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築別炭鉱、羽幌炭鉱
炭鉱跡をたずねてみました。2002.06.02

炭鉱のおいたち
苫前炭田は南北35km、東西15kmで形成され、築別炭田地区と羽幌炭田地区とに分かれ
ている。この地方の調査は明治7年アメリカ人のライマンによってなされ、石炭調査は明治21
年に道庁の桑田技師によって行われたのが始まりです。その後、明治大正期に部分的に鉱区
が設定され、探炭が試みられたが失敗し、昭和2年、太陽産業株式会社に引き継がれ、古賀
六郎に命じて、実地調査にとりかかったのですが、苦闘8年、昭和14年にようやく着手し、よく
15年から採炭を開始して、5317トンの出炭を見たのです。やがて、戦時体制に入り石炭の
増産が要請され、加えて、昭和26年には石炭ブームの到来を見て、炭鉱はますます躍進を続
けるが、時代とともにエネルギーが石油に代わり石炭の需要も少なくなり、ついに昭和45年に
その幕を閉じたのです。

↑当時の周辺の地図         
築別炭鉱は海沿いのオロロンライン国道232号線の羽幌町の曙から「緑の村」の看板を
山側に約18キロくらい入ったところにあります。現在周辺には民家はまったくなくとても
ひっそりしてます。ここは「緑の村」とも呼ばれ昔、キャンプ場もありました。
今ここでキャンプしたらとってもワイルドなキャンプができそうですね!?


     ↑当時の太陽小学校周辺の全景             ↑現在の様子 
築別炭鉱の小学校は「太陽小学校」といいます。
現在、この「太陽小学校」の周辺はこれといった建物もなくひっそりとしてます。
当時、子供たちがいっぱいで、とてもにぎやかな運動会だったんですね。
小学校の体育館はとっても珍しい円形です。子供たちの楽しい笑い声が聞こえてきそうですね。
7年くらい前に寄ったと時は学校跡を宿泊施設として営業してましたが
今は完全に無人ですね。そのときいた、ワンちゃんはなんとなく
さびしそうだったのを覚えてます。そのワンちゃんはどうしたろうね。


      ↑当時の太陽小学校の運動会風景  ↑ 巨大な煙突(火力発電所)  ↑ 煙突付近の現在の様子  

当時はここの周辺はたくさんの建物があったんですね。現在は密林のようになってところどころに
当時の面影を残すものが点在してます。


     ↑通勤バスです。猫バスかっこいい!。   ↑現存の炭鉱鉄道の鉄橋です    

築別、曙付近には鉄橋が数多く残ってます。確認した分だけで4箇所くらいあったね。
ここの鉄橋は寄せ集めの橋脚を使った高さの違う珍しい橋脚なんです。
なかには風景に同化したようなものもありました。


   ↑築別炭鉱の選炭工場跡   ↑同じく羽幌炭鉱に現存のもの

上の右側の羽幌炭鉱の写真の中で大きな建物の横にポツンと四角い建物が見えますが
この建物は手前の建物より何倍も大きな物のようです。すっかり木が覆い茂って下側が
見えてません。なんか、南米なんかにある密林の中にある遺跡みたいですね。

残っている建物で4階建ての団地が3棟ぐらい木の茂みの中にひっそりと
たたずんでいました。閉山になる直前に立ったばかりですが朽ち果てていて
現在はとっても近くによる気にならず写真もNGです。
この団地には実際に人が住んだかは疑問が残るそうです。
なんとも不思議なところですね。
ちかくを散策してるとパトカーのおまわりさんが寄ってきて、最近、ここで「きもだめし」する
ものがよくいるんだそうで、絶対中に入らないようにと念押されましたね。
昼間でも、こわくてはいれないですね。(^^ゞ

白黒写真は羽幌町の郷土資料館の展示物をデジカメにて撮ったものです。
資料館のおじさん、ご協力ありがとう。m(__)m

2002.06.02撮影

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