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東京ゼロメートル地帯と荒川ロックゲート   2010年1月23日



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 これまでサイクリングで東京の川沿いを走るというと、世田谷住民としては多摩川・野川・仙川などの多摩川水系の河川が中心で、あとは神田川や善福寺川、せいぜい石神井川あたりまでが守備範囲だった。ところが、去年(2009年)の秋、荒川に“遠征”して赤羽付近から河口の葛西臨海公園まで走って以来、荒川・隅田川・中川・江戸川といった東京の下町を流れる川に俄然興味が湧いてきたのだった。具体的にどういう興味か、ということは追々書くとして、とにかくサイクリングに出発しよう。

 ということで、まずは甲州街道・新宿通り経由で千代田区永田町の国会議事堂前にある国会前庭の北地区にやってきた。
 国会議事堂に向かう並木道をはさんで南北に分かれた国会前庭のうち北地区は皇居の桜田濠を見渡す高台に位置し、江戸時代初期には加藤清正の屋敷があり、その後、彦根藩主・井伊家の上屋敷となった土地で、明治以降は陸軍省と参謀本部が置かれ、戦後、国会前庭として整備されたという歴史を持つ。
 南地区が和風庭園なのに対して、この北地区は洋式庭園で、園内には噴水池や時計塔、憲政記念館があるが、今日の目当てはただひとつ、「日本水準原点」である。

 水準原点とは日本における土地の高さを測る基準となるものである。現在は国土の測量や地形図の作成は国土地理院が行っているが、戦前は軍事機密にも関わるため陸軍の陸地測量部が担当しており、明治24(1991)年に全国の測量の基準となる水準原点が当時陸軍省の敷地だった当地に設置されたのである。
 その水準原点は「日本水準原点標庫」(右写真)と呼ばれる古代ローマ風の小さな石造建築の中にあり、見ることはできないが、「台石に取り付けた水晶板の目盛の零線の中心」に当たり、その標高は24.4140メートルと定められている。これを基準として日本各所の土地の高さを水準測量によって導き出しているわけである。
 では、水準原点の標高が24.4140メートルとは一体どこからの高さかというと、これは東京湾の平均海面の水位を基準としている。具体的には東京湾の隅田川河口(当時)にある霊岸島の検潮場で明治6(1873)年から6年間にわたって測定した東京湾の潮位の平均値を標高0メートルと定め、これに基づいて水準原点の高さを測量し、日本全国の高さを測る不変不動の基準としたわけだ。もっとも、水準原点の標高は絶対に不変というわけではなくて、当初は24.500メートルだったという。それが関東大震災による地殻変動で、土地が低くなってしまい、再測量の結果、得られた数値が24.4140メートルというわけで、それ以降は現在までずっと変動はない。もちろん、これからも永久に変動はないという保証はないから、現在は三浦半島の油壺に設置された検潮場の水位を基準に定期的に測量し、点検を行っている。

(2011年3月11日の東日本大震災の影響により、日本水準原点は2.4センチ沈降し、2011年10月21日付で24.3900メートルへと88年ぶりに修正されました)

(標高24メートルからの眺め)

 さて、日本の水準原点を見て、標高24メートルからの都心の風景を眺めて、再び自転車で走りだす。次は日本の水準測量の真の原点とでもいうべき霊岸島の水位観測所を見に行こう。
 坂を下って、桜田濠に沿って行くと、すぐに桜田門。万延元(1860)年3月3日、大雪の朝、今は国会前庭になっている彦根藩上屋敷を出た大老・井伊直弼は60名ほどの供を従えて登城する途上、桜田門を目前にして水戸の藩士らに襲撃され、暗殺されたわけだ。
 桜田門を過ぎ、凱旋濠、日比谷濠と水辺に沿って走る。このあたりの濠や皇居前広場、そして右手の日比谷公園あたりは徳川家康が江戸に入った当初は入江、つまり海だった場所である。

(桜田濠と桜田門)
(桜田濠より一段低い日比谷濠はかつて海だった)

