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習志野原の掲示板 過去ログ 2018年1月


Re: ドリーム&パワー 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月31日(水)23時08分2秒 返信・引用


> No.5504[元記事へ]

daiさんへのお返事です。

関東で私鉄が発達したのは、多くは省線と並行しない街道筋があり、そこに敷かれたケースですね。
例外は京急ですが、これは都市間鉄道の色彩が強いですから。

京急を除けば、小田急は大山街道、京王は甲州街道、西武は青梅街道、東上線は川越街道、東武は日光街道で、いずれも省線は並行していません。一方で東北・高崎線は中山道、常磐線は水戸街道が並行するわけで、並行私鉄を培養する余地がありません。
千葉方面も千葉街道と総武線が並行していますが、京成が成立しただけ、地力はあったのでしょうか。

さて、京成の「カリスマ」ですが、本多貞次郎がいるじゃないですか。創成期から戦前期まで一貫して社長の地位にあり、政友会の代議士として怪物ぶりを発揮。千葉県議を振り出しに県議会議長となり、代議士となっていますが、京成疑獄で起訴されたり、大臣になれなかったこともありいまいちメジャーではないですが、大物政治家の一人です。

政治家の色が強く、ゆえに官僚出身の五島慶太、政治家でもあった堤康次郎、また鉄道王と言われた東武の根津嘉一郎と比べて、経営者としてのキャリアは十二分にあるのに、「京成といえば本多」というイメージになっていません。




海側ルートの歴史的意義 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月31日(水)22時53分36秒 返信・引用


海側ルートですが、確かに通運丸が総武鉄道に押されて衰退した後は今の行徳、浦安や江戸川区南部をターゲットにした小蒸気が有力な交通機関でした。さしずめ「水上バス」でしょう。

このルート、史実では江戸時代の成田詣でのメインルートだったわけで、その時も行徳河岸までは船で、そこから行徳街道、成田街道を歩いたわけで、行きも帰りも船橋で1泊し、成田でも1泊という3泊4日のコース。歩きは実質2日ですから、お手軽レジャーでした。

その意味では成田を目指すのであれば馴染み深い海側ルートも視野に入るはずですが、水運との競合、架橋の多さで選考されなかったのでしょう。

しかしさすがに旧街道だけあって、実は軌道があったりします。
これが1909年から僅か9年しか存在しなかったことでも有名な東葛人車軌道で、行徳−中山−鎌ヶ谷を結ぶ人車軌道です。
行徳街道と木下街道をトレースする格好ですが、当然経営は厳しく、行徳−中山間なんか開業僅か5年での廃止です。

廃止の原因として、京成の開通とともに「大正6年の津波」が挙がっています。また、江戸川放水路の建設もあり(1919年完成)、「島」となった行徳、浦安地区には東西線が出来るまで鉄道は来ませんでした。





千葉は「夜明け前」だった 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月31日(水)22時53分1秒 返信・引用


関東大震災のあと郊外の開発が進んだのは地盤が強固な山の手方面であり、下町とその延長線にある千葉方面は顧みられなかったわけです。文化都市として、多くの文人が住んで、と宣伝する市川にしても、その代表ともいえる永井荷風が住んだのは戦後であり、大正初期に白樺派が居を構えた我孫子の方がまだ文化の香りがしたわけですし、「浦和画家」の名もある浦和が関東大震災以降多くの画家が移り住んだのと比べても、千葉県、それも総武線方面の「夜明け」は遅かったようです。

一方で「軍都」として発展したわけで、習志野原と下志津原に展開した多数の軍施設が必然的にもたらす高級軍人の訪問や居住により、移動需要が増えたり、文化的な生活が浸透したわけです。
特に今の習志野駐屯地の前身である騎兵学校は大正天皇の行幸を仰いだほか、宮様が教官を務めたり所属したりと軍務に深くかかわっており、勢い皇族や顕官の移動も津田沼駅を玄関口に発生しています。

残念なのは騎兵学校が京成に何の寄与もしなかったことでしょうか。ただ大久保側の施設は京成の利用に寄与したことは間違いがありません。しかし戦前の段階で津田沼駅から大久保方面の乗合自動車が開通していたあたり、京成の立場の弱さがうかがわれます。

京成の一大特徴としては、これでもかという仏閣巡りの路線でしょうね。
起点の押上は対岸の浅草、浅草寺があり、最初の目的地は柴又、帝釈天です。
ゴールの成田は当然新勝寺ですが、新勝寺側が京成の経営にいろいろ関わっていたという資料が新勝寺でたまに開催される京成絡みの展示会で出てくるわけです。

途中の中山には法華経寺もあり、上野には寛永寺、と、ここまで全国区の仏閣が揃う路線も珍しいです。ですから通常なら観光資源として売り出して然るべき船橋大神宮や葛飾八幡宮、千葉神社や稲毛浅間神社まで手が回らない感じで、成宗電軌が結んだ宗吾霊堂も著名な佐倉惣五郎の伝承が由来であり普通なら主役を張れるくらいの物件ですが、なんとも贅沢な状態です。

ちなみに上野進出は松坂屋がある上野広小路を目指したというよりも、京成疑獄まで引き起こして浅草乗り入れを断念した京成が、筑波高速度電気鉄道の免許を活かすべく合併したわけで(というか、建設能力のない同社が都心ルートが欲しい京成に「会社ころがし」したのが真相)、選択肢が無かった進出です。

ただ、普通鉄道として免許を受けた区間にしては、京成きってのカーブの多い区間というパラドックスがあるわけですが...





ドリーム&パワー 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月31日(水)12時51分39秒 返信・引用


小田急は利光鶴松→五島慶太、近鉄は金森又一郎→佐伯勇というカリスマ経営者がいますね。
京成は川崎社長までは堅実な感じだったのでしょうか(その割に巨人軍結成時に出資したりしているが)。

千葉方面に有力な私鉄が成立しなかったのは、水運が利用しやすい土地柄というのが大きいんでしょうね。
甲州街道と京王の存在を考えれば、千葉街道に千葉線が敷設されてもよさそうなもんですが。




Re: 海側アプローチの「イフ」 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月31日(水)08時13分26秒 返信・引用


> No.5498[元記事へ]

リリカルゆかりんさんへのお返事です。

>やはり京成が沿線の小資本を糾合したという意味では地方私鉄に近い存在であったことがマイナスに作用した面があり、もしそれに代わって近鉄や小田急くらいのパワーがある私鉄ができていたら、

小田急や近鉄と京成の違いの「パワー」の違いとは何でしょうか?
>
> もし、千葉方面の私鉄が海側のルートを志向していった場合ということで、さらに想像(妄想)を膨らませていきますと、史実とは全く違う歴史になっていた可能性も指摘できます。管理人様指摘のとおり1917年の台風災害で京成は消滅となった場合の展開ですが、そうであればその後別の事業者による京葉間、さらに成田方面への鉄道敷設計画がされた可能性が大です。仮に1925年に、篤志家によって京葉急行電鉄(略称は葉急?)が設立されたとして話を進めます。
>
> 路線形態は大正末期〜昭和戦前期に開業した大手私鉄の幹線同様、当時の流行に乗じて最初から高速鉄道という形態が採られたでしょう。都電(当時は市電)との直通は高速鉄道である以上考えられず、標準軌・1500Vで全線複線とされ、船橋まで有力な街がなく、中間部の需要があまり期待できない以上、優等列車主体の運行を想定し、待避可能駅も数多く設けられます。
>
> ルートについては海側と仮定しますが、架橋のコストや市街地の用地確保を考えますと、東京側のターミナルは永代橋あたり、現東西線のルートで原木付近に達し、ここから京葉道路のルートで船橋競馬場付近に至り、以東は現京成のルートと仮定します。そうしますとほぼ直線的な経路、高速運転に適した規格の路線となり、この面では京葉間でも総武線に対して十分競争力が確保できます。
>
> もちろん沿線開発がされておらず、旧市域を抜ければ塩田と水害のエリアですから当初は苦境であったでしょうが、これは同じ時代にスタートを切った小田急や近鉄も同じですから、何とか経営難を乗り切り1930年代後半からは都市圏の拡大に乗って経営も好転していきます。何か所もの架橋のコストは大きな負担ですが、ほぼ平坦地を走る路線ですからトータルでのキロ当たり建設単価は長大トンネルの掘削を要した近鉄より安く済んだ筈で、建設費の償還はここで可能でしょう。1917年の台風で沿線の塩田が大打撃を蒙ったことも、かえって都市化を後押しする要因になったといえます(西武沿線で都市化が進んだ一因に昭和戦前期の練馬大根のバイラス病流行があったとの同じ理由)。
>
> 一方永代橋から都心方面ですが、当初は都電連絡としながらも、同時期の関西私鉄がそうであったように目と鼻の先である都心部への乗り入れを模索したでしょうし(うまくいけば東銀座か八重洲に延伸)、仮にそれが果たせなくても、中途半端な存在になる葉急永代橋への地下鉄路線は優先順位が高いとされ、標準軌仲間になる京急とをつなぐ、品川〜新橋〜銀座〜永代橋という路線は1960年頃までに開通したでしょう。さらにこの頃に輸送力増大を見越して、複々線化にも着手して、津田沼以西を1970年までに完成させると共に直通相手の京急に倣って高速性を追求した車両の大量投入や軌道強化も行われます。そうなれば路線のポテンシャルが認められ(後述のようにより政治力もあったでしょうし)成田空港乗り入れも国は当初から歓迎する姿勢で開港と同時に、銀座から、後には羽田空港からの直通特急が走るようになります。総武線が複々線化されても、十分な競争力がある路線になりますし、自社主導で船橋以西の沿線開発ができればそこで莫大な収益を手にできました。
>
> と最も理想的といえるシナリオを書いてみましたが、やはり京成が沿線の小資本を糾合したという意味では地方私鉄に近い存在であったことがマイナスに作用した面があり、もしそれに代わって近鉄や小田急くらいのパワーがある私鉄ができていたら、さらに言えば鉄道関連産業に多大な影響を及ぼした三井財閥も直接的に鉄道事業を手掛けることはしなかったのですが、大正末期の時代背景を考えれば、東京に残された最後のフロンティアである南東側に目をつけて、先述の京葉急行電鉄が三井主導で開業していたら、やはり沿線開発は三井不動産が主役になりこの面では今とあまり変わらなかったかもしれません。




Re: 新宿線ルートはそんなに魅力的か 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月31日(水)08時10分39秒 返信・引用


> No.5495[元記事へ]

私としては、あくまで都営新宿線をそのまま踏襲するというよりは、八幡〜岩本町・小川町までは都営新宿線と同ルート、そこからさき新橋方面の都営浅草線方面に向かうルートを考えていました。

結局は皆さまがお書きになっている通り、あまり需要がないという結論に落ち着くのかもしれませんが。






Re: 結局「正解」だったのかも 投稿者:にっしー 投稿日:2018年 1月31日(水)00時14分57秒 返信・引用


エル・アルコンさんへのお返事です。

こんばんは。いつも楽しく拝見してさせていただいております。面白そうなのでわたしからも。


昭和3年に東京市役所が出した「交通機関の発達と人口の増加」という本によると、京成線の荒川から東(つまり今の葛飾区)あたりは、農耕地が多くいまだ都市化していない。よって、遠距離間の乗客に頼り近郊交通としての色彩にはなはだ乏しい、と記載されています。
また、城東電軌の項を見ると、関東大震災があっても沿線(いまの江戸川区)は都市化されず、他に河川を用いた蒸気船がある、と記載されています。

http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1212764

成田まで全通したこの時点で(大正6年の高潮災害と大正12年の関東大震災の後で)も、荒川から東は通勤輸送という概念に乏しいことがわかります。

つまり、京成線が敷設された時点で想定された需要は、東京の東側と千葉を結ぶ都市間輸送、成田山・帝釈天への参詣客の取り込みと、点在する陸軍各施設への旅客輸送、千葉街道・成田街道を中心とした沿線集落の細かな需要を拾うことでしょう。
よって、帝釈天の近く(高砂)を経由し、国府台の陸軍関連の需要を拾いながら、成田街道・千葉街道沿いを進む利点がわかります。
むしろ、地盤が悪く、蒸気船が利用でき(当時は相応の競争力があった)、人口も多くなく軍隊も有名寺社もない沿岸部の経路を取る積極的な理由は見当たりません。

昭和8年に京成がはじめて行った不動産開発が海神台分譲地で海浜「別荘」住宅地として売り出されたことを見ても、千葉県内から東京市内へ通勤することは想定外だったということがわかります。

ちなみに、昭和5年に日暮里、昭和8年に上野に路線を伸ばすわけですが、当時東京35区内で最も人口の多い荒川区を貫き、日本で最も地価の高い上野松坂屋前に近いところにターミナルを設ける形になっていて、当時としては至極まともな路線展開であると考えられます。





地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 投稿者:くさなぎ 投稿日:2018年 1月31日(水)00時07分12秒 返信・引用


京成の「歴史のif」が話題になつてゐますが、
今尾恵介氏「地図と鉄道省文書で読む私鉄の歩み 関東3 京成・京急・相鉄」
の話は過去に出ましたか。去年楽しく読みました。




結局「正解」だったのかも 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月30日(火)22時15分56秒 返信・引用 編集済


1917年の「大正6年の津波」で「初代京成」が瓦解したと仮定するとどうなっていたか。
高速電車を走らせ得るかですが、総武線に並行しているので地方鉄道法による免許が取れないでしょうね。軌道法による特許となりますから併用軌道をベースとするわけで、関西のように「なんちゃって軌道」で高速運転をする発想が出るかどうか。関西の場合は都市間輸送という高速運転へのインセンティブがありますが、関東は東京から郊外への路線なので、目だった高速運転が見られませんでした。

海側ルートの場合、戦災の前にもう一回試練があるわけで、1923年の関東大震災が立ちはだかります。
史実では葛飾区方面の被災が比較的小さかったこともあり、1週間以内に千葉までの全線で運転再開を果たしていますが、墨田区から江東区方面に路線を伸ばしていた場合はどうなっていたか。時期的に「二代目京成」の開業時期と重なりそうで、開業断念、会社解散となる可能性があります。

あるいは震災時にはまだ着工もなく、震災後の郊外居住ブームを当て込んでの新線となったか。ただこの場合は1927年の昭和恐慌が迫っているわけで、なかなかうまくいきません。それこそ戦後鉄道連隊の資材を取り合った西武が、終戦後にブルーオーシャンとして存在した千葉方面に乗り出し、京葉道路ルートで千葉を目指したかもしれません。時期的には「習志野原」の払い下げとも重なるので、R296ルートで沿線開発とセットで成田方面に向かったかもしれませんね。

