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習志野原の掲示板 過去ログ 2013年1月
夢見る社長の時代 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月31日(木)23時26分19秒 返信・引用
だんだん当時の様子が明らかになってきますね。しかしにっしーさん、国会図書館とはアプローチが半端じゃないですね。
それにしてもこれまでの専門誌や趣味誌、歴史研究的な書物から川島氏までのいずれもが京成の「湾岸新線」に言及していないわけで、でも55年史という公式中の公式記録に、1960年代中盤の新聞やこうした書物には出ているというミスマッチを見ると、今「定本」化している書物や研究も結構いい加減といったら怒られるかもしれませんが、当てにならない部分が大きいです。
そういう意味ではサイトの記事にしている船橋鉄道も、大正年間の未成線とはいえ工事着工区間があり遺構もあるのに、佐藤信之氏が1988年に船橋市史研究に発表した論文くらいしか情報が無いわけで、こちらも「定本」化している「鉄道廃線跡を歩く」シリーズにも掲載されていないなど、埋もれた歴史というか、それくらいは発掘してよ、とアカデミズムに注文したくなるような状況です。
川崎千春社長のインタビュー本とはまた「お宝」ですが、55年史でも本文最後のインタビューが「伸びゆく京成」を誇示しているだけに、「公式記録」でないとどこまで語っているのでしょうか。さすがに国会図書館まではなかなか足を運べませんから、中期的な宿題です。(公私両方で何回か行ったことはありますが、何かと面倒ですし)
そして「湾岸新線」が国鉄と調整しないガチンコ出願だったとは。音沙汰無しで黒歴史化したのもむべなるかなです。
埋め立てを行った千葉県とのバーター提案というのもオリエンタルランドの創成期の話を思えばなるほどと膝を打つ話ですし、貨物線計画に過ぎなかった京葉線計画ではなく、「湾岸新線」計画に県が乗っていたらどうなっていたか。
国鉄との競合も、もともと貨物線計画でしたし、新木場からりんかい線ルートに入り、りんかい線の車庫線から大井埠頭を経て川崎市塩浜に至るルートでしたから、対都心の通勤鉄道という意味では並存が可能でした。
そもそも当時から国鉄が旅客化して都心分岐線を建設する構想があったのかどうかで、京成の計画の無謀度が決まります。
成田空港への新線も、実に微妙な時期ですね。富里村(現富里市)での計画段階であり、直後に三里塚に計画変更される時期です。冨里村での計画であれば、現状よりかなり南に位置するわけで、迂回気味ですが京成本線からの分岐で対応するのか、それとも津田沼から四街道へ伸びる東金御成街道に沿うようなルートでの完全新線をイメージしていたのか。
構想レベルとはいえ、戦後の高度成長期にこんな大ネタが眠っていて、埋もれているのは不思議です。
Re: 西船橋駅の深い話 投稿者:cubics 投稿日:2013年 1月31日(木)15時59分19秒 返信・引用
> No.2599[元記事へ]
エル・アルコンさんへのお返事です。
エル・アルコンさんへのお返事です。
> 貨物駅との絡みと書きましたが、こうなると旧線の形状を利用しているという方が正確でしょうね。
>
ちょっと書き方がよくなくて申し訳なかったんですが、アクセスの多いこちらの掲示板に書き込めば、当時のことをご存知の方がいらっしゃらないかなぁと思いまして。
インターネット上の情報は、「投稿できる人だけが投稿して、それだけがあたかも事実であるかのように独り歩きをする傾向」があると思っております。
西船橋駅の現快速線に関しても、そのような情報の「穴」が埋められればと思いまして、余談を投稿させていただきました。
年寄りがいなくなると、「昔はこうだった」的な(単なる無駄話・自慢話の類ではなく歴史的事実の)与太話が消え去って行ってしまうわけで、最近はちょっとそういう話をそこらじゅうに書き散らかしています。(笑)
なお、昔の船橋の写真は今は閉鎖された西図書館のイベントで展示されておりました。
今は郷土資料室は中央図書館でしたね。
しつこいですが、夢の続き 投稿者:にっしー 投稿日:2013年 1月31日(木)01時08分35秒 返信・引用
こんばんは。
先日近くに行く用事があったので、『これからの京成』という本を読んできました。
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000039-I000786008-00
これは1965年に刊行された雑誌記者と当時の川崎社長との対談記事をまとめたモノです。というか社長の夢を聞いているのですが・・・。
この中で、東陽町-千葉寺新線に関して、国鉄との調整なしに免許申請したと社長は言っています。また、埋立地を千葉県が原価で京成に譲渡すれば新線建設は可能とも発言しています。
また、富里に新空港が建設されれば支線を建設して乗り入れたいとの意向や、東陽町-千葉寺新線も船橋あたりから新空港に向けて接続させたいと発言しています。東陽町始発のスカイライナーができたところで、誰も利用しなさそうですが・・・
これとは別で、1965年は関東鉄道が合併により成立した年ですが、これに関して「条件付きで京成との合併が認められている新京成と違って、関東鉄道と京成が合併することはない」と社長は言っています。
京成と新京成との条件付き合併という話しは聞いたことがなかったので、どなたかこのあたりの経緯をご存じの方がいらしたら、教えていただけたらと思います。
当時の京成は東急に次ぐ資本金額を有しており、全編にわたって川崎社長の自信がみなぎる本になっております(笑)。有体にいえば、イケイケドンドンな感じです。
まあ、その末路は、皆さんがご存じの暗黒時代ですが・・・。
西船橋駅の深い話 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月31日(木)00時39分24秒 返信・引用
複々線化時ではなく、東西線乗り入れ時にセットバックされていたんですね。ちょっと勘違いしていました。
前に京成新線絡みで書いた通り、1964年に複々線化の工事計画書が出来ているので、1968年の段階では現行緩行線の位置に腹付新線という複々線化の計画に従った「新駅」が出来たのでしょう。
確かに鉄道ピクトリアル2001年3月号(横須賀・総武快速線特集)では、江戸川橋梁が在来線の南側に新設とか、本八幡駅の高架化工事も南側に立ちあがってますし、市川や津田沼で特に上り方を見ると、緩行線が南側に「振っている」ことが分かるため、南側に増設したことがわかります。
在来線が快速線になっても、西船橋を除けば高架化を伴っており、快速通過駅のホーム除去は高架化で根こそぎ消えたのに対し、西船橋だけは地平駅のままなので、残ったという見立てでしょうか。確かにあり得ますし有力です。
貨物駅との絡みと書きましたが、こうなると旧線の形状を利用しているという方が正確でしょうね。
ご教示頂いた写真も郷土資料室(ですよね)となると、こうなるとまた中央図書館に行くしかないのかも...
昭和43年の西船橋駅 投稿者:cubics 投稿日:2013年 1月31日(木)00時16分24秒 返信・引用
> No.2597[元記事へ]
エル・アルコンさんへのお返事です。
> さて、西船橋駅の「快速線ホーム用地」ですが、複々線化から貨物駅の廃止、線形変更にかけての経緯を考えると、あの膨らみは「たまたま」だと考えています。まあそれを奇貨として快速線ホームをおく計画が後に出てきたのかもしれませんが、少なくとも当初は想定していないはずです。
私は当時、このあたりに出没しておりませんので記憶や伝聞情報がありませんが、昭和43年の西船橋駅の駅拡張工事という写真を見た限りでは、西船橋駅に駅前広場があり、小さな橋上駅舎から総武線の島式ホームに階段が降りています。
そして、その南側に現在の1番線〜4番線の総武緩行線ホーム2面、東西線のホーム2面の西側の一部を建築中であり、新たな橋上駅の部分も建築中です。
そこで、現在の橋上駅の下から東京方面を走り抜ける快速線は、この当時のホームの幅をあけた路線配置から大きく変更していないのではないかと考えています。(駅東側は貨物駅設置に伴い大きく変更させられたのは存じております。)
ネットなどで見聞きしている情報は、ほとんど東西線開業以降のものであり、まさにこの昭和43年の12月に緩行線ホームに切り替わった当時、旧ホームがどうなったかを記事にしている方がいらっしゃらないようです。
つまり、昭和33年以前は駅もなく線路間隔も広がっていなかったものが、昭和33年の駅開業で島式ホームの部分がふくらんでいたのです。
旧ホーム廃止・撤去の後に貨物駅開業に伴い新たに線形が変更されていたのであれば、貨物駅設置に伴う線形という見方も当然ありますが、市川方面はいじられていないのであれば、旧ホームの間隔が残されたという説も成り立つのではないかということです。
「たまたま」説を否定しているわけではなく、「旧ホーム由来」説と「貨物駅時代の配線」説という二つの見方に対して、どこかで確証が得られないものか、当時をご存知の方はおられないものかと思っている次第です。
首記の写真に関しては船橋市の図書館に所蔵されているもので、以前公開されたものを見ました。
西船橋の快速停車 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月30日(水)23時28分30秒 返信・引用
さて、西船橋駅の「快速線ホーム用地」ですが、複々線化から貨物駅の廃止、線形変更にかけての経緯を考えると、あの膨らみは「たまたま」だと考えています。まあそれを奇貨として快速線ホームをおく計画が後に出てきたのかもしれませんが、少なくとも当初は想定していないはずです。
東京側でちょうど膨らんでくるあたりに貨物駅への内分岐があり、東西線から緩行線に乗り換える際、通過する快速電車がポイントを通過する音がうるさかったです。貨物駅の東端は船橋に向けて左カーブを切る手前で、有効長を確保するためにここから膨らませたというだけです。
橋上駅舎の橋脚もあるため、貨物駅廃止時に上り本線に最初から添わすことが出来なかったのと、保線用車両の置き場にしたことで、あの微妙な空間が出来ているわけです。
そもそも西船橋の快速電車停車問題ですが、東葉線開通前の流動パターンを考えたら「無理」と分かる話です。
県内No.1、2の乗降客を誇る船橋、津田沼があり、快速線も緩行線もそこから大量の乗り込みがあるわけです。
緩行線の流動のうち少なからぬ数が西船橋で東西線に流出するわけで、西船橋の乗り換え階段の混雑防止の目的もあり、平日朝夕に東西線直通電車も設定されています。
快速が西船橋に停車しないことで、快速から東西線への流動は船橋で降車します。ですから船橋での乗車と重なりません。
これがもし西船橋に停車していたとしたら、当然東西線への流動は西船橋まで乗車します。この時、船橋からの乗車と西船橋での降車が1駅だけ重なります。
西船橋での降車が市川や新小岩での乗車よりも少なければ、数字の上では積み残しは無いはずですし、西船橋までの利用で快速志向が高まる千葉以遠への直通は、快速線開業当初は複々線区間が津田沼までだったこともあり、追い抜きは無いですし、本数が少なかったので、極度の集中は無かったでしょう。現実的には快速線にホームが作れたのは貨物駅廃止の段階ですが、この頃だと逆に複々線化が千葉まで開通していますから、快速の負荷が悪化する懸念はありました。
積み残しは無いとしても、西船橋で降りたい人の前に船橋から西船橋より先へ行く人が大量に乗ってくる状況で西船橋がどうなるか。
乗降が輻輳してカオス状態になるのは必至です。小金線計画や京葉線計画を踏まえると、状況は余計に悪化します。
西船橋に敢えて快速を停めない、ということが円滑なラッシュ対応だったはずです。
ただ、当時の国鉄がもっと柔軟に発想して、京阪の守口市のように「朝ラッシュ時のみ通過」といった対応をしていればよかったのですが、そこまでは及ばなかったようです。
そして今は東葉線の影響で津田沼の乗降客が見る影もなく、ダイヤ乱れで津田沼始発を間引いても特段問題が無い状態です。
そうなると快速停車の障害も無くなったばかりか、葛西地区重視で使えなくなっている東西線依存を軽減し、東京直通の総武快速に乗り換えられるというメリットが出てくる東葉線にとってもいい話であり、昔よりはハードルはかなり低いです。
西船橋の開業はもっと前でしたね 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月30日(水)23時23分9秒 返信・引用
cubicsさん、ありがとうございます。西船橋駅の開業時期については完全に勘違いしていました。失礼しました。
