このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

北海道自転車旅行 1999年 夏


  阿寒湖〜釧路〜東京


    前日へ    自転車の旅Indexへ    トップページへ


     阿寒湖から釧路へ

 木々を揺さぶる風の音で4時に目が覚めた。昨夜は小雨も降っていたし、天気が崩れたかと思ったが、もうひと眠りして6時に起きると、テントの外は良い天気だった。

 阿寒湖畔キャンプ場を7時半に出発。名残惜しいが、旅の最終目的地となる釧路市へ向かって国道240号線を走り出す。「釧路74㎞」の標識が出ている。
 標高420メートルの阿寒湖から港町の釧路へ向かうのだから、下る一方のはずだが、軽快に下れる区間はごく一部だった。

国道240号線 ピリカネップ

 阿寒湖から流れ出た阿寒川の清流に沿って、ピリカネップ、飽別、上徹別、中徹別、下徹別といった土地を通過。あたりは山間から牧草地帯に変わってくる。

 休憩するきっかけもないまま、坦々と35キロ以上走り続け、9時半に道の駅「阿寒丹頂の里」に着いた。
 
ここには阿寒国際ツルセンターという立派な施設があって、丹頂鶴に関する展示も充実しており、屋外の広い飼育場には丹頂鶴とオグロヅルが2羽ずつ飼育されていた。
 それから隣接する「北緯43°美術館」や阿寒町の今はなき雄別炭鉱と雄別鉄道に関する「炭鉱と鉄道資料館」も見学する。資料館にはC11−65やオハ62系客車などが展示されていた。
 それにしても、今年の北海道は最後まで暑い。ツルセンターの気温計は32度前後を表示していたし、鉄道資料館の管理人のおじさんは下着の白い丸首シャツ姿である。
「この仕事、10年やってるけど、こんなだらしない格好は初めてだよ」
 と言い訳していた。こんなに暑い夏はほとんど記憶にないという。

 その炎天下を12時過ぎに出発。
 3キロ走ると、阿寒町の中心市街に着く。セブンイレブンで弁当を買って、近くの公園のベンチでカラスたちに見守られながら食べる。町役場から「食中毒警報」発令のアナウンスが流れてきた。夜のテレビニュースで知ったことだが、22年ぶりに北海道全域に食中毒警報が出されたそうだ。道内各地の寿司店などで食中毒が続発しているらしい。

 さて、ここから釧路まではすでにお馴染みのサイクリングロードを走る。阿寒町と釧路を結んでいた雄別鉄道の廃線跡である。過去2回の北海道ツーリングでもまずこの道を走ったが、今日のようにすっきり晴れたのは初めてだ。
 時間はたっぷりあるので、今日もまた途中にある釧路市動物園を見物し、隣接する温泉施設「山花温泉リフレ」でのんびり汗を流した。

 それからまた釧路への最終コースを辿っていると、沿道の牧草地にエゾシカが1頭いた。きっとこの旅で出会う最後の野生動物だろう。
 いつしか空に雲が出てきた。行く手には暗雲が連なっている。いつのまにか暑さはどこかへ行ってしまった。
 ひと雨あるかと心配したが、そういうこともなく、まもなく釧路市街にさしかかる。

釧路駅前 苫小牧をスタートして、日本海側を北上し、最北端の宗谷岬を回り、オホーツク海岸を南下。無事に釧路まで走破したわけだが、ついにゴールイン、というような達成感はべつにない。ただ、ひとつの旅が終わるのだ、という感傷的な気分はいくらかある。
 もう車道を突っ走る気にはならず、歩道をゆっくり走って、17時に釧路駅前に着いた。
 釧路市の人口は19万5千人ほどで、札幌、旭川、函館に次ぐ北海道第四の都市。今回の旅で訪れたどの街よりも大きな都会である。

 釧路駅では例年夏の旅行シーズンには古い客車を利用した簡易宿泊施設「ツーリングトレイン」が開設されていた。今晩もそこに泊まるつもりだったが、ついに廃止されてしまったようで、駅構内に客車の姿はなかった。それで公園にテントを張ることも考えたけれど、結局は駅のそばのビジネスホテルに投宿。
 身軽になって、この土地の住民になった気分で夕暮れの街を自由気ままに走り回る。
 本日に走行距離は86.5キロ。明日の夜はもう船の上だ。


釧路・幣舞橋     釧路の朝

 北海道で迎える最後の朝。ホテルの窓の外からカモメの声が聞こえてくる。
 NHKのニュースをつけると、たまたま釧路市の朝の様子を全国に中継していて、釧路の今夏の最高気温が28度だったこと、この15年間、30度以上の真夏日がないことなどが伝えられる。今日の釧路の6時の気温は20.5度、阿寒湖畔は16.7度だそうだ。この地方にしては暖かい朝だろう。

