった。これらの車両は物資不足などで修復されることもなく、戦後しばらくは使用停止されたC56型とともに廃車置場で無残な姿を晒していた。秘匿線に隠された後連合軍に線路を寸断され動かせなくなった車両、敵軍に利用されることを避けるためボイラに爆弾を詰めて爆破された車両も多数存在した。
戦後は連合軍に接収された後タイ国鉄に譲渡され、700型蒸気として使用された。番号は701号から746号、つまり戦後タイに動ける状態で生き残ったC56型は46輌だったということである。このうち元C56 31号機である725号と、元C56 44号機である735号は昭和54年6月25日に日本に帰還を果たし、725号は靖国神社で静態保存、735号は大井川鉄道(現・大井川鐵道)で動態保存されている。その後の様子は
こちら

日本国内の国鉄線には90号機から160号機までが使われ、全国各地のローカル線などで使用され、その小型軽快なスタイルから「ポニー」の愛称で親しまれた。DD16型ディーゼル機関車の登場で、昭和49年三江線貨物列車牽引を最後に現役を退いた。

C56 160号機はC56型ラストナンバー機で、昭和14年に川崎車輌(現・川崎重工)で製造され、北海道静内機関区に新製配置された。昭和47年に梅小路入りを果たし、昭和55年に北海道鉄道100周年の記念列車に充当されたのを機に各種イベントで使われ、JR西日本に引き継がれた。JR西日本管内の他、JR四国や樽見鉄道や仙台臨港鉄道などでも運用されている。

スローピングバックテンダ


C57 1

C57型蒸気機関車は、戦前から戦後にかけて派生形含め215輌が製造された旅客用パシフィック機である。

昭和10年から製造されていたC55型蒸気機関車が62輌に達したところで、63号機からはそれまでの運用実績を踏まえ改良を加えることにしたが、改良箇所が多くなったことから新形式が起こされ、昭和12年C57型の1号機が完成した。
C55型との違いは、蒸気圧を14気圧から16気圧へ引き上げたこと、それにともなうシリンダー直径の縮小、動輪をスポーク動輪からボックス動輪へ変更したことなどである。これにより出力が上昇し燃費向上も図れたため、経済的な蒸気機関車となった。他にも蒸気ドームや煙室全部の仕上げ方などに違いがある。動輪直径はC55型と同じ1,750mm、最高速度は100km/h。
美しいスタイルから「貴婦人」と呼ばれることもあったが、ファンはもっぱらシゴナナと呼ぶ。
製造時期によって第1次型から第4次型の違いがあり、特に4次型ではテンダ、ボイラなどに大きな変更が加えられていて、美観が損なわれたとするファンは少なくない。また日本が領有していた台湾向けにC57 1〜C57 6の6輌が昭和17年から18年にかけて製造され台湾で使用された。昭和28年には8輌が追加増備され、CT270型として台湾で使われた(先に渡っていたC57型もCT270型に形式変更された)。

日本国鉄のC57型は四国を除く全国各地で旅客列車(特に優等列車)牽引に使用された。長崎本線・鹿児島本線の特急「富士」、「かもめ」、「さくら」や、日本海縦貫線の急行「日本海」牽引などが有名である。北海道では函館本線・根室本線通し運行などに使われた。晩年になってもディーゼル機関車の数が足りず、優等列車を牽引することがたびたびあった。日豊本線ではDF50型を寝台特急牽引に使っていたが、DF50は故障が多く、ピンチヒッターとしてC57型重連で寝台特急彗星を牽引することもあった。
また御召列車牽引に使用されることも多く、蒸気機関車最後の御召列車に使われたのもC57型だった。
昭和50年12月14日、室蘭本線室蘭-岩見沢間の客車列車牽引を最後にC57型蒸気は運転を終了、国鉄線上から蒸気牽引の旅客列車が消滅した。