西船橋駅が出来た当時の1958年には東西線計画もなかったわけで(東陽町までは戦前から免許があった)、純粋な地域の要請と思われるのですが、当時の様子を考えると、駅を作るほどの街だったのか、という疑問が出てきます。
総武線の南側は行徳街道沿いに集落が点在する程度。北側はR14沿い以北に集落という感じで、京成の北側に回ると田園風景になりますから、京成電車がカバーしている状況で敢えて国鉄に駅を作る意義も少ないと思うのです。(当時は緩行線だけでしたから「都心直通」のメリットも少ない))
行田団地も当時は旧海軍の施設を接収した在日米軍管理の無電塔用地として円形の「空地」でしたし、道路交通という意味でも市川松戸有料道路の開通が1968年ですから、余計に微妙な立地です。
おそらく中山競馬場へのアクセスがメインなんでしょう。中山競馬自体は戦前からありましたが、1954年に現在のJRAが成立して中央競馬の体制がスタートしており、朝鮮戦争特需を経て競馬ブームでも起こり、アクセス改善が急務だったのでは。
京成電車も臨時駅だった東中山駅を1953年に正式な駅にしていますし。
あとはこのあたりに多い中央省庁などの官舎の建設による人口増加でしょうか。戦後の復興が本格化している時期、住宅確保の波がこのあたりに迫ってきた時期かと。
西船橋駅 投稿者:cubics 投稿日:2013年 1月30日(水)01時28分51秒 返信・引用
> No.2585[元記事へ]
エル・アルコンさんへのお返事です。
> 東西線に相当する路線がなく、京成新線が京葉線の位置を通る場合、船堀まで来た10号線計画は一之江から瑞江に向かわずに、行徳に出て、西船橋に向かう路線として計画された可能性があります。(西船橋は東西線開通時に出来た駅ですが、小金線計画があることから、いずれ建設されると見られます)
西船橋駅は東西線西船橋駅開業の10年半前に快速線の位置で開業しておりますね。請願駅だったそうですよ。(船橋市議会議事録)
余談としては、快速線内の空間が「ホーム設置可能な空間が確保されている」という見方がされていますが、私見では旧西船橋駅ホームのあった空間が(貨物扱い時代もはさんで)線路間に残されたものだと見ています。今の緩行線と東西線のホームが総武線の南側に新たに建設中という写真は残っているものの、その後の快速線(ホーム跡地)に関しては証拠となるものは見つけられずにおります。(航空写真では今一つ)
2営業日連続の混乱 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月28日(月)23時30分20秒 返信・引用 編集済
今朝の雪は千葉だけと言う状況でした。
いつも通り6時頃に起きると吹雪いています。これは大変、とニュースを見ましたが、東海道新幹線の遅れ程度で、どうやら大丈夫かな、と寛いでいました。ニュース的には未明の水戸で震度5弱の地震の方が気になる話で、我が家もグラッときてしばらく揺れが続く変な揺れでしたが、まあ2くらいかな、と思っていたら水戸で5弱ですから驚いたのです。
NHKは天気情報を渋谷の放送センター前から中継するのですが、小雪が舞う程度で高曇りというあまりにも違う状況にびっくり。そのあと映った千葉市街は一面の銀世界で、わずか40km程度でこうも違うのか。
家を出る頃には雪も止みましたが、1〜2cm程度の積雪。表通りは積もっていませんが、歩道はうっすらと積もっています。ちなみに最終的に成田空港で8cm、千葉市は6cm、銚子でも5cmの積雪になっています。夜のニュースでは、寒気の渦が悪さをして千葉だけ大雪だったそうですが、それも津田沼〜八千代付近に境目があるという「ゲリラ雪」だったようです。
NHKの交通情報では成田線成田以東が架線障害で運転見合わせと出ており、金曜の架線凍結での混乱の再来を覚悟して津田沼に出ましたが、植え込みがうっすら白く、と言うレベルだったのに、津田沼駅は混乱しており、土日を挟んで事実上2日連続の混乱です。
駅に着いたのが7時45分過ぎでしたが、快速の発車案内がバグを起こしたのか?という状態で、先発が7時57分の732F、次発が40分発の始発752F、次々発が34分発の734Fと滅茶苦茶です。
2番線に出ると下り7時45分発の565Fが停車しており、しかも抑止中。千葉駅で車両点検があり見合わせとのこと。動けない編成がいて満線状態なんでしょう。外房線も長者町で車両点検とのことで、565Fが入る6番線が塞がっているようです。
752Fが15分以上遅れて寿司詰めで発車。こういう時は幕張出区の742Fなんですが、既に発車時刻を過ぎています。
下り565Fは再開の見込みが立たないので緩行線の利用を勧めはじめたのですが、皮肉にも乗客が腰を上げて動き出したすぐ後に準備整い次第発車と言うアナウンスが。毎度のこととはいえ、相変わらずです。
グリーン車も座れそうに無い行列だったので742Fで立っていくことを決めていましたが、868F以降の折り返し組の動向が出てこないだけに、待ってウヤを食らうのは嫌です。565Fが出ないと後続が動けませんから、遅れの増幅も心配ですし。
ただ、565Fは8時頃に出発し、8時4分発の639Fが10分程度の遅れとアナウンスされたため、後は順送りで続々到着だったようです。
742Fは千葉駅での抑止明けになった電車を先に通して8時10分頃の発車。場外で868Fになる669Fが既に待機中だったので、東京止めではありますが868Fを待って座ったほうが良かったかも。ちなみにダイヤ乱れを理由にした整列乗車の中止を今朝もアナウンスしていましたね。
運転順序を頑なに守って、間隔が空いたところに先に千葉直通を入れるのはいかがなものか、という運転整理です。
前が逗子行き、後ろが久里浜行きと言ってましたから、608Fと614Fでしょうか。7時47分の佐原始発728Fは見合わせ区間が絡んでおり来ていませんが、742Fを先に出せば船橋の積み残しも少しはマシになりますし(各駅とも長蛇の列で、直前の608Fなどに乗れなかったことが分かる)、669F〜868Fを取り込むことで4001M、639Fと流せたのですが。
走ってしまえば遅れはあまり増幅せず、品川到着は20分遅れのまま。ただ8時半から総武本線も成東以遠で見合わせになったので、混乱は続いたでしょう。
こうしてみると千葉以遠からの遅れをいかにして持ち込まないかが鍵でしょう。
特に佐原からの728F、成東からの746Fは単線区間から来るので要注意であり、直通サービスの提供によるメリットに対し、遅れを持ち込むことで蒙る影響の大きさを考えると、佐倉での分断がフレキシブルに出来るように準備すべきでしょう。降雪、濃霧など実は予測がある程度つく気象状況に応じて、ウヤにするとか成田や佐倉まで代走を出すとかと言った対応です。
また、千葉や津田沼の段階で運番変更を積極的に行い、津田沼以西で見かけ上の遅れが無い状況にするとか、せっかく編成と所属が統一されているのですから、やりようはあるでしょう。
夕方前の貧乏くじ 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月27日(日)02時12分26秒 返信・引用
ちなみに今日はちょっと都内に出てたんですが、帰りの快速がひどかったですね。
いや、ダイヤがタコということです。昼下がりの休日ダイヤ(下り)なんてめったに使わないので気が付きませんでしたが、ひどいです。
15時20分頃に品川から乗ろうとしたんですが、次は34分の君津行き。NEXが入る時間帯だし、そこは始発があるかも、と東京に転進したら、案の定35分の千葉行きがあり、走って乗れました。
しかし「始発」となく、品川で既に出ていて山手線で追っかけて乗れるとは、と家に帰って調べたら、当該の1491Fは品川を15時16分に出た後、東京で12分停車して2037M退避ということでした。
東京でのNEX退避は平休日通してこの1本だけという不運ですが、タコぶりはこれだけに留まりません。
東京着は15時23分(品川発から察すると限りなく24分でしょうが)ですが、なんと22分に1507Fが出たばかりなのです。1507Fは東京始発ですが、なぜ1491F(1490S)は1507Fに繋いで、1507Fを1491Fのスジに乗せないのか。1507Fは前運用が無い始発据え付けですから、ホーム繰りに影響は無いはずです。
1491Fは東京で12分停車の上に、市川で1009M退避です。休日ダイヤの「スーパー貧乏くじ快速」といえば2009M、9053Mを市川でダブル退避し、津田沼で4001Mを退避する685Fが名高いですが、1491Fも勝るとも劣らない存在と言えます。なにせ品川−千葉で685Fが58分に対し、1491Fは60分ですから。(標準47分)
さらに君津行き1473Fのあとは東京分断と、品川でうっかり乗ろうとしたら大変です。しかも1491Fと1473Fは11連と着席可能性が低く、今日も実際混んでて座れませんでしたから。
腹が立つのは平日ダイヤではこうした問題が無いこと。
品川15時16分の1487Fは東京駅2分停車で発車。NEXは市川で退避し、1009Mからは逃げ切って千葉に着きます。NEXの後続は始発1537Fで設定。これが本来あるべき姿です。
君津行きのあとも平日は直通ですし。
整列乗車中止の怪 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月27日(日)01時25分52秒 返信・引用
金曜日の朝は、我孫子線での架線凍結の影響で成田線、総武本線にダイヤ乱れが発生し、総武快速にも影響が出ました。
見た範囲では佐原からの728F、成田空港からの614Fが20分近い遅れになり、順序を入れ替えて運転となり、津田沼始発の742Fを4分繰り下げて後続の732Fの負荷を下げる方策(両列車が遅れたため608Fから15分以上空いた格好なので津田沼以西で乗り込みを極力抑える必要がある)が取られていました。
その中で気になったのが、幕張出庫の742Fのあと、折り返しの始発電車に関して流れていたアナウンスです。
いわく、ダイヤ乱れのため、整列乗車を中止するというのです。
時間がタイトになって一旦ドア閉めをする余裕が無い、ということに見えますが、これ、実はおかしな話です。乗務員は入れ替わるので、一旦ドア閉め扱いを終えてから戻るのにどれだけの「ロスタイム」かいな、という話ですし、折り返し時間の確保という意味では、この整列乗車において、到着から一旦ドア閉めまでに時間がかかる主因はグリーン車の車内整備であり、整列乗車を中止しても時間短縮には全くなりません。
整列乗車で駅員が車内を巡回してホームに出てから、「業務放送、千葉方点検終了です」とアナウンスが流れ、増結4号車付近で白旗を振ってドア扱いを促しますが、アナウンスのタイミングはグリーン車の車内整備が終わり、整備員がホームに降りて手を上げた時なのです。
ちなみにアナウンスよりも駅員の車内巡回完了が遅れることはめったにありません。
整列乗車中止の際も、グリーン車の車内整備は必要なので、グリーン車だけ「整列乗車」になるのは、夜の東京駅での折り返し始発電車の取り扱いと一緒です。そして乗りこみ時のスピードも普通車よりも遅いです。(余談ですが東京や新橋でグリーン車の降車扱いに手間取り発車待ちがかかることもしばしばです)
そうなると、整列乗車を行わない理由がはっきり言えば無いわけです。
酷評すればダイヤ乱れにかこつけて楽をしているとも言えます。グリーン車付近の事務所からホーム先頭まで往復する手間が省けますからバイト駅員にとっては大歓迎でしょう。
しかし、乗客にとっては降車客の偏りによっては着席可能性が左右されますし、たまにいる寝過したので折り返し乗車を決め込もうとする人や、降りるけれど眠りこんでいる人をどう席から立たせるか、といった問題が降りかかるわけで、ダイヤ乱れという異常時こそそういう無用なトラブルは排除して少しでも不快感を除去すべきなのに、なぜ逆の対応になるんでしょうね。
実際に見ていてやらない理由というか、やれない理由が無いだけに、あとはやる気というか姿勢の問題です。
Re: 小田急との比較/北総ルート 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月26日(土)11時14分45秒 返信・引用
印旛沼が今とは異なる形だったのは失念していました。失礼しました。
印旛沼の北側には我孫子線がすでにあったわけで、京成としては厳しい地形を縫うしかなかったわけですね。
京成のルーティングで問題視するならば、戦後の地下鉄乗り入れ計画で1号線〜東中山という既成事実を作ってしまったことでしょうか。自社での新橋乗り入れの可能性を残すために不利なルートを受け入れたのかもしれませんが、結果10号線建設時に京王の意向が通ってしまった感じがします。
(京王が改軌を飲んでいたら、運輸省の京成救済策として、一之江あたりまで京成の路線になっていたのでは。馬喰横山と東日本橋の別駅扱いは、京成が2ルートで乗り入れてくることを考慮した?)