 7時にホテルを出発。空は一面の雲に覆われ、どんよりとしている。
 和商市場で朝食をとり、長い船旅のための買い出しも済ませ、不要な荷物は商店で段ボール箱をもらって宅配便で送る。あとはもう帰るだけだ。

     サブリナ〜32時間半のエピローグ

 時間つぶしに釧路の街なかをあちこち走り回った後、北海道で最後の4キロを走って、釧路西港のフェリーターミナルに着いたのは10時前。港には今朝7時半に東京から到着したばかりの近海郵船フェリー「サブリナ」が停泊している。
釧路港のサブリナ ターミナルビルにはすでに乗船を待つ人たちが大勢集まっていた。家族連れやライダーに混じって自転車も数人はいるようだ。僕も窓口で東京までの2等運賃14,700円と自転車航送料金2,100円の合計16,800円を支払って、乗船手続きを済ませ、待合室で時間を過ごす。
 ところで、この東京・釧路航路はこの秋で旅客の扱いを取りやめて貨物専用になってしまう。この航路を利用するのもこれが最後になるから、しっかりと記憶に留めておこう。

 10時55分に係員の合図に従って乗船。今日の走行距離は9.3キロ。今回の旅で北海道の大地を走った通算距離は1,465.3キロになった。
 巨大な格納庫のような車両甲板に相棒を残し、船内で必要な荷物だけ持って客室への階段を上がる。サブリナに乗るのは3度目なので、船内の様子はもう大体分かっている。
 302号室47番というのが僕に割り当てられた寝床。ツーリストベッドと呼ばれる2等寝台である。
 この船の旅客定員は694名。この秋で廃止となれば、最後の夏に一度乗ってみようという人たちで結構混むかもしれないと予想していたのだが、意外に空いているようだ。交通機関としては、もはや多くの人々の関心外にあるのだろう。

 出航予定時刻は12時。それまで甲板に出て、釧路の港や街並みを眺めていると、北海道ともお別れだなぁ、と思う。ターミナルビルで待っている間は乗船時刻が待ち遠しかったのに、いざ船上の人になってしまえば、すぐそこにあるのにもう手が届かない北海道の大地への惜別の思いが込み上げてくる。きっと来年もまた来よう。そう思ってしまう。

 車両の積み込みの遅れのため、定刻を15分過ぎた12時15分、サブリナの大きな白い船体を岸壁に繋ぎ止めていた太いロープが解かれ、船は自由の身になった。
 「蛍の光」のメロディが流れるなか、幸丸というタグボートの力を借りて、岸壁を離れ、方向転換を終えると、役目を終えて牽引用ロープを解かれた幸丸も引き上げていき、サブリナはゆっくりと釧路西港の防波堤の間を抜けて、太平洋へと出ていく。東京までおよそ32時間半の長い航海である。

タグボート幸丸に引かれて釧路を出港。 遠ざかる釧路港

広尾・十勝港に寄港 いつしか大空には晴れ間が広がり、海は青くキラキラ輝いている。釧路原野の彼方には阿寒の山並みが遠く微かに望まれる。旅の終わりの寂しさと始まったばかりの船旅の楽しさと…。ぼんやりと海面を眺めていたら、数頭のイルカがジャンプしながら船の前方を横切っていった。

 釧路を出港して3時間。また雲が広がって鈍色に変わったのっぺりした海面を切り裂くように北海道の沿岸を進み続けたサブリナは再び陸地に接近していた。
 15時40分、広尾の十勝港に接岸。釧路での遅れは早くも取り戻して、定刻通りである。
 去年はここから乗船したので、広尾の港湾風景や黄色い瀟洒なフェリーターミナルの建物や街の眺めも記憶に新しい。幾重にも重なり合うようにそびえる日高山脈の峰々にも今日は雲がかかっている。停泊中に風呂に入る。

 十勝港出航は17時。グリーンの光を放ち始めた灯台の脇をすり抜け、再び太平洋に出た船は一路東京をめざす。
 墨絵のような日高山脈がどこまでも連なり、しかし、だんだん高度が失われてきた。あの山々が海に没するところが襟裳岬である。

十勝港と日高山脈 襟裳岬

 薄墨色の雲の下で襟裳岬の灯台が15秒間隔で光っているのは船内レストラン「ラビアンローズ」の窓辺の席でハンバーグ定食を食べながら眺めた。今日の日没は18時27分。明日の日の出は4時30分とのこと。
 さようなら、北海道。また来る日まで…。


