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  春の三浦半島〜横須賀美術館「谷内六郎館」   2008年3月29日




 大好きな画家・谷内六郎さん(1921〜1981)のご遺族が谷内さんの作品をゆかりの深かった横須賀市に寄贈したというニュースを新聞で読んだのはもうずいぶん前のことだ。それ以来、そのうちきっと谷内六郎美術館ができるはずだ、その時は自転車に乗って行ってみよう、と楽しみにしていた。
 待望の美術館は昨年(2007年)4月28日に横須賀市の観音崎に横須賀美術館「谷内六郎館」としてオープン。直後に電車で訪れてしまい、自転車で行ってみようという思いは出し忘れの宿題みたいに心の隅に引っかかったまま、1年近く経ってしまった。
 そして、2008年3月29日。満開の桜とポカポカ陽気に誘われて自転車でどこかへ出かけようと思い立ち、宿願を果たすべく観音崎へ行ってみることにした。

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 6時15分頃、世田谷の自宅を出発。まずは二子玉川へ向かう。途中、馬事公苑付近で一般道を散歩中の馬とすれ違い、用賀の住宅街では満開の桜の彼方に真っ白な富士山が見えた。
 多摩川のサイクリングロードに出ると、時速25キロ程度で川崎方面へ走る。土手の桜が水面に映り、河川敷の柳は淡い緑の芽を吹いている。上空ではヒバリがさえずっている。川原で「ケン、ケン」とキジの声も聞こえる。
 国道1号線の多摩川大橋でサイクリングロードと別れ、川崎の市街に入り、JR川崎駅の北側を通過、川崎競馬場前からは国道15号線を行く。正月の箱根駅伝でおなじみの道である。交通量が多く、走っていてもあまり楽しくはない。今日はなぜか交差点ごとに赤信号に引っかかる。

 横浜のランドマークタワー前を過ぎ、桜木町、関内を経て、国道16号線に入る。あとはずっとこの道を行けばよかったのだが、磯子の手前からうっかり国道357号線に迷い込んでしまい、横浜新都市交通・金沢シーサイドラインに沿って少しばかり遠回りしてしまった。
 夕照橋で平潟湾を渡り、まもなく横須賀市へ。今回は地図を持ってこなかったので、正確な現在位置が分からないまま、勘を頼りに走り、深浦湾などを見て、ようやく船越で国道16号に復帰。
 トンネルをいくつも抜けていくと、まもなく横須賀港に出た。海辺のヴェルニー公園で初めての休憩。ここまで58キロ。時刻は9時25分。海上自衛隊の艦艇が見える。潜水艦も数隻、真黒なクジラのような背中をのぞかせている。

(横須賀・軍港の見える公園で休憩)

 米軍基地や記念艦「三笠」の前を過ぎ、あとはひたすら海岸沿い。ここまで来ると、東京湾といえども、なかなか気分がいい。
 桜の花が咲く走水の坂を上って、ふと振り返ると、真っ白な富士山。ここから富士山が見えるのは初めて知った。というより、「えっ、あんな方角に富士山?!」という感じ。

(横須賀市走水から眺める富士山。意外な方向に見える)

 観音崎京急ホテルの前を過ぎ、坂を下ると、まもなく右手に 横須賀美術館 。東京湾を正面に望む、まさに海辺の美術館である。ここまでの走行距離は68キロ。時刻は10時になったところ。まだ朝飯を食べていないので、コンビニで買ったおにぎりを観音崎の浜辺で食べてから、美術館を訪れた。
 今はどんな企画展をやっているのかな、と思ったら、ちょうど展示替え期間で何もやっていない。実はホッとした。もし企画展をやっていれば、たとえあまり興味がなくても、せっかく来たのだから、と高い料金を払って観ることになるだろう。でも、何もやっていないので、常設展だけ。これなら300円で入館できる。

 
(横須賀美術館と正面に見える海) 


 まずは日本の近現代の画家たちの作品を集めた常設展示をざっと眺めてから、併設の「谷内六郎館」へ。

 
(谷内六郎館の看板〜絵本『海と風船』より)