小田急との比較/北総ルート 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月25日(金)22時24分1秒 返信・引用 編集済
京成のルート談義をすると必ず小田急が引き合いに出て、何も無いところを一直線に小田原まで引いた「先見性」が語られることが多いですが、もともとこの沿線には津久井道や大山街道があったわけで、京成にとっての成田街道と同じと言えます。
また関東大震災後、下町から南多摩郡などへ住宅がシフトしていた時期であり、浅草、下町がメインだった京成の建設時期とは状況が違います。
建設、開業時期が被る西武(旧武蔵野鉄道)(池袋線)が微妙ですが、やはり街道筋であるわけです。(東京街道)また、入間地方は当時の主力産業であった養蚕、織物業の集積があり、貨物輸送を柱に据えた鉄道建設でもあり、このあたりは「鉄道」は官鉄が既にあり、「軌道」で開業した京成との違いです。
また武蔵野鉄道に対抗して旧川越鉄道が都心乗り入れを図って開通させた旧西武鉄道(新宿線)は東上鉄道と武蔵野鉄道の挟撃を打開するための戦略投資であり、事情が若干異なります。
街道沿いに発達した東京西郊の事情を見れば、京成の成田街道沿いの展開はさほどおかしくないわけで(船橋から大和田まで大久保を経由したのは、現在の松が丘のバス通りまで広がっていた陸軍演習場の存在と、陸軍施設が演習場の南側に集中していたことを考えたら、妥当な選択といえる)、逆に人口集積どころか街道も無い北総線沿線を選択したら無謀どころの話でなかったでしょう。
ついでに言えば、北総ルートをとる場合、1969年に干拓のひとまずの完成を見るまで、臼井から安食の間に印旛沼が広がっていたことを忘れてはいけないでしょう。京成が臼井から佐倉の間、平野部なのに速度制限がかかるカーブを繰り返しているのは、江原の台地と印旛沼の汀線を避けるルートが極めて限定されるからであり、北総ルートを取り、印旛沼とその周辺に広がる低湿地を交わすには、1982年の東北新幹線開通まで存在しなかった2km超の鉄道橋の架橋が必要であり、それを明治末期から大正初期に計画できないことは言うまでも無いでしょう。
ちなみにR464甚兵衛大橋やr65印旛大橋(干拓完成で地続きになって廃橋)、r64船戸大橋など印旛沼を横切る橋が竣工したのは干拓が進んだ1950年代後半から1960年代前半であり、それまでは渡船だったのです。
Re: 京成の経路と治水問題 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月25日(金)01時39分53秒 返信・引用
総武本線が行徳を経由しないへの字ルートを取ったのは、そういう理由もあったわけですね。
ちなみに京成本線の蛇行ルートについては、資金調達に苦労した名残と考えますがいかがでしょうか。東京〜成田山を一度に開業させるだけの資金を調達できず、柴又や千葉市への支線で日銭を稼ぎながら、ようやく成田までたどり着いたという推測です。
やや乱暴な比較ですが、小田急や武蔵野(西武池袋)は、人口希薄地帯に相当な距離を一気に開業させているんですよね。金さえ集まれば、京成も北総ルートで成田まで一気に開業させたかもしれません。
京成の経路と治水問題 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月25日(金)00時21分55秒 返信・引用
水害、治水関係でもうひとつ。
京成のルートが対都心で大きく北に迂回しているため、当初のルーティングに問題があったのでは、と言う声をよく聞きます。
これについては創業当時、つまり、大正初期の治水事情が影響していることを無視できません。
つまり、現在の東西線ルートや京葉道路ルートは、放水路がなかった当時の江戸川の左岸の氾濫原とも言える地域をどうクリアするかと言う課題があります。また、江戸川区の南部については、今もゼロメートル地帯であるように、高度成長期の地盤沈下を待つまでもなく「低い土地」であり、小河川や堀が縦横に張り巡らされ、金魚の飼育生産が産業だったエリアであることを考える必要があります。(さらに都心よりになると、やや南ですが「砂町」という地質を表すような地名がありますよね。江戸時代は砂村と呼ばれ、砂地で栽培に適していたこともあり、野菜の名産地でした)
旧千葉街道も市川で渡河していますし、船橋で分岐する行徳街道はありますが、行徳から江戸(東京)へは水運に頼るような土地柄ですから(浦安などへの蒸気船航路は昭和初期までありました)、鉄道の渡河点は市川しかないと言えます。
ここから都内ですが、総武鉄道が小岩、平井を経て本所錦糸町に至っていますが、京成は高砂(曲金)まで北上しています。
さらに千住大橋を経て上野へのルートは「筑波高速度鉄道」の免許を利用したが故の大回りであることは間違いありませんが、押上からのルートとして高砂回りはどうなのか。
これは2つの要因があるわけで、まず、浅草という東都随一の繁華街へのアクセスを考えたとき、市街地との境界線だった北十間川以北を通る必要があり、さらに荒川放水路、新中川開削前の中川をどこで越すかと考えれば、急に蛇行を始める高砂以南に適地はなく、平井(逆井)でようやく落ち着く感じで、総武鉄道はここで中川を越しています。
荒川放水路計画は出てきていましたが、これは今の隅田川対策であり、中川リスクと言う意味では対応が完了するのは、新中川の計画が利根川増補とリンクする形で1939年に策定され、戦後の1963年に完成するのを待つ必要があります。
しかもそれでも水田地帯や湿地帯で工事が難渋し、工費が増加していますし。
もちろん総武鉄道があり、本佐倉道(今のR14と近接)はそれに並行していますが、対浅草で見れば、平井まで南下すると浅草へのアクセスが悪く、今度は小岩から浅草まで、南に大きく迂回している、という話になります。
その後浅草が衰退し、通勤輸送は山手線の南側が専らになる、というのは大正初期に分かる話ではなく、江戸時代からの市街地を買収して都心に向かうこともまた考えにない話です。そう、戦災どころか関東大震災の前ということも重要なファクターです。
水害リスクと言う意味では、1917年9月のいわゆる「大正6年の大津波」があるわけです。これは台風に伴う高潮なんですが、行徳など京葉間の塩田が壊滅し、室町後期からの長い歴史に幕を閉じたほどの大水害で、市川駅が浸水したとか、内陸部の浸水もひどく、今般の津波対策でも浸水域の想定において引き合いに出されることが多いです。
京成の建設、開業においては、これに先立つ明治年間、荒川放水路開削を決意させた1910年の大水害を経ていますし、その前には1896年にも大水害が発生しています。それらを無視して低地を短絡するルートで建設していたら、軌道法で地べたを走る京成は、船橋まで開通していた1917年に「全線壊滅、事業廃止」という運命になっていた可能性が高いですし、その後別の事業者が乗り出したとしても、低地ルートは絶対に取らなかったでしょう。
ちなみに史実でも、1917年の台風では少なくない被害を出しています。高砂車庫の倒壊に、電燈部門は行徳、浦安地区で電柱などが跡形もなく流されています。
利根川増補と新京成 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月23日(水)00時41分41秒 返信・引用 編集済
もうひとつ、ぜんぜん手がついてない「利根川増補計画」の話ですが、これに関係する資料を見ていてふと思ったのが、鉄道連隊の線路を利用した新京成が、大規模に短絡線を建設した二和向台−初富間の話です。
二和西付近をU字型に迂回しているこの区間、さすがに曲がりすぎなので短絡した、と言う説明です。
なお、初富−北初富間の大迂回は残っていますが、これは東武野田線との交差を新鎌ヶ谷付近に求めざるを得ない(六実にかけての谷津に下る掘割を利用。ここでなければ平面交差か、新京成が築堤を建設する必要がある)事が理由でしょう。
ところが利根川増補と言う補助線を引くと、別の理由も見えてきます。
つまり、迂回区間のU字の「底」のすぐ東側にあたるエリアが、ちょうど利根川増補による大運河計画の用地にかかるのです。
運河にかかる区間を鉄道連隊線は斜めに横切っており、橋梁で交差するとなると、ショートカットする格好で新線が必要です。(通常は長さを最短にし、流路を支障しないように直角に架橋する)
ショートカットする橋梁に向かう築堤も必要、と言うことを考えたら、運河を直線で横切れる現在の位置に新線を建設したほうが安上がり、という判断はなかったのか。
1923年頃、荒川放水路建設に伴い東武、京成などが線路の移設を余儀なくされ、城東電軌に至っては、放水路用地の前後で開通させたものの都電になっても最後まで開通できなかったわけで、新京成の黎明期、新河川開削のリスクは非常に現実的なものとして認識されていたでしょうから。
いや、よしんば架橋が不可能になったとしても、r57に相当する地道があるため、架橋されることは間違いないでしょうから、都電のようにバスでの連絡が可能ですが、鉄道連隊線の運河との交差地点に架橋される保障はないということもあったかも。
なお、ここでいう利根川増補計画は1939年に決定した湖北〜鎌ヶ谷〜船橋の大運河(増補計画はこの運河を含む利根川流域全体の計画)ですが、1949年には湖北から花見川に結ぶ計画に変更され、船橋市を南北に縦断(東西に分断)する大運河計画は消滅しました。このショートカット区間の開通は鎌ヶ谷大仏までが1949年1月で、初富までが同年10月ですから、利根川増補計画の旧運河案を踏まえて免許申請を行っても不思議ではありません。
ちなみに花見川までの運河計画が正式に中止になったのは何とつい先日とも言える2005年ですが、それまで利根川流域の治水計画にはこの運河の分担分を計上していました。また中止できたのも、いささか数合わせ的な対応であり、利根川下流域の洪水対策が1939年の策定以来、上流と下流での分担にアンバランスが生じているといえますが、上流で計算されている八ツ場ダムが未完成の現状は、さらに下流域の分担に問題を与えているといえます。
Re: イフの連鎖 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月22日(火)07時12分41秒 返信・引用
乗っかってばかりですみません…。
10号線ですが、事業主体が東京都のままであったとするならば、行徳や西船橋といった千葉県内を取り回すルートが取れたでしょうか。(営団勝田台線ですら東京を外れすぎると問題になったわけです)
となると埼玉高速鉄道方式になり、開業遅れ&高運賃という結末は同じだったような気がします。
イフの連鎖 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月21日(月)23時27分0秒 返信・引用
京成新線が出来て、本線との相互接続もしくは乗り入れとなっていたら、総武線並行区間の負荷は確実に下がるわけです。
一方で千葉NT計画自体は出来るでしょうから、そこへのアプローチが問題になります。前に書いたとおり、新京成柴又延伸とのコラボで、五香付近から白井方面に伸びる路線が出てきますが、本来本命だった都営新宿線ルートが実際と同じく本命だったかどうか。
東西線に相当する路線がなく、京成新線が京葉線の位置を通る場合、船堀まで来た10号線計画は一之江から瑞江に向かわずに、行徳に出て、西船橋に向かう路線として計画された可能性があります。(西船橋は東西線開通時に出来た駅ですが、小金線計画があることから、いずれ建設されると見られます)
そこから成田新幹線ルートに入るか、東葉高速ルートに入るか、いずれにしても船橋市の公団住宅の集積を意識した新線計画が出てきて、それと千葉NT計画がリンクした新線になったでしょう。
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Re: 歴史のイフ 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月20日(日)23時48分48秒 返信・引用
総武線・東西線方面にとっては、現状の方がよかったと言えそうですね。高運賃問題こそありますが、北総線方面も立派なインフラが手に入ったことに軍配が上がるでしょうか。
歴史のイフにすがりたくなるのは京成本線・京葉線方面で、京成新線がオリエンタルランドとのシナジー効果を発揮していれば、京成は東急と肩を並べるデベロッパーになっていたかもしれません。京葉線は西船橋〜蘇我間のみで、貨物線の色彩が濃くなっていたことでしょう。
ちなみに三月改正での潮見・越中島の停車本数増、東西線からのシフトを狙っているとの見方もあるようですね。京成新線が実現していたら…を垣間見る機会になるのかもしれません。
歴史のイフ 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月20日(日)21時14分21秒 返信・引用
そうなんですよね。歴史のイフのおもしろさというか複雑さというか、前提条件が変わるとその後がガラッと変わるんですよね。
緩行線が東陽町だと快速への集中が懸念されるところですし、やり方を間違えるとおおさか東線のようにインナーシティ路線になって「五方面」としては戦力外になる懸念があります。
一方で京成新線が成立し、さらに都心延伸もあったとしたら、総武線の負荷は大幅に下がったでしょうし、それこそ谷津あたりで新線と本線の相互接続が出来ていたら、京成本線沿線の開発が深度化して、東葉線が出来ないと仮定したら、現在の東葉沿線(特に緑が丘やゆりのき台)は開発されていなかったかも。
国鉄東陽町線 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月19日(土)21時10分37秒 返信・引用
もしそうなっていたとするならば…
●緩行線が東西線に直通して(東西線は西船橋に来ない)、快速線は秋葉原経由で中央線に直通していたでしょうね。御茶ノ水を改良して中央快速線に直通させておけば、千葉新宿ラインが労せず実現しました。
●東陽町と錦糸町は立場が逆転して、洲崎新地も健在だったかも(笑)。21世紀になるまで錦糸町に地下鉄が来ないなんてこともなかったでしょう。
●東西線が西船橋に来ないとなると営団勝田台線という話もないわけで、逆説的ですが京成本線がパンクしてバイパスが必要になりますね。京成新線が終点を千葉寺から勝田台に変えて実現したかもしれません。
せめぎ合いの4年間か 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月19日(土)18時34分9秒 返信・引用
というわけでにっしーさんの情報ですが、1960年の都市交通審議会の段階では営団5号線(東西線)の東陽町を狙って各社が千葉方面への延伸を狙っているという構図であることが分かります。
これが1962年の答申では5号線自体の西船橋延伸が「検討」となり、1964年に延伸が決定します。
おそらく5号線乗り入れを前提にした建設が初期段階の構想であり、結局営団自身による延伸が出てきた中で、1967年に千葉県と埋め立てに関する協定が成立したオリエンタルランド構想とのリンクにシフトしたが、今度は国鉄の貨物線計画と近接してしまい、最終的に国鉄と営団という「公」に負けたということでしょうか。
ただ、常に5号線東陽町の存在を意識していることを考えると、国鉄貨物線への「乗り入れ」も意識していたかもしれません。
結局独自路線で小湊新線への乗り入れを内容とする免許申請になりましたが、このあたりの調整が新生が1964年まで遅れた原因かもしれません。
国鉄の計画も興味深いです。1964年に現在の総武快速線、当時は「新総武線」での東京乗り入れを決定するまでの最後の迷いでしょうか。海底駅を除けば日本一深い駅を擁する新線はやはり難工事であり、一方で西側では中央線と乗り入れる5号線がいい位置に終点を置いているうえに、そこに貨物線が伸びているのですから、安直なプランとしてでてきたんでしょう。
