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●守山点描 その2




▲JR中央線赤煉瓦トンネル(新守山-鳥羽見一地内) 築造年は不明、今では郷愁を誘う貴重な赤煉瓦のトンネル。(上り−第1守山架道橋)

▲名古屋ライトハウス瀬古マザー園(瀬古地内) 視覚障害者複合老人福祉施設として1989(平成元)年5月12日開設された。

▲東邦ガス北部供給所(新守山地内) 巨大ガスタンク、戦時中は春日井の軍需工場へのガス供給を担っていた。南(写真左)1号は高さ40m、1968(昭和43)年、北(写真右)2号は1971(昭和46)年に造られた。(旧型は円筒形)

▲風越池(下志段味地内) へら鮒が放流され、人気の無料釣り池。(駐車場トイレ完備・投げ釣り禁止)

▲三菱電機社宅群(小幡中・西城地内)一帯は戦時中矢田川対岸にあった零戦製造の一大拠点三菱発動機の従業員宿舎があり、現在でも社宅・独身寮・研修所・専用グランドが群立し三菱村といった感がある。

▲いなり道(小幡中一・二地内) 瀬戸街道より生玉稲荷神社へ続く参道は掃除が行き届き綺麗にカラー舗装されている。

▲御嶽神社(龍泉寺地内) 他にも松坂町御嶽神社、川嶋神社、守山・小幡両白山神社、石山寺、町北地内等多くの御嶽講関連の碑があり、区内では多くの講が組織されていたことが伺える。

▲すいどうみち緑道のブロンズ像(森宮町地内) 作者は名守(名古屋市-守山市)合併モニュメント(守山生涯学習センター前)を作った故三枝惣太郎氏。
「翔」昭和57年4月20日設置

▲名鉄小牧線廃線跡(瀬古地内) 2003(平成15)年3月27日、小牧線上飯田連絡線が開通し従来地上走行であった小牧線は区内を地下で通過、地上の路線は撤去された。(写真は瀬古1地内旧ガード橋付近−2013年1月撮影)

▲東谷山フルーツパーク(上志段味東谷地内) 東谷山麓に果樹栽培技術の指導・研究など名古屋市の多目的農業公園として1980(昭和55)年4月開園。1985(昭和60)年4月には古墳をイメージした「世界の熱帯果樹温室」が完成(大人300円、中学生以下無料)、熱帯の珍しい果物などが見学できる「くだもの館」ではそれらを味わったり購入もできる。園内の約1000本の枝垂れ桜は花見の名所として季節には大変の賑わいをみせ、石拾池は釣り池(有料)として開放されている。(午前9:00〜午後4:30入園無料)

▲アクロス小幡・守山文化小劇場(小幡南一地内) 小幡駅周辺再開発事業により1999(平成11)年4月完成、翌年には西館(13階建て)も完成。
スーパー、銀行、医療機関、守山区社会福祉協議会等が入る商業施設と3階には名古屋市守山文化小劇場(座席数403席、車椅子3席)があり、上階は住宅が入居。名鉄瀬戸線小幡駅と結ばれ、駅前にはバスターミナルがあり、小幡地区の核施設となっている。

▲誓願寺境内・線刻道標仏(浄土宗・町北地内) 中心に線刻仏像右に「右ハやま」左に「左ハくろ川」と刻まれている。平成1994(平成6)年ここに移設されたが本来の設置場所、建立年などは不明。

▲誓願寺・無量文庫 終戦間際区内にB29が墜落、同寺には乗務していた米兵が一時葬られた( 戦争の傷跡頁参照 )。
寺内「無量文庫」には児童書初め多くの書籍が収蔵されており、ブックカフェも併設されている。
創建は1699(元禄12)年、祖的上人が開山した。※寺伝では16世紀末と記されている。


▲寿昌山大永寺(曹洞宗・大永寺町地内) 1197年(建久8・鎌倉時代)山田次郎重忠が父重満の菩提を弔うため現小幡駅南東に建てた天台宗寿昌院を基とする。※1190年(建久元)説もある。1520年(永正17)兵火にかかり焼失、1521年(大永元)重忠の末裔岡田重頼が洞光寺六世柏悦道根を招きて中興開山とし、天台宗を曹洞宗に改め年号を寺号とし大永寺と改めた。同地は小幡村の支村、宮司(みやぢ)村と言ったが、これを機に大永寺村と名を変えた。 
1617(元和3・江戸時代)年重善の子、岡田将監善同が名古屋城縄張り奉行を務め尾張初代藩主義直公より現在地を拝領し名古屋城築城の残材(余材)をもって諸堂を整えた。
1637年(寛永14)大渓良澤が守山崩れで亡くなった松平清康の菩提を弔うため玉峰山宝勝寺を開山した。
境内墓地には岡田氏代々の墓がある。
龍泉寺下旧七曲がり坂(竜泉寺−吉根階子田間) 県道名古屋多治見線(龍泉寺街道)龍泉寺・吉根間のこの坂は古くは通称七曲がり坂と言われ、急カーブときつく長い坂のため街道一の難所とされてきた。現在では新道が開削され、急カーブは解消されたが長くてきつい坂である事には変わりない。写真下は、1946-1949(昭和21−24)年頃米軍により撮影された航空写真、斜め上に見える庄内川に沿って急カーブが連続している事がわかる。

▲一乗山浄土院(大屋敷地内) 尾張徳川家の菩提寺建中寺の隠居寺として蓮譽(れんよ)順貴和尚により開山されたと言うが詳細は不明。本堂左手奧、水子地蔵堂前に尾張藩五代目藩主徳川五郎太(ごろうた・真厳院)ゆかりの燈籠がある。
※徳川五郎太:四代藩主吉通が急死したため三歳で五代目となるが二か月後に死去、元服後の諱はない。

▲松蔭庵(まつかげあん)(長栄地内) 如来宗は1802年(享和2年)名古屋熱田の農夫長四郎の三女きの(喜之・当時47歳)に金毘羅大権現が降臨し神懸かり的状態となり人の道を説いた「御経様・266巻」が経典となっており、戦後1962年(昭和37)宗教法人如来教となった。
※1986年(昭和61)、一帯0.6haが名古屋市緑地保全地区に指定された。

▲山口街道(森孝三地内) 大森一帯は江戸時代守山地区最大の石高を誇る豊かな村でした。それを支えたのが地内を通る街道でした。志段味へ向かうしだみ道。名古屋山口から瀬戸へ通じた山口街道。山口街道と森孝で交わる足助道。現尾張旭市の直会神社を目指す直会道。そして守山村・小幡村を通り大森村から瀬戸へ通じた瀬戸街道、同街道は今も多くの車が行き交い、守山の背骨の感がある。

▲雨池公園、1000番目記念碑(タイムカプセル)(御膳洞)大森北小学校の校庭と繋がる学校公園となっており、1988年(昭和63)3月28日、名古屋市内1000番目の都市公園として誕生した。記念碑(幅110cm、横80cm、高さ30cm)は2018年公園誕生30周年を記念して開封されるタイムカプセルが埋設されており、2018年(平成30)4月、カプセルは開封され一般公開された。

雨池公園、1000番目記念碑・タイムカプセル保存物 冊子:緑花祭なごや '88公式記録・緑花祭記念品(ガイドブック・各種パンフレット・メダル・ネクタイピン・ブローチ・法被・旗)・1000公園のあゆみ・千成瓢箪の文鎮(祝1000公園記念)・名古屋の野鳥・名古屋市の公園写真(4箱)・守山区の名木・公園配置図・カセットテープ(そよ風とわたし)・地元風景写真(ネガ1袋)。
 

▲水平式日時計(村合町地内) 山下公園内にある日時計。昭和59年10月中日新聞社会事業団寄贈。同公園内には旧守山プールなどある(点描4参照)。



大森郷(ごう)まつり


大森 八劔神社
江戸時代末、矢田川中流域11ヶ村により「大森合宿」が組織された。同合宿は猿投神社を中心に組織された「猿投合宿」の影響を受け作られたとも言われ、龍泉寺へ献馬を行う事から「龍泉寺合宿」とも呼ばれた。
その起源は大森城主が領民と共に龍泉寺へ戦勝祈願した事から、また小牧・長久手の戦いで焼失した龍泉寺を再建するため献馬をしたためとか、元禄年間、龍泉寺で雨乞いをしそのお礼とも言われているが詳細は不明。