ただ、ここまで都心側の整備が無かった場合、船橋か津田沼を起点として成田を目指す私鉄が別途出来ていたでしょうね。船橋逸走どころかもともと培養線として。そうなるとこれを取り込む格好で都心ルートが建設された可能性が高いです。

こうして考えると、京成の生い立ちはさまざまなトラブルをうまく潜り抜けてきた感じがします。
仏閣を辿る路線も、まず日銭を稼ぐという意味では正しいわけですし、都市化が遅れた東京東郊では市川を経由するというルーティングもある意味必然でしょうし。その意味では津田沼から一気に佐倉に向かった時が、一番の冒険だったのでしょう。沿線に需要らしきものがない短絡ですから。






Re: 海側アプローチの「イフ」 投稿者:リリカルゆかりん 投稿日:2018年 1月30日(火)01時19分32秒 返信・引用


> No.5496[元記事へ]

エル・アルコンさんへのお返事です。

もし、千葉方面の私鉄が海側のルートを志向していった場合ということで、さらに想像(妄想)を膨らませていきますと、史実とは全く違う歴史になっていた可能性も指摘できます。管理人様指摘のとおり1917年の台風災害で京成は消滅となった場合の展開ですが、そうであればその後別の事業者による京葉間、さらに成田方面への鉄道敷設計画がされた可能性が大です。仮に1925年に、篤志家によって京葉急行電鉄(略称は葉急?)が設立されたとして話を進めます。

路線形態は大正末期〜昭和戦前期に開業した大手私鉄の幹線同様、当時の流行に乗じて最初から高速鉄道という形態が採られたでしょう。都電(当時は市電)との直通は高速鉄道である以上考えられず、標準軌・1500Vで全線複線とされ、船橋まで有力な街がなく、中間部の需要があまり期待できない以上、優等列車主体の運行を想定し、待避可能駅も数多く設けられます。

ルートについては海側と仮定しますが、架橋のコストや市街地の用地確保を考えますと、東京側のターミナルは永代橋あたり、現東西線のルートで原木付近に達し、ここから京葉道路のルートで船橋競馬場付近に至り、以東は現京成のルートと仮定します。そうしますとほぼ直線的な経路、高速運転に適した規格の路線となり、この面では京葉間でも総武線に対して十分競争力が確保できます。

もちろん沿線開発がされておらず、旧市域を抜ければ塩田と水害のエリアですから当初は苦境であったでしょうが、これは同じ時代にスタートを切った小田急や近鉄も同じですから、何とか経営難を乗り切り1930年代後半からは都市圏の拡大に乗って経営も好転していきます。何か所もの架橋のコストは大きな負担ですが、ほぼ平坦地を走る路線ですからトータルでのキロ当たり建設単価は長大トンネルの掘削を要した近鉄より安く済んだ筈で、建設費の償還はここで可能でしょう。1917年の台風で沿線の塩田が大打撃を蒙ったことも、かえって都市化を後押しする要因になったといえます(西武沿線で都市化が進んだ一因に昭和戦前期の練馬大根のバイラス病流行があったとの同じ理由)。

一方永代橋から都心方面ですが、当初は都電連絡としながらも、同時期の関西私鉄がそうであったように目と鼻の先である都心部への乗り入れを模索したでしょうし(うまくいけば東銀座か八重洲に延伸)、仮にそれが果たせなくても、中途半端な存在になる葉急永代橋への地下鉄路線は優先順位が高いとされ、標準軌仲間になる京急とをつなぐ、品川〜新橋〜銀座〜永代橋という路線は1960年頃までに開通したでしょう。さらにこの頃に輸送力増大を見越して、複々線化にも着手して、津田沼以西を1970年までに完成させると共に直通相手の京急に倣って高速性を追求した車両の大量投入や軌道強化も行われます。そうなれば路線のポテンシャルが認められ(後述のようにより政治力もあったでしょうし)成田空港乗り入れも国は当初から歓迎する姿勢で開港と同時に、銀座から、後には羽田空港からの直通特急が走るようになります。総武線が複々線化されても、十分な競争力がある路線になりますし、自社主導で船橋以西の沿線開発ができればそこで莫大な収益を手にできました。

と最も理想的といえるシナリオを書いてみましたが、やはり京成が沿線の小資本を糾合したという意味では地方私鉄に近い存在であったことがマイナスに作用した面があり、もしそれに代わって近鉄や小田急くらいのパワーがある私鉄ができていたら、さらに言えば鉄道関連産業に多大な影響を及ぼした三井財閥も直接的に鉄道事業を手掛けることはしなかったのですが、大正末期の時代背景を考えれば、東京に残された最後のフロンティアである南東側に目をつけて、先述の京葉急行電鉄が三井主導で開業していたら、やはり沿線開発は三井不動産が主役になりこの面では今とあまり変わらなかったかもしれません。



新宿線ルート 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月30日(火)01時06分27秒 返信・引用


確かに実現していたら、東武東上線も真っ青の手前側分岐になっていましたね。

ただ、同じく経由地がイマイチの有楽町線であっても、東武東上線の活性化につながったことは否めないわけです。

浅草線ルートが北総線に向いている今、山手線に接続している私鉄で地下鉄に直通していないのは西武新宿線と京成本線、東急池上線だけ。

定量的なメリットはなくても、定性的なメリットを夢想してしまいます。




海側アプローチの「イフ」 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月29日(月)22時19分24秒 返信・引用 編集済


もし京成が海側のルートを志向していたらどうなっていたか。
史実では1912年に江戸川まで開通し、1914年に市川、15年に中山、16年に船橋まで開通しています。
その時点で浅草の対岸である押上が起点ですから海側を志向するのは非常に困難なんですが、強引に亀戸付近を通り逆井で中川を越えて今井に向かうと想定しましょう。

今井で江戸川を越えて行徳街道沿いに船橋を目指したはずです。そうなると新川を通り霊岸島に至った通運丸と競合したはずで、既に銚子航路は総武線との競合に破れかけていたとはいえ、軌道レベルだといい勝負でしょう。そうなると京成の経営基盤はどうだったか。(史実ではこの方面に有力な公共交通がないことから、衰退した銚子航路に変わり、大正年間に森下付近の高橋から小名木川、新川経由で浦安、行徳を結ぶ小蒸気の航路が戦中まで通っていました)

一方で史実でも最初から荒川放水路に架橋しているわけで、そうなると小松川橋付近で架橋していたでしょう。史実では都電(城東電軌)は最後まで荒川放水路の区間に架橋、敷設できず、西荒川と東荒川の間は小松川橋を徒歩連絡でしたが、このルートを京成が辿った場合は直通できたはずです。

しかし運命はもっと過酷だったはずです。
1917年秋に東京を襲った台風による高潮。東京湾岸の塩田が壊滅し、当時の浦安町が全町水没した「大正6年の津波」ですが、海側ルートを京成が採っていたら、中川以東は総て水没、壊滅していたでしょう。都内側も小松川から一之江方面が水没エリアになっており、県内も総武線以南の市川、船橋市域が水没、船橋市域では海老川流域が医療センターのあたりまで広く浸水しています。

この時点で京成は廃業、という可能性が高かったわけです。逆に史実では総武線の山側を走っていたおかげで浸水被害を受けず、省線を乗り越して船橋に降りてきたところくらいが水に浸かったのでしょう。
もっとも、この時の暴風で高砂車庫が倒壊して大きな被害を出していますから、史実も散々でしたが。

京成が船橋から路線を伸ばしたのは5年後の1921年ですが、第一次大戦後の不況絡みというよりも、進路が悉く高潮被災地だったということもあるのでしょうね。ちなみに京成の代表的行楽地となった谷津遊園は、「大正6年の津波」で壊滅した塩田跡に出来ており、史実ではこの災害をプラスに作用させています。






新宿線ルートはそんなに魅力的か 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月29日(月)22時18分24秒 返信・引用


皆さん新宿線ルートに魅力を感じているようですが、どうなんでしょうか。
まず「地下鉄」としてどれだけの速達化を達成できるか。地下線の高速走行が期待できないわけで、神戸高速ルートのように惨敗するリスクが高いです。今現在でも本八幡の利用は始発狙いが多いわけで、新宿線が速いから、という付加価値を認めている人はいません。

次いで独自色の問題。江戸川区内を除き総武線に並行するわけで、特に目的地たる都心部で被るのがネックです。被れば速い方、安い方、便利な方を選ぶわけで、新宿線ルートがどう選択されるかを考えると微妙です。江戸川区内の需要については土地利用が既述の通りですし。

またビジネス需要で考えると、新宿線ルートはマイナーに過ぎるわけで、馬喰横山か神保町での乗り換えが必須。新宿がビジネスセンターになるのは相当先の話です。浅草線ルートも大概ですが、人形町から新橋までギリギリ許容範囲でしょう。

こういう視点で東西線と比較すれば一目瞭然ですね。荒川放水路以東で高速走行が可能な線路状況、茅場町から竹橋まで「ニッポンのビジネス街」を横に貫くルート、総武線とは飯田橋でしか被らない微妙な棲み分け(新宿線ほど近くない。総武快速線は東京で直交するだけ)、となっています。






何のための改軌だったのか2 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月29日(月)09時33分16秒 返信・引用


金町線こそ最近まで押上や上野に直通していたので、改軌して正解だったのでは。
新京成の都心直通プロジェクトの受け皿になる計画もあったわけですし。

個人的にもったいないのが千葉線で、小湊や京王との連携の道を断ってしまった感があります。
湾岸新線も東陽町〜海士有木と大風呂敷を広げず、千葉線をうまく生かしていたら日の目を見たかもしれませんね。




全線標準軌化は英断であったが 投稿者:リリカルゆかりん 投稿日:2018年 1月29日(月)00時48分36秒 返信・引用


京成が浅草線乗り入れのために全線を標準軌に改軌するというのは大英断であり、この投資を決断できたのは非常に大きい(実際にはこれとセットで駅施設の改良や軌道強化もしていますが、これらも目前に迫った高度成長を考えれば必要でした)といえます。50年代にはまだ成田空港の計画はなく、当初の地下鉄乗り入れが東中山であったとしてもいずれは成田方面まで住宅開発の波が押し寄せると踏んだからこその決断でしょう。それでも金町線まで改軌する必要があったかは微妙ですが、これは本線系と規格の合わない小規模路線が生じることを防ぐという意味合いもあったかもしれません。この「本線系と規格が合わない小規模路線」は大手私鉄にとって重荷になりがちで、それが廃止や転換の一因になったといえる路線(名鉄600V各線、近鉄ナロー各線、東武熊谷線など)もありますから(仮に金町線だけ軌間が違えば車庫や検車施設をどこに置くか)結果としてはこれも正しかったといえます。

しかし神奈中沿線民様がおっしゃるように、八幡から新宿線というのは新宿線の都心部ルートがやや悪いとはいえ直進性で魅力的であり、仮に京成が地下鉄直通の投資額を抑えようとした場合、押上線のみの改軌として、同線は本線系と分断され、その後馬車軌で建設される新宿線の計画に乗って、八幡接続での直通となった可能性はあります。

そうなりますと北総が今のルートだったかですが、逆に青砥で分断されている押上線がやや中途半端な存在になっていると考えられ、これを活かすために標準軌で青砥から現ルートに近い形で建設されたとなれば、ここまでは現在と大差ないかもしれません。ただスカイアクセスについては、必然的に上野に向かえませんから、浅草方面のみの運行となり利便性は良くても、SLは運行できたか、一般列車のみの運行とする場合、そもそも空港まで行く必要がどれだけあるか、もともと山手線から空港まで36分という錦の御旗に基づいて動いたプロジェクトでもあり、計画はされても計画倒れに終わるか現時点でも未完成であった可能性もありそうです。標準軌と馬車軌では3線も不可能で、もう1本空港側で線路を引く必要がありますし。ですがとにかく成田空港まで開通させられれば羽田と成田を結ぶ路線になり、都心アクセス線に合わせて計画が動いてたでしょう。

一方で本線ルートは比較的高速運転できる津田沼以東の改良を進め、新宿線直通の空港特急が走ればそれはそれで価値あるものになったともいえます。新宿線を活かすのであれば大島や岩本町も上下同時追い越し可能な構造で建設し、優等列車を頻繁運行する路線と位置付けてルートの不利を補っていれば大化けできたかもしれません。一方それができた場合、やはりスカイアクセスまでは不要とされた可能性が高いですが。




都市内と都市間 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月28日(日)23時52分1秒 返信・引用


まあ京成が馬車軌のままでなくよかったのでは。新宿線ルートや京王線への乗り入れは魅力的ですが、羽田と成田を結ぶ、というナショナルプロジェクトに載りやすい位置関係は捨てていたから、何事も独力で、となっていたでしょうし、そうなれば余計に再建の道はいばらの道だったでしょう。

東中山折り返しというのは、当時の都市圏の広がりを考えたらやむを得ないのでは。市川市と船橋市の間には「隙間」がありましたから、都市圏内を担う地下鉄としては市川市まで、ということで、折り返しの都合で東中山になったのでしょう。
京急線側も川崎まででしたからそんなもんでしょう。
当時は船橋逸走というよりも、優等の主力が津田沼以東各停の準急でしたから、まだ「田舎」だったわけですし。

ちなみに湾岸新線もそうですが、小湊鉄道乗り入れ(?)は小湊鉄道をどうする感じだったんでしょうね。
手元の京成時刻表だと、2代目通勤特急が登場した1985年10月改正(No.142ダイヤ)の号の巻頭案内図でまだ京成千葉からあまありき(海士有木をこう表現していました)まで点線が伸びていましたが、海士有木分断なのか、小湊改軌なのか。

1970年代後半にかけてキハ200系を投入してましたし、五井接続の問題もある。まさか上総中野まで電化改軌という設備投資をしたかであり、海士有木分断がせいぜいだったんでしょう。






地下鉄の運営 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月28日(日)22時52分4秒 返信・引用


前から思っていたのですが、日比谷線の北千住〜上野を東武が運営していたらなあ、と思うことはあります(西武有楽町線のような感じです)。そうすると山手線まで東武鉄道が接続できたのですがね。簡単に言えますが、利害関係などもありなかなか難しいのでしょうね。

千代田線の北千住〜西日暮里も同様です。




Re: そもそもあらゆるルートが市川を迂回する理由 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月28日(日)22時34分29秒 返信・引用


> No.5484[元記事へ]

エル・アルコンさんへのお返事です。

>一之江とか金魚の養殖がさかんだった土地柄からもわかるように

そうなんですか! 一之江というと環七通りがびしっと通っていて住宅もたくさんあるイメージでしたので驚きでした。
今井にはトロリーバスがあったようですから発展しているのかと思っていましたが。確かに鉄道を敷くような地盤ではなかったということですね。

私は今の路線網や都営新宿線の開通後の市街地としてある程度出来上がった状態(瑞江、篠崎、一之江など)しか見ていないのでどうしても昔のイメージがわかないんですよね。

勉強になりました。都営浅草線の路線名が「浅草」を冠しているというのはやはり昔、浅草が繁華街だったからというのが大きいのでしょうね。







Re: 東武 投稿者:吉吉 投稿日:2018年 1月28日(日)22時00分18秒 返信・引用


> No.5488[元記事へ]

daiさんへのお返事です。

詳しくはWikipediaにあるかと。




東武 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月28日(日)13時39分20秒 返信・引用


話題がずれるので投稿を分けます。

東武は伊勢崎線・東上線とも、都心寄りの複々線化を営団にやらせた形になっているんですよね。
(日比谷線は北千住〜新橋間の免許を営団に現物出資したんでしたっけ?)