霧の海を行く 翌朝は4時半に一度目が覚めた。ちょうど日の出の時刻なので、ベッドを抜け出して甲板に出てみたが、あいにくの曇り空で太陽は拝めなかった。
 もうひと眠りして、6時20分に起床。現在の船の位置は仙台沖を過ぎたあたり。窓の外はひどい霧で真っ白だったが、じきに晴れてきた。

 甲板の隅には昨日からずっと灰色の海鳥が1羽、じっとうずくまったままだ。種類はよく分からないが、ミズナギドリの仲間だろう。弱っているのか、人が近づいても逃げようとはしない。このままでは衰弱するばかりに違いない。
 今朝も何人かが見守るなか、ひとりの青年が鳥を抱え上げた。
「逃がしますけど、いいですか」
 誰もが曖昧に頷くしかない。本当に飛べるのだろうか。そのまま海面に墜落するのではないか。
 青年が手を放した。
 鳥は驚くほどのスピードで飛び立ち、海の彼方へ遠ざかっていった。

 正午。サブリナは茨城県の鹿島沖に達していた。レストランでエビピラフを食べる。このフェリーのレストランは調理や接客のスタッフも多く、食事もなかなか美味い。この船が廃止になってしまうのは本当に惜しい。旅客部門の人員、サービスともギリギリまで削減していいから、なんとか残してくれないかなぁ、と思う。
犬吠埼を通過
 12時40分、犬吠埼がくっきりと見えてきた。海面は明るさを増し、水平線上には入道雲。だいぶ南へ来たな、と思う。
 ここからは房総半島の沿岸を進む。海辺の町もはっきり分かる。4年前に初めての自転車旅行で走った場所である。あの頃は自分が1日にどれぐらいの距離を走れるのか見当もつかない、まったくの初心者で、まさか自分が自転車にテントを積んで北海道を走るようになるとは夢にも思わなかった。

 航行する船舶の数も多くなってきた。見渡すかぎりの青海原もいいけれど、やはり陸地や船が見えたほうが船旅は断然おもしろい。
 16時43分、房総半島最南端の野島崎の白い灯台を通過。
 17時23分には半島最西端の洲崎灯台を回る。この灯台と対岸の三浦半島・剣崎灯台を結ぶラインの内側が東京湾である。
 夕空を映す海面に大小さまざまな船が浮かんでいる。東京湾に入る船、出ていく船、それぞれに列をなして右側通行でゆっくりと航行している。交通量が多いため、速度規制が厳しく、ここから意外に時間がかかるのだ。

東京湾・夕景 火力発電所の3本の煙突が目印の久里浜と対岸の金谷を結ぶ東京湾フェリーが見えて、18時05分には浦賀水道に面した観音崎を通過。三浦半島の上空が夕陽に染まり、やがて観音崎灯台が光を放ち始める。

 横須賀の街に明かりが瞬き始め、猿島のシルエットが過ぎていく。
 18時半にレストランで牛丼の夕食。最後ぐらいもう少し豪華に行きたかったが、乗船後に財布の中の現金が残り少ないことに気づき、これがギリギリである。

 19時には横浜沖を通過。東京湾の両岸にどこまでも続く夜景、航路標識の光、船舶の灯火。暗くなるにつれて、あたりは美しい光に満ちてくる。たくさんの人が甲板でそんな光景を眺めている。最高の夕涼み。

 19時26分に川崎と木更津を結ぶ東京湾横断道路・アクアラインを過ぎる。ここだけは船内にアナウンスが流れる。
 飛行機が次々と離着陸する羽田空港を左に見て、19時48分には賑やかに灯りをともした新門司行きのオーシャン東九フェリーが左舷を遠く離れてすれ違っていった。3年前の夏にあの船で九州へ行ったのが、僕の中の船旅ブームの始まりだった。

 19時50分に船長の放送。本船は現在、東京港から8キロの地点を航行中で、東京・有明フェリーターミナルには定刻通り20時40分に到着予定とのこと。
 だんだん船内も慌しい雰囲気になって、下船準備を済ませた人たちがエントランスホールに集まりだす。

 20時10分に車両甲板への通路が開放された。本当は港に接岸するまでずっと見ていたいのだが、荷物をまとめて愛車のもとへ下りる。
 固定ロープを解いてやれば、あとはもう下船を待つばかり。大型トレーラーの固定金具を解除する金属音が甲板内に反響して、耳をつんざくようだ。
 いつ接岸したのか分からないまま、20時40分を過ぎ、乗用車、バイクの後でようやく自転車も下船。時刻は21時になっていた。
 もう船を振り返ることもせず、フェリーターミナルビルに寄ることもなく、夜の埋立て地を突っ走る。
 都心を横断して、家までちょうど25キロであった。

                                                      1999年夏の北海道自転車旅行 完 


   自転車旅行Indexへ     トップページへ

このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください