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習志野原の掲示板 過去ログ 2007年2月


Re:ダイヤ改正 投稿者:エル・アルコン 投稿日: 2月28日(水)00時38分5秒
週末は近所で不発弾処理があるので大変です。
避難命令はギリギリで出ませんでしたが、電車は止まるし、駐車場に面した道路も封鎖と、それなら避難命令を受けたほうがまだ気が楽です。

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「東葉通勤快速」の悪夢は無いと見ていいのかな(笑)

津田沼始発の東西線の時間帯は少なくとも30年近く変わってませんね。
もちろん昔はA快でしたが、今は当時のB快、C快だけですが。

東西線直通客からは時間の前倒しをして欲しいのは山々なんでしょうが、秋葉原、新宿方面へ着席狙い(もしくは吊革狙い)の乗客にとって見ると、東西線直通が前倒しになると、始発緩行は6時台だけ、なんてことになりかねないだけに、難しいところです。
(特に女性客とか、狙い乗車があるやに聞いています)

今のダイヤだと、東西線直通の最初は大手町近辺、緩行線始発の最後は新宿で悪くない時間につくわけで、微妙なバランスを取っている感じです。

余談ですが、総武緩行線、東西線、快速線、東葉線と通勤通学で使い続けていたわけですが、自分が使う時間帯に始発(直通)が欲しかったわけで、こうあるべきという客観的判断が難しいです(苦笑)
http://www.geocities.jp/straphangerseye/index.html




Re:ダイヤ改正 投稿者:矢切 投稿日: 2月27日(火)15時06分48秒
おっしゃる通り、東西線からの直通列車はもう少し早い時間から設定したほうが良いと思います。
現在の直通始発列車が津田沼を発車する時刻は7:38であり約20年前と同じですが、
この列車が大手町を出るのは8:24であり当時の直通2本目よりも遅いです。
東葉線の開通による影響で津田沼や船橋から直通列車を利用する人は10年前よりも若干減っていると思うので直通列車は増発しなくて良いと思いますが、
列車間隔を7分から9分に伸ばせば直通始発列車の設定時刻を10分以上早められるのではないでしょうか。


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Re:ダイヤ改正 投稿者:北千住一丁目踏切跨線橋 投稿日: 2月25日(日)21時48分58秒
よろしくお願いします。

さて、東京メトロのサイトには、「最も混雑する時間帯(約30分間)」とあるので、
現状の東葉快速は存続するような気がしました。

両列車で27分間隔が開いていますので、この間が全て浦安から各停になるのかと。

さて、気になるのが大手町7:54の快速三鷹行でして、これがどう変わるか。
10年前からずっとK運用の西船橋始発ですが、なんで津田沼始発にならないのかな、と。

津田沼始発がラッシュ後半にあんなに固まって設定されていては、
もう少し早めの時間に散らばさないことには、東葉もやり辛いのではと思いました。

ちなみに、営団地下鉄時刻表1988年6月創刊号によりますと、
当時の津田沼始発快速は浦安が通過で、大手町8時台到着は
津田沼発738、746、753、801、807、815、825〜大手町発817、822、831、840、844、849,859
でして、この時点から津田沼発時刻は今と比べて1分程度しか変わっていないようです。

東葉快速の増発は、先行の更に18分前と後行の更に18分後で、停車駅は変えないよう
な気がしておりますが。



ダイヤ改正 投稿者:エル・アルコン 投稿日: 2月18日(日)23時59分16秒
東葉・東西線のダイヤ改正情報をメトロのサイトで見ました。

なんというか、輸送力逼迫どころかパンク状態です。
「副都心線」完成で完了するとされる建設工事ですが、小改良ではなく、東西線の線増もしくは別線という「大ネタ」に早く取り組まないと、早晩カタストロフィーが訪れそうです。

東葉快速の増発にしても、朝は今の東葉快速も含めて「西船橋から通勤快速」というようなドッチラケ快速になりそうですし、そのうち通勤快速もやめて延々と普通となるのでしょうか。

どうも葛西地区対応を、西船橋口での流入を拒絶することで輸送力を確保と言う後ろ向きの対策で考えているフシがありますが、苦しい経営が続く東葉にとってメトロがもしそうとしか思えない対応を取ることになったら、背信行為でしょう。
http://www.geocities.jp/straphangerseye/index.html




うらやましいです 投稿者:エル・アルコン 投稿日: 2月18日(日)23時52分26秒
サニーさんはうらやましい経験をされてますね。

開運号用のセミクロス車のうち、お参り月(正五九)の6連運行時に使われる3150系は、普段は一般運用に就いていたようですが、当たったことがありませんでした。
行商専用編成は青−銀−青の編成以降しか知りませんが、青−銀−銀−青で一般運用に就いていたときの乗車経験はあります。銀色のモハ1600は確か緑色のモケットでした。