工期や工費は安かったでしょうが、もし快速線が東陽町経由だと微妙でしたね。中野方面に乗り入れる通勤型電車が10連で走りますが、緩行線や京成新線との競争力が微妙になっていたでしょうから。
京成の有楽町延長もそういうルートでしたか。戦後の焼け跡闇市状態ですから、浅草橋まで高架というのもあり得る選択肢だったのでしょう。確かに位置関係的には阪神なんば線の西九条から九条にかけてのシチュエーションと似ていますが、「街が分断される」と反対運動が起き、久しく浅草橋止まりだった、というどこかで聞いたような帰結を辿っていたかも。
地下に潜る位置は、神田川を高架で越えたとしたら、靖国通り(大正通り)がありますから、その先でしょうね。ただそれだとかなり市街地に入りますから、総武線手前で潜りそうです。
初夢の続き(再掲) 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月18日(金)23時51分48秒 返信・引用
大雪情報関連でにっしーさんから頂いたせっかくの記事が流れてしまったので再掲します。
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初夢の続き 投稿者:にっしー 投稿日:2013年 1月14日(月)14時06分49秒 返信・引用
初めまして。いつも興味深く拝読させて頂いております。
さて、京成の東陽町ー千葉寺新線ですが、興味があったので少し調べてみました。昭和35年12月の都市交通審議会の資料で、京成自身が湾岸地区の埋立てに関して、1.2本、都心直行の鉄道が必要であること。「地下鉄5号線が深川東陽町まで計画されているし、千葉県では工場用貨物輸送のため臨海鉄道の建設を熱望している際であるから、両者を根幹として何等かこの地区の輸送対策が樹立されなければならないし当社もこれに協力を惜しまぬ所存である。」(原文まま)と言っています。
一方で国鉄は、5号線東陽町から小名木川貨物線経由で亀戸から市川までの貼り付け線増案を出しています。確かに東西線が北上するのであれば、京成が浦安、行徳地区の空白地帯を埋めたいと考えるのも普通な考えかと思います。また、この案が実現していたら、総武快速は中野へ?房総特急はまだ両国始発?と、こちらも妄想が広がります。
別ですが、ピクトリアルのバックナンバーを見ていたら、戦後すぐに京成が出した有楽町延長案は、押上から浅草橋までが高架。そこから地下だったようです。阪神西九条のように、京成が総武線の高架を乗り越え、神田川を渡ってすぐに地下にもぐるのだったのでしょうか。と妄想するのも楽しものです。
少しはマシになった運転整理 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月17日(木)20時53分57秒 返信・引用 編集済
謝ればいいってもんじゃありませんが、昨日の新京成バスの事故、乗客に怪我が出てるんですから、「お詫び」の掲出くらいあってもと思いますね。メディアでも報道されてるんですし。返金の呼びかけを兼ねるとはいえ、8件で合計最大640円のつり銭間違いを「特別なお知らせ」と掲出し続けているのとバランスが悪い感じです。
さて、昨日は蛇窪信号所近くの死亡労災事故で横須賀線が止まり、総武快速線も乱れました。
東京折り返しで運転していましたが、ちょっと様相が違っていたのはNEXの扱いです。東京折り返しをしていたようで、駅の掲示にNEXに「始発」がついていましたが、そのせいでしょうか、新宿に流す編成が2番線で開通待ちして、折り返しが3番線を塞ぎ、快速の折り返しに手間取っていました。
19時半頃に東京駅に行ったんですが、ちょうど60分から70分遅れという感じで運転しており、律儀に2049M、1851F、1741Fという順序で運転していましたが、折り返しの際に当然運用番号が変わり、行先も変わるため、混乱もありました。
1741Fとして運用される電車がそれで、もともと1779Fになると言う指示を受けていたのでしょう、千葉行きの表示で到着しましたが、駅側が「79F、津田沼行きに変更」と言っているのに車掌は「千葉行きで運転します」と言っており、相変わらずと思っていたら、駅側が「千葉行きになります」と揃えたのに、最終的に車掌が「津田沼行きに変更になりました」と、元の鞘とはいえ二転三転です。
車掌が律儀に62分遅れです、と言っていることから、1741Fとしての運行のようですが、そんな元ダイヤとの比較はいいから、行先は正確にお願いしたいものです。
ただ、「誤案内」レベルとしてはだいぶマシでして、発車順序について決まらないものは案内しない、と言う姿勢を徹底しており、1741Fの後は所定通り1771Fが来ると案内しながら、番線は決まるまで案内していませんでした。そういう意味で惜しいのは、大階段上下の電光掲示で、ホームで案内していない電車の番線を出しているんですよね。
ここで番線だけ「消す」機能があればいいのですが。時刻については消したり、「先発」「後発」でごまかす機能があるのですから。
様子が分かりました 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月16日(水)23時28分6秒 返信・引用 編集済
おお、動画があったとは。しかも空撮まで(驚)情報ありがとうございます。
NHKと日テレがヘリを飛ばしていたということは、相当騒がしかったでしょうな。
事故の様子は予想と違ってました。一方通行から出るところ、滝不動方面に下る道路手前で一旦停止しようとして滑ったんですね。まあ塀にぶつかったのは痛いですが、滑ったまま前方の道路に流れ出ていたら別の事故の可能性もあっただけに、このほうが良かったのかもしれません。
当該はN-M44ですが、高01のさつき台行きで朝の7時から3人「も」乗っているのも驚きです。
Re: バスの情報と思わぬ地名 投稿者:名無野原 投稿日:2013年 1月16日(水)22時17分10秒 返信・引用
> No.2576[元記事へ]
> そうした中で、産経が伝えたニュースで、まさかの地名が全国ニュースです。
> 16日朝に、船橋市大穴南2丁目で新京成バスがスリップし、沿道の飲食店に突っ込んだとのこと。
> 乗客3人が怪我をしたそうですが、情報筋によると大穴小近くの寿司屋という話もあり、竹薮沿いに進んで滝不動方面への道に合流した際に切り過ぎて後ろが滑って突っ込んだのでしょうか。右前部が壊れたと言うことですし。
>
> もしくはすぐ先の路地からクルマが出てきて思わずハンドルを切ったか。あのあたりの路地は、同じように見えて、まっすぐ抜けられるかどうかで交通量が全然違います。寿司屋のところは結構出てきますし。
>
NHK千葉と日テレNews24で動画がありますケド。
http://www3.nhk.or.jp/lnews/chiba/1084824771.html?t=1358342130866
http://www.news24.jp/articles/2013/01/16/07221316.html#
バスの情報と思わぬ地名 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月16日(水)22時12分9秒 返信・引用
未だに東京大手町で4cm、千葉で2cmの積雪深が計上されており、路面の凍結が続きます。首都高の通行止は埼玉区間だけになりましたが、足掛け4日目に突入は確実であり、ランプ閉鎖も東京区間でもまだ残っており、交通への影響が続いています。
鉄道の情報、道路の情報はそれなりに出ていますが、バスの情報はなかなか出ません。せいぜい高速バスの状況が出るくらいですし、平和交通のように路線バスも含めた情報が出るのは少ないようです。ただ、千差万別の道路状況に応じて状況が違うはずなのに、全部をひと括りにして「終日通常運行」では中途半端に過ぎますが。
ところで大雪から一夜明けた15日の京成バスのサイトは前に指摘したとおり、高速バス情報にしかアクセスできませんでしたが、そこにあったのは、午前中は全便運休だが、鹿島線の東京行きと、津田沼リムジンのJR津田沼6時発までの4便のみ運行する、という記載です。
おそらく鹿島線はビジネス需要を捌かないといけなかったのでしょうし、津田沼リムジンも3連休明けの早朝便の予約が多かったのでしょう。早い時間帯は京葉道路、東関道、湾岸線とも通行可能でしたから、スタッドレスを履いて突っ込んでいったのでしょう。東関道と湾岸線はその後ダメになったため、神がかりのような判断です。
一方、路線バスの状況はどうなのか。今朝のCX系のニュースショーでは、タイヤがロックして滑っていく千葉内陸バスの画が映っていましたが、遅れはどれだけ出ても「通常運行」だったのか?昨日の津田沼では、田喜野井の社会実験バスも含めて動いていましたが。
そうした中で、産経が伝えたニュースで、まさかの地名が全国ニュースです。
16日朝に、船橋市大穴南2丁目で新京成バスがスリップし、沿道の飲食店に突っ込んだとのこと。
乗客3人が怪我をしたそうですが、情報筋によると大穴小近くの寿司屋という話もあり、竹薮沿いに進んで滝不動方面への道に合流した際に切り過ぎて後ろが滑って突っ込んだのでしょうか。右前部が壊れたと言うことですし。
もしくはすぐ先の路地からクルマが出てきて思わずハンドルを切ったか。あのあたりの路地は、同じように見えて、まっすぐ抜けられるかどうかで交通量が全然違います。寿司屋のところは結構出てきますし。
異常時の情報提供と収集 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月16日(水)22時09分51秒 返信・引用
異常時の情報提供については、JR東日本は比較的こまめに提供しています。もちろんタイムリーかと言うと若干のタイムラグがあったり、現場感覚や実態とずれていることもあるのですが、それでもまともな域でしょう。サイトの安定性もありますし。
しかし全体的に見ると情報提供は未だしの会社が多く、また適時性という意味ではかなり難があります。利用者としては動くかどうかのギリギリのところで悩んでいるわけですし、刻一刻変化する情勢に翻弄されている側からすると、動いていると言う表示で言ったら騙された、しかも前回確認した時点でもう止まっていた、というのではやりきれません。
こうした状況での「なうなうメディア」を考えると、まさに「なう」をアップするのですから強いです。
しかし最大の問題は、情報の提供が発信者単位であり、発信者が分身の術でも使わない限り、同時に複数の路線情報を提供できないという当たり前の事実です。
関係各線に強いアカウントを複数登録してアクセスしていくと言う手もありますが、各路線のそれもピンポイント情報の集大成であり、全体を鳥瞰するには無理があります。
一方で、SNSやソーシャルメディア以前から、掲示板へのアップと言う手段があるわけで、悪名高い?「2ちゃんねる」も、リアルタイムの交通情報と言う意味では、ソーシャルメディアよりも使い勝手がいいのです。
つまり、路線単位、地域単位のプラットフォームに複数の情報源からリアルタイムの書き込みがあることで、路線全体の状況を鳥瞰することが可能です。総武線と京成線の板を見比べて、江戸川などの風速規制による減速や抑止の状況を確認して、乗るべき路線を選択すると言った芸当は、ソーシャルメディアでは難しいです。
同じ掲示板でも、例えば拙掲示板でも公式情報を転記したりしていますが、やはり大数の法則と言うか、参加者の数に絶対的な大差があるわけで、ちょうど焦点の場所にいればまだしも、いなければ現場の情報は入ってきません。そういう点では、日頃その弊害ばかり言われる匿名掲示板にもメリットがあると言うのを再認識できます。
震災のときにも「なうなうメディア」の類を推奨する声が上がりましたが、公共セクターの公式アカウントが公式情報を発信すると言う、複数の情報源を必要としないケース、もしくは複数の情報を集めて発信するというスタイルのアカウントでは確かに有効です。それとて公式サイトでの発信とどれだけの優位性があるのかが疑問ですし、津波情報のような適時性が絶対条件のケースも、一方で情報の網羅性というか、面的な情報提供が不可能なことには変わりがないわけで、デマ情報の選別、排除と言う問題はありますが、掲示板のようなフリーアクセスのプラットフォームに情報を広く集めるほうが有効と言えるわけで、モバイルアクセスに対応した公式サイトと掲示板のコンボに対する優位性をどれだけ示せるかというと、現時点では見えないと思います。
Re: 情報提供の問題 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月16日(水)08時18分31秒 返信・引用
震災後に東武が亀戸線や大師線の間引き運転の情報を出していなくて、現地で苦笑いしたことを思い出します。まあ東武や京成、それに国鉄の殿様商売のおかげで弊社は生き残ってきたのですが(笑)
なうなうメディアが礼賛されるのは、そのシンプルさにもあるんでしょうね。
情報提供の問題 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月15日(火)22時57分58秒 返信・引用
現場の案内が混乱するのがJR名物?なら、ネットでの情報提供が混乱するのが私鉄でしょうか。
今回の大雪で呆れたのが新京成のサイトです。雪が激しくなった14日の午後にサーバーがダウンして、15日の11時頃までそのままでは話になりません。15日も京成千葉線への直通中止に伴う新津田沼−京成津田沼間の運休があるわけで、情報提供にまったく寄与できない公式サイトでは困ります。
そもそもトップページに無用なフラッシュを仕込んだり、Ciaoのページをリンクさせるついでに動画を仕込んだり(さすがに再生ボタンを押さないと再生しませんが)、無駄に重くなったり、会社から情報を確認しようとしたらアクセス拒否されるようなつくりになっているのは、「公共交通機関」の情報提供としてはっきり言って失格です。(これは新京成に限らず、交通事業者の多くに見られる「勘違い」です)
ちなみに会社では交通事業者の情報にアクセスすることがあるというのに、妙に動画サイトへのリンクがあったりすると、業務外のサイト閲覧を阻止するフィルタリングの対象となり、当該部分だけ表示されなかったり、はなはだしい場合はサイト全体の閲覧が拒否されますが、そんな作りでいいのか。今のトップページは重いしすぐ落ちるし最悪です。
あとは京成バス。
臨時のトップページとして高速バスの運行情報に切り替えるのは親切ですが、通常のトップページにアクセスできません。
普通はミラーサイトとして通常のトップページを移設して、そこへのリンクを臨時のトップページに貼るのですが、それがありません。今日使う情報(それも高速バス)だけが求められているわけじゃないのに、どういうつもりなのか。両社とも情報提供に対する姿勢が問われます。
今朝の状況 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月15日(火)22時56分57秒 返信・引用
昨日の大雪の影響が懸念されましたが、朝起きてみると鉄道は日暮里舎人ライナーを除き平常との事で安心しました。
ただ、実は6時台当たりの交通情報は当てにならないわけで、ラッシュ時間帯に入り、列車本数が増えると問題が顕在化してくることが多く、今日もそうでした。
幕張出区の津田沼7時51分始発の742Fに乗ったのですが、駅ではしきりに次の始発868Fは大幅に遅れているので742Fに乗るようにと叫んでいました。横須賀線内での遅れとの事ですが、1本前の始発752Fは、横須賀線からの553Fの折り返しですが、さほど遅れずに出ており、その後に遅れが発生したようです。(東海道線の踏切安全確認の影響のようです)
10分遅れとか言わずに「大幅」と言うからには相当なんだな、と感じましたし、駅の始発待ちの行列も、遅れ時間の目安がなく、こんなときに往々にしてある幕張取り込みウヤへの変更リスクもあるため、ほとんど解消という状態でした。