三田線直通計画にしても、当初の上板橋案を蹴っ飛ばして、都営に高島平まで建設させるつもりだったわけで、
将来の運賃収入が減少しても目先の設備投資を公共にやらせるというのは、興味深い経営判断です。

京成もそうですが、東武も沿線開発部門が弱いことの表れですかね。
今でこそ池袋東武や船橋東武が一定の存在感を示していますが、本家本元の浅草は貸しビルなわけで、
阪急(及びそれを模倣した東急・西武)式の沿線囲い込み式ビジネスという発想がないのでしょう。



Re: 何のための改軌だったのか 投稿者:吉吉 投稿日:2018年 1月28日(日)13時36分23秒 返信・引用


> No.5486[元記事へ]

daiさんへのお返事です。

上野から成田までの特急を無視できなかったことも理由かと。



何のための改軌だったのか 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月28日(日)13時22分16秒 返信・引用


京成グループが馬車軌のままだったら、都営新宿線直通や北千葉線問題も別の展開があったでしょう。

ひとつ不思議なのは、1960年の浅草線直通開始段階で東中山折り返し(=船橋以東〜都心は京成船橋逸走容認)だったのに、なぜ全線(どころか新京成まで)標準軌にしたのかということ。

谷津から湾岸新線が分岐して新橋乗り入れを目論んでいたのではないか、という話題を前回の大雪の時にした記憶がありますが、小湊の存在を考えれば、全線標準軌化というのは最善手だったのかという疑問が残ります。




草野再論 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月28日(日)01時28分33秒 返信・引用 編集済


草野バス停、忘れていました。高校のころ、天台のスポーツセンターで行事があった際、津田沼駅から草野車庫行のバスに乗り、草野車庫から歩いたことがありますが、確かにすぐ南の停留所は草野でしたよね。ワンズモールなんかなかった時代の話です。稲毛を通る定期があったのに妙なバスに乗ったのは、当時からヲタの気があったということと、稲毛からのバスが混みまくるということもあったからです。

さて、草野ですが、今は地名としては残っていませんが、手元にある1982年刊行の人文社判の千葉県地図を見ると(折り畳み式で広げて大きな1枚になる全県地図)、園生は宮野木JCT付近、草野がオーツーパークのあたりに見えます。

詳細な地図で見ると、草野神社があり、草野公民館もあるので、園生町の北端、R16の東側が「草野」だったようです。いまも「草野団地入口」のバス停がありますが、草野団地(住宅街)自体はR16西側の長沼町に位置しており、草野の地名を借りたように見えますね。神社の名前は昔からの名残をとどめるケースが多いですから、草野神社があるというのは、草野の地名がこの辺りで、古来あるか、近代の入植者が創建したか、いずれにしてもこの辺りに集落が成立した段階で「草野」だったと推測できます。





そもそもあらゆるルートが市川を迂回する理由 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月28日(日)01時13分8秒 返信・引用


京成の都心ルートが迂回している件については、ここでも定期的に出てくる話題ですね。
歴史的経緯というか、新宿線が横断する江戸川区中部エリアが戦前の交通網創成期のころは鉄道や幹線道路を設置できる環境になかったということがあるわけです。一之江とか金魚の養殖がさかんだった土地柄からもわかるように、江戸川、中川による水路や湿地帯の存在。江戸川の渡河ポイントが市川から今井までなかったのも大きく、今井を通れば江戸川の左岸に細長く伸びる行徳街道沿いの旧市街と海岸に広がる塩田といった行徳地区は鉄道を敷くどころの話ではなく、総武線も市川まで北上して亀戸でようやく今のR14のルートに戻るなど、敢えて回避していたわけです。

それと、やはり江戸期からの東京を代表する繁華街浅草の存在が大きく、浅草と近接する本所の市街地を避けて北東からアプローチした京成と、南側をかすめるように通過した総武線。今と違って東京駅から新橋方面に向かう必要性が薄い時代の路線網です。
さらにその昔は、江戸時代の官道が今の千葉街道どころか、市川で江戸川を越えた後、柴又をかすめて高砂から新宿(金町西方)に向かい、水戸街道に合流していたわけで、大名行列は佐倉と生浜の両藩を除き、千住経由で江戸に向かっていました。

ちなみにこの両藩ですが、公式には千住経由で通行していましたが、江戸から40㎞程度という微妙な距離にあるため、千住を回ると日着不可能、今のR14ルートだとなんとか到達可能、ということで、本陣に泊まるといったコストをカットするために、いや、公式には献上物を早く届けるために、という名目でR14ルートの通行を願い出てこちらを実際には使っていたそうです。





八幡、八幡、京成百貨店前です 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月28日(日)00時46分11秒 返信・引用 編集済


東上線の本来の都心直通ルートであれば類似性がありましたね。退避駅の問題も東上線直通が具体化していたら実現していた、と思いたいですが、新宿線ですらまともに作ったのは瑞江だけですから高島平から延々と、の可能性も捨てきれません。

上野京成百貨店、確かにありましたね。ただ、デパートに行く、という目的で上野に行くということは残念ながらなかったわけで、特に私の場合はもともと新京成沿線とはいえ船橋でしたから、上野京成に行くくらいなら船橋西武のほうが気が利いていましたね。特に船橋東武が出来てからは、百貨店なら船橋で十分でした。

上野で百貨店といえば松坂屋ですね。京成も悪くはなかったんですが、イメージが...(苦笑)
八幡のあの店舗のしょぼさがだいぶ「京成百貨店」のイメージを下げていました。その意味で水戸の京成百貨店は良い意味で京成百貨店のイメージを払拭しています。あと、松坂屋も「上野」というよりは「上野広小路」であり、上野の商業施設というと、京成のほか、赤札堂(ABAB)と聚楽といった感じで、垢抜けないイメージでした。





京成と都営浅草線 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月27日(土)20時04分25秒 返信・引用


東武東上線〜都営三田線ではないですけど、京成線と都営浅草線もなんというか都心直通ルートとしては遠回りな気がするんですよね。
市川真間とか国府台のあたりの人ならともかく京成津田沼や八千代台、勝田台・京成佐倉の方の中距離客にとってはそんな感じがします。

京急線の品川・泉岳寺から都営浅草線が都心にダイレクトな感じなのとは対照的です。

dai様が挙げられた東上線と都営三田線のようにもしかしていたら都心とダイレクトに結ばないので反故になっていた可能性もありますね。それは言い過ぎかもしれませんが。

八幡から都営新宿線のルートの方が都心にダイレクトという感じがしますね。もっともその頃には都営新宿線は構想もなかったのでしょうが。




Re: 車庫と営業所 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月27日(土)19時56分15秒 返信・引用


> No.5480[元記事へ]

きたきたさんへのお返事です。

> ワンズモールバス停は元々「草野」バス停だったんで地元的には草野車庫は違和感なかったんですがなるほど他から見ればそうですね。

そうなんですか!
ワンズモールができる前は「草野」バス停だったのですね。初めて知りました。その頃は、バスに興味がなく地元でもないので。

> 町内会も草野町内会なんですが由来は調べたことなかったです。
> 機会があったら確認してみますね。

特に切迫しているわけではないですが、機会があったらお願い致します。調べてみたら草野町内会はHPもあるのですね。
長沼とか園生なら地図の地名にあるのでわかりますが、草野はいくら調べても地名として出てこないので不思議でした。




Re: 車庫と営業所 投稿者:きたきた 投稿日:2018年 1月27日(土)16時16分26秒 返信・引用 編集済


ワンズモールバス停は元々「草野」バス停だったんで地元的には草野車庫は違和感なかったんですがなるほど他から見ればそうですね。
町内会も草野町内会なんですが由来は調べたことなかったです。
機会があったら確認してみますね。



Re: 複数ルートの活用法 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月27日(土)14時11分25秒 返信・引用


東武東上線が計画通り三田線に直通していたら、
平日はビジネス街に直行する三田線、休日は東武百貨店に直行する東上線になっていたかもしれませんね。

もっとも三田線に直通したところで高島平から並行ダイヤになっていたわけで、
地下鉄ルートが選ばれない一因といえそうです。

ちなみに京成上野には上野京成百貨店があったことをお忘れなく・・・




複数ルートの活用法 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月27日(土)12時27分28秒 返信・引用 編集済


日本の鉄道で、大都市側のターミナルがここまで違う例がほとんどないだけに、京成のケースが際立ちます。
ただ、近い事例として最近発生したのが阪神ですね。キタとミナミという違うエリアを双頭のターミナルとして持つようになりましたから。阪神の事例を京成に準えれば、直特が朝夕は梅田、日中はなんばに振る、という感じでしょうか。ただ、阪神の場合は直特と快急という存在感のある優等が併存できるだけの需要がある点が京成と違います。

阪神の場合は、JRや阪急に対してどうしても見劣りがする阪神間の都市間輸送において、どうしても西宮以東の他線との距離が離れる区間(その典型が甲子園)で稼ぐしかなかったのを、直特の運行でその外側からの需要を狙う新快速的な展開を図りました。
さすがに新快速との競合は無理筋でしたが、なんば線はミナミなら阪神という独自性の確立に成功していますね。
ただしそれが浸透しているのは西宮以東で、神戸市内では快急が混みあう、ということは開業から9年が経とうとする今でもないわけで、梅田から地下鉄、という方を選ぶんでしょう。

地下鉄直通も含めて都心ルートが複数化している路線では、西武の「だぶるーと」、阪神の「OSAKAどっちも定期」のように複数ルートでの利用を可能にしているわけで、京成も青砥以東、本所吾妻橋以西の定期は日暮里、上野で乗降可能とすれば、京成利用は意外と便利、と見直される可能性もあるんですが、無策ですねぇ...

余談ですが、「阪急阪神」になったこともあり、また元祖的な双頭路線である神戸高速を抱えることもあり、阪神の定期券はかなり柔軟ですね。上記「OSAKAどっちも定期」は、大物以西から九条以東の定期で梅田(のみ)で乗降可能ですが、三宮−梅田を含む定期だと阪神の定期で阪急に乗車可能(逆も可だが他ルートの途中下車不可)とか、三宮−高速神戸を含む定期だと、元町経由の定期で花隈経由に乗れて、途中下車も両方で可能となっています。

首都圏では設備改良までの混雑対策としての暫定ルールでしたが、東武伊勢崎線で、日比谷線から銀座線内に直通する定期、浅草線内に直通する定期の場合、朝ラッシュ時のみ浅草(銀座線ルート)、業平橋/押上(浅草線ルート)での乗降が出来た「浅草う回」「押上う回」の制度がありましたが、こうした選択乗車が欲しいですね。阪神のケースは追加料金不要ですが、西武や東武の「二東流」は単純加算のようで、これも残念な面ですが。



Re: 曜日、時間で大胆に振るダイヤは実は珍しい 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月26日(金)19時35分45秒 返信・引用


> No.5476[元記事へ]

エル・アルコン様の返事に返信いものなのかわかりませんが…。

地下鉄はJRよりも運賃が割高から利用しない人が多いということなのでしょうかね?

地下鉄優位なのは東武伊勢崎線〜日比谷線・半蔵門線や常磐線各駅停車〜千代田線、半蔵門線〜東急田園都市線ぐらいでこちらの方が例外なのかもしれませんね。

小田急の場合れっきとした新宿というターミナルがありますし、京成も(私としてはそれほどターミナルだとは思っていませんでしたが)土休日は意外にも上野志向が多いようですから。もしかしたら東武伊勢崎線が上野に行っていたら日比谷線との直通はあまりしていなかったかもしれません。

やはり大きなターミナルを持つ東急東横線の中目黒は東急東横線との直通運転を止めましたからね。





Re: 曜日、時間で大胆に振るダイヤは実は珍しい 投稿者:リリカルゆかりん 投稿日:2018年 1月26日(金)01時54分9秒 返信・引用


> No.5472[元記事へ]

エル・アルコンさんへのお返事です。


小田急もこの3月の改正で千代田線直通列車を近郊区間主体に改めますが、その理由として調査の結果、千代田線に向かう流れは都内からの利用が主体で、遠郊からの需要はラッシュ時はそれなりにあるが、日中や休日は少ないということが分かったそうです。

たしかに丸の内や大手町に行く場合、町田や海老名、大和などからであれば他のルートの方が時間的に勝るためにそうなるのでしょうが、もう一つには通勤利用であれば多くの企業で交通費は会社持ちで、その部分には税金もかからない(社会保険負担額には反映されるため、北総沿線住民などはこの点にも不満を感じているのですが)ため、運賃を意識しませんが、自分の金で乗る日中や休日の利用者はターミナル駅に比べて、地下鉄でしか行けないエリアとなると割高感から敬遠する面がありそうです。

直通サービスの乏しい関西ではこの傾向がより顕著になり、キタの文化圏である阪急・阪神(なんば線ができて変化していますが)の沿線とミナミの文化圏である南海・近鉄の沿線では、同じ大阪であっても場所による感覚的距離は相当な差があるといえます。私が通っていた京都の大学で同級生などから聴いた限りではこれは相当顕著で、近鉄沿線出身の学生は高校時代毎週末ミナミに通っていたが、キタは年に1~2度と言っていました。

京成の場合上野の求心力が西側副都心より一枚落ちる一方で、浅草線沿線に銀座や日本橋があっても(銀座はJRですとやや不便ですし、新日本橋も繁華街に近いにもかかわらず休日は閑散としているのが不思議ですが)やはり休日は上野志向というあたり、運賃面の抵抗感は相当あるという仮説が成り立ちます。京急もSH快特は品川でどっと降りるあたり、どうせ別払いになるなら山手線に乗り換えて渋谷や新宿へと考える客が相当いることを窺わせます。

それゆえ、首都圏の私鉄各社も地下鉄と連携した企画商品を展開しているといえます(関西はより早い時期からスルットKANSA事業で多くの商品が出ています)。




マイクハナサーズでは困ります 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月25日(木)23時08分52秒 返信・引用


