このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

東海自然歩道Do!

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坂本龍馬・脱藩の道

( 予告編 )

坂本龍馬は、澤村惣之丞とともに、文久2年(1862年)3月24日、高知を出奔し、25日に梼原に到着、その夜、梼原の志士那須俊平・信吾父子の家に泊まり、翌26日未明、俊平・信吾父子の道案内により、宮野々関を抜け、四万川は茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて、予土県境峠・韮ヶ峠を越えて、伊予の国(愛媛県)に脱藩した。信吾は韮ヶ峠より引き返したが、俊平は同行し、小屋村(野村町)、水ヶ峠(河辺村)を経て、泉ヶ峠(五十崎町)に宿泊、27日、宿間村(五十崎町)に着いた。俊平はここから引き返し、龍馬・惣之丞は船便にて長浜町へ、その夜、富屋金平衛宅に泊まり、28日、船で2日を要して三田尻(山口県)へ到着した。
(梼原町の案内板より引用)

FULL

高知駅→高知城→龍馬誕生地→いの駅→日下駅

桂浜から広大な海を眺めると、希望に満ちた鼓動を感じる。
土佐二十四万石は、山内一豊が、徳川家康から拝領した土地であるが、郷士・坂本龍馬は、「小さな藩に閉じこもっていては何もできんぜよ」と満たされない気持ちを抱えていた。
"土佐にあだたぬ奴"龍馬は、1862年3月24日、高知を出奔する。
高知駅→日下駅 08年12月、9時間の旅、感動点★★(★5個で満点)

日下駅→佐川駅→斗賀野駅

龍馬は、"千里を駈ける駿馬"の如く、駆け抜けた。土佐を出発したのが24日で、梼原に到着したのが25日というが、並々ならぬ速度であったことが知らされる。
佐川は、酒蔵が並び、多くの偉人が生を受けた城下町だ。牧野公園から、周囲の風景を楽しむ。
日下駅→斗賀野駅 08年12月、8時間の旅、感動点★★★(★5個で満点)

斗賀野駅→朽木峠→西谷→石神奈路バス停

斗賀野から港町である須崎を経由した説と、朽木峠を経由した説があるが、番所があったという、後者を選択した。
朽木峠を越えると、棚田など田舎の風景が素晴らしい。道標に導かれて細道を下ると、追手から逃れる緊迫感を体験する。
"脱藩の道休憩所"には、現代の脱藩者達の足跡が記される。
斗賀野駅→石神奈路バス停 08年12月、9時間の旅、感動点★★★(★5個で満点)

石神奈路バス停→新田→野越峠→太郎川公園→梼原

国道に沿って、できる限り、脇道を選択して、西進する。
新田には、龍馬と異なる生き方を選択した吉村虎太郎の像が立つ。維新は多くの若者の死の上に成り立っていた。
司馬遼太郎が絶賛した千枚田や太郎川公園を経て、梼原へ到着した。龍馬は、3月25日、ここに泊まる。
石神奈路バス停→梼原 09年3月、10時間の旅、感動点★★★(★5個で満点)

梼原→宮野々→六丁→茶や谷→韮ヶ峠→龍馬脱藩の宿

龍馬は、3月26日未明、宮野々関を抜け、茶や谷の松ヶ峠番所を抜けて、予土県境である韮ヶ峠を越えて、伊予の国に"脱藩"した。
龍馬の"脱藩"は、束縛された生活を送る、我々現代人に問題提起しているようだ。当然のように、学校を卒業して、就職して、結婚して、子供を産んで、老いてゆく。しかし、何か大切なものを忘れていないかと。
梼原→脱藩の宿 09年3月、11時間の旅、感動点★★★★(★5個で満点)

龍馬脱藩の宿→榎ヶ峠→封事ヶ峠→水ヶ峠→泉ヶ峠→亀の甲

龍馬は、3月26日、水ヶ峠を経て、泉ヶ峠に宿泊、翌27日、宿間村(亀の甲)に着いた。
高知城から133キロを経て到達した旧宿間村は静寂に包まれ、肱川に通ずる小田川は優しく流れていた。険しい山道と対照的な風景であった。
脱藩の宿→亀の甲 09年3月、11時間の旅、感動点★★★★(★5個で満点)

亀の甲→大洲→伊予長浜駅

龍馬は、3月27日、船便で宿間村から長浜町へ移動した。
龍馬が、肱川で舟から眺めた風景を、歩きながら体験した。"伊予の小京都"大洲は、懐かしい町並みを残す。
肱川は、川幅が大きく、曲流を繰り返し、やがて瀬戸内海へ流れ込む。龍馬の心情は、そのまま、世界の海に通じていたことであろう。
亀の甲→伊予長浜駅 09年3月、10時間の旅、感動点★★★(★5個で満点)

坂本龍馬が最初の脱藩をした道程は諸説ありますが、「龍馬脱藩・ゆかりの道」関連市町村協議会が発行するパンフレットを参考として歩きました。
なお、パンフレットで示されたコースと異なる道を選択している場合もあります。

( 総集編 )
  
  
    

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