742F自体も先行が詰まっているようでノロノロとなり、船橋で早くも3分程度の遅れ。錦糸町で7分、東京で10分の遅れになりました。で、下りの様子ですが、津田沼7時45分の565Fが船橋時点で20分近い遅れになっており、確かに「大幅」に見えました。
ところがこれを市川で抜いた2009M、565F、後続の4001Mと団子状態で続き、4001Mに抜かれた669Fも続きました。
これだと船橋で15分遅れ程度になるので、868Fとして津田沼折り返しは10分強の遅れで行けそうです。さらに後続は続いており、津田沼で2本後の始発になる723Fは市川で8分程度の遅れに収束しています。適切に運転整理を行えば、折り返しの822F(津田沼8時11分発)は5分程度の遅れにとどめられるはずで、ならば「大幅」はどうよ、と言う感じです。
遅延の「親玉」は565Fのようですが、後が団子で続いているのは分かっているはずですから、これも結局恒例の「誤案内」でしょうか。
Re: 雪は止んだ 投稿者:takapee200 投稿日:2013年 1月15日(火)11時50分51秒 返信・引用
> No.2570[元記事へ]
エル・アルコンさんへのお返事です。
我家の父親も,昨日は赤坂見附〜銀座線〜日本橋〜東西線&東葉高速線〜北習志野〜新京成線〜高根木戸の経路で何とか帰宅出来ました,普段は丸ノ内線〜東京〜総武快速線〜津田沼【徒歩】新津田沼〜新京成線ルートですが,総武線【快速・緩行共に】が午後5時半〜6時頃まで不通となり,振替輸送対応でした。
雪は止んだ 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月14日(月)21時56分31秒 返信・引用 編集済
◇鉄道情報
【運転見合わせ】
内房線(上総湊−館山・強風)
我孫子線(全線・架線切断)
※常磐快速線は取手までの快速のみ運転見合わせ。中電は運転再開。
東武スカイツリーライン(押上−曳舟)
東武野田線(春日部−七光台)
◇道路情報
【通行止】
第三京浜(全線)
横横道路(新保土ヶ谷−狩場除く全線)
中央道(上野原−伊北、河口湖)
東富士五湖道路(全線)
長野道(岡谷J−更埴)
関越道(練馬−本庄児玉)
上信越道(松井田妙義−坂城)
東北道(川口J−館林、那須−福島西)
磐越道(いわき三和−磐梯熱海)
常磐道(三郷J−岩間)
圏央道(青梅−桶川北本、白岡菖蒲−久喜白岡J、つくば中央−稲敷)
京葉道(全線)
千葉東金道路(全線)
アクアライン(全線)
アクア連絡道(袖ヶ浦→木更津金田)
【首都高通行止】
3号線(三軒茶屋→用賀、用賀→谷町J)
5号線方面(高島平→さいたま見沼、さいたま見沼→戸田南)
7号線(一之江→篠崎)
湾岸線(東扇島−幸浦)
狩場線(石川町→本牧J、本牧J→狩場)
大黒線(全線)
川崎線(殿町→大師)
【首都高閉鎖入路】
東京線、埼玉線は三郷以外全部閉鎖
神奈川線の通行止区間外は大師、生麦、東神奈川、横浜駅東口、みなとみらい、永田、花ノ木が閉鎖
【主な一般道】
レインボーブリッジ一般部
ゲートブリッジ
言問橋下り線
(船取線中野木は解除されています)
◇航空関係(東阪間)
NH150は関空をほぼ定刻に出発。
NH416は神戸を大幅に遅れて門限後の22時35分出発予定。
成田発のNH2177、2179は19時半過ぎに相次いで出発済み。
なお明朝のNH962、NH014、NH016は欠航。
BC116は約15分遅れで運行済。
MQ024は約4時間半遅れで運行済。
GK108は約20分遅れで運行済。
(GK107、GK102は例の不祥事でもともと欠航でした。失礼しました)
交通情報続報 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月14日(月)19時17分24秒 返信・引用 編集済
◇鉄道情報
【運転再開】
総武快速線、横須賀線、東海道線、京浜東北線、高崎線、水戸線。
運行本数減で運転しており、総武快速は5割程度です。
【運転見合わせ更新】
見合わせ情報に東金線が入ってませんでした。すみません。
内房線は館山以遠運転再開。常磐線は土浦以遠下り線のみ再開。
中央快速線は18時半前に一時期見合わせて今は再開。
久留里線久留里以遠(倒竹)
◇道路情報
中央道の通行止は伊北までに短縮。
横横道路は狩場−新保土ヶ谷の利用が可能に
東北道通行止は那須−本宮が福島西までに。
磐越道は磐梯河東−会津若松も通行止に。
関越道のタイヤ規制は湯沢以北に。
上信越道のタイヤ規制も通行止区間の松井田妙義以南は解除です。
首都高3号線が上り全線、下りは三軒茶屋→用賀が通行止に。
首都高は夜に入り、路面凍結で区間が増えそうです。
あと大切な情報を忘れていました。
首都高のランプの大半が使えません。通り抜けが出来ますが、入路閉鎖が多いです。
東京・埼玉区間は全入路が閉鎖。神奈川区間(通行止区間以外)では大師、生麦、東神奈川、横浜駅東口、みなとみらい、永田、花ノ木が閉鎖です。
◇航空情報
JA186、NH148は欠航決定。
定刻14時20分、18時15分に変更の関空発MQ024はまだ出ていませんが欠航にはなっていません。
現時点で関西から羽田への便はNH416、NH150、BC116とこのMQ024だけが運行予定です。
なお成田発は何とか飛んでいるようですが、伊丹行きのNH2177、2179とも定刻を過ぎていますがまだ出していません。JALはJA3005が18時20分に出発。JA3007は欠航です。
おっと、LCCを忘れていました。
ジェットスターの成田関空線、GK107が成田18時、GK102が関空20時、GK108が20時40分出発予定と出ていますが...
→GK107、GK102は例の不祥事で欠航でした
Re: 学習効果に従った帰宅指示 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月14日(月)18時18分9秒 返信・引用
武蔵野線は京葉線直通を切ったせいか、ところどころ抜け目が出てますね。レイクタウンやら新三郷やら、陸の孤島になりかねない集客施設があるせいか、JREらしからぬ頑張りです(笑)
企業が帰宅命令を出すこと自体は否定しませんが、ビリオメディアでありとあらゆる情報が掌で得られる世の中になったわけですから、こと気象災害においては「待つ」という選択肢も必要ではないかと…。
学習効果に従った帰宅指示 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月14日(月)17時48分6秒 返信・引用
新京成の公式がつながらない...
バスビジョンはつながるので見ると、松ヶ丘のバス通りで20分程度の遅れになっていますね。
成田街道は無ダイヤ状態。30分以上遅れのバスが見えます。
三咲方面も無ダイヤ状態です。
●帰宅指示の問題
daiさん、お疲れ様です。
帰宅指示の問題は、交通機関の対応と裏腹ですからひとえに企業を責められないですね。
嵐をやり過ごして運転が順次再開できるのであれば、ちょっと一杯やって待つか、という人も出てきますが、最近の交通機関の状況を見たら、動いているうちに帰らないと大変なことになるわけで、利用者も企業も「学習効果」で動いているわけです。
そういう意味では明朝は雪が融けきらない早朝から逆に通勤客が集中して、転倒災害などが続出するでしょうが、これも交通機関に対する「不信感」の結果と言えます。
交通機関以外のすべての企業は、長距離列車の運休のように「嵐になるかもしれない」という段階で業務を止めたりは出来ませんから、状況の変化に応じて帰宅指示や待機命令を出すことになります。
公共インフラが手なりで復旧するに任せる風潮がこういう悪循環を生んだとしか言いようがありません。
Re: 運行状況報告 投稿者:dai@武蔵野線 投稿日:2013年 1月14日(月)17時36分20秒 返信・引用
武蔵野線沿線の会社から帰宅中ですが、ダイヤはともかく10分間隔は維持している感じです。京葉線直通を切ってスタンドアロンにした効果でしょうか。
勤務先はトヨタのように自社カレンダーで動いているので今日は出勤日だったのですが、どうして交通機関が混乱しはじめた途端に帰宅命令を出して、混乱に拍車をかけるんでしょうね。私が独り者だからかもしれませんが、嵐をやりすごすというのも有事対応だと思います。
交通情報追加 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月14日(月)17時32分27秒 返信・引用
◇鉄道情報追加
京浜東北線は16時過ぎに運転を再開しましたが、再び見合わせています。
【運転再開】
埼京線、武蔵野線
【運転見合わせ】
東海道線
常磐線(取手以遠)
内房線(上総湊以南。強風)
動いている区間も、遅れと減便が出ています。
あと、東武亀戸線も運転を見合わせています。
◇道路情報追加
中央道の通行止は松川までに短縮になり、その先中津川まではタイヤ規制です。
【通行止】
東北道那須-本宮
磐越道いわき三和-磐梯熱海
常磐道いわき四倉→広野(その先は災害通行止)、南相馬-相馬
東富士五湖道路全線
中部横断道双葉-増穂
千葉東金道路全線(二期区間含む)
アクアライン全線(強風)
アクアライン連絡道袖ヶ浦→木更津金田(強風)
【首都高通行止】
三ツ沢線横浜駅西口→三ツ沢
5号線方面高島平→さいたま見沼、さいたま見沼→戸田南
【主な一般道路】
レインボーブリッジ一般部、ゲートブリッジ、青山通りの渋谷署から宮益坂上までの区間。
県道船取線中野木立体、木下街道下りの北方十字路付近
ベイブリッジR357内回り
【タイヤ規制】
中部横断道佐久小諸-佐久南
北関東道・東水戸道路全線
東北道の通行止区間以外
常磐道岩間-高萩
圏央道木更津J-木更津東
◇航空
羽田出発便は原則全便欠航(大阪方面行きではBC117が天候調査中)
羽田到着便は夜半以降は未定(大阪発はNH148、NH416、NH150、BC116は運行予定。JA186は手続中断中、それ以外は欠航決定)
ちなみにSFJがMQ024を関空発3時間55分遅れの18時15分に出す予定ですが、大丈夫かいな...
(まあ15時21分にMQ023を3時間6分遅れで出すという勇気ある会社ですから)
運行状況報告 投稿者:リリカルゆかりん 投稿日:2013年 1月14日(月)17時26分8秒 返信・引用
先ほど表参道から帰宅いたしました。
半蔵門線は数分の遅れがあるものの平常に近い運転、東武との直通を中止しているせいか、押上方面の電車を待つ客は少ない感じ。東急側とは直通運転を継続しているので、そちらからやってくる電車は雪化粧でした。
なお、東武との直通中止(東武押上線自体が運休)なので大手町まで行って千代田線で北千住へと案内していましたが、北千住の乗り換えや千代田線が常磐線の混乱を持ち込んでいることを考えれば、押上まで行ってスカイツリー駅へ歩くか、銀座線に乗って浅草を目指すことを促すべきではないでしょうか。
有楽町線も東武・西武との直通を中止しているものの線内は平常時に近い運行便数が確保されていました。
京葉線は通常の7割とのことですが、武蔵野線への直通分がまるまる消えて、京葉線系も減便なので通常の5割程度に感じます。ただし、客も少なく15分待たされたものの新木場で楽に座れました。
また乗り換え駅の永田町や新木場も混乱している様子は見られません。
なお、道路の方は湾岸線・R357との車列が連なる渋滞ではなく、おそるおそる進む車が多いために渋滞状態になっておりました。ただどちらにせよ、湾岸ルート、荒川河口橋はノーマルタイヤで走れるような路面状況ではなく、チェーン非携行でここを通ることはどうか避けてください。
それにしても、昨夜までの天気予報は雨であったため全くの不意打ちとなってしまったことが混乱につながったのは明らかです。
新京成の状況実見 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月14日(月)16時33分37秒 返信・引用
せっかくにっしーさんに貴重な情報を頂いたのに、大雪情報に埋もれてしまい恐縮です。
おそらくこの混乱は明日まで続くでしょうから、その後に再掲して仕切り直しとしましょうか。
さて、さっき雪の様子を見てきましたが、積雪は5cm前後という感じで思ったほど積み上がっていません。
ただし風が強く、吹雪模様になっており、時折傘が効かない突風も吹いています。
道路の状況は表通りでシャーベット状、裏通りは完全に積もりました。明朝はアイスバーン必至です。交通量は家に皆さん逃げかえったようで少なめになっています。走っているクルマはチェーンかスタッドレスですが、まだノーマルなのか空転させながらノロノロ走るクルマもいます。表通りは走れますが、一本入ったり、家の車庫入れの段階で立ち往生しますから、チェーンの携行が無い状態で走るのは止めましょう。
新京成は動いていますが、10分強の遅れ。客扱い時間を長めにとり、速度を落とし、安全確認を強化しているからでしょう。発車時にタイフォンを鳴らしています。
運休情報ですが、京成千葉線直通を中止した影響で、当該スジは新津田沼折り返しになっており、そのため新津田沼-京成津田沼間で運休が発生しています。
15時40分過ぎまでは時刻表示をしていた駅の案内器ですが、上り線の時刻表示→下り線の時刻表示→行先表示全部の順で沈黙し、15時55分頃は案内は総てアナウンスに頼っていました。(北習志野)
なお、融けた雪のため車内の床はかなり滑りやすい状況です。
また、ホームは凍結防止用の塩カル剤を駅員が撒いていましたが、足元には注意が必要です。
道路、航空情報 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月14日(月)15時27分27秒 返信・引用
道路です。
【高速道路通行止】
中央道上野原-中津川
長野道全線
関越道練馬-本庄児玉
上信越道松井田妙義-長野
東北道川口-館林、白河-本宮
磐越道いわき三和-小野、郡山東-磐梯熱海
圏央道青梅-桶川北本、白岡菖蒲-久喜白岡、つくば中央-稲敷
常磐道三郷-岩間
外環道全線
京葉道篠崎-蘇我
第三京浜全線
横横道路全線
【首都高通行止】
湾岸線東扇島以南
大黒線全線
狩場線石川町→本牧、本牧→狩場
川崎線殿町→大師
5号線方面戸田南-さいたま見沼
7号線一之江→京葉道接続
【高速道路のタイヤ規制】
東名東京-厚木
中央道高井戸-上野原、圏央道高尾山-青梅
常磐道岩間-那珂
北関東道・東水戸道路ひたちなか-桜川筑西、太田桐生-高崎
関越道本庄児玉以北
上信越道藤岡以北(通行止区間除く)
東北道宇都宮以北(通行止区間除く)
磐越道全線(通行止区間除く)
東関道湾岸市川-千葉北
館山道・富津館山道木更津北-富浦
このほか、航空はJAL、ANAが羽田発18時までの欠航を決めています。
成田発は現在運行中とあります。
鉄道情報 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月14日(月)15時07分54秒 返信・引用
13時過ぎから雪害による運転見合わせが発生しています。
【運転見合わせ】
総武快速線、総武緩行線、横須賀線、京浜東北線、埼京線、常磐快速線、武蔵野線、宇都宮線、鶴見線、我孫子線、青梅線(御嶽以遠)
我孫子線は架線切断とあり、長引きそうです。
また、強風の影響で、総武本線飯岡以東、成田線佐原以東、鹿島線延方以東が運休です。
私鉄各線では、新京成の一部運休と千葉直通の中止、京成が京急線内の影響で遅延、北総も遅延で振替委託中。
東西線はJRとの直通中止、千代田線は運転を再開したが遅延。
東武線はスカイツリーラインが半蔵門線との直通中止と遅延。野田線が大宮-柏で運転見合わせ。
各新幹線は、東海道新幹線が10分程度の遅れ。東北、上越新幹線も遅延です。
京葉線が遅れながら動いていますが、自然災害に対して最強の新京成が一部とはいえ運休とは...