 谷内六郎さんといえば、『週刊新潮』の表紙絵を1956年の創刊号から1981年に亡くなるまで25年間にわたって、まさにライフワークとして描き続けたことはよく知られている(その数、じつに1,336枚!)。
 「シュウカンシンチョウはきょう発売されます」という女の子の声とピアノの奏でる「赤とんぼ」のメロディー、そして谷内さんの絵。幼い頃に見た『週刊新潮』のテレビCMは我が家の平和な朝の光景とともに記憶に残っている。もちろん、当時は谷内六郎という名前は知らなかったけれど、そのノスタルジックな絵の世界は子どもの頃に目にした実際の風景と渾然一体となって、心に馴染んでいたように思う。
 そんな谷内さんの作品に改めて出会ったのは高校生だった1982年の春休みのこと。2週間余りの北海道旅行を終えて函館駅で帰りの青函連絡船を待つ間にキオスクの小さな書棚に『谷内六郎展覧会《春》』(1982年2月刊)という文庫本を見つけ、迷わず買ったのだった。その前の年、1981年1月23日に谷内さんが亡くなったことをニュースとして知っていたのかどうかは覚えていない。ただ僕はこの人の絵がずっと好きだったのだ、という意識ははっきりと持っていたと思う。それ以来、この文庫版全集・全5冊から始めて谷内さんの画集や関連商品を集めるようになり、東京近辺で開かれた展覧会にもほぼすべて足を運んでいる。僕にとって谷内六郎という人は最も好きな画家の一人なのだ(ちなみに僕の中では川合玉堂、東山魁夷、谷内六郎が敬愛する三大画家である)。

 さて、その谷内六郎館。昨春のオープン以来、1956年の『週刊新潮』創刊号からすべての表紙絵の原画を1年分ずつ順次展示していて、今回は1963年の作品が展示されていた。大体1月半ごとに展示替えが行われているらしく、全作品を鑑賞しようと思えば、そのたびに来なければならないわけだ。
 表紙絵以外には「表紙の言葉」の直筆原稿や画材なども展示されている。使用された水彩絵の具は専門家用の高級なものではなく、僕らが小学校で使っていたのと同じ普通の絵の具なのが谷内さんらしい。
 自分を取り巻く世界がまだ不思議に満ち溢れていた幼少期ならではの空想や幻想、夢の感覚を投影させた作品の数々はみる者に懐かしい感情を呼び覚ます。でも、ただ懐かしいだけではない。随筆家・詩人の故・串田孫一氏がかつて谷内作品の本質を「怖い寂しさ」と評していたが、まさにそうなのだ。谷内六郎という画家の作品と向き合う時、懐かしさと同じくらい不安やおののきの感覚、例えば、熱を出して寝込んだ時、見慣れたはずの天井の木目模様が奇妙に浮かび上がってくる、あの感覚が心の奥底から蘇ってくるような気がするのだ。自分の、というか日本人の心理の根源的な部分で共鳴する何かがあるのだろう。今日は外国人の姿はなかったけれど、もし外国人が谷内さんの作品を観たらどう感じるのか、ちょっと興味深い。
 とにかく、一度と言わず何度でも訪れたい美術館である。谷内六郎館は…。

   谷内六郎公式サイト      谷内六郎ヴァーチャル美術館       「週刊新潮」表紙絵

 さて、谷内六郎ワールドを堪能して、11時20分に出発。
 まずは観音崎を散策。ここは東京湾が細くくびれた浦賀水道に面していて、東京湾に出入りする貨物船やタンカーなど次々とやってくる船舶を眺めているだけでも楽しい。
 目の前を過ぎていくあの船は一体どこから来たのだろう。あるいは、どこへ行くのだろう。知らないということは魅惑的に想像力を掻き立てるものである。また、愛車と一緒に船旅がしたいなぁ、と思う。

(観音崎の突堤にて)

(浦賀水道の対岸、房総半島が間近に見える)

(日本初の洋式灯台・観音崎灯台。ウグイスが啼いている)

 海上交通の難所でもある浦賀水道を見守る灯台も訪れてから、再び自転車の人となり、海岸沿いに浦賀方面へ向かう。
 観音崎を過ぎると多々羅浜。小さな砂浜が岩礁の多い海岸へと続いている。ここまで来れば東京湾といえども、磯の香りがして、水も少なくとも見た目には十分美しい。橋の上から覗き込むと、魚影が見える。小型のサメらしいのもいた。

 
(多々羅浜)

 
(ウミガメみたいな岩、発見! またがれば気分は浦島太郎?)


 さて、浦賀湾に面した東浦賀町までやってきた。1853年にペリーが来航したことで有名な浦賀湾は東京湾から奥深く入り込んだ細長い湾である。幅は150〜200メートルほどで、湾の入り口付近の両岸を結ぶ渡し船があり、自転車も利用できる。僕も一度乗ったことがある。自転車なら海沿いの道路を湾奥まで迂回しても2キロ程度で、大して時間はかからないけれど、面白いので、また船に乗ってみようと思ったら、昼休み中だった。仕方がないので、浦賀駅のある湾奥を回って、西浦賀側の船着場に係留された小さな船の写真だけ撮ってきた。前回乗ったのとは違う新造船であった。

(渡し船。対岸まで3分ほど)


 浦賀湾の湾口西側に位置するのが燈明崎。ここには江戸時代の灯台である「浦賀燈明堂」が復元されている。
 慶安元(1648)年に幕府の命によって築造された燈明堂は石垣の土台上に立つ木造2階建ての建築で、銅製の燈明皿に火をともし、その光は4海里(7.2キロ)に達したという。燃料は菜種油。
 燈明堂は明治5(1872)年の廃止まで一日も休まず夜の海を見守り続け、建物は明治20年代まで残っていたものの、風雨により崩壊。石垣の土台のみの姿になっていたが、平成元年になって当時の姿に復元されたそうだ。