 日比谷から銀座、築地と賑やかな街を走り抜けて、日本橋川の分流・亀島川にかかる南高橋を渡ると、中央区新川で、ここがかつての霊岸島(霊巌島)である。
 この町は今も日本橋川と亀島川、そして隅田川によって周囲の町と隔てられているが、もとは隅田川河口の中州で、ヨシがはえる干潟のような土地だったらしい。江戸時代の初めに浄土宗の僧・雄誉霊巌上人が埋め立て、寛永元(1624)年に霊巌寺を創建したことから霊巌島と呼ばれるようになったわけである。その霊巌寺は江戸市中を焼き尽くした明暦の大火(1657)で全焼し、深川(いまの江東区白河1丁目)に移転し、かわりに霊巌島には江戸の町人が集団移住してきて商人の町として発展し、現代においてもビジネス街になっている。ちなみに現町名の新川は万治年間(1658-61)に河村瑞賢が亀島川と隅田川を結ぶ運河を開削し、これが新川と呼ばれたことに基づく。新川は戦後、完全に埋め立てられ、今は道路になっている。

 (亀島川と亀島川水門)

 それはともかく、下町の川の面白さに気づいて以来、僕の中でとみに関心が高まっている水門、ここでは亀島川河口の亀島川水門を見て、いよいよ霊岸島水位観測所にやってきた。隅田川と亀島川が合流する霊巌島の南端部で、新川から佃島に渡る中央大橋のたもとから隅田川の水辺のテラスに出られる。

 しかし、その前にもうひとつ発見。一等水準点「交無号」(右写真)。すぐ横に解説板がある。

   一等水準点「交無号」  標高三.二四m

 水準点とは、精密に測られた高さの基準点です。全国の主要道路に約2キロメートルおきに設置されており、各種測量の基準や地殻変動の検出に利用されています。
 日本の高さの基準である東京湾平均海面(標高0m)は明治六年から十二年の間に霊岸島で行われた潮位観測によって決定されました。この結果は、潮位観測に用いられた量水標近傍に設置された「内務省地理局水準標石(霊岸島旧点)」に取り付けられましたが、明治二十四年に新しい基点として、この「霊岸島新点・交無号」が設置されました。同年、国会議事堂前の地に建設された日本水準原点の標高は、この水準点からの測量で決定されています。
 水準点番号「交無号」の由来は、水準路線が交差する点であることを示す「交」と、「0」を意味する「無号」を合わせたものです。
 この水準点は、まさに日本の高さの出発点として歴史あるものです。
 現在の水準点は、平成十八年にこの地に移転されました。標石は昭和五年の移転時に作られたもので、小豆島産の花崗岩が用いられています。

    平成二十一年二月   国土地理院関東地方測量部


 (霊岸島水位観測所)

 さて、霊岸島水位観測所である。水中からそびえ立つ塔を逆三角錐の形に組んだフレームが囲むような造形。鳥たちの絶好の休憩場所になっているようで、ユリカモメやカワウがたくさん羽を休め、直下はフンで白くなっている。カモメたちに“爆弾”を落とされぬよう頭上に注意しながら、じっくり見物。
 実は現在の観測所はテラス護岸の造成により平成6年に36メートル上流から移設されていて、もとの位置にはモニュメントのポール(右写真・左)が立っているのだが、とにかく、ここで明治6年から12年にかけて測定した東京湾の海面の平均水位が日本の標高(海抜)の基準となっているわけだ。ただし、その後、埋め立ての進展により隅田川河口はさらに沖合に移動し、都市化によって降雨による水位への影響も顕著になってきたため、現在は日本水準原点の検証のための海面水位の観測は三浦半島油壺(神奈川県三浦市)に設置された検潮場において実施されている。

