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 北海道自転車旅行*2000年夏
 苫小牧〜振内 

     霧の中のプロローグ

 7月30日、日曜日。 
 太平洋上は朝からずっと濃霧が立ち込めたままだ。船は黙々と北へ進んでいる。
 霧の中から1羽のカモメが現われ、霧の中へ消えていった。

 いま茨城県大洗発の北海道苫小牧行きフェリー「さんふらわあつくば」の船上にいる。昨日、猛暑の中、へろへろになりながら東京から大洗まで150キロ以上を走り抜き、深夜のフェリーに乗り込んだのだった。
 出航時、頭上は満天の星だったのに、一夜明けると船はすっかり霧に包まれていた。
 結局、海が青く輝くことも、陸地や水平線が見えることもないまま、終日単調な航海が続き、いつしかあたりが暗くなった。風は冷たく、肌寒い。

 闇の彼方についに霧に滲む明かりが見えてきた。苫小牧港の灯だ。オレンジ色の常夜灯の群れや防波堤の灯台が放つ赤や緑の光が心に染みる。
 20時ちょうど。定刻通りに船は苫小牧港に着岸。それから車両甲板への通路が開放され、愛車とともに北海道の大地を踏みしめた時には20時20分近くになっていた。

 今夜をどう過ごすかは未定ながら、とりあえずフェリーターミナルをあとに苫小牧市街へ自転車を走らせる。気温は19度。相変わらずの霧である。街なかの公園でのキャンプも考えたが、結局、ビジネスホテルに投宿。
 今日の北海道は夏空が広がって、各地で30度を超え、道南の江差では7月としては観測史上最高の34度にもなったそうだ。しかし、苫小牧は終日霧に包まれていたという。釧路根室地方と一緒で、この土地も海霧の影響を受けやすく、夏でも気温が上がりにくいらしい。ホテルも冷房ナシである。フロントのおじさんによれば、窓を開けたままでも海が近いので虫は入ってこないとのこと。そういうものなのか?!

 部屋に落ち着いてテレビをつけると、21時25分に伊豆諸島の三宅島で震度6の地震があったというニュース。今年は3月末に北海道の有珠山が噴火して周辺に大きな被害を与えたが、6月末からは三宅島でも火山活動が始まり、三宅島や新島、式根島で大きな地震が相次いでいる。21時49分にも三宅島で震度5強の地震発生との速報。人知を超えた自然の力を思い知らされるようだ。
 僕も明日から自転車という無防備な移動手段を頼りに広大な北海道の自然の中へ出て行くことになる。


     苫小牧の朝

 苫小牧のホテルで5時起床。窓の外は曇り空。
 テレビの気象情報によれば、5時の苫小牧の気温は20.4度。札幌は25.0度。
「この時間から早くも20度を超えているところが多いですねぇ」
 札幌のテレビ局のアナウンサーが気温の高いことを強調している。北海道の夏は昼間は暑くても、朝晩は20度を切るのが普通なのだ。今日の予報は晴れで、予想最高気温も札幌が32度、北見では33度にもなるという。
「今日は夏、夏、夏! エンジョイしましょう!」
 そうはいっても、自転車旅行者にとってはあまり嬉しくない。ただし、北海道の太平洋側では濃霧注意報が出ていて、室蘭の予想最高気温は25度、浦河が28度。苫小牧も似たようなものだろう。このぐらいなら苦にならないか。

 ホテルを出発したのは6時。相変わらず白々とした空模様で、霧のせいか、路面も濡れている。
「朝のうちは苫小牧の辺はいつもこんななんですよ。もうちょっとしたら晴れてきますから…」
 とフロントのおじさん。
 とにかく、重い荷物を積んだ愛車に跨がり、大通りを東へ走り出す。片側4車線もある広い道で、歩道の幅も十分にある。街路樹にはナナカマド。沿道の緑地からはエゾセンニュウの澄んだ声が聞こえてきた。
 6時半に室蘭本線の沼ノ端駅前を通過。国道235号線に入って日高方面へ向かう。

