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宮城県の「丸森学」

第四講 丸森村の移転について

丸森町出身の女房と結婚してから帰省するたびに、丸森町の歴史について義父などから話を聞いていた。

この町は阿武隈川が阿武隈山地から仙台平野にでる地点に位置しており、明治時代までは水運で栄えた町である。当時の繁栄を物語る「 斉理屋敷 」が町の中に現存している。

「江戸と座敷鷹」によれば
水運が本格化するのは寛文10年(1670)、河村瑞賢が幕府の命令で信夫(しのぶ)・伊達両郡の幕府城米を江戸へ回送するため水路開発。その後、米沢藩や仙台藩も利用。
回送物資は米がほとんどだが、文化4年(1807)に上流の伊具郡の村々から油粕、菜種、油、大豆、小豆、小麦、蒟蒻。
とあり、「吾妻みかげ磐梯みかげ」によれば、
阿武隈川での舟運の始まりは川の改修工事が行われた江戸時代に遡る。当時、 小鵜飼舟ひらた舟 でお城米を太平洋岸の荒浜(亘理町)まで運んでいた。また明治以降は 高瀬舟 を使って木材や木炭、石材などを運んでいたという。
とのことである。

丸森町の集落を境にして上流側は河川勾配がきつく下流側は緩くなっているので、上流の福島と丸森間では小型の舟、また河口までは少し大きな舟を使ったため、丸森で積荷を移動しなくてはならない。それゆえ、町の入口である丸森橋南側には「船場」という地名があるのは不思議ではない。
また阿武隈川の河口から北上川近くまでは「貞山堀」が江戸時代に開通していて、太平洋の荒れ方が水運には影響を及ぼさなくなったのも水運が活発になった背景にある。
また、度重なる洪水による被害を避けるため、丸森町の集落が川沿いから現在の位置に移転したと聞いている。

祖父たちの書き物を調べてみると、約150年前に町の東側から現在の竹谷集落に移転してきたとのことである。また、苔むした「捨て墓」が実家の裏にあるのが不思議でならず、「これはここに移転する前に住んでいた人たちの墓ではないか」と思っていたが、本当の先祖の墓らしい。不思議に思ったのは、このような水田が開けた場所が150年までは人が住まなかった、住めなかったのだろうかということである。

町の歴史に詳しい町役場職員の秀一兄に尋ねてみると、現在の町役場から竹谷集落付近までは阿武隈川が入り込んでおり頻繁に洪水の被害にあったので、この地域では農業ができなかったのではなかろうかとの答えが返ってきた。しかし、竹谷集落から現在の阿武隈川本流までは約1km離れていることから、河川の蛇行によってこの地域が農業不適地になるとは思えなかったのである。そこで国土地理院の地図を使って、阿武隈川の蛇行の可能性について調べてみた。

地図上の赤い線は標高30mを表す。
図中①のケースでは、本流の澪筋が丸森橋北詰にある岩盤に衝突して南転し、その一部は船場の護岸を洗い、後町あたりで内川と新川の水を合わせるが、東にある山(丸森城址)にぶつかるため北上せざるを得ない。
図中②のケースは、阿武隈川の本流がもう少し南まで入り込んで、峠をぬけて新町に降りるということだが、これはとんでもない大洪水でないかぎりあり得ないと思われる。現在水田になっている地域と丸森町の中心部は広大な湿地帯ではなかったろうか。だから阿武隈川から遠く離れているのに「大川口」という地名があるのかもしれない。
図中③のケースでは、現在と似ているが、澪筋が現在の阿武隈川南岸の丘に近づいているという場合である。「岡町」の東側にある神社のある丘は岩盤で構成されているため、阿武隈川はこの丘の南北を流れていたはずである。また地図に注記してあるように旧河道が残っているので以前はここを流れていたものと思われる。
この台町には古墳があることから、相当前から人が居住していたようである。

この地図から、金山は阿武隈川本流が直撃しない位置にあり、比較的水の管理がしやすかったということが想像できる。また金山という名前からわかるように、片山集落あたりに鉄の採掘場があった。このためもあり、金山に城を築いたのであろう。

丸館中学の東方約300mの先の丘の上に神社がある。このあたりが移動する前の町であったのではなかろうか。「後町」とは川から見た「元町」の後ろ側だったからそう命名したのではないだろうか。横町も「元町」あってこそ命名できる可能性が高いからである。川岸の小さな丘に神社を立てるのは、内陸の農民がやることではなく川の民がやることである。川の民とは漁民か船頭など水運にかかわった者たちであるからだ。

川沿いに作った集落を高台に移転するということは、
(1) 集落ができた当時より洪水の被害が増大した、
(2) 人口が増加したため、元の集落があった丘の上だけでは収容しきれなくなった
のかもしれない。

明治時代まではろくな堤防がなかったから洪水の被害が増えたということは、高水時の流量が増加したということになる。上流集水域内の最大雨量が時代により変化しないとしたら、河川流量の増加は福島盆地からの流出が早くなったということが考えられる。雨水の流出が早くなるということは、福島盆地内で洪水が広がらなくなったということであろう。これは盆地内における支流を含めた阿武隈川の治水が功を奏したということになると思われるのだが、その確固とした歴史的根拠はまだ見つからないのである。

諸賢のご意見を賜れば幸甚です。

参考資料
江戸と座敷鷹
みやぎ水辺ものがたり
吾妻みかげ磐梯みかげ
丸森町観光案内

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2010-01-25 作成
2010-07-19  舩山秀一氏のコメントを入れて訂正

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