C57 1号機はC57型のトップナンバーで、昭和12年に川崎車輌(現・川崎重工)で製造され、水戸機関区に新製配置された。すぐに宇都宮機関区に転属し、昭和20年米軍機の機銃掃射を受けて損傷している。昭和29年新津機関区へ転属し、キャブ屋根を延長する耐雪改造を施工された。昭和36年に羽越本線村上-間島間で急行日本海を牽引中、崩れた土砂に乗り上げ、脱線転覆・大破し、本来なら廃車になるところを、長野工場で5ヶ月に渡る修理の末無事に復帰。昭和47年3月の定期運用終了後もイベント列車牽引に使用され、同じ年の10月3日に梅小路機関区に転属し、昭和54年8月からは山口線小郡(現・新山口)-津和野間でSLやまぐち号の運行を始めた。
JR西日本に引き継がれた後の平成7年、鷹取工場に入場中に阪神・淡路大震災で被災し、ジャッキから転落。ボイラなどに大きな損傷を受けたが無事に復旧された。戦災、脱線、地震を乗り越えてきたC57 1号機は「不死鳥」と呼ばれることもある。


12系

昭和44年から53年までに603輌が製造された座席客車である。

大阪万博を間近に控え、万博への団体客輸送を念頭に置き、波動輸送用車輌として設計・製造された。すでにこの時代は客車から動力分散式の車輌が主力となっていたが、多客期以外は車庫にいることが予想されるため、製造・整備費が安く上がる客車を製造した。また、この頃まだ戦前に製造された客車(35系など)が多数在籍しており、これらの置き換えの必要もあったためである。12系の外観は急行型電車の設計を踏襲しており、車体幅は裾絞りを設けた2.9m、全長は21m級となり、シートピッチが拡がった。また座席も人間工学を取り入れた新設計のものを使った。
10系客車や20系客車では一部設備を機関車から供給される電気などで賄っていたため牽引する機関車を限定するという運用上の不都合があり、12系では冷暖房・サービス電源などを自車で補うことで貨物型機であっても牽引を可能にした。台車はTR217空気バネ台車を装備。電車・気動車ではすでに当たり前となっていた自動ドアを客車で初めて採用(20系ですらドアは手動だった)し、安全性を大幅に向上させた。また、これまでの一般型客車の最高速度は95km/hだったが、12系では3圧式制御弁を使った新開発のCL形応荷重装置付自動空気ブレーキを採用することで110km/h運転を可能にした。110km/h運転は20系客車で行われていたが、牽引機が元空気ダメ管引通しを持っていることが絶対条件であった。
これらの新機軸はその後の客車の模範になり、14系・24系なども12系の設計を踏襲した。

万博輸送が終了すると、当初の予定通り全国各地で使われるようになる。急行「きたぐに」、「日南」、「かいもん」などの優等列車のほか、14系座席客車が揃うまでは臨時特急にも使われた。その特急は特急料金を100円減額して運行されたため「100円引き特急」と呼ばれた。
急行運用減少後は普通列車運用にも使われ、50系と共に雑形客車の置き換えを進めた。またこの際に近郊化改造された車輌もあり、近畿・北陸地区では1000番台、東北地区では2000番台と区分された。90年代になると、短編成・高頻度化政策により各地で車輌に余剰が発生し、それらを各地に転属させた玉突きで客車に余剰が発生するようになる。12系も例外ではなく、多くが廃車されるかジョイフルトレインに改造された。JRに601輌引き継がれた12系客車も残すところ44輌となり、原型を留める12系は13輌にまで減った。


DD51

昭和37年から649輌が製造されたディーゼル機関車である。

昭和35年から国鉄が推進した動力近代化計画により、国鉄線上から蒸気機関車を全廃するために導入されたディーゼル機関車のひとつで、すでに運用されていた幹線用ディーゼル機関車DF50形が非力であったため、それに代わる本格的本線機として開発された。
本線機の多くは箱型の車体を持つものだが、この機では凸型の車体を採用している。世界的にも珍しいこの形態を採用した理由は、2つのエンジンを前後に振り分け、中央に運転室を設けることにすれば重量の偏りをなくすことができ、また機器配置や整備性の面でも有利となるためである。エンジンにはDD13形で採用されたDMF31Sをベースに設計されたDML61を2基搭載し、幹線機では日本初の液体式ディーゼル機関車となった。また1号機以外の機関車は中間台車の高さを変更することで軸重を変更することが出来る。