 今回の旅の当面の目的地は富良野である。美しい丘の風景で知られる富良野や美瑛にはこれまで足が向かなかったが、今年はなんとなく行ってみたくなった。葉祥明さんの富良野を主題にした詩画集『Furano Holy Hill』を手にしたせいもある。
 苫小牧から富良野へ行く場合、岩見沢・滝川経由、夕張経由などルートはいくつか考えられる。今回は日高山脈の西側を北上する山岳ルートを選んでみた。峠越えがいくつかあって、大変そうだが、明日の夕方には着けるだろう。

     勇払原野

 さて、国道は霧の勇払原野を貫いて続く。このあたりが国主導の第3セクターで産業基盤整備が進められた、いわゆる苫小牧東部(苫東)地域である。といっても、進出企業もほとんどなく、荒涼とした原野ばかりで、シカの絵柄の「動物注意」の標識が頻繁に現われる。これでは苫東が実質的に破綻したのも頷ける。国道の交通量も少ない。それなのに、並行して日高自動車道が建設されている。在来の国道だってガラガラで、車はみんなビュンビュン飛ばしているのに、さらに高速道路なんか造って、一体どうするつもりなんだろうか。
 北海道経済も国全体の経済も先行きの見通しは悪いが、いま走っている国道も霧で視界が悪い。路面は雨が降ったのかと思うほど濡れて、水溜りもできているし、メガネには拭いても拭いても水滴がつく。
 鬱陶しい天候の中を走り続け、7時半過ぎに厚真町の「あつま野原公園」で小休止。ヒマワリ畑があるが、この天気では風景も冴えない。手元の温度計では気温21度。

 まもなく太平洋が見えてきて、JR日高本線と並行する。本線といっても非電化の単線。全くのローカル線である。周辺には人家も少ない。夏の気候がこれでは農作物は育たないだろう。田畑はほとんどなく、原野や牧草地ばかりである。

 (日高本線の浜シケウシ踏切。苫小牧から26.3km地点)

  (浜田浦駅)

     鵡川

 原野の中にぽつんとある浜田浦駅(写真)に立ち寄ったりして、ようやく町らしい町に入り、8時半に鵡川駅前に到着。苫小牧起点30.5キロ地点の駅で、昔はここから富内線という支線が分岐していたが、昭和61年10月末で廃止された。もちろん、僕は乗ったことがない。
 ところで、太平洋に面した鵡川は「シシャモとタンポポの町」がキャッチフレーズで、タンポポはともかく、シシャモは有名である。ふだん我々がシシャモだと思って口にしている魚は実はノルウェーあたりから輸入した別種で、本物のシシャモは北海道の太平洋側の限られた地域でしか獲れないのだ。漁期はシシャモが産卵のため鵡川を遡上する11月頃だそうだ。
 シシャモは漢字だと柳葉魚と書く。アイヌの伝説に人々が食べるものがなくて困っているのを見た神様が柳の葉を川に流し、それがシシャモになったという話があるそうだ。一説によると、シシャモという名前もアイヌ語のススハム(柳の葉)に由来するという。
 駅の売店でパンを買って、街の東側を流れる鵡川の河川敷の「タンポポ公園」で朝食。今はタンポポの代わりにマリーゴールドが咲いていた。

 鵡川を渡って、さらに国道を行くと、土建会社の敷地に蒸気機関車が展示してあった。D51−25である。さらにその奥にもD51がもう1両。25号機は炭水車の上などにちょっと草が生えていたりするものの、ほぼ原形を留めていたが、奥の1両はナンバープレートもなく、無残に錆びついて、展示というより野晒しというのが正確なところ。SLはただの機械というには妙に人間臭いところがあって、この機関車がここへやってくるまでにどんな生涯を送ってきたのかと考えてみた。

  

 そこからすぐの地点で国道から左折。太平洋岸を離れ、鵡川の清流に沿って内陸に分け入る。
 まもなくエゾゼミが鳴き出した。北海道のセミは気温にかなり敏感で、天気が悪くて涼しいと全く鳴かないし、天気が回復して気温が上がり始めると、待ってましたとばかりに鳴き出す。実際に海岸から離れると、霧も消え、暑くなってきた。
 そして、5キロほど内陸に入った花岡地区まで来ると急激に青空が広がり、陽射しも強まってきた。海霧の影響を受ける沿岸部は原野や牧草地ばかりだったが、このあたりは青々とした水田が広がっている。ほんの数キロで驚くほど気候風土が違う。

