このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 広島東洋 Carp 

1975(昭和50)年10月15日 広島東洋カープ 悲願の初優勝!!

苦節26年

昭和24年 プロ野球が、2リーグに分裂した際「原爆で傷ついた広島市民にプロ野球を・・・」という運動が起こり広島県と広島・福山・呉・三原・尾道の5市と県下の一般企業や個人の出資により広島野球倶楽部が結成され”鯉城”といわれた広島城の名をとり広島カープと名づけセリーグに加盟した。県や市更には個人までもが出資しての球団は、カープが初めてでそれだけに県民の球団として異色であった。初代監督には、広島出身の石本秀一氏が就任。・・・がまもなく経営難に陥り身売り寸前まで追い込まれるが、広島・山口の市町村・企業などで後援会をつくりその会費で一旦危機はしのぐ。しかし経営は好転せず昭和30年12月解散。広島財界10社が協力し負債を引き受け新会社広島カープを結成。昭和32年に県・市・財界の尽力によりナイター設備を兼ね備えた広島市民球場を建設。やっと軌道に乗り始めた。昭和42年に長谷川良平監督の退団を機に財界10社経営より東洋工業(現マツダ)1本になり広島東洋カープと改称される。発足当時から毎年下位を低迷しセリーグのお荷物球団とまで言われていたカープが、初の米人監督J・ルーツを起用しユニフォームも赤を基調にしたものに一新された。ルーツは、4月末甲子園球場での審判とのトラブルから退陣し野崎監督代行を経て古葉コーチを監督に昇格させ昭和50年10月15日苦節26年目で初のリーグ優勝を果たした。しかも日本プロ野球のメッカともいえる後楽園球場で讀賣巨人軍を相手に・・・

 

 勝 手 に リ ン ク し ま し た
ご め ん な さ い ! 

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ラジオで綴るカープ名場面

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