今朝は770Fに乗ったんですが、この始発1発目の電車、入線がやたら早く20分近く前に入ります。まあ寒いホームで立つ時間が短いですし、入線近くに来ても座れるから助かります。

で、何やら騒がしいと思ったら、緩行線平井での異音の確認で抑止されていたみたいです。ちょうど運転が再開され、上り快速も団子状態でしたが、品川にはほぼ定時に到着したのはラッキーでした。

しかしトラブル発生で駅員がハッスルするのは困りますね。
いや、適切な案内、情報提供は必要なんですが、しばらく続く3番線の快速を先に出すので発車が遅れる見込み、と言う定性的情報を繰り返してどうなる。何度も大音量で繰り返していますが、車内から見たら、座っている客はとうの昔に知っている話ですし、立客は発車近くになって増えますから、停車中に延々と放送する必然性が無い情報です。

これが発車順序が変わるとか、運休可能性があるとか、特に未入線の状態での状況説明であれば必要ですが、順番に発車します、という内容を延々と繰り返してどうなるのか。
しかも「ウソ放送」が混ざるわけで、運転が再開された時に「信号変わり次第の発車」と叫ぶから車内外とも「えっ?」という表情になりましたし、それを訂正するのに、間違えるといけないからと言わんばかりにさらに繰り返すとか、逗子行きなのに「東京行き」と言ってしまい、車内放送で「逗子行きです」と被せたり、まあ酷かったですね。

下り電車が来ると別の人のアナウンスが入りましたが、島式ホームで2人がそれぞれマイクを持って銘々勝手に話しているのか。マイクを離さないのはカラオケだけにしてほしいものです。




質問が多いと見えて 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月25日(木)23時06分37秒 返信・引用


東京駅におけるNEXの併結作業は相当部分が自動化されているとはいえ、誘導信号機による数度にわたる停止など時間がかかっており、1時間に2回、10分近く1線を占有しています。そのため朝ラッシュ時のピークにかかる下り2009M〜2013Mの3本は併結をしない全区間12連運行になっていますが、夕ラッシュ時の2049M〜2053Mの3本が結構運行上のネックになっています。

乗客の多くが乗り込む東京駅では併結列車の場合、2本のNEXが続行して到着するのですが、後から来る1〜6号車の乗客が先の7〜12号車の到着時点でどうも慌てるようで、くどいほど2回到着することと、1〜6号車は後からになることを案内しています。
しかしそれでも足りないようで、ここにきて放送で、ホーム上の駅員は併結作業の要員でありお問い合わせはご遠慮ください、用があればホーム事務室の駅員へ、と流していますが、収録された各国語バージョンがあるということは、よほど問い合わせが多いのでしょう。

実は水曜夜の2051Mがそれっぽかったわけで、後ろ半分が既に所定の位置に停車しているのに、小移動などの連結作業になかなか入れずに時間だけが経過していました。途中で例の放送が流れたあたり、併結作業に備えて待機していた係員を捕まえて質問攻めにしていた乗客がいたのでしょうか。
結局2051Mは5分近く遅れて発車し、後続の1923Fも4分遅れでした。さらに4番開通待ちとなった1711Fも2、3分の遅れとなり、おそらく3331Mも遅れたでしょう。

「問い合わせ」が併結由来のものであれば案内の改善が必要ですし、そうでなければ別の対応がこれも必要です。
あるいは併結場所付近にインフォメーションカウンターを設置するとか、乗車位置頭上にある案内器に「連結作業中」「ご乗車の車両は後から参ります」を出すとか、乗客目線で対応が必要です。





Re: 曜日、時間で大胆に振るダイヤは実は珍しい 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月24日(水)23時09分20秒 返信・引用


> No.5472[元記事へ]

私も先程、東京時刻表を見返してあれ?と思いました。

大昔からそうなんですか。初めて知りました。
珍しいダイヤですよね。例えが悪いかもしれませんが、小田急線の急行が平日朝はが代々木上原から千代田線に入り、土休日朝の急行は新宿に行くような感じですね。私は京成を利用するときはほとんどJR船橋から乗り換えて京成船橋か京成津田沼〜八千代台方面に行くので上野方面は分かりませんでした。

知らないとわかりにくいですね。私も先程気づいたもので。
京成〜都営浅草線需要は通勤時間以外はやはり薄いのですかね? 船橋でJRに乗り換えかもしくは八幡で都営新宿線に乗り換えるのかダイヤ通りにはたまた日暮里か上野まで行くのか…。

確かに平日と土休日でここまでダイヤが違うと平日なのに土休日ダイヤで運行する例(稀有な例だとは思いま
すが)のときは混乱するでしょうね。





曜日、時間で大胆に振るダイヤは実は珍しい 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月24日(水)22時25分23秒 返信・引用


通勤需要は都心方面、それ以外は上野方面、というやり方は大昔からですね。
日中の都交直通が快速になって、津田沼以西では速達性が高まっていることから、昔のような鈍足急行しか行かないということがなくて重宝していますが、一時期あったエア快系統としての羽田直通特急が快速になってしまったことからも、日中の都交直通需要は然程ではない、ということなんでしょう。

総武快速線の開通以降顕著になりましたが、都心方向は総武線に勝てない、ということで、特に昔は繁華街としても集客力のある上野なら互角に戦える、ということで上野を重視したのでしょうね。日暮里乗り換えで池袋方面にも行けますし、それもJRより時間的競争力があります。

ただ、上野や池袋方面に通勤需要の太宗が、ということがないわけで、朝夕を都交に振っているわけです。
これ、震災直後すぐのダイヤで、平日だけど休日ダイヤで運転、となったとき、通勤流動と合っていない上野行き中心のダイヤで混乱したと言いう経緯もありましたね。




謎の回送を読み解く 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月24日(水)22時17分7秒 返信・引用


火曜朝の新京成の「謎の回送」ですが、これ、凍結防止の終夜運転対応かもしれませんね。
通常ダイヤだと最終の新津田沼行き213列車がそのまま翌朝の新津田沼始発京成津田沼行き801列車になりますが、本線を空けるためにこの運用が側線に入り、通常側線で寝ている編成がくぬぎ山に取り込んだと。
あるいはこの編成が終夜運転すればいいのですが、走っている間に新津田沼に戻れなくなるリスクを考えたか。

震災後の暫定ダイヤのように、側線に縦列停車して留置するという手もありますが、そこまではしなかったのでしょう。
(通常時も縦列停車をしていないことは、くぬぎ山発の始発電車で京成津田沼に向かう時、202列車になる留置編成はいつも駅側に停車しており、最終で入る213列車が取り込まれていないことを示しています)





京成線のダイヤについて 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月24日(水)21時17分48秒 返信・引用


京成線のダイヤについて疑問なのですが、
平日の朝上り・夕下りの優等(快速特急、通勤特急、特急)は都営浅草線からの直通が多く、土休日は同様の時間帯を見ると京成上野始発が多いです。

平日の通勤時間帯は、都営浅草線への直通需要が多いものの、それ以外はそうでもないことを表しているのでしょうか?
土休日に日暮里・京成上野志向が多いとはあまり思えませんが。




23日の京成ルート 投稿者:こあら 投稿日:2018年 1月24日(水)07時39分18秒 返信・引用


朝は管理人様ご指摘の踏切脱輪に加え、青砥で車両故障とのことで、京成線内では主要駅手前などで待ち時間が多かったことと、私の乗った快速特急が青砥から各駅停車になったこと、浅草線内でも「運転間隔調整」などで通常より1時間位余計にかかりました(22日夜と同じくらい)。夜はトンネルの向こう日ノ出町での人身事故で「行っとけダイヤ発動」で品川の出発案内板も「遅れています」ばかりで列車の記載無し(十分なアナウンスも無し)。北総直通に乗り高砂で降りれば次に来たのは快速特急(早く言ってよ・・・)。時間的には十数分の遅れだが案内不足を痛感しました。





夜の様子 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月24日(水)00時16分13秒 返信・引用


そして夜は緩行線の人身事故の影響で乱れていました(涙)

21時頃に東京駅地下ホームに降りると、緩行線に入る「HL千葉5号」は運休でしたが、3号は運転とあり、しかし折り返しになる1号の返しの回送がまだ新小岩付近、という実況入りで遅れを伝えていました。
杓子定規なのはまだ編成が来ない段階で20時59分を回り、ライナー券の販売を打ち切ったこと。券売機にタイマーが仕込んであるんでしょうが、もう少し融通が利かないものか。

快速の発車案内は、先発が2102の始発2193Fで、次発が2047所定の始発2075Fという状況。2052の1929Fは久里浜始発なので影響なく出せて、2075Fは幕張から回送とはいえ、乱れの快速線の影響を受けたようです。しかし2075Fになる編成は回送で幕張出庫なんですが、なんで所定の時間に割り込まさなかったのか。2193Fに折り返す1992Fが定刻に少し遅れたくらいできちんと走っていたので、先に出せると思うんですけどね。

結局2075Fは2193Fのすぐ後を追っかけたようですが、2193Fですら空席がちらほらだったので、普段から空席がある2075Fはどうだったんでしょうね。



朝の様子 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月24日(水)00時06分13秒 返信・引用


大雪の翌朝というと凍結の懸念の他、交通機関の乱れが心配されましたが、万が一に備えて払暁に起きたところ、首都圏各線は一部を除き平常というアナウンスにホッとしました。

もちろん動き出してからが勝負で、結局いろいろ出てきて15分から30分程度の遅れが発生していましたが、間引きもなく運行してくれたのは助かりました。

実見や知人情報を総合すると、いろいろあったわけで、まず出端をくじいたのが京成の踏切であった脱輪事故による不通です。
滑って落ちるという受験生には禁句の状況なんでしょうが、平面交差主体の京成にはこれがあります。特に幹線道路が渋滞して脇道狙いのクルマが普段から多い京成の場合は特にです。

新京成も妙な運用が出たようで、北習志野616の507列車の後に回送が走りました。おそらく通常なら前夜の新津田沼2115着の211列車から側線で滞泊して新津田沼633の202列車になる運用を、屋外留置を避けてくぬぎ山に取り込んだのでしょう。時間的に側線経由の折り返しはタイトですが、なんとか回したようです。

総武快速線は成田始発の606F(津田沼652)が大ブレーキになったようで、後続の津田沼659の676Fと順序を入れ替えました。すでに676Fからは約5分間隔の時間帯になるので詰まってしまい、遅れが増幅したようですが、前に2本ある佐倉始発が平常だったので、佐倉−成田間でのトラブルでしょうか。606Fは千葉で「千葉あずさ」に接続するのですが、今朝は当然不接なので、「あずさ」の自由席に空席が目立っていました。

この606Fと、津田沼709の佐倉始発の694Fがなぜか11連で運転。前夜の運転の折り返しのはずで、付属編成を切り離す機会もないはずなので、前夜の混乱で11連で運転されていたのでしょうか。
ちなみに始発1発目の津田沼718の770Fに乗っていた知人によると、606F以外は運転順序を墨守していたようで、津田沼713発の684Fを待っての発車となり、津田沼時点で10分近く遅れていたそうです。



敢えて遅く帰宅した人 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月23日(火)23時04分42秒 返信・引用


21時過ぎの東西線西行きはガラガラでしたね。
中央線直通中止とくどいほどアナウンスしていたのに、運用戻し目的かJR車が来ましたし。




いつの時代も、ぜんぶ雪のせいだった。 投稿者:あそうかい 投稿日:2018年 1月23日(火)00時36分12秒 返信・引用


こんばんは。
自分は早帰り指示が会社から出たものの、今日中に片付けたい仕事があるから残れと上司がいうので結局19時半過ぎの退社でした。

NETRAINS+を見ると快速線は間引きとスカブカ分離しているらしく、東京駅に止まっている千葉行きの次が市川付近走行中の東京行きという状態。一方、緩行線は30分以上遅れているものの本数は多いようなので、秋葉原乗換えの緩行線で帰ってきました。
乗っていた山手線が途中、駅に着いても扉が開かないというホームドアトラブル(たぶん雪のせいによるセンサー誤検知)があったものの、あとは順調で、緩行線は乗車率も普段と比べてかなり低く、亀戸から座れてこちらもゆったり帰宅です。

ところでタイトルですが、今シーズンのJRSKISKIポスターに書いてあった一文です。(他のコピーが書いてあるパターンもあります)
また今期のWEB CMでも4年前のキャッチコピーをオチに使ったものがあったりしますが、今後はパロディも厳禁になりそうな気がします(笑)
https://www.youtube.com/watch?v=ptQgtV2NxLo



五反田ルート 投稿者:八千代台民 投稿日:2018年 1月23日(火)00時13分30秒 返信・引用


私も普段は品川で総武快速、船橋から京成ですが
五反田ルートを選択しました。
18時50分前に五反田駅を出ましたが、管理人さんと同じく浅草線の時間調整と主に市川市内踏切の安全確認で
だいぶ遅れました。

五反田→青砥80分ほどかかりました。
青砥で疲れてしまいタイミングよくイブニングライナーが来たので乗車しました。
青砥→八千代台50分

思った以上に浅草線が酷かったですね。
あと帰宅ピークを外せば踏切がない東西線東葉ルートも悪くないのではと
頭に浮かびました。

明日の朝もどうなるんでしょうか。





早帰りが徒となる 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月22日(月)22時29分45秒 返信・引用 編集済


ウチも早帰りの指示が出たのですが、そうは言いましても、という状態なので、取り敢えず部下だけ帰して仕事してました(苦笑)

結局18時を回って退社したんですが、時既に遅しで、間引き運転に引っ掛かり、山手線は来ないわ乗れないわという状態。
横須賀線は大幅運休で、総武快速線も運休&遅延という状態にはたと悩み、結局五反田から京成ルートを志向しました。

五反田に着くと池上線が入場規制とのことで大混乱。しかし浅草線コンコースは平穏で、停車中の北行きに駆け込むとラッキーなことに快特成田空港行きでした。ちょうど駅で並んでいた人が座った後、という感じでしたが、山手線に比べると極楽です。
ただ、泉岳寺でダイヤ混乱の京急線直通を受け入れる関係で抑止され、しばらく発車しませんでした。

泉岳寺では京急からの印西牧の原行きを表示した青砥行き(駅及び快特車内の案内)が先発でさらに空き、ここで座れました。こうなると少々遅れてもとことん付き合う気になりましたが、運転間隔の調整という名の停車がその後各駅で続きました。
調整と言いながら青砥行きの直後に発車し、三田、大門では調整もないのですから「ほんまかいな」の世界。しかし宝町からは各駅で調整してました。