初夢の続き 投稿者:にっしー 投稿日:2013年 1月14日(月)14時06分49秒 返信・引用
初めまして。いつも興味深く拝読させて頂いております。
さて、京成の東陽町ー千葉寺新線ですが、興味があったので少し調べてみました。昭和35年12月の都市交通審議会の資料で、京成自身が湾岸地区の埋立てに関して、1.2本、都心直行の鉄道が必要であること。「地下鉄5号線が深川東陽町まで計画されているし、千葉県では工場用貨物輸送のため臨海鉄道の建設を熱望している際であるから、両者を根幹として何等かこの地区の輸送対策が樹立されなければならないし当社もこれに協力を惜しまぬ所存である。」(原文まま)と言っています。
一方で国鉄は、5号線東陽町から小名木川貨物線経由で亀戸から市川までの貼り付け線増案を出しています。確かに東西線が北上するのであれば、京成が浦安、行徳地区の空白地帯を埋めたいと考えるのも普通な考えかと思います。また、この案が実現していたら、総武快速は中野へ?房総特急はまだ両国始発?と、こちらも妄想が広がります。
別ですが、ピクトリアルのバックナンバーを見ていたら、戦後すぐに京成が出した有楽町延長案は、押上から浅草橋までが高架。そこから地下だったようです。阪神西九条のように、京成が総武線の高架を乗り越え、神田川を渡ってすぐに地下にもぐるのだったのでしょうか。と妄想するのも楽しものです。
降りしきる雪 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月14日(月)13時43分50秒 返信・引用 編集済
29年前、1984年1月の大雪ほどではないとは言いましたが、ここ数年で一番の大雪になりそうです。
こうなるとは夢にも思わずに外出していた家人によると、線路の枕木が雪で完全に埋もれてしまっており、道路はまともに進めずに渋滞がはじまっています。この時点でスタッドレスかチェーンが無いと難しいでしょう。
気象庁の気象台ベースの観測値でも、13時の段階で千葉3cm、東京4cm、横浜12cmの積雪となっており、正午の段階で横浜が7cmのほかは積雪深の記録がなかったことから、今のベースだと毎時3〜5cmの積み上がりになる危険性があります。
積雪が積み上がるのが夕方までとしても、10cmないし20cm、場所によってはそれ以上もあり得ます。
レーダーでは降雨、降雪の最後尾はまだ東海地方ですし。
これは明日の通勤が心配です。
雪と屋根の話 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月14日(月)12時59分37秒 返信・引用
午前中から雪に変わり、習志野原エリアは雪化粧です。降り方が結構しっかりしており、それなりに積もりそうですが、夕方頃にはほぼ峠を越す予報なので、極端な大雪にはならないと見ています。
降りだすタイミングなどは29年前の大雪と似ていますが、さすがにそこまではないでしょう。
こうした荒天時に困るのが駅で電車を待つときですが、新京成の屋根の整備は駅の整備と連動するため、薬園台のように橋上駅化とともにほぼ全通の屋根が付くケースもあれば、逆に早い時期に駅の整備を行うと、屋根がお留守になっているケースもあります。
その典型が前原ですが、ようやく増設の工事を始めたようです。
6連ベースでも半分あるかどうかの屋根では、松戸方の利用に集中するので、6連化に伴い、「空いている車両をご利用ください」と車両ごとの平準化でごまかそうとするためにも、屋根の有無で偏倚が生じるのを避ける狙いでしょうか。特に津田沼行き側は、新津田沼と京成津田沼で松戸側の階段下に当たる位置がちょうど屋根の終わりというイメージですから。
まあ、これも痛しかゆしで、前原の改札は松戸方先頭車両が最寄りですから、特に松戸行きでは新津田沼の階段下に滞留せずに前方まで歩いてもらうという意味では、あくまで前が便利、とした方が有効です。
降下始めを商売に出来ない新京成バス 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月13日(日)17時12分59秒 返信・引用 編集済
さて、今日は新年の第二日曜日ということで、第一空挺団の降下始めの日です。
このところこの日に重なる用事があって、観覧できませんでしたが、ようやく、というよりも習志野台在住以来10年以上ぶりに行けました。
当時は確か自転車で行ったのですが、今のところだとちょっと遠いかな、ということで北習志野からバスに乗りましたが、これが早くも成田街道の渋滞で無ダイヤ状態。津04に乗りましたが、成田街道に出るところの渋滞が心配で(習06のルートはゲオのあたりから渋滞)、習志野台三丁目で早くも降りて歩きましたが、習志野バス停にバスの姿が見え、ゲートでは同着くらいでした。
中に入ると歩く歩く(苦笑)
シャトルバス乗り場があり、バス2台と高機動車6台のピストン輸送で、高機動車が「体験」ではなく輸送手段という稀有の体験が出来るのですが、長蛇の列なので、1.5km程度と聞き歩きました。
結局元のテルウェルホームセンターのところの門よりさらに先で、この時点で当時はここまで外を自転車で走って来たことを思い出しました。
展示訓練が終わり、来た道を帰りましたが、テルウェルのところの門を使えば、京成の習志野出張所バス停が一番の最寄りバス停になることに気が付きました。公共交通機関利用を促進すべきイベントで、来年からは京成バスももっと宣伝したほうがいいですね。
そういう意味では習志野新京成バスの「無策」はいかがなものか。
船橋新京成バスの方は、ちょうど同じ13日に船橋アリーナでバスケbjリーグの千葉ジェッツの公式戦があるということで、直通臨時バスを運行していましたが、降下始めに対して臨時を出すとかの対応がありません。
10時前の北習志野駅、年中ガラガラの習06の乗り場にまさかの長い列が出来ていたのに、本数は20分ヘッドのまま。だいたい、習06は北習志野団地入口、津04は習志野で下車と案内していましたが、習06は習志野車庫のほうが近いです。
しかも渋滞で無ダイヤ状態でしたが、成田街道の交差点に辿りつけないほどじゃないですし、往路は津04のコースに迂回する直通便を出すとか、うまく立ち回れば機能できたわけで、書き入れ時というのに芸が無いです。
復路は北習志野団地入口から習06に乗りましたが、車内はガラガラ。習志野車庫までくればバスに乗れますよ、と案内すればあっという間に170円の運賃が山積みになるというのに。
場内のクルマを見ても、成田街道の混雑を見ても、公共交通シフトで八方丸く収まるチャンスですが、営業所と演習場が背中合わせなのにその発想は全くないようです。
55年史あれこれ 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月13日(日)16時52分50秒 返信・引用
初夢シリーズで夢見た新橋拠点の話ですが、新橋駅前第二ビルがバスターミナルだった頃の写真が55年史に出ていました。
やはり、ルノアールがある南側の区画の意匠が違うのは、そこがバスの進入路だった名残のようです。
その脇には京成観光案内所がありましたが、ここは2010年頃まで京成トラベルがあった場所で、第一ビルの帝都自動車と合わせて、京成の「城」だった感じです。
グラビアも見どころ満載というか、関東鉄道は5両編成の筑波線、小湊鉄道は4両編成と精一杯の「盛業」シーンですが、新京成はおそらく高根木戸−高根公団を行くモハ45系と、更新後とはいえ最古参の出番にあれっという選択に見えますが、この時点で車体更新(鋼製化)が終わっていたのは同系とモハ126系しかなく、妥当な選択だったようです。
あとは資料編の手前にあるヘッドマーク(種別板)特集。
絵柄と解説が合っていないというのは京成らしいというか御愛嬌でしょうか。準急が「急行」と解説されていたり、急行「護摩電」も解説が急行なのに、絵柄が特急になっており、これはイラストレーターのミスでしょう。
そしてここにも出てきたのが急行「やどかり」。
不定期列車16種の一角を占めるということは、重要な存在だったようです。
また、急行「とね」「つくば」「水郷」「九十九里」は、バス連絡や周遊コースが前提とはいえ、やや誇大広告気味の愛称ですね。
新年 明けましておめでとう御座います。 投稿者:% 投稿日:2013年 1月12日(土)22時53分41秒 返信・引用
昨年の間は、お世話になりました。
少しだけ… しか、参加はしていませんが、この頁は、現在は閲覧専門でして、
コメント入れてはいないのですが、色々と、興味深いです。
節目の1964年 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月12日(土)18時51分37秒 返信・引用
1964年は東海道新幹線開業の年でもありますが、京成新線の申請だけでなく、京葉・湾岸地域の運命を分けるような年とも言えます。
京成の出願時期は実は後手に回った格好で、2月に都市交通審議会から、5号線計画を西船橋に延伸する答申が出ており、4月には1965年度の着工が報じられています。
京葉線については、1月に千葉県などによる東京湾岸鉄道の実現に関する国鉄への陳情が報じられており、6月に鉄道建設審議会から、京葉線(品川(大井か?)−木更津)の早期着工が答申されています。
7月には武蔵野東線として北小金−与野間の建設が鉄道公団から発表され、国鉄関東支社長も小金線(新松戸−西船橋−京葉線接続)を1965年度に着工する旨発言しています。
実はこの年は総武快速線も節目の年と言えるわけで、4月に、地下新線の工事計画書が近く出来ると報じられ、6月に東京地下駅への新線と複々線化が報じられ、上記の関東支社長の発言では1970年度を目標にしていたようです。(実際には1972年7月15日開業)
こうして見ると、京成が申請したタイミングでは、国鉄の貨物線計画が武蔵野線を含めてほぼ現行通りに固まった時期であり、そこから55年史刊行の1967年までの3年間、かなり苦しい戦いを強いられ、そして今では「黒歴史」化してしまった結末を迎えたことが歴史の必然であることは容易に想像がつきますし、だからこその前述の川崎社長の発言だったのでしょう。
ちなみに、4月に「小湊鉄道、千葉市乗入れ本格化、今夏工事を開始」という記事が出ています。
京成が千葉市内の高架化につき9月に計画を発表し、1965年度着工、翌年度完成を予定しており、それに関連する工事と想定できますが、千葉急行に引き継がれるまでの間、どこでどこまで手をつけていたのでしょうか。
55年史から 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月12日(土)18時36分29秒 返信・引用
種村氏は1973年に毎日新聞を退社してフリーになっていますから、1977年からの連載には噛んでいないでしょうね。
さて、船橋市の郷土資料室が西図書館の時代に見てはいるが複写を忘れていた55年史を久々に読みましたが、西図書館が震災による損壊で長期休館中なので(補修を断念して移転再建の予定)、今は中央図書館にあります。その方が便利というのも皮肉ですが...