幕張−津田沼のデッドヒートは有名ですね。あれは絶対に京成は意識して走ってるように見えました。
高校のとき、国鉄通学だったので総武線側から見てましたが、必ず今の幕張本郷駅付近で捉えてました。

青電の120km運転はすごい話です。ただ、京成の青電は足はいいですから。
新京成に移ってきてからの経験ですが、北総乗り入れが始まった頃、旧型車は100kmオーバーで北総線内を走ってましたから。
http://www.geocities.jp/straphangerseye/index.html




東西東葉線ダイヤ改正 投稿者:習志の権兵衛 投稿日: 2月16日(金)11時40分5秒
現時点で東葉自身のサイトには載っていませんが、メトロサイトで発表されました。
 ・朝ラッシュ時の中野行快速を最混雑時間帯にすべて通勤快速化
 ・東葉線増発にあわせ、東西線直通列車を増加(東葉快速朝夕各2本増?)
http://www.tokyometro.jp/news/2007/2007-05.html




鉄ピク 投稿者:サニー 投稿日: 2月14日(水)13時34分9秒
 京成特集に関連し私個人の昭和40年代の中学生時電車通学の想い出を。運用上の都合だったと思いますが、開運号セミクロスシート車の各停に乗車(京成沿線に住んでいると開運号に乗る機会はありません。)。ダイヤの乱れで過去にあった行商専用電車3両編成の乗車(シートが行商のかごが載せられるようになっており、またホームにも行商用のかごが置けるようになっている駅がありました。)しました。志津・臼井間(まだユーカリが丘はありません)で青電の120k走行、実際にその速度が出ていたかどうか不明ですが、運転士の後ろで速度計を見ていました。ストで電車が止まりわざわざ線路を歩いて通学(枕木の間隔が歩幅に合わなく歩きにくい)。車両の間の幌を友達と全部外して京成から学校に連絡されちょっと困りました。
また、幕張本郷がなかった時代津田沼・幕張間の総武線101系と併走、ほとんど京成が早く走っており現在とは違い元気がありました。懐かしい想い出です。
1年前のことですが、北総線7500系の試乗会があり沿線幼稚園生及び保護者がニュータウン各駅から矢切までの往復試乗できました。その時の試乗券は長い硬券でした。



鉄ピク続き 投稿者:エル・アルコン 投稿日: 2月11日(日)23時19分35秒
今回の特集のポイント、あとは急行「護摩電」のアウトラインが説明されていたことでしょう。
京成の歴史の中で必ず出てくる愛称ですが、その仔細がいまひとつ分からなかった存在です。前回の特集でもいろいろな車両が「護摩」のヘッドマークを掲げており、青電塗装の3000系まで出てきているだけに、非常に気になっていました。
今回の特集では赤電時代の1970年代まであったとあり、「逆さ台形の急行」「丸に急一文字の急行」をリアルタイムで見ていた私にとって、タッチの差で消え去った存在だったのかもしれません。

愛称付き列車で驚いたのは都交直通の存在。千葉直通急行もあったようです。
しかし、愛称が「いそかぜ」はともかく「やどかり」というのは、ちょっと...

あとは谷津支線の研究がさすが白土氏です。
もう旧線跡は識別できないのかもしれませんが、現地を歩いて見たい誘惑に駆られます。しかし、かなり「突っ込んだ」内容には驚きました(謎)
http://www.geocities.jp/straphangerseye/index.html




鉄ピク京成特集 投稿者:エル・アルコン 投稿日: 2月 9日(金)00時17分7秒    編集済
ピクトリアルの京成特集、買いました。そして早速読みました。

10年前の特集と比べて、フォーカスが当たっている時代が若干あとの昭和40年代になっており、ちょうど自分の記憶と重なる時代に入ってきたので、むさぼるように読んでしまいました。

今回は昭和49年改正前の種別板を付けた写真が多く、資料的にも充分ですが、あいかわらず通勤特急(二代目)の写真がないですね。前回、記事添付の白黒が2葉だけだったのですが、今回は1葉も見当たりません。まさか10年後?の特集用にとっているのでしょうか...