極めつけは浅草橋で、手前の東日本橋で「浅草橋駅での入れ替え作業のため」と謎の案内。その正体は先発の印西牧の原改め青砥行きが浅草橋止めになったようで中線に引き上げられていました。
押上ではさらに先行の青砥行きに追いつき(4番線が埋まっていたので3番線に入線)、ここで追い越しかと思いきや乗り換え客を受け入れて青砥行きが先発。快特の車内では「普通が先だとその後を付いていくから」と至極もっともな批判が聞かれましたが、結局後続の印旛日本医大行きの接続を受けて先発し、八広での追い抜きもなく青砥まで追走です。

青砥からは順調、といいたいところですが、踏切の検障が積雪で軒並み作動したようで、踏切の手前で急停車を繰り返す道中となり、何とか京成津田沼に至りました。

五反田の段階では1841発の1887Kか、遅れの1889K(1821発)のようでしたが、押上の段階で1887Kで約30分遅れとなっていました。
しかし京成線内では運用をいじったようで、京成津田沼で見た電車の運番は75Kとあり、所定だと泉岳寺1917(羽田発)の1875Kに化けていましたが、それでも20分近い遅れであり、結局2時間近い道中でした。

ちょうどこあらさんの小1時間後という感じでしたが、高砂からは空席も残すなど、時間はかかりましたがゆったりと帰れました。
振替にはしませんでしたが、ICカードの特例で五反田から424円の別払いで済みましたし。

それにしても、都心で20㎝越えの積雪となりましたが。4年前のように急激な積雪とまではいかない感じですから、通常運行を維持することは比較的容易だったはずで、膾を吹いた格好です。敢えて遅い時間に帰宅した人は、間引かれていてもそれ以上に空いていて順調に帰れたようですし、官民挙げて早帰りを促し、交通機関が間引きに入って輸送力が追いつかなかった夕方に、「早帰りが原因の混乱」という笑えない事態が発生していまいました。






雪にやられています 投稿者:こあら 投稿日:2018年 1月22日(月)18時26分48秒 返信・引用


大雪の為、早目の帰宅指示は出ていたのですが、17時少し前に会社を出たところ、京急品川で改札規制。ややあって入場し、一駅乗って泉岳寺で数本待って京成直通の快速特急に乗りましたが、都営線内でノロノロ運転でまだ本所吾妻橋です。




指定席料金の性質と価格 投稿者:リリカルゆかりん 投稿日:2018年 1月22日(月)01時56分23秒 返信・引用


NEX以外の千葉管内の特急は設定当初から自由席主体で、利用者の自由席志向も非常に強いのですが、一方で通勤特急の役割を担うNEXの一部列車は、料金回数券の存在によって指定席であってもそれなりに利用されているというまだら模様の構図になっています。

3月以降はえきねっとが値下げされ自由席との差が150円となりますが、これでどの程度の客が指定席に流れるかをJRとしても見極めたいということなのでしょう。もしうまく指定席シフトが起こればスワロー化の検討、そうでなければ現状維持(今後も先細り)という可能性が高そうです。

この指定席料金(特急料金の場合正確な表現ではありませんが分かり易くするためこう表現します)ですが、距離に関係なく通常期で520円が原則であり、150円というのは一見相当割安にも見えます。しかし指定席料金は、本来は着席できる、若しくは複数名乗車の際にまとまって着席できることの保障に対する対価という面がありますから(故種村直樹氏は事務手数料の側面と汽車旅相談室で書いていましたが、利用者の側から見れば、保障料でしょう)、通勤時間帯でかつ自由席に常時空席がある場合、その価値はありません。自由席に座れなかったから指定席に移ってもというのも、指定席券を元から買った人の立場はという不公平感があり(ある意味では病気になってから保険に加入するような行為)、そこのバランスを取って事前にえきねっとで買った場合と差をつける、それを事前購入の値下げで対応するというのは評価すべきことです。

しかし一方では自由席といえども特別料金を徴収する列車で、常時立ち客がいるという状態を看過してよいかといえば、当然是正が必要であり、そうなりますと普通列車の指定席はまだしも、特急列車に対して着席保障を理由に料金の上乗せすること自体に問題ありともいえます。この点は先に正確でないと書いたように、「特急料金は指定席の価格が本来価格で自由席料金は着席保障なしという条件での値引きである」という反論もありそうですが、利用者の側から見れば520円の差に変わりはありません。そうなりますとやはり同じ座席であれば値上げに過ぎないという意見も尤もです。

ただし指定席と自由席でアコモに多少なりとも差があれば料金差も当然受容できます。新幹線Max
のような自由席の改悪で行なうのがいただけませんが、逆の例であればレールスターやスーパーカムイ、特殊事情とはいえ、九州のキハ186のように短距離でも指定席という客を呼び込んだ例はありこれに倣えばそう問題はありません。JR東日本も、90年代初めまでは国鉄型車両をリニューアルする際に指定席車は大幅に改良し自由席車は小幅にとどめることで差をつけていましたし、同じ方向性で行なうのであれば大いに賛成できます。

ただしこれを千葉管内の特急に置き換えますと、利用率の非常に悪い255系のG車を指定席としての対応(さすがに価格差は520円でよい)が最良とも思えますが。これであればJRとしても空気輸送のG車に今まで自由席を利用していた客が流れる分増収になり(1人流れれば、えきねっと割引で流れる客3人分以上)、自由席の方はより着席期待度も上がって双方よしの結果になります。





たかが150円、されど150円 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月21日(日)20時54分26秒 返信・引用 編集済


どうでしょうね。「千葉あずさ」の料金回数券で現在210円の差になりますが、この実態ですから。
自由席で座れなくなった→えきねっとで指定券、となるかどうか。不承不承指定席に変更するのならいいですが、快速なら座れる時間帯や区間であれば、150円で着席保証、ではなく、早起きして510円浮かせる、というインセンティブになるかもしれませんね。クレカ決済などハードルもありますし。

ちなみに1回なら150円ですけど、月20日で3000円。年間で36000円。ふと立ち止まって見直す機会を得ると、人はどういう行動に出るか。ちなみに見方を変えれば、こういうところに拘る人が、財を成すんですよね... 私は無理でしたが。





Re: 指定席設定への懸念 投稿者:鎌取駅利用者 投稿日:2018年 1月21日(日)12時57分34秒 返信・引用


こんにちは、いつも楽しく拝見しています。

千葉支社のプレスリリースによると、えきねっととくだ値で東京—蘇我、四街道の指定席特急券が660円になるようです。+150円で着席保証なら、これは良いのではないかと思います。

エル・アルコンさんへのお返事です。

> 3月改正で房総特急に必ず普通車指定席が設定されることになりましたが、朝の「通勤特急」への影響が気になります。
> 普通車全車自由席で設定されている各列車の1両が指定席になった場合、指定席に変更するインセンティブがない限り、利用できる車両数が1両減少するだけだからです。
> >




指定席設定への懸念 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月20日(土)12時35分50秒 返信・引用


3月改正で房総特急に必ず普通車指定席が設定されることになりましたが、朝の「通勤特急」への影響が気になります。
普通車全車自由席で設定されている各列車の1両が指定席になった場合、指定席に変更するインセンティブがない限り、利用できる車両数が1両減少するだけだからです。

1両の設定でE257系10連の場合は10%、255系9連の場合はG車があるので12.5%の減少となるわけで、誰も指定席に移行しなければ、E257系の場合は現状で座席定員比の乗車率が90%、255系の場合は87.5%を超えていたら、席にあぶれます。

朝の「千葉あずさ」が見せる見事なまでのコントラスト(津田沼通過時点で自由席は8割方埋まっているのに、指定席は1車両3人もいれば御の字)を考えると、指定席志向などあるわけがない、と感じますが、既存利用者にとっては改悪でもニューカマーにとっては「それが条件」と比較対象がないので受容するわけで、「スワロー」が結局定着したように、やがては落ち着くんでしょうが。それが「独占」の効能なんですが、「需要があるから」と意図的に取り違えて肯定する毎度の光景が見られるんでしょうね。



外環によるリムジン拡充 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月20日(土)12時22分59秒 返信・引用


外環に埼玉方面のリムジンが移行するかですが、一般車両が外環に移行して空いた中環を通る気もしますね。
外環は今でも川口JCT〜川口西〜外環浦和のあたりが渋滞するわけで、高谷までの開通で移行台数が増えると、かなり厳しい気もしますから。どちらかというと小松川JCTの開通による京葉〜中環ルートが本命にも見えます。

外環千葉区間開通でリムジン関係で期待するのは、市川や松戸地区の充実です。
特に松戸地区はこれまでリムジン不毛の地だったのが、外環開通で羽田、成田とも期待できます。市川もこれまで羽田からは行徳、妙典のおこぼれ的路線でしたが、あるいは松戸とセットで新路線も考えられます。



まだ概要だから 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月20日(土)12時15分31秒 返信・引用


北千葉道路西側の資料を見ましたが、ルートは概要レベルですね。13年前に「成田新高速」のアセス図を基に現地を見て、それが一連のサイトでのシリーズの原点になっていますが、同じような状況です。

今回は都市部ということもあり、既に建て込んでいるエリアなど、どこを抜くのか、という推定が概要だとかなり難しいですね。それを想定するのが腕なんでしょうが、新鎌ヶ谷から松飛台付近まで現地を歩いた感想としては、未だ雲をつかむ感じです。
北総線の高架に仕込まれた空間も、今の規格であれば本当に足りるのか。という感じですし。

松が丘のバス通りは高根木戸のイオン駐車場入り口からの区間が今年度末とのことですが、明らかに用地にかかるビル1軒と民家1軒がどうなるのか。6月くらいまでずれ込む感じもしますが。
公園前から清水山の間はまだ3年かかるようですが、こっちは1年、いや、頑張れば2年は短縮できるようにも見えますけどね。近隣公園を削って今の3車線分から4車線分の幅員にする工事もあるから時間が掛かるのかもしれませんが、用地買収はないのですからやる気次第でしょう。ここの容量不足で両方向の右折車が本線を塞ぐのが渋滞の主因であり、4車線化して右折車の収容台数を増やすことが重要です。






Re: 外環開通への変化(リムジンバス等) 投稿者:えむえす・あっぷ 投稿日:2018年 1月17日(水)09時46分3秒 返信・引用 編集済


エル・アルコンさんへのお返事です。

> 今週末、京葉道路と外環を走る機会があったんですが、6月に延期になったとはいえあと半年以内に迫った外環の開通を踏まえた変化がいろいろありました。
>
> 京葉道路は外環関連の表示ですが、上り線の看板の設置はこれから。下り線は既に掲出されており、開通まで隠すいつものパターン。外環は和光から三郷南まで走りましたが、JCTまでの距離を示す表示に高谷が登場。ぱっと見ですが隠されているのは「高谷」のようで、JCT名は高谷で確定でしょうか。以前外環のIC名が発表された際に高谷JCTは漏れていましたが。

私は「高谷JCT」の工事現場の近くをJR武蔵野線で通りました。「首都高速湾岸線→東関東自動車道」への看板の設置はまだでしたが、構築物を見るといよいよ開通へのカウントダウンが始まった。という感じがしました。

これが完成すると一部のリムジンバスのルートも大きく変わることが予想されます。特に大きく変わると思われるのは大宮駅や新越谷駅と成田空港を結ぶリムジンバスだと考えています。現在は「首都高速中央環状線〜葛西JCT〜首都高速湾岸線〜東関東自動車道〜新空港自動車道」を通っているようですが、これが「東京外環自動車道〜高谷JCT〜東関東自動車道〜新空港自動車道」になると考えられ、実際の所要時間がある程度読めるようになると思います。

そこで大きな影響を受けるのが「鉄道」と思っています。現在は「JR武蔵野線〜東松戸乗換〜成田スカイアクセス線」か「JR武蔵野線〜西船橋乗換〜JR中央・総武各駅停車〜船橋乗換〜京成本線またはJR総武・成田線快速」、あるいは「大宮NEX」を使っている人がリムジンバスへ相当数移ると考えられるからです。(リムジンバスは運行本部からの指示により道路が渋滞していても極力遅れないように迂回してくれる上、大きな荷物もトランクに預けて楽に移動できるからです)




道路あれこれ 投稿者:道路ファン 投稿日:2018年 1月16日(火)13時43分22秒 返信・引用


今日から一般国道464号北千葉道路(市川市〜船橋市)に係る計画段階環境配慮書及び構想段階評価書の公表ですね。http://www.pref.chiba.lg.jp/tokei/kitachiba/houdou.html
意見書の提出期限は平成30年2月20日(火曜日)までのようです。

松ヶ丘の事業期間は平成30年3月31日と予定されているようですね。
http://www.city.funabashi.lg.jp/machi/douro/002/p008699.html

総合都市交通計画はメディカルタウン構想のため、作成発表が大幅に遅れているようですが、道路政策がダメダメな船橋市でも10年以内に優先区間の事業化をして欲しいものです。http://www.city.funabashi.lg.jp/shisei/kansa/003/p050986_d/fil/H28houkatu_kekka.pdf

昨年の新京成高架化のおかげで鎌ケ谷大仏からくぬぎ山交差点までの渋滞がだいぶ改善した印象です。2年後の完全高架化が楽しみです。



松が丘のバス通り 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月15日(月)23時03分8秒 返信・引用


高谷に関しての熱弁はご自身で発表媒体を確保してどうぞ...