     平取町・義経神社

 国道から13キロほど入った生田で右折して最初の山越えにかかる。上空はすっかり快晴で、照りつける陽射しは肌に焼けつくようだ。セミが賑やかで、林の中からはウグイスの声も聞こえてくる。
 右折地点からひと山越えて4キロほど行くと沙流川に沿って開けた平取(びらとり)町で、国道237号線にぶつかる。日高の門別町から富良野を経て旭川へ至る道路で、当面はこのルートを辿る。
 すぐにコンビニのセイコーマートがあり、ちょっと休憩。店内は冷房が効いている。屋外の気温は28.5度で、本州の猛暑に比べれば大したことはないが、数字以上に暑く感じる。
 平取の中心集落を北へ抜けると義経神社というのがあった。平泉で死んだはずの源義経が実は津軽海峡を渡って蝦夷地へ逃れた、という伝説があるのは知っている。それと関係があるのだろうか。とりあえず寄ってみよう。時刻は10時55分。
 小高い山の上へ石段を登っていくと木立に囲まれた小さな神社があり、やはり祭神は源義経であった。すぐ立ち去るつもりだったが、白いポロシャツ姿のおじさんが出てきて、
「暑いですねぇ。今までで一番暑いです。こちらは涼しいですから、どうぞ」
 といって、本殿の中へ案内してくれる。この人が神主さんなのだった。
「源義経がここまで来たという伝説があるんですか?」
「いや、伝説ではなくて事実です」
 神主さんはきっぱりと言った。この地に辿り着いた義経がアイヌの人々に農耕など和人の文化を伝えたのだという。僕はこの手の義経伝説をあまり信じないが、彼が平泉で死んだという確実な証拠もないわけで、ここは黙って話を聞く。
 また、この神社は戦勝祈願(スポーツやギャンブルも含む)のほか、馬産地・日高らしく愛馬息災の御利益があるそうで、本殿にも競走馬の名前と出走レース名が書かれた幟がたくさん奉納されている。なかには昨年、春秋の天皇賞やジャパンカップを制した名馬スペシャルウィーク号の名前もあった。
 本殿の中で記念写真を撮ってもらったりして、さらに知人が経営しているという富良野・麓郷(ドラマ『北の国から』の舞台)のライダーハウスを紹介され、11時35分に出発。

     二風谷

 沙流川を渡って左岸を北へ行くと、サラブレッドのいる牧場があり、まもなく二風谷(にぶたに)に着く。ここは北海道でも最大級のアイヌ集落だそうだ。
 僕がこの土地の名前を知ったのは二風谷ダムの建設問題によってである。沙流川をせき止めるダム建設によって、アイヌの神聖な儀式の場が水没することとなり、反対運動が起きたが、結局、工事は強行され、すでにダムは完成している。先住民族アイヌの立場からすれば、これは和人の侵略行為にほかならないが、いまや土木建設が基幹産業というべき北海道経済は、こうした公共事業を延々と続けることでなんとか命脈を保っているというのが現状なのかもしれない。
 さて、その二風谷の中心部には平取町立の二風谷アイヌ文化博物館がある。予想以上に立派な施設である(これも公共事業の成果だが)。ここまで苫小牧から65キロ。11時55分に着いて30分ほど見学。映像展示も含めて、非常に充実しており、館内にはアイヌ詞曲舞踊団「モシリ」の曲が流れていた。
 沙流川の水を満々とたたえたダム湖を複雑な思いで眺め、次に国道を挟んで反対側の坂を上ったところにある萱野茂アイヌ資料館を訪れる。萱野茂氏といえば、アイヌ民族として初めて参議院議員に選出され、国会でアイヌ語による演説も行なった、全国のアイヌの精神的指導者というべき人物である。ここはその萱野氏が自ら収集・製作したアイヌ民具や海外の先住少数民族の民具を展示する個人博物館で、こちらも興味深く見学。
 それからユーカラというドライブインに入り、冷しラーメン(北海道では冷し中華をこう呼ぶらしい)を注文する。本当はあまり好きではないのだが、とにかく暑くて、ほかに食べたいものがないのだ。外の気温は31度。店内に冷房はない。