 ところで、これから隅田川を渡って下町のサイクリングに出かける前にもうひとつ押さえておくべきことがある。それが「A.P.」という用語。Arakawa Peilの略で、peilとはオランダ語で「基準」とか「標準」を意味する。明治初期の治水事業にオランダ人技師が招かれたことからオランダ語が使われるようになった。
 標高が霊岸島で測定した東京湾の平均海面を基準としているのに対して、A.P.は同所で測定した東京湾の干潮時の最低水位を基準としていて、現在の霊岸島水位観測所では三角錐のフレームの最下部の交点がA.P.±0メートルの水位を示している。このA.P.は「荒川工事基準面」と訳され、荒川水系の河川や運河の水位の基準となり、水門や堤防の設計にも用いられるため、下町ではしばしば目にする。
 東京湾の平均海面を基準とする標高(海抜)のほうはT.P.(Tokyo Peil)といい、T.P.±0メートル=A.P.+1.1344メートルと定められている。ちなみに東京湾の大潮の時の満潮位はA.P.+2.1メートルであり、干満の差が最大2.1メートルであることが分かる。
 なお、隅田川の河口部で測定したのに「荒川」なのは、明治時代には隅田川=荒川下流だったためである。都内を蛇行しながら流れる隅田川の洪水を防ぐため、今の北区志茂から一気に海に水を流す放水路が20年の歳月をかけて開削され完成したのは昭和5(1930)年のことで、そちらが現在の荒川となっている。

 さて、霊岸島をあとに隅田川にかかる中央大橋を渡って、江東区方面に向かおう。
 超高層マンションが立ち並ぶ中央区佃の大川端リバーシティ21を経て、今度は隅田川の分流(派川)にかかる相生橋を渡ると江東区の越中島。その橋の越中島側に中の島公園がある。ここには通水管を通じて隅田川の水が出入りする感潮池がある。干潮時には水がなくなり、潮が満ちてくると、水が流入して池になるのだ。ちなみに隅田川の潮位がA.P.+1.6メートルを超えると水が入る設計だ。現在はそれより水位が低いので池はほとんど空っぽ。なので、通過。

(相生橋から見た中の島公園)

 隅田川と荒川と東京湾に囲まれた「江東デルタ地帯」にやってきた。地盤沈下の影響もあって、土地の高さが東京湾の海面よりも低い、いわゆる「ゼロメートル地帯」である。
 この一帯は人工の堀や川や運河が縦横に走り、いずれも潮の干満の影響を受け水位が刻々と変化する。そのため、ひとたび台風による高潮や地震の津波が発生すると、付近一帯に大きな被害をもたらす恐れがある。そこで、この地域を囲むように高い堤防がめぐらされているほか、域内の水路と隅田川や東京湾との接続部には防潮水門が設置され、いざという時には直ちに水門を閉鎖して高潮や津波の侵入を防ぐ仕組みになっている。先ほど見た亀島川の水門もそのひとつである。
 一方で、この地域の水運ネットワークの発達が早くから工業地帯として発展する要因にもなったわけだが、そのせいで大量の地下水が工業用水として汲み上げられ、凄まじい地盤沈下を招く結果ともなった。大正時代から昭和40年代にかけて最大で4.5メートル以上も沈下した地点があるという。そして、この地域の大部分は東京湾の満潮位より地盤が低く、一部には干潮位よりもさらに低い土地もある。もし、堤防や水門がなければ、これらの土地はたちまち水没してしまうわけで、土地の高さと周囲の水位の高さを比較する上でも「A.P.表示」はとても重要なのだ。
 現在は地下水汲み上げの規制によって地盤沈下はほぼ収まり、大工場の移転も進んで、その跡地は再開発により超高層マンションが立ち並ぶ近未来都市の様相を呈している。同じ東京都内といっても西郊の武蔵野台地上に住んでいて、都心の東側にはほとんど縁がなく、昔ながらの下町のイメージしかないので、こうしてやってくると、あまりの変貌ぶりは衝撃的ですらある。台地から低地に下ってきたのに“お上りさん気分”。ただ、この土地の風土とも歴史とも無縁のそういう近未来都市はとりあえず今回は関心の対象外だ。

(豊洲運河と豊洲水門。向こうに見えるのは大川端リバーシティ21)

(平久川と汐浜運河の交差点)

 とにかく、越中島と豊洲を隔てる豊洲運河にかかる豊洲橋の上から豊洲水門を眺めたり、平久川と汐浜運河が交わる“水の交差点”を見物したりしてから、東京メトロ・東西線の木場駅に出て、ほぼ大横川に沿う形で北上し、次の目的地である扇橋閘門(こうもん)をめざす。