さて、松が丘のバス通り、こと宮本古和釜町線の拡幅整備ですが、無理無理と諦めていた公園前から清水山の区間の立ち退きが急ピッチで進んでおり、近隣公園のところの角のGSも閉店、解体されて、近隣公園を一部削っての拡幅工事もあり、一気に完成形が見えてきました。
手前側もイオン駐車場入り口からその先の区間も、用地にかかる大物といえるビル2棟のうち1棟が解体され、こちらもゴールが見えてきました。

高根木戸以南は一部を除きほぼ完成しており、この2ヶ所が完成すると、船橋市内では中心街と北部郊外を結ぶ道路としては初めて路側帯を十分に確保した「幹線道路」となります。

この宮本古和釜町線は、古和釜十字路をゴールとしていますが、古和釜の集落に入る手前で木戸川沿いに出て、金堀から豊富に向かう道路にそのまま進めるようにしてほしいですね。R296バイパスとなる馬込町古和釜町線に至る区間の計画がないとか、非常に中途半端な末端部であり、このあたりが道路政策がダメダメな船橋市らしいです。






Re: 外環開通への変化 投稿者:吉吉 投稿日:2018年 1月15日(月)20時22分2秒 返信・引用


> No.5451[元記事へ]

エル・アルコンさんへのお返事です。

期待したいのは市川市原木・高谷・二俣地区の大改善で、整備予定があっても未だまともに整備されず、のんびりしてのっぺりとした景観で資材置場や畑も多いままで現状維持は後退するし大気汚染が心配されながら改善が殆ど進まず、ダイオキシン類が環境基準値を達成していても産廃処理施設が多く、ゴミの匂いが漂い、大型車が砂埃を立てる等、環境が劣悪ですが一部の地権者で土地区画整理事業を推進したいという意向が示され、暫定用途地域の指定と形態規制を存続させており、原木地区北側の市街化区域と接する部分で専用住宅が建築され、農地も残り、南側では学校や福祉施設、大型車のトラックヤード、資材置場、休耕地、荒れ地が有り、周囲の環境に好ましくない影響を与える状況が多く、用途指定解除に関して今後地権者の方々のご意向を再度確認させて頂いた上で対応したいと言い、前から庁内の都市計画見直し検討委員会で地区ごとの特性や土地利用状況を勘案する中、今後の土地利用の方向性を検討し検討した土地利用の方向性を基に道路計画や農業従事者の動向等を踏まえ、具体的な対応施策の検討を行い、違反物件は周辺環境の維持改善に向け引き続き最大限の努力で是正指導に当たると言います。

直ちに調整区域の調整撤廃で住宅、工場等を分譲しても構わないですが、外環は県内区間も含めて都市計画として成立したのが昭和44年なら大分無理がある計画だったから計画自体無ければ良かったと言えますし、近代化されないのは自転車や自動車で西船橋駅へ向かうこともありましょうが西船橋周辺は自転車置き場が不足し、道路が混んでいます。

今後は競合関係にある地域を特定の指標に従って座標空間上に位置づけ、若い世帯に的を絞り「母になるならば」等と育児しやすい街を広告して移住促進、市境問題解消、市営宿泊施設新設、駅前ロータリーに桜を植えること、喘息対策、ゴミゼロ運動等をテレビで取り上げて貰うこと、住民参画型のまちづくり、清掃工場の永久追放、公民館と図書館等の建替えや移転、法務局市川支局復活、原木山妙行寺や日枝神社は電車やバス、駅、ラジオの広告で売り出し、田尻地区の用途地域を準工業地域に変更、江戸川河川敷に1km以上の桜並木、バーベキューや花見等ができる所を造ること、学区変更、マンション規制全廃、企業が顧客に向けて流通に関係した一連の体系的市場志向活動、顧客や消費者にとって価値あるブランド構築のための活動、育児支援住宅を造ること、経営課題を導き出すこと等々が必要です。

原木中山駅周辺地域はマンションが林立し、一日辺りの乗車人員も周辺地域の人口も現状の1.3倍以上に増えても良く、公共交通機関が発達し、車なし生活に向き、都心部の通勤圏として十分機能でき、大企業もあり、職住近接が実現でき、競合相手がおらず、あまり高齢化率が上昇せず、若年層転入が多いから潜在住宅需要も十分あり、住宅の売れ行きは別に悪くなく、人口は全体で急激に減らず、便利な公共施設や文化的施設があって街並みも綺麗なら育児に良い街になり、治安はあまり悪いように感じられないと言われ、地価や家賃の高さに比べて居住面積が広く、高家賃でも高級で、新住民の多い地域では一人暮らしの若者や単身者が多く、一人で放っておいて貰う権利を重視するあまり交流が希薄でなく、環境維持等の問題は多数の住民の協力を得られるし、集合住宅では部屋数と同数の駐車場がある場合が多く、家賃と別料金で高額になるため自家用車保有や維持が困難でなく、美術館や博物館等文化施設があまり遠くなく、買物が便利で買物難民問題がなく、趣味に特化したアニメや同人ショップ等のいくつかがあまり遠くなく、通信販売に頼らなくて良いこと等から更なる転入増が見込めます。




外環開通への変化 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月14日(日)22時33分13秒 返信・引用


今週末、京葉道路と外環を走る機会があったんですが、6月に延期になったとはいえあと半年以内に迫った外環の開通を踏まえた変化がいろいろありました。

京葉道路は外環関連の表示ですが、上り線の看板の設置はこれから。下り線は既に掲出されており、開通まで隠すいつものパターン。外環は和光から三郷南まで走りましたが、JCTまでの距離を示す表示に高谷が登場。ぱっと見ですが隠されているのは「高谷」のようで、JCT名は高谷で確定でしょうか。以前外環のIC名が発表された際に高谷JCTは漏れていましたが。

三郷南の出口も以前は終点スタイルの表示だったのが、出口スタイルの表示に変更されています。それでも上貼りで「鷹野出口」が書かれており、そこまで重要な地名なんでしょうかね、鷹野は。高谷開通後も鷹野の名称が残るかどうかですが。

三郷南で降りた後のR298も、青看はさりげなく「外環」の文字を隠しています。
矢切以南で気になるのが、r1との交差付近でR298本線は立体になりそうにないこと。北千葉道路の萩原以東のように一般部は取り敢えず通しました状態でしょうか。しばらく沿道をまともに見ていないので、ちょっと確認が必要です。北千葉道路ルポとしても、北千葉JCTの確認が必要ですし。





平日の降下初 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月14日(日)14時17分57秒 返信・引用 編集済


今年の空挺団降下初は平日金曜日の12日に実施されました。
例年1月第2日曜日に固定されていただけに意外ですが、平日開催となったことで、地元の事業所では騒音が、と左派系は早速上げ足を取るかもしれませんが、まあ普段から平日を中心に演習をしているわけで、今日はえらく飛んでるな、えっ、今日が降下初?という人が多かったようです。

よくよく調べると、今年の第2日曜日は14日となるためセンター試験に被るので、飛行機やヘリによる騒音でリスニングが出来なくなるなどの試験への影響を配慮したそうですが、センター試験の日程が1月13日以降の最初の土日、降下初めが1月第2日曜日で、被るのは今年のパターンだけです。しかも閏年の関係もあるので7年に1回とはならず、前回は1996年まで遡りますし、当時はリスニングもなかったのか降下初は1月14日に実施されています。

ちなみに1月14日が日曜日という暦は1996年まで遡り、ハッピマンデー制度が2000年から導入されているので、降下初=第2日曜日=「三連休中日」という印象が強く、その日は例年協力している地域の催しに被り降下初を見れないことが多く、今年もそっちに出たのですが、いつもなら催しの最中にやってくるはずの機影がなく、訝しんでネットで調べると、12日とあって驚いた次第です。

小野寺防衛相が出席したそうですが、現地で観覧した前年は当時の稲田防衛相の欠席に、観覧席から溜息や批判の声が上がっていましたが、今回は大丈夫だったようです。あるいはその日程調整で1週繰り下げ、繰り上げではなく平日になったのかもしれませんね。





中型車に狙い乗車か 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月14日(日)14時04分3秒 返信・引用


松11の一本松経由は、駅前や広小路での右折がないというメリットはありますが、r1などが昔ほど混まなくなっているだけに、大回り感があります。ただ、中国分線を急行運転というのはどうでしょうね。狭隘区間を抱える関係でかつては「ミニバス」と呼ばれた中型車が使われているわけで、和洋や旧国立病院といった需要の多い停留所の乗客が集中してしまいかねません。
市川駅−国府台病院間の利用を制限するには至っていないんでしょうが、気になりますね。



市川駅〜北国分駅の路線バスに急行登場 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月14日(日)11時29分26秒 返信・引用


明後日のダイヤ改正で市川駅〜国府台駅〜国府台病院〜国分操車場〜北国分駅の市81・市82系統のうち平日朝6時台〜8時台の市川駅方向と、夕方の北国分駅方向のみ全便「急行」運転となります。ちなみに松11系統は今までと同じ経路での「各停」となります。

急行というのは市川駅〜国府台駅をノンストップで運行するということですが、今まででもこの区間は松11系統(松戸営業所〜市川駅)と数珠繋ぎになる光景が良くありましたし、国府台駅〜市川駅の部分が少し遠回りしているな(山崎パンクリエイションセンター前〜駅前十字路の部分)という印象があったのですが、どう思われますか?

遠近分離、渋滞緩和…そのようなところでしょうか。




Re: 車庫と営業所 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月14日(日)11時18分24秒 返信・引用


> No.5445[元記事へ]

エル・アルコンさんへのお返事です。

> 「草野車庫」は長沼営業所が独立する前からあったわけで、独立した際には公式の地名である「長沼」を採用したのでしょう。

昔、長沼営業所は、千葉営業所の操車場だったのでしょうか?
あまり調べても出てこなかったので。仮に千葉営業所の操車場だったのならば、公式の地名ではない「草野車庫」という車庫名もありだと思いますね。




救援ポイント 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月13日(土)12時05分30秒 返信・引用


救援ポイントとなる駅の設定という発想はいいですね。大雪などの気象障害だけでなく、地震などの大規模災害、輸送障害による長時間の抑止が見込まれるケースでの対策です。

JR西日本がJR神戸線の摩耶駅を新設した際、快速系の折り返しも考慮して普段は閉鎖している12連分のホームを用意していますが、それとJR東日本での水道橋での折り返し対応くらいですかね。いずれも運行に関する対応のみで、生身の人間である乗客の取り扱いを考慮していないわけで、今回も駅が近いのに誘導しないのは何故、という、吹きさらしの無人駅に400人以上を下ろしてどうする、ということが見えていない意見が出るように、そこら辺の発想がお留守な人が多いですし。

理想は高架駅で高架下に乗客の滞留スペースを確保できる感じ(普段は閉鎖しているが、雨風がしのげる構造で、そこに非常資材、非常食等を保管)、通常の拠点駅ではなく、幹線道路に近く大型バスなどの救援手段によるアクセスが容易な駅を選定、というイメージです。

ちなみに通知運転ですが、これがダイヤ混乱の原因になっていることになぜ気が付かないんでしょうね。行政指導であれば、現場を知らない戯言だとして、行政指導の非を広く訴えるべきですし、無用なダイヤ乱れが発生するのは行政指導のせい、つまり「規制」のせいです、と周知した方がいいでしょう。

人身事故など復旧が見えている段階での通知運転は排除する、あるいは、駅間抑止の可能性を告知したうえで発車させる、というようにして、駅間というスペースを「活用」しないとだめですね。その判断が裏目に出たとしても、抑止ポイントの直近の駅で全員を下ろして駅間に詰めて、後続も同様に、最後はホームに少しでも掛けて降ろす、とすれば、何とか対応できるはずです。詰める必要がある編成数はさらに手前の駅との間にいる編成に限定されますから、無限に詰めるわけでもないですから。





車庫と営業所 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月13日(土)12時05分0秒 返信・引用 編集済


「草野車庫」は長沼営業所が独立する前からあったわけで、独立した際には公式の地名である「長沼」を採用したのでしょう。
で、「営業所」は複数の車庫を統括することが多いので、物理的にそこにある「車庫」の名称の方が通りがよいですね。バス停名も車庫の名前になることが多いですから。

ただ、最近はバス停も営業署名になるようですし、松戸営業所のように「松戸車庫」から「松戸営業所」、市川営業所のように「柏井車庫」から「市川営業所」にバス停名が改名されたケースもあります。新都心営業所(芝園車庫)のようにバス停名にそもそもならなかったケースや習志野出張所のように車庫名を持たないケースもありますしね。




Re: 「草野」って何ですか 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月13日(土)09時58分48秒 返信・引用


> No.5441[元記事へ]

エル・アルコンさんへのお返事です。

「草野」についての解説ありがとうございました。小中学校やバス停の名前があるのに今の地名には「草野」という地名が見当たらなかったので不思議でした。

ただバス停名は「草野車庫」という割に、京成バス草野営業所ではなくて長沼営業所なんですよね。



Re: 信越線の立ち往生 投稿者:くるみっち 投稿日:2018年 1月13日(土)09時48分23秒 返信・引用


> No.5442[元記事へ]

リリカルゆかりんさんへのお返事です。
>一方でラッシュ時の総武快速線で同じ対応をする場合「市川駅の線路が空いた時点で船橋駅から後続列車を出発させる」ということになり、必然的に通常時の半分以下の本数での運行ということになりますから、悪天候の度にこれを徹底されるとかえって混乱を増幅させることが懸念されるのは悩ましいところです。
同意です。一昨年、東急東横線で雪でブレーキが効かず追突し、行政指導が入った後の大雪のとき、隣駅発車通知後に後続発車の運用をしたところ、普段15分のところが1時間以上かかり、かつ吹雪の中、駅に入れない乗客が道路にあふれて周辺道路も大渋滞になり、だったら完全に止めたら?というぐらい最悪な状態でした。多少の徐行や予告付きで30分程度までの駅間停車は許せても、まだ運行できる状況での事前通知運転は中途半端すぎて混乱が拡大します。人身事故や強風時とかも含めて、状況に合わせた迅速できめ細かい対応をしてほしいです。このニュース、私も官邸の発表を聞いて不満に思ったので投稿しました。




信越線の立ち往生 投稿者:リリカルゆかりん 投稿日:2018年 1月13日(土)08時55分36秒 返信・引用


信越本線で、大雪のために普通列車が駅間で15時間以上立ち往生し、救援も困難という事態が発生しましたが、本件は現場の判断が悉く裏目に出てしまった結果です。車内での電力供給はあったようで、暖房やトイレが使用できたために大事とはなりませんでしたが、車内停電を伴っていた場合、あるいはそうでなくてもトイレがない列車であったらと考えますとより深刻な事態となっていたことも想定できます。一方でしびれを切らせてDコックを操作して線路に降りることはなかったそうで、座れない乗客もおり車内の空気も悪かったとのことですが、乗務員の指示は乗客がきちんと守ったこともまた評価されるべきしょう。20年前に総武線が大雪で駅間立ち往生となった際は、勝手にDコックを操作して線路に多数の乗客が降りたために、線路閉鎖を行ったことが混乱を増幅させました。当該個所から隣駅までは数100mのようですし。

未明に家族が近隣に車で迎えに来た客だけはおそらくDコック使用で下車させたようですが、この段階でもバスの手配ができなかったと思います(さすがJRが他人の車に便乗させることを呼びかけるのは責任を考えるとできないでしょうが)。

本件は官房長官の会見でも話題が出たように大きく報道されましたからJRとしても当然再発防止策を講じることが求められますが、すぐにできる対応としては、「悪天候時の抑止はできる限り対応がしやすい大駅(仮眠室に転用できるスペース・物資の備蓄があるとよい)で行う」という方針で、こうした駅を救援可能ポイントとし、次の救援可能ポイントまで確実に運行できる状況でなければ抑止するということです。今回の場合はこれが正解であったかもしれませんが、一方でラッシュ時の総武快速線で同じ対応をする場合「市川駅の線路が空いた時点で船橋駅から後続列車を出発させる」ということになり、必然的に通常時の半分以下の本数での運行ということになりますから、悪天候の度にこれを徹底されるとかえって混乱を増幅させることが懸念されるのは悩ましいところです。




Re: 「草野」って何ですか 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月13日(土)01時07分58秒 返信・引用


> No.5438[元記事へ]

神奈中沿線民さんへのお返事です。

> 京成バス長沼営業所目の前のバス停は「草野車庫」ですが、稲毛区長沼町にあります。それ以外の「草野」を冠するものは園生町に存在します。「草野」という地名は見当たりません。
>
> 「草野」というのは昔の地名なのですか?