1964年8月18日の免許申請ですが、翌19日の千葉日報1面に「京成で新線敷設、千葉寺−都内を結ぶ、50年に開通予定」と記事になっています。(県内ニュースの主要各紙の見出しを収録した本で確認)
一方の55年史は、本文はこの新線計画、千葉駅高架化に続き、新バラ園建設で終了し、むすびとして社史編纂委員会による川崎千春社長へのインタビューで締めくくっています。
インタビューでは新線に関し、「まず、鉄道部門の新線計画は、当社の東陽町・千葉寺間、交通営団の東陽町・西船橋間、臨海鉄道、モノレールなど幾つかあります。」とありますが、続いて、「しかし、これらを併設することは国家的に見て不経済ですから、統合するか或いは譲り合ってよい線を1本敷設すればよいと思います。」とあり、国鉄の京葉線計画との競合を冷静に見ている感じです。
さらに、「このほか、当社の千葉線を延長して小湊鉄道に接続させ、将来木更津まで伸ばすことも考えられます。」とあり、海士有木への小湊新線が、房総西線の山側を通り木更津に向かう構想を伺わせます。
そして「また、新京成線の都心乗り入れについては、松戸から柴又と高砂のどちらに乗り入れるか、いろいろ問題がありますので考慮中ですが、」と、用地問題で難航していた新京成の柴又延伸につき、今の北総線のように高砂接続を代替案として検討していたようです。
成田空港計画絡みでは、スカイアクセス線をイメージした最初でしょうか、「成田市三里塚に建設される新国際空港と都心を直結する新線も考えられますし、また、とりあえず当社線を京成成田駅から空港まで延長、これを西に延ばして沿線の団地を通り都心に向かう新線も考えられます。こうなれば沿線の団地に住む人達にも便利な都心への最短コースが出来ると思います。」とあります。
CNT計画は1966年事業計画であり、1967年刊行の55年史の段階では別の記載に「白井ニュータウン」という表現も見えることから、上記の前段はスカイアクセス線か成田新幹線に近いルートを想定し、後段はどちらかというと東葉高速線に近いルートを想定している感じです。(この段階で高根台、八千代台は出来ており、習志野台が入居開始直前)
Re: ちょっと傍証 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月11日(金)08時34分14秒 返信・引用
1960年代末の毎日新聞社会部の鉄道記事なら、間違いなく種村氏の手によるものでしょうね。
それに対する評価はさておき(笑)、京成の関連会社とはオリエンタルランドのことでしょうね。東陽町〜舞浜〜行徳で、ユーカリが丘線のノリで整備を考えていたのかもしれません。
ちなみに西馬込ルートは本来三田線になるはずだったので、京成新線のターミナルを新橋に擬するなら、やはり小名木川ルートではないでしょうか。線路は単線ですが用地は複線分ありますし、総武線の混雑緩和を口実にすれば東西線同様道が開けた気がします。
ちょっと傍証 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月11日(金)01時36分3秒 返信・引用 編集済
京成の東陽町−千葉寺新線については、2006年1月に矢切さんが「発掘」されており、久方ぶりに世に出た感じになっています。
ちなみに、家にある本をひっかきまわしてみたところ、ちょっと興味ある表現を見つけました。
1979年にコーキ出版から刊行された「地下鉄−ただ今モグラ族1000万−」(毎日新聞社会部編)という本、日本の地下鉄50周年を記念して、1977年〜1978年に毎日新聞で連載された「メトロTokyo50」をまとめたものですが、その中の一節です。
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「地下鉄で復活した行徳地区」
「行徳の”復活”には鉄道の誘致しかない。昭和35年ごろから各方面に働きかけたものです。」とは同市本行徳×××、元市議、××××さん(68歳)は回想する。陳情先は京成電鉄。東西線の中野−東陽町の建設計画に合わせて、京成の系列会社が行徳から東陽町までの新線を敷設する計画がまとまりかけたが、資金難でアウト。あきらめかけたところへ、突然、東西線の延伸決定のニュースが舞い込んだ。国鉄が総武線の混雑緩和のために、強く要請したのだった。
(文中伏せ字は原著では番地と実名記載)
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東西線の延伸は1969年。1962年の答申で船橋方面の延伸が盛り込まれ、1964年の答申で西船橋延伸が決まっています。京成の免許申請は1964年で、1967年の段階で生きていますから、上記の内容が正確であれば(新聞連載時点で10数年前の話です)、京成による新線計画は東西線トレースと京葉線トレースの2種類が時間差で登場した可能性があります。
もしくは京成の申請は1964年の1本で、営団の申請と重なってしまったか。
「資金難でアウト」については、1965年、高度成長期に1年だけ襲った証券不況(当時戦後最悪の山陽特殊製鋼の倒産、山一證券に対する日銀特融があった)と重なるわけで、それが影響した可能性があります。55年史では諦めたとは書けずに空元気で記載していた時期かもしれません。
松が取れても初夢が続く(苦笑) 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月11日(金)01時03分38秒 返信・引用
谷津での京成本線との相互連絡は盲点でした。確かに京成は台地の下に出て今でも京葉線との間隔が一番狭まっていますから、もし湾岸新線を京成が建設していたら、敢えてここだけ内陸に寄せて、という可能性はありましたね。
1969年には若松団地が竣工しているように、1960年代後半には今の京葉線と湾岸道路のラインが埋立地を縫う基本軸として認識されていたはずですが、当時は海沿いにヘルスセンターと谷津遊園があり、それぞれ東京湾に面していることを売りにしており、免許申請をした1964年から55年史刊行の1967年当時はまだ十分盛業中でもあり、ここだけは内陸に避けざるを得なかったかもしれません。
妄想をさらにたくましくすると、当時の谷津遊園駅からセンター競馬場前駅の間には、戦前の利根川増補計画に伴う線路付け替え用地が確保されており、谷津遊園駅を若干西に移転する格好で谷津総合駅を設置していたかもしれません。
しかしそうなると、谷津以西の流動は大半が湾岸新線を使いそうで、そうなると今の京成本線区間は、高砂で新京成および千葉NT方面からの流動が押し掛けるまでは低位安定で、東急池上線や多摩川線のような、インターアーバンというよりも都市内の軽電車になっていたかも。
さて、湾岸新線の軌間ですが、これは標準軌に一票です。
小湊新線は1963年の京成千葉駅の移転と密接に絡み合っており、千葉市の中心街から移転する条件として、小湊新線との直通を踏まえた換地として今の千葉中央駅が示された経緯があります。千葉中央駅、当時の京成千葉駅までは当然標準軌で、小湊新線が狭軌だと、今の千葉中央で必然的に乗り換えとなり、その後1970年代は殷賑を極めたとはいえ、かなり中途半端な位置になります。
55年史にあるように、1965年には現在の相対式2面2線の高架駅を着工しており、この構造で両方向へ折り返しは無茶ですし、西側(東側は国鉄高架が隣接)に増設準備という話も聞きませんし、実際、小湊は1970年に京成規格での建設に免許内容を変更しています。
また、東西線との関係も、55年史の付図では既に西船橋方面に東西線計画が伸びており、乗り入れを想定しているようには見えません。
都心側の妄想をすれば、浅草線(都営1号線)への乗り入れもしくは並行別線の想定があったかも。
そう、新橋から泉岳寺まで進めば、浅草線と京急線に分かれます。そうすれば、京急〜押上方面、西馬込〜湾岸新線方面というような運行体系が見えてきますから。
Re: 東陽町千葉寺新線のIfを考察してみると 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月10日(木)23時51分21秒 返信・引用
東陽町〜谷津間だけでも建設しておけば、という結論になるんでしょうか。スペックは標準軌、東京都心へは10号線ルートを取れば新宿にも布石を打てました。
こうなればスカイアクセスはやはり不要で、千葉ニュータウンは新京成柴又経由で都心に早期直結することになり、京成がデベロッパーになって大々的に開発されていたか。
東陽町千葉寺新線のIfを考察してみると 投稿者:リリカルゆかりん 投稿日:2013年 1月10日(木)23時07分51秒 返信・引用
歴史のIfを考察する行為は学問の領域では受け入れられませんが、ただ頭の中で描くのではなくこうした場に書き出すのは実に楽しいことです。学術書でない出版物としては川島令三氏の『三大都市圏の鉄道計画はこうだった』(産調出版 1999)が最も詳しい考察をしていますが、「地下鉄編」と銘打っているのにも関らず、続編が出版されず、同書も参考文献の提示が不十分なためやや不完全燃焼の感があります。
今回管理人様が提示された3つの「夢の跡」のうち、最も興味深く、一般への知名度が低い東陽町千葉寺新線については、実現していれば千葉県の交通史を大きく変えたものと考えられますので、こちらについて小生の考察を書いてみたいと思います。
本計画については管理人様は標準軌を想定されていますが、当初そうであったとしても、京成本線系との乗り入れを想定していなかったことを考えれば、東西線との直通運転は間違いなく考えられたと思われ(浅草線乗り入れのために全線改軌を決断する先見の明があった当時の京成です)狭軌・1.5kv電化の複線という規格での建設になったと考えられます。設置駅は当初は中葛西・舞浜・船橋港(ららぽーと付近)・谷津・稲毛海岸・千葉港・南千葉だったでしょうが、沿線の発展にあわせて、後に清新町・南葛西・新浦安・高谷・幕張新都心の各駅が設置されたと思われます。
本線系とは谷津で接続ということになり、同駅が上下2面4線の線路別ホーム(青砥駅の線路別版のようなもの)になり、ESやEVだけで乗り換えられる構造になったと考えられます。もちろん現在でも同駅は特急停車駅だったでしょう。また千葉以南への速達性では新線が圧倒的に優るため、千葉線からの小湊方面直通は考えられず、同線は南千葉まで延伸され、同駅は中央に標準軌の千葉線折り返し線を挟んだ1面4線の構造(内側の千葉線ホームが6連対応、外側の新線ホームは10連対応)になります。
次に小湊鉄道ですが、五井—牛久間の電化は間違いなく実施されたと考えられ、養老渓谷の観光開発に対する京成の熱意如何では、ここまで電化された可能性もあります。ただし海士有木以西については五井への直通サービスが敵に塩を贈る側面もあるので、この区間は非電化のままチョン行だけが走っていたことも考えられます。小湊の複線化は将来の検討課題とされるものの、さすがに実現しないでしょう。
ただしこうなりますと、小湊の牛久or養老渓谷以遠は、存廃問題が浮上した可能性もあり(不採算区間だけのために、給油設備を維持するという問題が生じます)、問題の生じた時期が80年代前半であれば、木原線側とセットで三セク化されて牛久までいすみのDCが顔を出していたことも考えられます。この場合、京成もいすみの大株主に名を連ねていたでしょう。
また京成電鉄は葛西地区をはじめ、浦安市の住宅開発、TDRに幕張メッセという「金城湯池」を手に入れることになり、このエリアから莫大な収益を上げる一方で、沿線外の事業にはさほど手を出さずに済めば80年代の暗黒もなかった可能性があります。ただし管理人様指摘の通りその後のかじ取り次第では新たな危機を招いた可能性もありますが。バブル期に小湊沿線の過大投資に奔った場合は特に危険です。
新線のダイヤは、東西線区間が現在のものに準拠と仮定しますと、2013年時点で以下の通りになっていると考えられます
特急 停車駅(東陽町・谷津・幕張新都心・千葉港・南千葉・ちはら台・辰巳台から各駅) 朝夕20分毎・日中20分毎 海士有木発着が原則だが、半数弱は牛久まで乗り入れ、小湊区間は各駅停車。
急行 停車駅(東陽町・舞浜・新浦安・船橋港・谷津・幕張新都心・千葉港から各駅)朝夕10分毎・日中20分毎 主にちはら台発着で、3分の1程度はが海士有木まで運行
普通 朝3分毎・夕5分毎・日中10分毎に運行、朝夕は半数が高谷回転、それ以外は大部分が南千葉まで運転
最後に関係計画路線がどうなっているかを考察して結びとします。
・京成本線
→船橋でのJRへの流出は実際よりずっと少なく、大手町へ急ぐなら谷津で新線乗り換えがデフォルトになっていると考えられます。谷津はスカイアクセス開業までSL停車駅であったと考えられ、一時は同駅以東の本線・新線の3線化も検討された可能性があります。さすがに、長大な3線は問題が多いので実現しないと思いますが京成は現在で熱心にFGTの研究をしています。
・京葉線
→京成新線は旅客専用線として建設される以上、貨物輸送の使命があるので新木場以東は現ルートで建設されますが、東京駅乗り入れの必要性は薄いので、新木場〜東京間は存在せず、現りんかい線へダイレクトでに乗り入れています。舞浜〜蘇我でほぼ京成新線と並行しますが競合関係というよりは、都内の目的地による棲み分けになっているでしょう。武蔵野線からの直通は府中本町〜川越の逆〆の字運転という奇妙な形態になっていて、武蔵浦和駅到着前の放送は大変でしょう。
また沿線は、今以上に発展しており、人口も多かったと考えられ(都内の多くの地点にダイレクトで行ける利便性は大です)2つの鉄道が併存できるだけの需要があります。
・東西線
→葛西地区の発展はやや抑制された(運賃が合算になるので)可能性はありますが、やはりパンク寸前になり、京成と東京メトロ合同で時差通勤のキャンペーンをやっています。なお東陽町駅は現在と同規模になり、街も今と同じような感じでしょう。
行徳地区の人口は今よりも南に偏していたとはいえ、トータルでは現在と似たような水準である一方、東葉高速に代わるものとして習志野台地区にLRTかAGTが建設された可能性もあります。
幻が実現していたら 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月10日(木)22時03分18秒 返信・引用
残る2つの「幻の新線」ですが、新京成の柴又延伸は千葉大問題さえなければ実現していた可能性が高かっただけに惜しかったです。ただ、実現していたら高砂が今に増して窮屈と言うか、本線、北総線、新京成線、金町線と下り方だけで4路線が集中(新京成と金町線は柴又まで共用)するわけで、どうなっていたことやら。
金町線が柴又−金町封じ込めだと金町から柴又、高砂、青砥で乗り換え、なんて乗車パターンも出てくるでしょうから大変だったはずです。旧市街が阻む松戸駅付近の取り回しが厳しいですが、旧葛飾橋をわたる旧水戸街道から金町駅を縦断する格好で金町線に乗り入れる、なんてルートだと妙味もあったのでしょうが。
ちなみに新京成新線ができていたら、北総2期区間がなかったかもしれませんね。
