このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


幻の駅は今・・・古河電線停車場

西横浜から、平沼橋までの間に古河電工の大きな看板や、住宅公園、
緑色のガスタンクがあります。
住宅公園のどこかに、相鉄線の古河電線という駅があったようですが、
跡形も無いのです。


参考文献: 神奈川県の地理 
昭和39年10月1日発行 光文館
   写真70 "古河電気㈱横浜電線製造所"
                        を参考としてのイメージ

参考文献のモノクロ航空写真によると、"事務所"と"国鉄引込み線"については、
きちんと注釈で記されているので、そこだけは間違えは無いと思う。
国鉄引き込み線の辺りは、橋脚のような物が建っているように見える。
たぶん、貨物に積む為のクレーンの足場の為の橋脚であると思う。
橋脚は13〜14台建っているように見える。

残念ながら、古河電線駅の様子は確認できない為、勝手に配置した。
その他、食堂棟、中央工場棟、西工場棟、の注釈はイメージである。
ただし、写真には建屋が意外と鮮明に写っているため、配置は真実に近いと思う

ただし、イメージの元になった古河電気の写真は、昭和39年頃のものであり、
古河電線駅が存在した時期よりも20年ほど新しい。
従って、工場と駅との様子は、かなり異なっているのだと思う。


どちらにしても、たんに
古河電線の工場は、ぎっちり建物がつまっているのがすごいので
アップした。

 横浜電線の前身は、1884年(明治17年)頃に高島町に創業された
山田与七の山田電線製造所である。
1896年に横浜商人の木村利右衛門・原富太郎らの出資を得て
横浜電線株式会社となり、裏高島の工場でゴム被覆線の製造に着手、
翌々年の1913年(大正2)西平沼のケーブル工場が完成した。
 しかし横浜電線は、経営状況の悪化から、提携していた古河家の資本参加を見て
1920年(大正9年)古河電気工業株式会社となつた。
             
                  〜20世紀初頭の横浜 横浜開港資料館編集 P48より抜粋


現在の状態

当時のイメージ





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