 江東デルタに形成された水のネットワークは今は埋め立てられた部分も少なくないが、それでもまだいくつかの水路が縦横に走っている。このうち東西方向の最重要河川が小名木川。中川(利根川水系)と隅田川を結ぶ水路で、徳川家康が江戸に入ってすぐ江戸湾に沿う形で開かせた歴史の古い運河である。当時、製塩が盛んだった下総の行徳から江戸に塩を運ぶのが目的だったというが、その後は東北地方と江戸を結ぶ水運ルートとしても重要な役割を果たした。犬吠埼沖から房総半島の先端・野島崎にかけては海の難所であったため、銚子から利根川に入って内陸経由で江戸に到達するのが主要ルートとなったためである。
 この小名木川と交わる南北方向の水路には大横川横十間川がある。どちらも北十間川から分かれてまっすぐ南に流れ、竪川、小名木川、仙台堀川と交差してから西に折れ、一緒になって隅田川に通じている。現在は大横川の竪川以北が埋め立てられて親水公園化され、一方、横十間川は小名木川以南が親水公園になっている。

 その大横川と小名木川が交差する地点の東側の小名木川に設けられた水門が扇橋閘門である。

 治水対策上、江東地区の内部河川は大横川を境に東西に分けられていて、大横川以西の水路は東京湾の潮の干満の影響を受ける感潮河川となっているが、大横川より東側の地域はとりわけ地盤が低いため、川は外部の河川から遮断され、その水位は常時A.P.−1メートルに保たれている。つまり干潮位よりさらに1メートル低い水位にコントロールされているわけで、各所に排水ポンプを備えた排水機場が設けられている。
 当然、小名木川も西側の感潮域は潮の干満に合わせてA.P.0メートル〜2.1メートルの間で水位が変化するのに対して、東側は常にA.P.−1メートルで一定しているわけで、最大で3.1メートルの水位差が生じる。その東西を隔てる水門が扇橋閘門である。ただ、この水位差を維持しようとすれば水門を開けることはできず、そうなると船が通行できない。そこで、水門を2つ設置して、その間の区間(閘室)の水位を上げ下げすることで船が水位の異なる両区間を行き来できるようにしたのが閘門と呼ばれる水門で、いわば川のエレヴェーターである。長さ90メートル以下、幅員8メートル以下の船舶が通行可能で、実際に船が通るところを見たいと思うが、そんなに都合よくは通らない。ちなみに日曜・祝日は利用できない。

 
(扇橋閘門。開放中の前扉の向こうに閉じた後扉が見える。右写真は閘門の東側の小名木川)


(別の日に撮影した扇橋閘門。前扉が閉じていて水位差がよく分かる)


 扇橋閘門を見た後は、清洲橋通りを走って小名木川と横十間川の交差点にX字形にかかるクローバー橋へ。横十間川もここから北は水路として利用され、船が通れるが、小名木川以南は親水公園となって、ボート池などになっている。ただし、冬の間は営業しておらず、ボートの代わりにカルガモやオナガガモ、キンクロハジロ、ホシハジロ等のカモ類がたくさん浮かんでいた。

 
(小名木川と横十間川の交差点にかかるクローバー橋。右は親水公園になった横十間川のボート池)

 この親水公園を南へ行くと、仙台堀川と交差。ふたつの川が交わるところには木が茂った「野鳥の島」があり、サギの仲間がたくさんいた。仙台堀川は小名木川の南側を東西に通じる水路で、ここから東へ行くと北に折れて小名木川に合流している。実際に水路として機能しているのは大横川との交差点以西だけで、東部は親水公園になっている。

(仙台堀川を渡る越中島貨物線の鉄橋。水路にはボラがいる)

 その仙台堀川公園を走り、JR越中島貨物線の鉄橋をくぐると、明治通りと交わるので、これを南下すると、永代通りとの交差点近くに東京メトロ東西線の南砂町駅がある。
 それにしても、江東デルタ内をずっと走ってきて気づくのは、本来ならほぼ平坦なはずの土地が全体的に波打つように不自然に起伏していることである。地盤沈下の影響なのは間違いない。全体が均等に沈んだわけではないので、こんな状態になっているのである。