時代・用途に応じて何度かマイナーチェンジが行われており、それにともなっていくつかの番台区分が存在する。基本番台である0番台は重連総括制御を持たないことから非重連型と呼ばれ、ジャンパ栓の数が他の番台よりも少なく、すっきりした前面をしている。
昭和41年からは500番台機が量産された。0番台機との大きな違いは重連総括制御を搭載したことで、重連型と呼ばれる。ただし、501号機から592号機までは単弁(単独ブレーキ弁)を操作したときには本務機のみにブレーキが掛かり、後ろの補機にはブレーキがかからないことから半重連型と呼ばれ、それ以降の機関車は全重連型と呼ばれる。
昭和43年からは800番台が量産された。全重連型500番台機と大きな違いは無いが、500番台機以前に搭載されている蒸気発生装置が搭載されておらず、運転整備重量が6t軽くなり、それにともない中間台車も変更されている。成田空港ジェット燃料輸送用に増備された1800番台では、パイプライン完成後に失職する可能性もあったため蒸気発生装置搭載の準備工事がなされている。

四国を除く全国各地で運用され、電化されていない幹線の主力として活躍した。しかし、客車列車が気動車に取って代わられ、貨物輸送も衰退の一途を辿ると多くが余剰廃車され、JRに継承されたのは259輌であった。その後もさらなる列車の削減にともない、現在JR旅客会社で定期運用を持つ会社はJR北海道のみとなり、JR貨物でも北海道地区ではDF200形の導入が進み余剰車が発生している。

SL北びわこ号で使われる機関車は全て1000番台機である。1000番台機は、500番台機の番号が799まで達したため、800番台機との重複を避け1001へ飛び番になったグループで、JRへ継承されたグループの多くはこの1000番台機である。ナンバープレートが切り抜き文字から番号が表記されたプレートをボルト留めするブロック式に変更され、1010号機以降からは運転室内に扇風機が設置された。


EF65

昭和40年から308輌が製造された直流電気機関車。

高速道路網が発達していなかった昭和40年代の物流の主役は鉄道であった。高度経済成長下の日本で輸送力の増強は国鉄の課題となっていた。そこで国鉄は昭和35年にEF60形を製造していたが、定格速度が低く、貨客列車の高速化にはあまり貢献しなかった。そこで、技術的に完成の域に達していたEF60形3次車を基に、歯車比の変更や新設計制御器の搭載などをし、最高速度と牽引力を両立させた形式として誕生した。
ほとんどの機器がEF60形3次車と共通であったことから試作機はなく1号機から製造されている。昭和40年から45年までに135輌が製造された0番台機は、非貫通型の運転台にシールドビーム2灯を備えた車体は、トップナンバーの1号機からラストナンバーの135号機まで変更されていない。ただし細かな変更はなされており、48号機以降の2次車はスカートに設置されていた通風孔が正面に移されており、大きな特徴となっている。
EF65形は元々貨物用として製造されたが、20系客車を牽引していたEF60形は先のとおり足が遅く、ダイヤに全く余裕がない状態で走行していた。予備車がほとんどない20系では、終点の到着が遅れると折り返しの列車の遅れへとつながっていくため、性能に余裕を持った電気機関車を製造する必要があった。そこで0番台機を基本に20系牽引用の装備を設置した500番台が昭和40年から製造された。製造された25輌のうち535号機から542号機までの8輌は一般型から改造で賄われた。塗装は一般色から特急色へ変更されている。このグループは旅客用であることからP型(PassengerのP)と呼ばれる。
また、高速貨物列車牽引用としての500番台も製造され、こちらはF型(FreightのF)と呼ばれる。高速貨車として製造された10000系貨車やレサ10000形貨車にはCLE形応荷重装置付電磁自動空気ブレーキを採用しており、空気管付き密着自動連結器など、その牽引に対応した特殊装備を備えた電気機関車として開発された。また重連総括制御を備える。
そして貨客両用の機関車として、PF型こと1000番台機が昭和44年から139輌が製造され、東海道線・東北線などの高速貨物列車から寝台特急牽引まで幅広く運用された。重連運用を考慮して貫通型の運転室を持つため他の番台とはスタイルが大きく異なっている。また寒冷地での使用を考慮し、耐寒耐雪構造を備えている。ただし東京機関区に配置された7次車と8次車は一部の耐雪装備を外して運用されている。

主として特急運用と高速貨物運用で使用されたが、高速貨物列車を牽引する際には定格出力の関係から重連で使用することが常態化していたため、EF66形登場後は主役の座を取って代わられ、第1線から退いた。優等列車牽引も列車の削減で余剰が発生しており、多数がJR貨物へ売却されている。
JR貨物では継続使用のため延命工事が進められているが、EF210形の投入で廃車が進行している。


試運転

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

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