 房総半島を望み、ハマダイコンが咲き乱れる風光明媚な燈明崎をあとにさらに進む。今日の目的はすでに達してしまったので、あとはどうやって帰ろうか、というところなのだが、とりあえず三浦半島西海岸に出て鎌倉・江の島方面へ行こうかと思う。藤沢あたりから電車で輪行して帰ってもいいし、時間と体力に余裕があれば家まで自走、というのも選択肢のひとつだ。10年ほど前には自宅から三浦半島一周完全自走サイクリング200キロなんていうのを何度かやったことがあるが、ここ数年は1日にせいぜい110キロ程度しか走っていないから、久しぶりにチャレンジしてみたい気持ちはある。

 とにかく行けるところまで行こう、ということで、久里浜の海岸(ペリーの上陸地)、東京湾フェリー乗り場、3本煙突が目印の東京電力・久里浜火力発電所を過ぎ、しばらくは気持のよいシーサイド・サイクリング。やっぱり海岸沿いを自転車で走るのは最高だ!

(シーサイド・サイクリングは最高!)

 野比から国道134号線に入り、穏やかな砂浜の続く海岸を快走。
 横須賀市から三浦市に入って「三浦海岸」の標識がある信号で金田方面へ続く県道を左に見送り、ここで東京湾とはお別れ。すぐに三浦台地への上りとなる。けっこう勾配がきつい。
 上るにつれて、あたりにキャベツ畑などが広がり、沿道には野菜の直売所も増えてくる。夏ならスイカなどを売っているが、今はキャベツやダイコンが多いようだ。
 畑の向こうに再び東京湾、そして、彼方には房総半島。眺めはいいが、急坂の連続で、つらい。

(三浦台地から眺める東京湾と房総半島)

 
やがて引橋の信号。Y字路になっていて、南に行けば三浦半島最南端の三崎・城ケ島方面だが、国道134号線はそちらへは向かわず、V字形に折り返して逗子・鎌倉方面へと三浦半島西海岸を北上していく。僕も南へ行きたいところだが、今回は国道に従い北へ針路をとる。ここからは長い下り坂でもある。まもなく京浜急行の三崎口駅前を通過。
 相模湾に面した三浦半島の西側も出入りの激しい海岸線が続くが、国道はしばらくは海岸から離れた内陸の畑作地帯を行く。海はなだらかにうねる大地の彼方に遠く見えるだけで、坂を下るにつれてまったく見えなくなる。

 三浦市から再び横須賀市に戻ってきた。坂を下りきって、道も平坦になった。自衛隊の駐屯地などがあり、しばらくは退屈な道でもあるが、やがてまたアップダウンの連続になる。さすがにちょっと疲れてきた。走行距離も100キロを突破した。
 照葉樹におおわれた丘陵が海岸部に迫ってくると国道も押し出されるように海辺に出て、相模湾を眼下に見ながら走る。いつのまにか、雲が広がって、海は灰色に変わっている。
 長者ヶ崎葉山町に入るところにタヌキの図柄の「動物注意」の標識。

 葉山御用邸前から再び内陸に入る国道といったん分かれて、森戸海岸葉山マリーナを回り、逗子市に入って渚橋で再び国道に合流すると、逗子海岸。このあたりからはいかにも「湘南」という雰囲気になってくる。
 海中に立つ「不如帰碑」を見て、トンネルを2つ抜けると鎌倉市に入って材木座海岸だ。
 滑川橋の信号で右折して大変な人出の鎌倉の中心街に入り、小町通りと若宮大路の間のラーメン屋 「玄翁」 で、かなり遅めの昼食。お酢を加えて食べる青菜入りの豚骨ラーメンは僕のお気に入りで、鎌倉に来ると大抵はここに立ち寄る。時刻は15時10分。走行距離は118キロになっている。

(玄翁のとんこつラーメン。お酢を加えるのが玄翁流)

 すっかり満足して、せっかく鎌倉まで来たのだから、と鶴岡八幡宮にも立ち寄る。桜が満開なので、とにかくすごい混雑ぶりである。

 

 早々に退散して再び滑川橋から海辺に出て由比ヶ浜稲村ケ崎七里ガ浜と大渋滞のクルマをスイスイ追い抜いて走る。といっても、こちらもだいぶ疲れてきた。

 (
江ノ島が見えてきた♪ オレの家はまだ遠い…)



 腰越海岸を経て藤沢市に入り、小田急線の片瀬江ノ島駅でゴール。あとは電車で帰ろう。時刻は16時25分。走行距離は128キロ。やっぱり、自宅まであと50キロはきついわ。


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