 さて、南砂町駅は地下鉄の駅なので、電車に乗るには当然、地下に通じる階段を下りなければならない。ところが、この駅はまず階段を11段も上がってから下るという妙なことになっている(右写真)。このあたりはとりわけ地盤が低いため、いったん洪水が発生すると、水が地下に流れ込み、駅が水没する危険がある。そのため、駅の入り口が高くなっているのだ。
 駅の北側には南砂3丁目公園があって、その駅前に水位表示の標柱が立ち、この場所が海面より低いことが分かるようになっているが、同じような標柱は公園の野球グラウンド東側の南砂町地盤沈下観測所の脇にも立っている(こちらはT.P.表示)。ここには江東デルタ地帯を囲む堤防の高さ(T.P.+4.47m)や過去の水害の最高水位(大正6年台風の高潮、T.P.+3.08m)など見上げるような高さに表示があり、さらに満潮位(T.P.+0.97m=A.P.+2.1m)も平均海面(T.P.±0m)も干潮位(T.P.−1.13m=A.P.±0m)もいま立っている地面よりずっと上にあることが分かるわけだが、何よりもビックリなのは大正7(1918)年の地表面の高さである。T.P.+1.30メートル。現在の地面の高さは大体T.P.−2.2メートルぐらいか。ということは、およそ3.5メートルも沈んだということだ。今は地盤沈下はほぼ止まっているというが、観測はなお続けられている。


(南砂町地盤沈下観測所の標柱。大正7年の地表面の高さに注目))

 満潮時には地面より3メートルも高いところに水面があるという恐るべき現実に粛然とさせられて、また走り出す。
 南砂3丁目公園から北へ行き、複合商業施設トピレックプラザを抜け、葛西橋通りを越えると、再び仙台堀川公園に出合う。いまは親水公園となった川が直角に折れ曲がる地点で、ここに江東区による「砂町運河跡」「仙台堀川公園の由来」の説明がある。

 仙台堀川は小名木川から東砂1丁目と北砂6丁目の間で分かれて南に向かい、南砂5丁目付近で西に折れ、横十間川、大横川と交差して隅田川に通じる人工水路であるが、本来の仙台堀とは江戸初期に開かれた横十間川以西をいい、小名木川〜横十間川の区間は大正11年から昭和8年までの間に民間の東京運河土地株式会社によって幅36メートルの水路が開削され、砂町運河と呼ばれていた。運河は昭和23年に東京都に移管されて砂町川と改称され、さらに昭和39年の河川法改正で仙台堀川と一本化されたのである。しかし、激しい地盤沈下によって、堤防のかさ上げが繰り返され、堤防の継ぎ目からの漏水も随所で発生するようになったため防災上危険であるということになり、昭和53年から大横川以東の3.7キロが埋め立てられ、55年に親水公園として生まれ変わったとのこと。ただ、この区間も川が完全に消えてしまったわけではなく、幅を狭められ、水位も下げられた水路が残っておりボラが泳いでいたりする。また、一部にはかつての運河をそのまま活用したような釣り堀もある。東京の山の手にも暗渠化された川跡にささやかな流れを復活させて親水公園となっている場所はあるが、このあたりの親水公園ははるかに規模が大きい。

 その仙台堀川公園を北に向かい、小名木川との接続部にまでやってきた。この一帯は江東区の中でも特に地盤沈下がひどかった場所である。普通、川というのは土地の一番低いところを流れるから、道路が川を越す場合、坂を下って、川を渡り、また坂を上るというパターンになる。ところが、このあたりでは橋を渡った道が川から遠ざかるにつれてどんどん下っていくのである。一体どれだけ地盤が沈んだのか、と思う。

 小名木川を東に向かうと、すぐに旧中川にぶつかる。その手前にかかるのが番所橋。江戸時代、水運の動脈であり、軍事上も重要だった小名木川の番所がここに置かれたために、この橋の名前がある。
 ここで出合う旧中川は利根川水系の中川の下流部が荒川放水路の開削で上流と分断され、江東デルタ内に取り込まれた水路で、小名木川などと同様にA.P.−1メートルまで水位を低下させられている。そして、その上流端には荒川に水を排出する木下川(きねがわ)排水機場が設けられ、再び荒川に合流する下流端には小名木川排水機場と、今日のサイクリングの最大の目的である荒川ロックゲートがある。

