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●大島宇吉「自由民権と新聞活動」

明治6(1873)年、明治新政府参議板垣退助は征韓論が受け入れられず下野。明治14(1881)年自由党を結党。翌15年東海地方を皮切りに全国遊説を開始、4月6日岐阜金華山麓中教院(現岐阜公園内)にて講演。夕方講演を終え玄関に立った板垣に一人の暴徒が襲いかかった。武術に優れていた板垣は一喝するも手、頬、胸に傷を負ったが幸い軽傷、犯人相原尚ぶみ(ぶみ:耿の下に衣)はその場で取り押さえられた。「板垣死すとも自由は死なず」この事件はこの名言と共に広く報道され自由民権運動はさらに過激の度を増して言った。
※この名言は板垣本人の発したものではなく、この事件の後当地で開かれた民権活動家小室信介の「板垣死ストモ自由ハ亡ビズ」の講演会タイトルが引用されたとか、板垣の意を解した自由党機関紙の党員を鼓舞する記事の一節であったとか、また板垣側近が呟いた一言、新聞記者の造語とか諸説有る。
※犯人相原尚ぶみ、父は元尾張藩士、愛知県立師範学校を卒業、知多郡横須賀村の教員。自由民権運動に対する国賊的政府発表に触発され国粋主義に傾倒。裁判にて無期刑を受けるが大赦にて出所、板垣を訪ね謝罪後帰郷。しかし船にて上京途中、遠州灘にて消息を絶った。遺書はなく強盗説、謀殺説、自殺説、真相は不明

大島宇吉は嘉永5(1852)年3月6日、東春日井郡小幡村(現守山区)の豪農大島宇右衛門、母ゑいの三男として生まれ、慶応元(1864)年分家大島為三郎の養嗣子となり17歳で家督を相続。やがて愛知自由党に入党。地元各地で自由民権の講演会を開き運動に身を投げうっていった。
しかし、自由民権運動の結実は困難を極め、壮士と呼ばれた人々は政府の執拗な監視と貧困との戦いで有ったと言う。
尾張藩が明治維新の時、幕府軍討伐の為に民間人で組織した草莽隊、その中の全国的にも異色の地元侠客などで組織した「集義隊」があった。維新後解体され行き場のなくなった元隊員などを含めた地元過激壮士が「国事を改良する」と言う大義名分を旗印に資産家を襲っては金品を強奪。やがて50余件の犯行を重ねる「
名古屋事件」を起こし、明治17(1884)年8月11日夜「平田橋事件」が起きた。
愛知県丹羽郡北島村の資産家を襲った一隊は不首尾に終わり平田橋(現名古屋市西区)で警邏中の警官と遭遇し2名を殺害逃走、大島家は警官に包囲された。後逃走していた首謀者らは逮捕され裁判にて3人に死刑が言い渡されましたが大島宇吉は立件されず無罪。
その後大島宇吉は活動の活路を新聞に求め、明治20(1887)年愛知絵入り新聞を発行、反政府的記事にて再三発行停止を受ける。
明治17(1884)年県議会議員、明治23(1890)第一回衆議院議員選挙落選、大正8(1919)年選挙法改正、立憲政友会にて衆議院当選。
その後も新聞発行に邁進、地元各紙と合併統合を繰り返しやがて中日新聞を創設。中部地方の情報拠点紙となり国民新聞を買収東京に進出、東京新聞、東京中日スポーツを発行。
中部各県に関連会社・施設を設け、中日ドラゴンズ始め文化・スポーツ事業に尽力した。昭和15(1940)年12月26日89歳にてその生涯を閉じた。

写真上 中日新聞本社(名古屋中区)
写真右 平田橋事件殉職警官慰霊碑(名古屋市西区)



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