(以下ネタバレ注意)
さて、今回の目玉はダイヤ話が多いこと。
特に元運転課長さんの記事は読み応えがありましたし、種別と停車駅の話は、別稿の通学話とあわせて読むと深いです。

気になったのは、その運転課長さんの話で、青砥連立の絡みで高砂−青砥が超過密ダイヤになったのは理解しており、連立が竣工して超過密ダイヤが解消された昭和60年は、通勤特急(二代目)設定の改正ですから、通勤特急が停車駅削減と余裕時間の見直しで速達化を達成したことから、まさに連立工事がネックだったことは分かります。

一方、昭和49年の「後ろ向き」改正が、スカイライナー30分ヘッドの布石だったと言う話。
確かに上野−青砥で10分ヘッドの優等(毎時逆さ台形急行3、快速3)を半減(特急と急行が40分ヘッド)したことでスカイライナーの枠が入ったということは出来ます。
ただ、千住大橋の副本線がない前提ならそれも理解できますが、副本線建設はスケジュール化されていたはずで、ダイヤ面だけで言えば必ずしも削減は必要としなかったはずです。
(昭和55年の青砥連立完成前、ライナー30分ヘッドのダイヤで、ライナーの10分前に上野を出る特急が津田沼、急行が市川真間まで逃げているので、10分ヘッドの優等にライナーを上乗せすることは可能なはず)

結局、京成の暗黒期であったこの時期、スカイライナーの運行キロを一般列車削減で賄うと言う趣旨が真相でしょう。特急と急行による青砥−高砂の擬似10分ヘッドという最小限を守り、上野線は半減、成田線は40分ヘッド、千葉線は全滅と、優等列車受難の時期です。
特急の目に大和田普通を混ぜて大和田まで毎時6本確保とか、数あわせの無理が分かりにくさを招いた上に、優等の鈍足化となり、逸走の深度化を招いた格好です。
ただ、資金不足で千住大橋、市川真間、センター競馬場前の副本線整備が間に合わなかった場合の含みもあるかもしれません。

あとは、下で青電パスネットの話をした後で言うのもなんですが、青電特急の話。
実はピクを見て思い出しました。確かに青電特急はありました。ただし「成田空港行き」はないので、パスネットはフィクション柄ですが。
あまりにもマイナーなので忘れていた東中山特急。中学の時、友人がその写真を見せてくれたことがありましたが、ピクの写真のように八千代台の下り線出発のシーンでした。

急行佐倉行きの写真がありますが、運番が一緒と言うことから分かるように東中山で折り返したものです。ちなみに昭和55年改正ダイヤでも東中山特急の運番はA25とA27であり、変わってないのも驚きです。(A27は昭和55年の時点では折り返しが津田沼行き普通になっている)

今回も謎が解けなかったのは、平日1往復と、休日運転の「特急」のこと。
車内の停車駅案内では丸に横書きの「特急」だったのですが、ピクに出ている特急日暮里行きの板は丸に縦書きです。このデザインは通勤特急のはずですが、混用していたのでしょうか。
青電特急の稿でも、1葉だけ六角形ではなく丸に縦書きの特急(しかも差し枠式の種別板でなく、昔の吊り方式)の写真があり、どうなっていたのか。
青電特急は総て昭和51年撮影とありますが、この1葉だけ昔(東中山特急は昭和46年からあった)のではないでしょうか。昭和47年の差し枠付き種別板の写真があるため、かなり早期だと思われます。

***
週末にでも細かいところを読み込んで、さらに見どころや感想でも...
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銚子、ちばDC 投稿者:エル・アルコン 投稿日: 2月 4日(日)01時27分42秒    編集済
銚子電鉄のルポをアップしています。
どこにアップしようかと思いましたが、県内でもあり、もと京成グループと言うこともあり、「習志野原」に入れました(笑)
そうなると今準備中の鹿島鉄道も京成グループの孫会社と言うことになるので、こっちかな...

さて、ちばDCがスタートしましたが、こちらでも駅に置いてあるパンフレット、知事の顔入りコラムはなんともです(苦笑)
これに協賛したSL運転については、全国ニュースで報じられており、こちらでも見ました。
ただ、聞くところによると、このSL列車、パンフレットなどでは一般列車のように書いてありますが、一般売りの指定席券はさほど多くなかったようですね。
真偽の程は定かではないですが、1個列車の500席程度の定員で一般売りは数十席で1割あるかどうかというと言う話も漏れ聞いており、残りはイベント協賛のツアー用などで占められていたようです。

切符がとりづらいのであれば、SLが走って喜ぶのは沿線で撮影するマニア諸氏くらいというわけで、大半がツアーという抱き合わせ商売はあまり感心しません。
北斗星の個室寝台のように数が希少と言うケースでの「瞬殺」は誰もが理解できるところでしょうが、それなりに編成がある快速列車で、実はそもそも取れる席が希少、というのではやり切れません。
ただ、昨今ではこの手の列車の切符を買い集めてオークションで、という向きも少なくないだけに、このやり方を単純に否定は出来ないのが悩ましいです。

変に期待を持たせず、かつ本当に乗りたい人に、ということなら、前回の県内走行時の「コニカ号」のように、団体、関係者専用として、団体としての受け入れ間口を広げて(個人参加可能とか、あまり「付加価値」をつけない)、あとは見るに徹する「イベント」であったほうが、あとくされもなかったかもしれません。
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