 
(番所橋から見た小名木川・旧中川の合流点。右写真は旧中川。向こうに東大島駅)

 旧中川、荒川、中川を続けて渡るために地上に出てきた都営地下鉄・新宿線の東大島駅(旧中川の上に位置する高架駅)を左に見て、旧中川を平成橋で渡ると、江東区から江戸川区に入る。大河・荒川ではなく、この地に昔から流れている旧中川が区境となっているわけだ。そのため、江戸川区の大部分は荒川の東側なのに、平井・小松川地区だけが西側に隔絶された形になっている。
 その江戸川区小松川にあるのが大島小松川公園・風の広場。小高い丘になっているのは、もちろん自然の地形ではなく、人工の盛り土によるものである。この土地は化学工場跡地を東京都が購入したのだが、有害物質の六価クロム鉱滓が大量に埋められていることが明らかになって大騒ぎになった。1973年のことで、そのニュースは当時小学生だった僕もなんとなく覚えているが、その現場がここなのだった。六価クロムを土の中に封じ込めるために厚く土が盛られ、その上が緑地公園となっているわけだ。
 旧中川と荒川にはさまれた、その公園内には旧小松川閘門の遺構がある(右写真)。かつて荒川と旧中川・小名木川との間を行き来する船を通すために扇橋閘門と同様の施設が昭和5年に建設されたのだが、陸上交通の発達による水運の衰退により昭和50年代に役目を終え、2つあった水門のうち1つは失われ、残りの門も盛り土によって3分の2が埋まった状態でオブジェのように保存されているのだ。

(ロックゲート屋上から荒川河口方面を望む。対岸の堤防の向こうは中川)

 さて、公園の東側はもう荒川の堤防である。その土手上に出ると、ドーンと圧倒的な水面が広がる。河口から約2.5キロの地点で、川幅は500メートルほどもあるようだ。いつも走っている多摩川も大きな川だと思っていたが、荒川はそれよりもはるかにスケールが大きい。
 そして、最大3.1メートルの水位差がある旧中川と荒川の接続部にあるのが、小松川閘門にかわって平成17年10月に完成した荒川ロックゲート。阪神淡路大震災の経験から災害時の被災者救助や救援物資・復興資材の輸送における水上交通の重要性が改めて見直され、建設された閘門である。基本的な仕組みは扇橋閘門と同じだが、こちらの方が新しいだけに立派である。閘室の幅は14メートル、長さは65メートル、ゲートの開閉速度は分速10メートルと日本最速で、船の通過所要時間は約20分。もちろん、阪神大震災クラスの地震にも耐えられる耐震設計が施されている。2つの水門にはさまれた水位調整のための水路(閘室)の両岸に階段状の護岸があり、あたかも観客席のようになっていて、荒川側の水門は屋上まで登ることもできる。ここでのんびり文庫本でも読みながら船が往来する様子を一日眺めている、なんていうのも面白いかもしれないな、と思う。ちなみに荒川ロックゲートも利用できるのは平日・土曜日の8時45分から16時30分までで、日曜・祝日は休みなので、船が通るのを期待して見学に行く場合は注意が必要だ。今日は土曜日である。

 ここまではサイクリングらしき自転車にはほとんど会わなかったけれど、さすがに荒川の河川敷にはサイクリングロードが整備されているので自転車、しかもロードバイクの本格派が多い。そして、彼らの多くもここで自転車を止めて、ロックゲート見物をしている。詳しい解説板も完備されているのだ

   荒川ロックゲート・ホームページ


 
(荒川ロックゲート前扉と観覧席付き?の閘室。幅12m、長さ55m、高さ4.5mの船舶まで通航可能))