この地域には他にも矢田川流域(主に現瀬戸市)の十ヶ村で組織された「山口合宿」。吉根、志段味、水野村(現瀬戸市)等14ヶ村で組織された「吉根合宿」、庄内川対岸篠木地区(現春日井市)を中心とした「篠木合宿」もあった。「篠木合宿」は熱田神宮にも献馬をしていたが、永禄年間(1560年頃)名古屋城下古渡村で騒動を起こし献馬が中止され、嘉永年間(1850年頃)には龍泉寺の献馬においても流血の惨事を起こし「合宿」は廃止された。
現在祭りは「郷まつり」と呼ばれ10月18日前後の日曜日とされているが、江戸時代には5月18日、明治には旧暦9月18日とされていた。
各地の「合宿」が廃れる中「棒の手」の奉納など古い様式が継承されている祭りは、村印の幟旗、馬簾(馬標)を先頭に鉄砲隊、棒の手隊などが加わり「エイサ ホイサ」のかけ声と共に、旧大森村(西島・中島・東島・新田島・向島)、そして大森・大森北・天子田各学区を巡り途中公園や矢田川河川敷などで鉄砲隊の実演を行い天子田地区で折り返し午後に八劔神社に到着、神事が執り行われる。

守山区を代表するこの祭りの呼び物のひとつ、飾馬「おまんと」(馬の頭(塔))は生活の中から馬がいなくなり維持管理が大変な事等から5年に一度の開催となり、西島、中島、東島、新田の4つの島(組)から馬飾りを付けた馬が路上に繰り出す。また飾りには煙草の葉が特産であった頃は煙草の葉と煙管の標具(馬飾り)が飾り付けられたが、現在それらの飾りはなくなったが、それらの流れを汲む飾り付けがされ、時に早駆けなどをし観衆の喝采を浴びている。※2015年3月名古屋市無形民俗文化財に指定  参考文献:小林元著『矢田川物語』 

矢田川河川敷で演ずる鉄砲隊。数十人の鉄砲手の一斉射撃は圧巻。
村印、区長、菅の一文字笠に羽織袴の笠脱、祭礼係、杖つき、中割、鉄砲手、警固、飾り馬、綱つき、馬囲の各役が隊列を組み練り歩く。

「おまんと」の開催は5年に一度。
飾り付けられた馬が各島から繰り出し沿道の観衆も一段と盛り上がる。

※おまんとは幸心、川村、吉根地区でも過去行われていたが現在は行われていない。

棒の手は戦国時代農民が自衛のために編み出した武術と言われ、又悪霊払いや豊作祈願のため神社等に奉納され、のち神事と変化したとも言われ、各流派それぞれが起源をもち、現在では愛知県を代表する民俗芸能として伝えられている。
大森地区には「検藤流」が伝承されており、それぞれの棒の手の演技が奉納される。写真の地面に白く点々と見えるのは見物人が投げ入れるご祝儀でその数の多さには驚く。
区内川村地区に伝承されている「源氏天流」は平安末期八幡太郎義家が編み出した太刀棒術が起源と言われ、大森地区の棒の手は1749(寛延2)年の巻物が残されており、いずれも古くより伝承されている。※1962(昭和37)年「守山の棒の手」として愛知県無形文化財に指定された。

春日井郡大森村と記された村印、馬簾、毛槍とも言われる纏(馬標)を先頭に大森八劔神社の神職に先導され本殿に到着。
写真左
大森[斎穂社]
境内棒の手石碑(大森5丁目)
表面-検藤流之碑 宗祖松本伊左衛門
裏面-昭和6年5月建立、門人一同の名列記
写真右
川村[川島(嶋)神社]
境内棒の手石碑(川村町)
表面-棒の手 源氏天流・検藤流 無形文化財記念
裏面-昭和37年3月建立、守山市川棒の手保存會

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