だいたいバス停名は昔の大字などを使うケースが多いですが、草野は広域地名でも大字でもないようです。
小中学校名にありますが、これも1973年の新設校(草野小は1966年開設のあやめ台小からの分離)で、草野車庫は既に確立していましたから。

ただ、ワンズモール付近で地上に現れ東京湾にそそぐ小河川を草野川(草野水路)と言ったり、ワンズモール付近にあった歩道橋を草野歩道橋と言ったりしていたわけで、園生町の小字としてこのあたりを「草野」と呼んでいたのでしょう。

「園生町」というと大昔は一つの自治体でありかなり広いですが、稲毛に近い園生交差点などのエリアをイメージするわけで、逆に「草野」というとワンズモールやオーツーパークのあたりを自然にイメージしますね。




Re: 19時台冒頭の総武快速 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月13日(土)00時57分37秒 返信・引用


> No.5439[元記事へ]

通りすがりさんへのお返事です。

>
> 27運用が錦糸町で寝ているので、これを仰せの始発電車に充当できるかもしれませんが、11運用は津田沼入庫なので、仮に1711Fを津田沼止めにしたとすると、22:50発の2211Fが出せませんね。。。

大なり小なりの運用変更は必要でしょうね。27運用を11運用の後半に入れる、あるいは幕張から回送されて空いている2075Fになる75運用を絡めるとか、手はありそうです。



Re: 19時台冒頭の総武快速 投稿者:通りすがり 投稿日:2018年 1月12日(金)21時21分51秒 返信・引用


> No.5437[元記事へ]

エル・アルコンさんへのお返事です。

> あるいは1923Fのあと、1711Fは3分後の19時8分に出し、19時12分に始発快速を設定し、成田空港行きはこちらにする。それくらいしないと状況は変わりません。

27運用が錦糸町で寝ているので、これを仰せの始発電車に充当できるかもしれませんが、11運用は津田沼入庫なので、仮に1711Fを津田沼止めにしたとすると、22:50発の2211Fが出せませんね。。。




「草野」って何ですか 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月12日(金)19時49分33秒 返信・引用


京成バス長沼営業所目の前のバス停は「草野車庫」ですが、稲毛区長沼町にあります。それ以外の「草野」を冠するものは園生町に存在します。「草野」という地名は見当たりません。

「草野」というのは昔の地名なのですか?




19時台冒頭の総武快速 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月10日(水)23時47分42秒 返信・引用


諸般の事情で夕ラッシュ時に一番混んでいるのでは、と思しき東京19時11分発の1710S〜1711Fに、しかも東京から乗りました。
ホームに降りたら4分停車ということもあり既に在線中でしたが、乗るのもやっとという混雑。錦糸町まで乗り込む一方でドア扱いにも時間が掛かり、錦糸町で2分、市川段階で3分と遅れが出ており、後続の3331Mが早々にこの快速に当たる理由を改めて理解しました。

これ、1710Sが品川段階で1本前の1764S〜1765Fと15分開いていることもあり集中しているわけですが、横須賀線内で2分繰り上げて、東京19時5分の始発1923Fにつなげられないものか。ただこの前に湘南新宿ライン2554Yがいますが、さらに前の2051Mとは5分開いているので、少しずつ繰り上げれば何とかなりそうです。(蛇窪の交差は考慮していません)

あるいは1923Fのあと、1711Fは3分後の19時8分に出し、19時12分に始発快速を設定し、成田空港行きはこちらにする。それくらいしないと状況は変わりません。





JRの3レターに意味はあるのか 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月 8日(月)23時22分28秒 返信・引用


3レターはよさげに見えて実は意味がないわけで...

正式な駅名であればローマ字が添えてあるわけで、それ以外に駅ナンバリングもあるわけです。
3レターの対象で一番長い駅名で浜松町、武蔵小杉ですから、わざわざ3文字にしなくてもいいわけで、読むのが難しければ駅ナンバリングがあるのです。

一つの駅に表記が2つも3つもあること自体が「不親切」なわけで、もし成田空港にも駅ナンバリングや3レターが導入されたら、駅名としての「成田空港」に、ターミナルを示す「第一旅客ターミナル」の名称、さらに駅ナンバリングと3レターと4種類の表記が併存することになりますが、それが本当に「親切」なんでしょうかね。



続・スリーレターコード 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月 8日(月)10時58分10秒 返信・引用


http://www.jreast.co.jp/press/2016/20160402.pdf

山手線外でも横浜支社と大宮支社は振られているんですね。

千葉支社と八王子支社が反対したのでしょうか?




Re: 低モビリティ化と車離れ 投稿者:神奈中沿線民 投稿日:2018年 1月 8日(月)10時42分35秒 返信・引用


> No.5431[元記事へ]

エル・アルコンさんへのお返事です。

>週刊誌が新規読者の獲得を諦めて、既存読者の高齢化に従った企画に専念しているように
そうなんですか!

確かに昔の企画はよく見ますが、そこまで高齢化に従った企画に専念している状況なのでしょうか?
といっても私が見ている雑誌は「鉄道ジャーナル」だけですが(あれは月刊誌ですが)。




AKB45? 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月 7日(日)11時39分3秒 返信・引用


千葉から数えても全然足りず、館山から木更津経由で数えてもダメでした(笑)

秋葉原駅の運賃表はインバウンド向けのもので、駅番号と運賃をひとつの枠にまとめたうえに、
スリーレターのある駅は併記するという完璧なものだっただけに残念ですね。

京葉線は舞浜までしか記載されていないということは、問い合わせが多いということでもあるんでしょうし。

JREのスリーレターは、石原慎太郎の大江戸線、小林亜星のE電に続く作家による鉄道用語になるのでしょうか。




なんとかアップしました 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月 7日(日)03時39分33秒 返信・引用 編集済


北千葉道路の定例レポート、ようやくアップしました。
今回は皆様の情報に助けられた部分が大きく、当初想定よりブラッシュアップできましたことを感謝申し上げます。




Re: 低モビリティ化と車離れ 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月 6日(土)12時04分26秒 返信・引用 編集済


> No.5429[元記事へ]

それは確かにあるでしょうね。我が家の中でも「低モビリティ化」は世代間で顕著です。「若いんだからあちこち出かけて」と年寄りらしい(爆)説教をしても、そもそも出かけることに何の意義も感じない世代が現実にあるわけです。その意味では結局「就職氷河期世代」を境に生活習慣その他が大きく変わっているのは間違いなく、クルマに限らずあらゆるジャンルで変化が生じているように見えます。

ただ、それが「若者のクルマ離れ」という一括りでは真相を見失うわけで、公共交通シフトではないわけです。ですから自動車産業を中心とする製造業、サービス業といった日本の産業構造そのものだけでなく、公共交通の衰退もそこに原因を求めるべきでしょうね。ちょうど今年のJREのスキーキャンペーンは「私を新幹線でスキーに連れてって」ですが、元ネタとなった「私をスキーに・・・」の時代は、クルマでスキーばっかりではなく、それこそ新幹線に「シュプール号」、スキーバスで若い世代がみんな「移動」していたのが、今はどうか、ということにもつながります。

しかしその生活習慣の変化、というのが何でもたらされてきたのか、と考えると、結局は経済格差に行きつくでしょうね。
見栄を張ってでもクルマや家を買うことで確かに負担は厳しいけど経済が回り、自分もその恩恵を受けてきたバブル期頃までの世代に対し、そもそもその投資が出来ないわけで、それがデフレそのものでもあるという悪循環です。しかも「ド●モ不況」の陰口もあるようになけなしの可処分所得を情報関連に割くことで少ないパイの奪い合いが生じ、楽しみは端末の中、という生活習慣の変化が定着してしまったわけです。

そうなると、クルマに限らず交通全般はどうなるのか。
週刊誌が新規読者の獲得を諦めて、既存読者の高齢化に従った企画に専念しているように、粛々と既存顧客の消費を享受して、そうした世代のさらなる高齢化や鬼籍入りである日突然のようにマーケットが急縮小、消滅するのかもしれません。その典型はクルーズトレインなんでしょう。
一方で「撮り鉄」なんかは若い世代が目立つとはいえ、それはあくまで撮影という端末つながりの世界であり、交通の利用と繋がっているとはいえません。ですから、今でこそ実需に支えられた列車があって、撮影を楽しめる、というwin-winが、誰も乗っていない列車を沿線で鈴なりの「撮り鉄」が、となるでしょうし、それが長く続くはずもないのは自明です。

ご指摘の帰省需要もまさにそれを痛感している面があるわけで、子供世代は広島に行く意義を感じないわけです。近い将来の独立後も、私が当面は首都圏在住ですから帰省する必要はないし、異動しても帰省する先は千葉になるわけですから。最近よく言われる「負動産」の問題が解消可能であれば、我々の親世代が鬼籍に入るとともに、過去の「故郷」との縁を切る人が大半でしょうね。
ただ、そうなるとますます地方は疲弊し、地方の「商圏」が無意味になり、支店を置く意味もなくなり、都市部との現役世代のローテーションもなくなる、という悪循環も伴いますが。






さすがに48番目の駅ではない 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月 6日(土)02時14分16秒 返信・引用


そういえば日中の緊急地震速報には面喰らいました。
複数個所の地震を一つと勘違いしたようですが、突然職場に響く携帯の警報音と遅れてビル管理が流す緊急地震速報に職場は騒然でした。エリアメールには茨城沖で地震とあり、それなら未だ揺れないのは何かしらのエラーだろうなと思った瞬間我に返った格好です。

深夜には今度は「本物の」地震。震えるような振動から入り、ややあって大きめの揺れに変わりましたが、最初の感じとしてかなり近く、北西部でやや深めの震源域、と見立てたところ、NHKの臨時ニュースが報じた震源はほぼビンゴでした。

さて、首都圏JRの駅ナンバリングですが、ナンバリングは近郊も含みますが、3レターは何で必要なのか、と言わざるを得ませんし、山手線内のみと中途半端です。まあだから大崎も両方のナンバーを持つんです。
ちなみに秋葉原がAKBの件ですが、まあこれがやりたくてナンバリングの他に3レターを導入したようにも見えますね。
さすがに秋葉原を48個目の駅として運用する鉄道はないようですが。




低モビリティ化と車離れ 投稿者:リリカルゆかりん 投稿日:2018年 1月 6日(土)02時09分33秒 返信・引用


管理人様もしばしば主張される自家用車保有の最大の利点は、「いつでも自由に使用できる」ことであり次いで「パーソナルな移動空間の確保」であり、この2つは本質的に公共交通では確保できないことですから、その点がモーダルシフトの限界になります。逆に言えば、それを重視しない、あるいは必要となる場面が限定的であって、自家用車を保有するコストに見合う効用がないとすれば、自家用車を不要という選択がされるともいえます。

昨今若者の車離れが報じられており、それが自動車の売上以外の客観指標に表れないのでは(交通事故の減少を結び付ける頓珍漢な報道には呆れます)報道と現実の乖離といえなくもないのですが、一方で気になる要素としては低モビリティ化が挙げられます。

管理人さまのお仕事でも全世界を飛び回らされているきわめて高モビリティな方からすればピンと来ないことですが、例えば千葉に住んでいて、勤務先は地元企業にバスか自転車で通勤、買い物は近所のコンビニが中心で、それ以外はネット通販、趣味もインドア系ばかりという方のモビリティはどうなるか。大型商業施設に行くのも年に2回であれば、帰路にタクシーを使っても数千円です。このようなライフスタイルでは自家用車の保有にほぼメリットはなく、これもよく言われる若者の低モビリティ化の真偽を別にしても、高齢化は必然的に低モビリティ化を招きます。

広域流動も然りで、私が教鞭をとる大学でも、海外経験がないどころか、関西は修学旅行で行ったのが最初で最後という学生が首都圏出身者では相当数いるのは驚きでした。もちろん帰省というイベントを盆正月にする方は多いですが(家族での繁忙期の帰省となれば自家用車が圧倒的に経済的です)、これも最も大都市への人口流入が活発だったのは私の祖父母〜管理人様の親あたりの世代で、今の学生ですと、上京者の2世より3世の方が多いですから、もう帰省もあまりしない、というよりその郷里には親戚が誰もいないというケースも少なくありません。もちろん活発な学生も少なくないのですが、近未来には修学旅行以外で首都圏から出たことがない首都圏の大人というのが今よりグッと増えるように思えます。




LCDあれこれ 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月 6日(土)02時03分41秒 返信・引用 編集済


パッとビジョンは小ぶりな割に優れものですよね。日本語表示が途切れないのも安心感がありますし。ただ、新京成のN800系でのそれを見ていると、この先の停車駅案内も4ヶ国語でいいのではと思うものの、英語(とひらがな)しかないアーパー線に比べればマシですが。

まあネットでは日本語表記が途絶えることに対して気にも留めない人がいるのが不思議です。多言語表記で日本語表示がなくなる、という駅のシンボルだった京急品川も日本語を含む4ヶ国語の固定表示に変わりましたから、当の事業者がダメ出しした意味を考えたいものです。

数秒待てば変わる、と言っても、それは意外と長いことを無視している、というか、そうとでも言わないと肯定できないことから来る強弁に過ぎません。切り替えのトラップというと駅に到着する時の側面表示がそれで、走行中は消灯していて点いたと思うと「6号車」と殴りたくなるような表示が通りすぎたり、行先が知りたい情報なのにタイミングのアヤで来る車両来る車両「中央・総武線」とか、切り替えは万能ではありません。

で、京成の経由表示ですが、車内のそれは誤乗防止、というか誤乗しちゃった人への「気づき」を促してるんでしょうね。そのタイミングで分かってもいったん戻るしかなくしょうがないですから。
本線特急が成田に着く直前に取って付けたように流れる英語放送も誤乗、というか誤降車防止で、「空港行きたいんならまだここで降りるんじゃねえぞ(大意)」と流れるわけです。

このあたりは和英しっかり流れるJRの方がスマートですね。

2年で終わった十二支 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月 6日(土)02時01分16秒 返信・引用


新京成の「謹賀新年」ポスター、今年は新京成史上初の連立となった光景です。北初富からやってくる電車を新鎌ヶ谷から捉えたシーンで高架を走る新京成はこれまで京成千葉−千葉中央間でしか見られなかったものです。

その揚々としたポスターに対し、サイトに掲出された「めぐる十二支シリーズ」発売休止のお知らせは残念というかみっともないです。一昨年の申年からスタートして全12回のはずがわずか2回で中止とはなんという無計画というかです。
売れなかったからなんでしょうが、総数が分かっているシリーズを途中で辞めるというのは勇気がいるというか、あれこれ探られる話でしょう。

まあ新京成は十二支シリーズでは「前科」があるわけで、パスネット(SKカード)の十二支シリーズはきりよく子年から始めて亥年で上がって完走したのはいいんですが、最後の亥年を日比谷でのイベントに間に合わそうとしたのか10月に発売という大フライングをやらかしています。



AKB方式 投稿者:dai 投稿日:2018年 1月 5日(金)23時36分21秒 返信・引用


ぎりぎり習志野原の話題に漕ぎ着けます(笑)

JR秋葉原駅にスリーレターコード入りの運賃表が掲げられていたんですが、
舞浜にはコードが振られていないんですね。
反面大崎には振られていて、コミケ対応なのかどうか。

ちなみに秋葉原のAKBは、秋元康に著作権料を払っているのでしょうか???