 僕が着いた時には荒川側のゲート(前扉)が開けられ、閘室内の水位は荒川に合わされていた。それが、そろそろ行こうかな、と思ったところで、前扉が下がり始めたのだ。実際に水門が稼働するのを初めて見た。船が通るのだろうか。しばし出発を見合わせ。見物客も増えてきた。
 閘室が両方とも閉鎖されると、「水位調整中」の電光表示。そして、水位が徐々に下がり始める。「水位下降中」「あと1.6メートル」「あと1.4メートル」といった表示が出て、数字がだんだん小さくなっていく。水位調整はバイパス管を通じて水を出し入れすることで行っていて、今は旧中川に向けて排水しているわけだ。

 (前扉が閉じられると、水位調整で水位が下がっていく)

 水位が旧中川と同じレベルにまで低下すると、水位調整完了。続いて「ゲート稼働中」の表示が出て、旧中川側の後扉が上がり始める。これから船がロックゲートを通過して荒川へと出ていくようだ。まさかこんな場面に立ち会えるとは!

(旧中川側の後扉が開く)

 小さな船が通るのだろうと思っていたら、旧中川側で待機していたのはクレーンを積んだ台船を牽引する引き船。台船の幅はロックゲートの閘室の幅ギリギリである。牽引船の操舵室の天井扉から上半身を乗り出したおじさんは右足で舵を左右に回して操作しながら台船をゲート内に引き入れていく。すごい技術。かっこいいなぁ、と思う。

 (引き船が台船を引いてやってくる。このおじさん、足で操船している)

 後ろからも船に押されて台船が完全に閘室内に入ると台船は岸壁にロープで固定され、準備完了。再び中川側の後扉が閉ざされる。そして、再び水位調整が始まる。今度は荒川の水位に合わせるため「水位上昇中」の電光表示。閘室内の水位が徐々に上がっていく。

  
(幅員制限ギリギリの台船が閘室に入ると、後扉が閉じられる)


 (水位上昇中。調整が完了すると前扉が開く)


 調整が完了して荒川の水位に合わされると、前扉が開き、信号が赤から青に変わり、固定ロープを解かれた台船が牽引船に引かれてゆっくりと動き出す。台船の幅員が限界ギリギリなので、周囲に取りつけた古タイヤを岸壁に激しく擦りながらゲートをくぐり、荒川へと出て行った。全体の所要時間はほぼ20分。荒川の中央部には別の船が待機していて、どうやらロックゲートを通って旧中川方面に入ろうとしているようだが、すでにここで1時間近く過ごしてしまったので、僕は出発。

 
(前扉をくぐって荒川に出ていく。通過所要時間20分。向こうにいるのは待機中の船?)

 あとは荒川右岸のサイクリングロードをひたすら突っ走り、隅田川との分流点の岩淵水門まで行き、そこから環七経由で帰るつもりである。
 多摩川のサイクリングロードは狭い道に高速で飛ばすロードバイクからママチャリや子ども用自転車、さらにジョギング、散歩、犬連れ、ベビーカー、車イスなど、老若男女がひしめき合っているので、大変危険で、僕は日本一(世界一?)危険な道路だと思っているが、それに比べると、荒川のサイクリングロードは幅が広いので、安心して走れるし、気分もいい。

 都営新宿線の鉄橋、新大橋通りの船堀橋、首都高速の荒川大橋、京葉道路の小松川橋、JR総武線の鉄橋、蔵前橋通りの平井大橋…と次々に橋をくぐって、快調に飛ばしていくと、右手に旧中川の木下川排水機場の水門がある。ここが荒川放水路の開削によって中川が分断された現場である。対岸の堤防の向こうに中川があり、ここから河口まで荒川と並行して中川放水路が開かれ、それが現在の中川になっている。木下川水門と向き合うように対岸には荒川と中川を繋ぐ中川水門も見える。中川水門の上流側には中川・綾瀬川合流点でゲートを4つ連ねた上平井水門も姿を見せている。。

 
(左写真は木下川排水機場の水門。右は対岸に見える中川水門と4連の上平井水門)

 墨田区に入って、木根川橋、京成押上線、水戸街道四つ木橋をくぐり、右岸堤防の向こうに東武伊勢崎線の線路が寄り添ってきて、首都高速向島線の新荒川橋をくぐると、隅田水門がある。中川と同じように荒川放水路の開削によって分断された綾瀬川の下流部である旧綾瀬川の水門である。今は荒川の東側を並行して流れて中川に合流している綾瀬川だが、以前は隅田川に繋がっていた。土手に登って水門の向こうに続く旧綾瀬川を見ると、すぐ先で隅田川に通じているのが分かる。この付近では荒川と隅田川の間隔は500メートルほどに接近しているのだ。

