このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
鯉に恋してあれから四十年 |
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鯉に恋してあれから四十年 原稿は大村 秀雄 様より頂きました 錦鯉の飼育も四十年になると、県の愛鱗会では現役の最古参になった。 皆に「鯉に銭をかけてどうするん。」 「鯉でようけ儲けよる。」 「服や車が買えるのに。」 など言われ、自分もそうとは思いつつ、「鯉は口はきかんし、喧嘩もせん、おまけにようなつく。」 など言って、鯉の悠然と泳ぐ様に元気や安らぎをもらって飼ってきた。 そのうち、人間の世界では取れない日本一を鯉で取ってやろうと結構その気になってきた。 秋の池上げには、われ先にと県内外の鯉屋巡りや通販まで手を広げ、夢をかける鯉は、大きく育てと鯉屋や野池に飼育を委託もした。 ところが、クラウン(車)にするでと言われた銀鱗紅白や県の全体総合優勝が狙える大正三色が二年続けて尾びれの端をちぎられて無残な姿で野池から上がったり、三度はあるまいと、鯉を見る目があったと褒められた自慢の紅白を池に託したが、今度も穴あき病菌に冒されて片目になるなど、はかない夢を何度も味わった。 それでも、広島農業祭で農林水産大臣賞に輝いた誰もが欲しがっていた銘鯉紅白を私に売ってくれるというので懲りずに勝負を賭けた。 品評会は人間が審査するから審査員の好みで、運、不運は当然で仕方がないが、80糎でも大きい鯉に体負けしないと言われていたのに何と80部の審査(3名で審査)で2位にされ、全体総合優勝を全員の審査員が投票で決める水槽に入れず、来年こそ一回り大きくしてと野池に入れたが、捲土重来を果たせず、夢半ばで昇天した。 全国大会で、初めて丹頂三色が大江戸賞を取ったのに、鯉の雑誌に出た名前が木村秀雄。昭和三色が幼魚総合優勝(東京都知事賞)して授賞式に駆けつけたり、また、各部総合優勝(鱗王賞)の紅白が死んで入院中の妻の身代わりになったとの願いも届かず「いくとせの緋鯉と消えし春の雪」と詠んだ義兄の句など、鯉は私の人生の表裏の道連れだった。 身に余る鯉を買い、プロの力を借りて日本一を取ることより、夢のある鯉を見つけて、自分の技で銘鯉に育てる自分だけの喜びでよい。 これからは、肩の力を抜き、自分が出来る事を楽しみ、ゆっくりした歩みをと思うこの頃です。 |
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