Re: LCDが設置された3700系に乗る 投稿者:えむえす・あっぷ 投稿日:2018年 1月 5日(金)13時27分31秒 返信・引用


皆様、明けましておめでとうございます。本年も何卒よろしくお願いいたします。

東怪人さんへのお返事です。

> 今年度の京成事業計画で「3700系車内へのLCD表示器の設置」というのがありましたが、今日たまたま当該車両にあたり、特急列車で高砂→船橋間で乗車できました。
>
> LCDは想像通り、LED表示器に置き換えて使うタイプの「パッとビジョン」でした。
> 気になる表示内容ですが、左側60%程に「種別・行き先・次駅案内」、右側40%程に「路線図、お知らせ、乗り換え案内」でした。
>
> 左側は日本語で種別・行き先・次駅案内が固定表示され、その下にひらがな・英語・中国語・韓国語が順次表示される、一番わかりやすい方法が採用されました。
> 右側は乗換案内は4か国語がすべて表示され、路線図とお知らせは日本語・英語・中国・韓国語の交互表示で、表示タイミングは左側と揃えられました。
> 3050系のような、上下で表示される言語が異なるという状態は解消されています。
> なお、「まもなく」のタイミングの時は開く扉方向と乗換案内が交互表示なります。
>
> ちょっと興味深かったのが行き先案内で、京成高砂発車時は「京成本線経由 KS41,KS42 成田空港」と表示されていました。
> これが「つぎは八幡」から「まもなく八幡」に切り替わるタイミングで単純に「KS41,KS42 成田空港」に切り替わり、以下はそのままでした。
> 個人的には「ただいま高砂」から「つぎは八幡」に切り替わるタイミングで変えていいと思うのですが、急いで乗って間違えた場合の対策でこうしているのでしょうか。

まず、経路の表示ですが、アクセス特急の3050形の時も同様で「まもなく東松戸」に切り替わるタイミングで単純に「KS41,KS42 成田空港」に切り替わり、以下はそのままです。

この改造車の最大の特徴としては「アクセス特急運用時には3050形と同様の自動放送が入るように改造されている」ことです。乗務員室を見ますと3050形と同様の自動放送用の箱がついています。よって、3050形と同じ機能を有するように改造したといえます。

ただ、京成(スカイライナー等を除く)の場合、自動放送は「外国人対策」ではなく「成田スカイアクセス線への誤乗防止」という意味合いで自動放送をつけていますので、たとえ京成車のLCD画面付でも「アクセス特急運用時」のみ次駅放送を含む自動放送が流れ、それ以外の種別での次駅放送は肉声放送ということになっています。(ただし、京急車については「機能を単純にすることで車両を長持ちさせること」をコンセプトにしてあるためにアクセス特急でも肉声放送なのです(ちなみに経由については成田空港駅まで表示されます))




草深IC 投稿者:インバマルコ 投稿日:2018年 1月 5日(金)08時43分45秒 返信・引用


都営沿線民さんほどの情報ではございませんが・・・

昨日草深IC 付近を走行していたら動きがございました。

下のバイパスから上がってくる側道の部分に基礎工事!?的なセメントで固められた部分が出現しました。

上のR464よりも一段低い位置にそれができているのですが、下から上がってきてすぐのあたりでもないですし、「なぜこの高さ」という疑念は残りつつも、私は工事に詳しくないのでわかりません。

とにかく工事が一段動き始めたという事でご報告です。




LCDが設置された3700系に乗る 投稿者:東怪人 投稿日:2018年 1月 4日(木)22時35分24秒 返信・引用


こんばんは

今年度の京成事業計画で「3700系車内へのLCD表示器の設置」というのがありましたが、今日たまたま当該車両にあたり、特急列車で高砂→船橋間で乗車できました。

LCDは想像通り、LED表示器に置き換えて使うタイプの「パッとビジョン」でした。
気になる表示内容ですが、左側60%程に「種別・行き先・次駅案内」、右側40%程に「路線図、お知らせ、乗り換え案内」でした。

左側は日本語で種別・行き先・次駅案内が固定表示され、その下にひらがな・英語・中国語・韓国語が順次表示される、一番わかりやすい方法が採用されました。
右側は乗換案内は4か国語がすべて表示され、路線図とお知らせは日本語・英語・中国・韓国語の交互表示で、表示タイミングは左側と揃えられました。
3050系のような、上下で表示される言語が異なるという状態は解消されています。
なお、「まもなく」のタイミングの時は開く扉方向と乗換案内が交互表示なります。

ちょっと興味深かったのが行き先案内で、京成高砂発車時は「京成本線経由 KS41,KS42 成田空港」と表示されていました。
これが「つぎは八幡」から「まもなく八幡」に切り替わるタイミングで単純に「KS41,KS42 成田空港」に切り替わり、以下はそのままでした。
個人的には「ただいま高砂」から「つぎは八幡」に切り替わるタイミングで変えていいと思うのですが、急いで乗って間違えた場合の対策でこうしているのでしょうか。




情報ありがとうございます 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月 3日(水)11時58分23秒 返信・引用 編集済


都営沿線民さん、お年玉的な情報ありがとうございます。

船形の西寄り函渠ですが、成田NTに直進できる道なので、拡幅を考えているのでは。台方−松崎の市道付け替えも確かに考えられますし、現在の交点を東行き、西行きそれぞれとの出入りに限定(吉高付近の交点と同じスタイル)に出来ますが、そうなるとこのあたりの圃場をだいぶ手を入れる必要が出てくるだけに、それはないと思います。

船形からの形態は上り(西行き)による暫定2車線と見ていますが、気になるのは湯川駅の先、都計道との交差部で、ランプ路が新鎌ヶ谷方は上下線とも用意されていますが、空港方が西行き車線から降りるルートのみということ。東行きに上がるランプ路が無いのでは意味がないのですが。

我孫子線の付け替え工事は築堤を潜る地道の閉鎖を伴っているので、線路付け替えが済めばすぐに築堤を切り崩すでしょう。都計道部分を先行して切り崩せば開通も早いですが、どうなるか。ここが開通すれば松崎の台地の上の集落を縫うr18旧道などの狭隘区間の交通量が減るはずで、効果も大きいです。

押畑のR408との交点、R408の西側への移設はサイトの過去記事を見ると震災前から整地が始まっており、既に7年が経過してるんですね。5年前には擁壁も出来ており、なんとものんびりした進捗です。

さて、建設新聞の情報ですが、土屋橋の橋脚はまだ上部が出来ていないので車線数対応は不明でした。
根木名川を渡る下金山橋は680mですか、斜めに流れる川を一気に跨ぐんですね。イオンからR408方面への抜け道の橋のあたりから成田空港線の交差部付近まで、鉄道高架の耐震補強工事を実施しており、これが終わらないと本格的に手がつかないのでは。

焦点の関戸本線函渠ですが、現地の平面図でもこの辺りでの交差としていますが、成田空港線の高架に北千葉道路4車線が抜けられるだけのスペースが確保されていません。すぐ東側の小さな丘を切り崩すとしても、130mの函渠で済むかどうか。それと、東南側の集落と被ります。
だいたい、鉄道線の走行を妨げずにどうやって建設するのか。高架橋直下であれば余計に気になりますね。桁を受けながらの作業は年単位になるのが相場ですし。スカイライナーがトップスピードで通過する区間ですから、工事で減速というのは影響が大きすぎます。

工事区間が取香川橋、R51横断橋の順番なので、取香川を渡ってからR51に接続ですね。現地では取香川の北側でR51関係の工事が目立つだけに、現状「無風」のエリアがランプになるのですか。ただ、その位置だとうまく谷津田を使って大山でのR295接続が出来そうです。






Re: 半期報告のネタ探し 投稿者:都営沿線民 投稿日:2018年 1月 3日(水)01時30分44秒 返信・引用


> No.5420[元記事へ]

R51の成田拡幅ですが、下金山ではなく東金山です訂正します。







Re: 半期報告のネタ探し 投稿者:都営沿線民 投稿日:2018年 1月 3日(水)00時58分28秒 返信・引用


 まだ姿のみえない2期区間と1期の残区間ですね。

北須賀、船形、松崎は昨年度まで水路に水回りの設計変更の入札が何度もありましたので
施工時に問題か難工事になっていたのだと思います。

草深出口ランプは年度一杯までかかる様ですね。

船形は本線と市道の交差は当初設計の通りになっていますね。 やはり水回りの工事だったの
でしょう。
その先は盛り土区間ですが、一番西にあるボックスカルバートは歩道に2車線分の車道幅があり
そうですので、全線直轄化の報告書のスムーズ化の際には平面から市道の大規模の付け替えで
そこに付け替えて立体化も可能なのではと、平面交差部のランプ幅の拡幅はできそうですので。
地元小型車向けの簡易出入りインターチェンジにも可能に思えます。この板では禁物かもしれませんが期待を込めたい所です。

船形の盛り土部から函渠出口の松崎までは高架もトンネル部も上下線分ありますね、暫定2車線
開通予定とはいえ、上下線別に1車線規制で開通の可能性もあるのでは?、他バイパスでもよく
ありますので、松崎から上り車線利用の対面2車線にするのではないでしょうか???。

松崎の我孫子支線の付け替えですが、私には10年は前の都内多摩の南武線、矢野口の川崎街道の
下路アーチに似ていると見えました。あちらは複線ですがね・・・。 JR系の友人からは6月に
長尺レール輸送のチキが入ると聞かされていたので、線路は6月には敷設済みの様です。 youtubeにある
、成田線走行前景ビデオでも線路が敷設済みなのは確認できます。 成田市から
JR東への工事委託なのはご存じでしょうが、路線付け替えは2018年4月以降で
、明治時代に建設の盛り土区間はそれの以後に解体でニュータウン道はそれが
済んだ後に工事でしょう。


押畑のR408の4車線化ですが、用地買収は数年前に完了して、線路北側は本線西側の4車線部は
航空写真を見ると3年程度前には完成済みだった様です。

1期区間終点の押畑はR408の西側までが盛り土で、R408交差部から東は高架橋
になり次の成田線交差部の和田の手前まで行き、東側最後の平面交差点予定の県道r63と交差して成田線高架下を
南にカーブで抜けます。

2期区間の現状は現在わかっているのはR51との交差部までです。 R51の成田拡幅は下金山の
成田線下の交差点までなので交差部はそれを考慮した構造になっていますね。

構造物で今、わかっているのは昨年夏の建設新聞からですが、次の通りです。

1.土屋橋 国道408号とJR成田線をオーバーパスする橋長約290mの鋼7径間連続非合成少数鈑桁橋
2.下金山橋 下金山地先で根木名川を渡河する計画。橋長は約680mで、鋼7径間少数主桁橋+鋼連続4径間細幅箱桁橋+鋼4径間少数主桁橋 詳細設計まで。
3.関戸本線函渠県道r63成田下総線とJR成田線が交差する個所付近の成田市関戸地先で、延長約130mで計画。 予備設計まで。
4.取香川橋 東金山地先に新設を計画するもので、予備設計を国際航業(東京都千代田区)、詳細設計をパシフィックコンサルタンツ(東京都千代田区)に委託。2連の鋼4径間連続非合成細幅箱桁橋で、橋長は上りが約225m、下りが217m。
5.国道51号横断橋 山之作地先で国道51号をオーバーパスする跨道橋。橋長約56mで、鋼単純合成細幅箱桁橋。 山之作地先で国道51号をオーバーパスする跨道橋。橋長約56mで、鋼単純合成細幅箱桁橋 詳細設計まで。

2期区間土屋で見える橋脚ですが、今年度までに2本入札が済み、今年度内の完成の予定で建設され
ています。 土屋橋が、本線P3橋脚を竹内建設に発注(落札額2億8000万円)。工期は30年3月23日
まで。 本線A1橋台、7月14日に開札して工事を発注し、杭基礎工法(鋼管杭)により逆T式橋台
1基を220日間の工期の2本ではないでしょうか?。 車線数の記載が無いのですが、逆T型で幅が2車線か4車線かは現地なら確認出来ると思います。

気になる、成田線下の県道r63の平面交差ですが、若狭交差点も当初は平面交差設計でしたが、
途中で都市計画変更もされましたが、ボックス式のあの立体になりました。 まだ予備設計
ですので、スムーズ化には立体に変更されるのを期待したいですね。

この先R51まではgoogleの航空写真でもなんとなく用地の形は見える様になりましたね。
2期区間の開通はかなり先でしょうが、ことによるとR51までを2車線暫定開通で工事を進めて
いるのかとも思えますね。 用地買収率は今年度始めで92%でしたので、順調ならあと1〜2年
で終点の大山までの用地買収は完了するのではないでしょうか?。


Re: 謹賀新年 投稿者:都営沿線民 投稿日:2018年 1月 3日(水)00時05分54秒 返信・引用


明けましておめでうございます。
本年も皆さんのご活躍、健康を祈念いたします。

本年も宜しくお願い致します。




謹賀新年 投稿者:エル・アルコン 投稿日:2018年 1月 2日(火)10時44分58秒 返信・引用


2日になってしまいましたが、謹んで新年のお慶びを申し上げます。

昨日はお屠蘇も遠慮してお雑煮を食べてお節をつまむと早々に帰京の途に。元日だから道も空いていると思いきや、案外といるもんですね。特に高速は交通量こそ少なめとはいえ、SAはごった返していました。
おまけに夜に入り関東に接近すると、大和TN先頭で30㎞渋滞の表示にまさかの思いでしたが、最終的には数㎞ですんだものの、元日とはいえ侮れない状況でした。

というわけで、戻ったとはいえまだ出先なのですが、本年もよろしくお願いします。





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