 (隅田水門と旧綾瀬川)

 墨田区から足立区に入って、堀切橋、京成本線鉄橋を続けてくぐり、さらに北千住付近で東武伊勢崎線、つくばエクスプレス、JR常磐線、東京メトロ千代田線の鉄橋が続く。このあたりから針路は西になり、日光街道の千住新橋、尾竹橋通りの西新井橋、尾久橋通りの扇大橋と日暮里舎人ライナーをくぐる。このあたりは右岸堤防のすぐ向こうが隅田川だ。

(今も鉄橋の名前は「荒川放水路」)

 西の空に雲が出て、雲間から太陽の光が斜めに降りそそいでいる。夕暮れが近い。少し急ごう。
 江北橋、首都高速中央環状線の五色桜大橋をくぐり、次が環状7号線の鹿浜橋である。ここで切り上げようかとも思ったが、思い直してさらに走り続ける。
 荒川ロックゲートから1時間。ずっと河川敷を通ってきた自転車道は土手に上がり、荒川と隅田川を分ける岩淵水門(通称・青水門)の上を通る。
 もともとは曲がりくねりながら都内を流下する荒川の下流部を隅田川と呼んでいたわけだが、たびたび氾濫し、東京に水害をもたらしてきた。とりわけ今からちょうど100年前・明治43(1910)年8月の豪雨による大洪水では荒川・隅田川・江戸川などの堤防が各地で決壊して東京下町を泥の海に変え、浸水家屋27万戸、被災者150万人に及ぶ大きな被害が出た。そこで、翌年から荒川の水を都心部を通らずに海に流す放水路の計画が始まり、22キロに及ぶ人工水路が開削され、大正13年に通水、昭和5(1930)年に完成したのがいま走ってきた荒川である。そして、荒川と隅田川の分流点に設けられたのが岩淵水門。大正13年に完成した最初の水門(旧岩淵水門、通称・赤水門)は昭和57年に完成した現在の水門にその役目を譲ったが、今も健在である。

(最後の1枚。赤い旧岩淵水門と青い岩淵水門)

 ここで写真を撮ろうと思ったのだが、カメラのバッテリーが切れてしまった。ということで、以前、撮った写真を載せておく。

 

 旧岩淵水門の上流側には過去の水害の水位を示すポールが立っている。岩淵水門(上)水位観測所で記録された昭和2年以降の洪水の最高水位の上位6位までが表示されている(右写真)。

  第1位 A.P.8.60メートル   昭和22年9月16日 カスリーン台風
  第2位 A.P.8.27メートル   昭和16年7月23日 台風
  第3位 A.P.7.48メートル   昭和38年8月29日 狩野川台風
  第4位 A.P.7.30メートル   昭和3年8月1日   台風
  第5位 A.P.6.48メートル   昭和13年9月21日 台風
  第6位 A.P.6.30メートル   平成11年8月15日 熱帯低気圧豪雨 

 ちなみにこの地点の堤防の高さはA.P.+12.5メートルである。また、荒川はここまで来てもまだ潮の干満の影響があり、つまり隅田川は全区間が感潮域ということになる。荒川の感潮域は河口から35キロ地点の埼玉県・秋ヶ瀬取水堰までだという。

 もうひとつ、今回は立ち寄らなかったが、旧岩淵水門から堤防を越えたところに荒川知水資料館があり、荒川に関するさまざまな情報が得られる。また、建物の外に「水準基標・岩淵水準点」が設置されていて、平成14年3月現在の高さはA.P.+8.259メートルとなっている。荒川の河川工事を実施する際にはこれが高さの基準になっているわけである。

(岩淵水準点 A.P.+8.259m))

 北本通りの新荒川大橋で荒川と別れ、環状7号線経由で帰る。やっぱり環七は気分的に疲れるわ。
 本日の走行距離76キロ。


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