 二風谷を出発したのは13時50分。沙流川の清流に沿って、さらに奥地へ向かう。40キロほど先の日高町まで行ければ、と思う。
 次第に山あいにさしかかり、全体的に上り基調。とにかく陽射しが強くて、止めどなく汗が流れる。ひたすら我慢と忍耐のサイクリングだが、日陰に入ると、いくらか涼しくてホッとする。
 荷負という土地で「動物注意」の標識があったが、いつものシカではなく、キツネの図柄だった。こんなのは初めて見たので、一応、写真を撮っておく。

 


     振内鉄道記念館

 二風谷から15キロほど行くと振内という集落があり、14時45分に着いた。ここに振内鉄道記念館というのがあり、手元の地図に「公園内にライダーハウスあり、キャンプも可」とある。休憩がてら寄ってみると、これは旧富内線の記念館であった。
旧国鉄富内線・振内駅跡 1986年に廃止された旧国鉄富内線は鵡川駅から鵡川沿いに北上し、富内から山を越えて今度は沙流川の谷に沿い、振内を経て日高町に至る82.5キロの路線で、振内は鵡川から58.4キロ地点の駅であった。
 駅舎は取り壊され、代わりにバス待合所を兼ねた記念館が建っているが、ホームや線路、信号機などは昔のまま保存され、ホームには空色に塗られた古い客車2両が横付けされ、ほかに蒸気機関車D51-23が展示してある。客車は宿泊施設になっているようだ。
 流れ落ちる汗を拭いながら記念館の展示品をざっと眺め、日陰になった玄関先に座り込んでいると、地元のおじさんが話しかけてきた。
「暑いねぇ。こんなに暑いのは初めてだよ」
 義経神社の神主さんと同じことを言う。これから日高町まで行くつもりだと言うと、大変だから今夜はここに泊まった方がいいと言われ、あっさり予定変更。本日のサイクリングはここまでにする。僕自身、あまりに暑くて、もうグッタリで、今日はこの辺で終わりにしたいな、という気持ちがあったのである。
 それで、バスの切符売り場の女の人に宿泊を申し込むと、1泊580円だった。
 客車内は一部にボックス座席が残るほかはカーペット敷きで、もちろん寝具はなく、それぞれ持参のシュラフで寝る。前に釧路駅や根室駅で利用したツーリングトレインと同じである。
 先客は1名。川崎市からきた人で、日高山脈の最高峰・幌尻岳(2052m)登山が目的とのこと。今日は途中まで行ったものの、沢が増水していたので引き返してきて、明日改めてアタックするそうだ。
 車内に置かれたノートに宿泊者が書き残したものを読むと、自転車やバイクの旅行者のほかに登山客も結構利用しているようだ。「今日は私ひとりぼっちです」なんていう記述が目につくから、利用者は多くないのだろう。ここは特に観光地というわけでもないし、知る人も少ないに違いない。結局、今夜の宿泊者は夜遅く着いたライダーを含めて3人だけだった。
 夕食はすぐ近くの焼肉屋でカルビ定食を食べる。ビールが美味い。
 テレビのニュースによれば、今日はオホーツク海側で軒並み36度以上になり、網走市では37.0度を記録したそうだ。去年の北海道も暑かったが、今年はそれ以上の猛暑のようである。先が思いやられる。
 夕方にはアブラゼミの声を聞いたが、日が暮れるとだいぶ涼しくなった。夜になれば、記念館周辺は完全に真っ暗で、夕涼みがてらホームに出て、きれいな星空を見上げていたら、人工衛星が流れ星よりゆっくりとした速度で空を横切っていった。
 本日の走行距離は86.3キロ。明日は日高峠、金山峠と二つの峠を越えて富良野市へ向かう。

 (追記)
 この日、鵡川町で見た2両のD51と振内鉄道記念館に保存されているD51について、旅行後に調べてみた。
 白川淳『全国保存鉄道Ⅱ』(JTBキャンブックス)によると、これらはいずれも1949年に製造され、サハリンで走っていた機関車であるという事実が判明した。鵡川の2両のうち、ナンバープレートのない方はD51−26であるらしい。

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