北総線計画自体が、元山付近から東方へ進んで鎌ヶ谷消防署付近に至る格好で計画されることで都心直通の路線になりますから。
ただ、そうなると「Bルート計画」自体があったかどうかになり、時代は大きく変わっていたでしょう。
小湊新線はさらに1980年代まで計画線として車内の地図にも載っていただけに、知っている人も多い話です。
ただこれも、1973年設立、92年開業、98年清算(京成電鉄に継承)というあまりにも悲惨な顛末になっただけに、海士有木まで開業していてもどうなっていたことやら。
東陽町−千葉寺新線がない状態で海士有木まで開業していても、相当厳しかったと思われます、
Re: 京成の隠れ拠点・新橋 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月10日(木)00時02分59秒 返信・引用
新橋駅前ビルといえば、京成系の帝都自動車交通の営業所が目立つ所に入居しているのも匂いますね。さらに勘繰ると、浜松町バスターミナルの上階に陣取る東京モノレールが新橋までの免許を持ちながら、浜松町に後退したのも関係あるのかと思ったり。
越中島経由での新橋乗り入れは、東武も亀戸線延長の形で企画していたようですから、京成の新線が免許にならなかったのは、そのあたりのパワーバランスを崩さないようにする配慮があったのかもしれません。
いずれにせよ、いい初夢を見させていただきました。改めて御礼申し上げます。
京成の隠れ拠点・新橋 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月 9日(水)22時32分1秒 返信・引用
1960年代となると、京成の長距離バスは浜松町というより新橋を拠点にしてましたし、浜松町にアプローチするとなると新橋から国鉄線路と浜離宮の間の空間を通るしかなく(第一京浜直下は都営地下鉄が既にある)、新橋なのかな、という空想です。
ちなみに新橋のターミナルは駅前の第一京浜沿いにある新橋駅前第二ビル。
当時は1階にバス乗り場を取り込んでいたようで(今のルノアールのところか?間口の意匠が違っており、そこがバス乗り場だったようです)、それなりの営業拠点だったようです。
東陽町からの都心アプローチとしては、国鉄貨物線(小名木川線)とそこから晴海に伸びる貨物線のルートが怪しく、晴海あたりから地下線で隅田川河口を越えて新橋に入るルートが考えられます。小名木川線は東陽町駅手前で交差して少し離れた越中島貨物駅に入りますが、京成新線は東陽町駅で接続後、南進して越中島駅西方で合流するイメージです。
ただ、狭軌単線非電化の貨物線と標準軌複線電化の京成新線では違いが大きすぎる(車両限界的には京成の方が小さく問題はない)ので、相当手を入れるか、単に並行して新線を敷くという感じかもしれません。
まあ、1950年代に整備されたこの貨物線も、1960年代には東京外環状線計画とのリンクが検討されていたらしく、おそらく国鉄の計画優先で京成の東陽町−千葉寺新線は申請却下になったのでしょうが、もし京成新線が実現していたら、3線軌にする代わりに複線化といった対応で整備されて、有楽町線の新木場延長や大江戸線開業の遥か前に旅客鉄道網に組み込まれていたかもしれません。
東陽町からの延伸が頓挫した格好で残っていたら、確かに西鉄貝塚という感じになっていたのでしょうね。
ただ、確実に今よりも東陽町は発展していたでしょうし、三軒茶屋のような感じの街になっていたかも。そうなると1791年の大津波(高潮)で壊滅するまで殷賑を極めていた洲崎が現代に蘇る格好で、城東きっての繁華街になった可能性もあります。
、
小湊線(五井−上総中野)への乗り入れは軌間の問題もありますから困難でしょうが、もし小湊新線とあわせて狭軌で整備されていたらさらに夢は広がっていましたね。地下鉄8号線(有楽町線)計画とリンクしていたでしょうし、貨物線とのリンクも容易でしたから。いや、手っ取り早く5号線(東西線)に乗り入れていたかもしれませんね。
Re: 京成の夢の跡を追う 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月 9日(水)21時52分48秒 返信・引用
矢切さんのサイトも拝見し、さらに想を巡らしてみました。
>小湊新線
京成新線とセットで考えていたならば、狭軌で建設しても問題なかったわけですね。京成千葉線が標準軌で千葉寺まで延長して対面乗り換え(ただし後段の千葉新駅を8連対応にしたくだりと矛盾する)、京成新線も狭軌で東西線に直通するというシナリオです。
>京成新線
そう考えると、京成の既存路線と規格を揃えるメリットがあまりなさそうですね。それとも千葉寺に三角線を建設して、標準軌で千葉新駅にも乗り入れるつもりだったのか。(小湊新線だけのために8連対応というのはやりすぎな気がする)
>新京成新線
これが実現していれば、北総第二期線は不要となって、千葉ニュータウンの開発がもっと進んだかもしれませんね。ただし引き換えにスカイアクセスはなかったわけで、京成グループ全体としてはどちらがよかったのか微妙ですが。
Re: 京成の夢の跡を追う 投稿者:dai 投稿日:2013年 1月 9日(水)08時36分47秒 返信・引用
明けましておめでとうございます。本年も読みごたえのある記事を期待しております。
さて京成京葉線?の東京側ターミナル、個人的には浜松町と読みますがいかがでしょうか。同地には高速バス冬の時代から立派なバスターミナルが存在し、しかも沿線でもないのに京成系の路線が幅を利かせる現状があるわけです。
ちなみに東陽町が実現していたら、西鉄貝塚みたくなっていたんでしょうね。オリエンタルランドへディズニー色を全面に出した電車が走ったか、それとも養老渓谷への気動車特急が走ったか?
京成の夢の跡を追う 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月 8日(火)23時34分2秒 返信・引用
新年らしく夢のある話、というか夢だった話です。
1967年に刊行された「京成電鉄55年史」は、今となっては幻の新線計画がその巻末付近を飾っていました。
会社が公刊した社史に掲載されたのですから一番確実な一次資料なんですが、知られざる存在として黒歴史のようになっていますが、時期のアヤとはいえ、揃いも揃って3路線が免許申請、近々着工、免許取得と言う具体化していたタイミングになっていたのです。
内容については矢切さんのサイトのほうで確認できますし、一次資料でなくては、と言う方は県内などの図書館に行けば同書はあるはずです。
まずは京成電鉄本体による東陽町−千葉寺間新線。当時は東陽町までの建設だった地下鉄東西線と東陽町で接続し、今の京葉線に沿って進行し、後述する小湊鉄道の千葉延伸に接続する計画。これは黒歴史中の黒歴史のようで、千葉県の鉄道史に関する書物でも触れられることはなく、唯一京成電鉄の社史にあるという奇妙な現象となっています。しかも1964年に免許申請とあり、相当段階まで具体化していたことが伺えるのに、立ち消えたという謎も残ります。(刊行時点で申請後3年が経過しており、許可の見通しは実は薄かったのかもしれない)
次いで小湊鉄道の千葉延伸。1980年代まで京成電車の車内に掲出されていた路線図でも計画線が描かれており、ちはら台以北は千葉急行線(現京成千原線)として開業していることもあり、3計画の中では一番有名な路線です。
1957年に免許は既に取得されており、このタイミングでは着工間近と言う案内になっています。
最後に新京成電鉄の柴又延伸。これも免許の存在は知られており、三矢小台や中矢切地区での用地確保の痕跡もありそれなりに知られていますが、1962年に免許を取得し、鋭意事業中という段階です。(千葉大用地の通過問題でこじれて断念した経緯は周知の通り)
後2者は途中駅の明示もありますが、東陽町−千葉寺新線は途中オリエンタルランド、船橋港、谷津、稲毛海岸、千葉港、南千葉の名前が見えるのみですが、紆余曲折の末TDRとなって結実するオリエンタルランドが、1960年代中盤の段階で京成電鉄の沿線開発の目玉として位置づけられていたことは、やはり記憶にとどめておくべき事項です。
この東陽町−千葉寺新線は、東陽町では地下鉄東西線(5号線)と「連絡」し、南千葉で国鉄房総線と「連絡」、そして、千葉寺では小湊鉄道と「乗り入れ」とあります。
このため小湊鉄道と同一軌間になるわけですが、小湊鉄道の在来線は狭軌で、京成線は標準軌なので、新線はどうなる予定だったのか。京成千葉(現千葉中央)で分断とは思えず、標準軌電化の新線と狭軌非電化の在来線が海士有木で接続でしょう。ゆえに京成の新線も標準軌で、東陽町では東西線と「連絡」にとどまると言うことになります。
ちなみに国鉄房総線(当時は房総西線、房総東線)と接続するとされた「南千葉」の位置が気になりますが、千原線とJR線の交際位置がかなり蘇我駅よりで、しかし京成新線と小湊新線の接続は南千葉ではなく千葉寺とあるので、小湊新線は当初もっと北側で国鉄線と交差し、現在のJR線との交差付近から千葉寺までの区間は京成新線の計画をトレースしている可能性があります。
(交差地点に南千葉駅を設置)
この計画で一番気になるのは、東陽町という「ターミナル」です。小湊新線が狭軌で建設され、京成千葉で分断されるのであれば京成新線も狭軌となり、西船橋方面への延伸計画が見えてきていた東西線に乗り入れの可能性もありました。
実際、小湊新線は狭軌で計画されていたと言う説もありますが、京成千葉での分断問題があり、京成新線との連携が出てきた時点で標準軌電化新線として海士有木接続としていたでしょうから、東陽町では軌間の違いから京成が孤立していたはずです。
もしこれで開業していたら日本中を見てもあまり例がない中途半端なターミナル(地下鉄乗り入れ前の名鉄小牧線上飯田や地下化前の名鉄瀬戸線大曽根なみ?)でしたが、その先をどう見据えていたのか。
東西線の複々線化として都心に伸びたか、それとも別の新線を想定していたのか。当時の地下鉄計画で架空線標準軌の路線は1号線(浅草線)しかないので、受け皿もないのです。
あるとすれば東西線の南側を徐々に離れる格好で南西に進み、東銀座か新橋で浅草線に合流するか、単独ターミナルの設置でしょうか。新橋は当時京成系の急行バスが発車しており、拠点と言う意識があったはずです。
もし京成に免許が下り、この新線が具体化していたらどうだったか。まずはオイルショック直前まで続く東北進出のような1970年代中盤の経営危機の原因となった事業の多くは、この新線と沿線開発に経営資源を集中することで手を出さず、痛手を受けることも少なかったかもしれません。
ただしその後の東京湾岸の展開を考えれば、この開発が京成の「成功体験」となったことで、沿線開発型の事業が深度化して、逆にバブル崩壊の際に高転びした可能性が高いです。京成は1970年代の経営危機の影響で、バブル時にもあまり手を広げることがなく、空港輸送を中心にした堅実な経営でバブル崩壊によるダメージを最小限にした史実と逆になるイメージです。
深夜急行のルポも 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月 4日(金)18時55分51秒 返信・引用
さて、12月は更新も無かったことですし、北千葉道路だけじゃ何なので、急遽深夜急行バスの記事をアップしました。深夜急行については定点観測的に緻密に追っている方もいらっしゃいますが、まあ今回は地元中の地元ということで、平和交通の津田沼・勝田台線を書いてみました。
たかだか1路線、深夜の下り1本だけですが、地元ということで厚巻きになったことはご容赦のほど...
なんとか仕上げました 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月 2日(水)14時50分33秒 返信・引用
箱根は日体大が往路を制しました。
「山の神」が卒業した東洋大はその山登りで失速ですが、それでも3位は立派です。
「山の神」に好順位でタスキを渡し、復路はそれを守る、ということが実行できる層の厚さが生きているわけで、外国人パワーに頼るだけ、という学校と好対照です。
さて、なんとか北千葉道路のルポをアップしました。
今回は新鎌ヶ谷から松飛台までの区間を柱にしたいつもと趣が違う仕立てです。
新鎌ヶ谷から北千葉JCTまでの区間は、都市計画決定済みだが事業化はまだという微妙な区間で、計画図の通りに進めると外環道のように幅員60mのローラーで市街地を均してしまう感じですが、現地を見るとちょっと曲げればだいぶ楽になりそうな面も見えます。
くぬぎ山から大町付近はその典型で、空き地を横目に市街地を通るのか?という感じですし。
南蒲田は完成してたんですね 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月 2日(水)08時58分40秒 返信・引用
正月2日は起きると箱根のランナーたちは権太坂あたりを走っているのですが、今日は興味もあって1区、蒲田の様子を見ました。
やはり今年最大の変化点ということで紹介されていましたが、驚いたのはそのすぐ先の南蒲田の環八との交差点のアンダーが完成してたんですね。ランナーは側道を通過して行きましたが、アンダーに吸い込まれるクルマを見てびっくりしました。
調べると12月9日の完成とのことですが、11月中旬に現地を見たとき、まだ少しかかるかな、と思っていたので...
その蒲田踏切のエピソードが紹介されていましたが、2002年の大東文化大の「足止め」のシーンが出てきて、その場をぐるぐる走って開通を待つランナーの前を走ったのが北総7000系。H車やT車でなくN車が敵役になってしまってますが、「箱根路の歴史」のシーンで繰り返し出てくるとしたら何とも運の無い話です。
R15アンダー 投稿者:名無野原 投稿日:2013年 1月 2日(水)05時42分12秒 返信・引用
R15アンダー自体は完成済、箱根に合わせてきたのか。
http://www.ktr.mlit.go.jp/kisha/kawakoku_00000058.html
謹賀新年 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2013年 1月 1日(火)12時23分26秒 返信・引用
謹んで新年のお慶びを申し上げます。今年もよろしくお願いします。
まったりとニューイヤー駅伝を見ています。駅伝三昧となる三箇日のスタートです(苦笑)
それにしても平坦な区間で単調なはずなのに、順位が目まぐるしく変わりますね。10人抜き、12人抜き!と威勢のいい有力選手が駆け抜けて行きますが、中継所の成績発表を見ると、その陰に10人抜かれ、12人抜かれという触れてほしくないであろう選手もいるんですよね。
明日からは箱根駅伝。「蒲田要塞」の完成で、蒲田の踏切という名所が消えました。
そして現在建設中のR15アンダー、環八側の通行規制が絡むだけに単純な話ではないですが、側道経由になるのか、それともまさかのアンダー経由か。アンダー経由になると高低差が出来てまさかの勝負ポイントになりますが。
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