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北海道自転車旅行*1999年 夏
稚内〜宗谷岬〜浜頓別
最北の都市・稚内をあとに「日本最北端」の宗谷岬を回って、オホーツク海沿いを南下していきます。
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ノシャップ岬
最北の街・稚内で迎えた朝。布団に寝転がったまま窓ガラス越しに見上げる空は晴れやかに青い。しかし、風が非常に強く、窓がガタガタ鳴っている。
テレビの気象情報によれば、稚内の6時の気温は21.7度。今日の宗谷地方は晴れのち曇りとの予報である。
(ノシャップ岬より利尻島を望む)
朝食をしっかり食べて、7時40分に民宿を出発。
もう一度、ノシャップ岬に立ち、利尻島の薄いブルーの島影を見納めにして、稚内市街へと向かう。
稚内の市街地はノシャップ岬から南へ伸びる丘陵の東側に宗谷湾に沿って細長く続いており、4キロほど走ると、駅や港のある中心市街に出る。
稚内
稚内市の人口は44,000人ほど。同じ最果てでも、東の果ての根室より1万人ほど多い。そのせいか、根室のような最果てムードはあまり感じられない。港のそばには新しい立派なホテルが聳え立っている。
まずは稚内港のシンボル、北防波堤ドームへ。かつて樺太(サハリン)が日本の領土だった頃、稚内と樺太の大泊(現コルサコフ)を連絡船が結んでいた。その船が出る埠頭に強い北風と高波を防ぐために築かれたドーム型防波堤が今も保存されているのだ。コンクリート造りだが、古代ローマの遺跡みたいな優美な建造物である。ドームの下で数人のライダーたちがテントを張っていた。
稚内駅
さて、宗谷本線の稚内駅は日本の鉄道最北端の駅である。かつては樺太行きの連絡船に接続するため埠頭まで線路が伸びていたそうだが、今は稚内駅のプラットホームの北はずれでレールが切断され、そこに「最北端の線路」と書かれた新しい看板が立っている。線路の行き止まりはさりげなく終わっている方が余情が生まれて好ましいと思うのだが、まぁ、仕方がない。
8時台には列車の発着がなく、ガランとした駅前で稚内駅の表札をバックに旅の相棒の記念写真を撮ってやった。
宗谷国道
稚内をあとにしたのは9時。次の目的地は「日本最北端」の宗谷岬である。
国道を南へ行くと、ちょうど南稚内駅前付近で、O君に会った。天塩のキャンプ場で一緒だった京都の高校生で、昨夜はこの近くのユースホステルに泊まったそうだ。当面の目的地は同じなので、一緒に走り出す。
市街地を抜けて238号線「宗谷国道」を東へ向かう。ずっと宗谷湾沿いで、宗谷岬までは30キロほどの道のりである。
夏空の下、真っ青な海を見ながらの爽快なサイクリング。先行するO君を追走していると、時速30キロをしばしば超える。やっぱり高校生は若い。
ひとりだったら大沼やメグマ原生花園あたりで寄り道したかもしれないが、声問(こえとい)のコンビニで買い物をしただけで、あとはひたすら走り続ける。
原野の中の稚内空港を過ぎ、針路は東からだんだん北へと変わっていく。風は追い風になった。道路際にハマナスが咲いている。
宗谷岬
幕末に樺太を探検した間宮林蔵の出航の地を過ぎ、宗谷岬に着いたのは10時42分。
ここへ来るのは3度目。過去2回は雪と氷の季節で、風は肌を刺すように強く冷たく、海岸には流氷が押し寄せていた。観光客もさほど多くはなかったが、今日はクルマやバイクや観光バスで大勢の人々が押し寄せ、大変な賑わいだ。僕らも駐車場に自転車を止め、「日本最北端の地」の碑の前で互いに写真を撮り合ったが、これも順番待ちの列ができているのだった。
とにかく「日本最北端」である。北緯45度31分13秒。ただし、日本政府の公式の立場を尊重すれば、北方領土・択捉島の北端(北緯45度33分18秒)の方が「日本最北端」になるはずだが、ここではそんな事実はまるで霞んでいる。「日本最北の店」だの「最北のガソリンスタンド」だの「日本最北端到達証明書」だのと、「最北端」が氾濫しているのだ。まぁ、仕方がない。
しかし、いかにも日本の果てを感じさせる最東端の根室半島あたりに比べると、ここには最果ての寂しさみたいなものはあまり感じられない。真夏でも深い霧に包まれて寒冷な根室地方と違って、カラリとした明るさがあるせいだろうか。今日はたまたま、かもしれないけれど。
海辺に立つと、澄んだ水の中に魚が群れをなして泳いでいる。短パンにサンダルなので、O君とともにジャブジャブと膝まで海に入ってみたら、そんなに冷たくもない。水底は砂地で、海草が揺らめき、大きなホタテの貝殻が散らばっている。足元から小さなカレイがひらりと舞うように泳ぎ去った。
宗谷岬灯台
岬の高台は宗谷丘陵。たおやかな曲線を幾重にも描いている。地中水分の凍結と融解の繰り返しによって形成された周氷河地形の典型で、今は雄大な牧草地となり、黒牛が放牧されている。その緑の丘の突端に立つのが宗谷岬灯台。言うまでもなく、日本最北の灯台である。主なデータは以下の通り。
位置は北緯45度31分9秒、東経141度56分25秒。紅白横線塗、四角形コンクリート造。灯質は群閃白光、毎15秒を隔てて15秒間に4閃光。光達距離は17.5海里(32.4キロ)。高さは地上から頂部までが17メートル、水面から灯火までが39.8メートル。この灯台には霧信号所と無線方位信号所も併設されている。
灯台のそばには旧日本海軍の望楼も残っていて、今では岬を訪れる人々の絶好の展望台になっている。晴れていれば、宗谷海峡を隔てて43キロ沖合にサハリンが見えるというが、今日は水平線上に雲があって、島影は認められなかった。
(黒牛が放牧された宗谷丘陵)
芸能人のサイン色紙がたくさん飾ってある食堂でホタテ塩ラーメンを食べ、土産物屋の冷凍倉庫のような部屋の中で流氷を保存展示してあるのも見物した後、ここで絵葉書を書いて「最北の郵便ポスト」に投函していきたいというO君といったん別れ、12時半に出発。
「じゃあ、またあとで」
彼とは60キロ先の浜頓別にあるキャンプ場で落ち合う予定である。それまでに追いつかれるかもしれないけど。
オホーツク海岸
電光式気温計に「27.8℃」の数字が浮かぶ宗谷岬をあとに、国道をさらに進む。ここからはオホーツク海に沿って南下していくのだ。
宗谷岬の東側にある日本最北の集落・大岬を過ぎると、交通量もぐっと少なく、人家もほとんど見られなくなった。
真っ青なオホーツク海にも、緑の丘の優美な稜線にも、胸にしみるような最果ての色が滲んでいる。
海岸の岩場にはウミウの群れが翼を休めている。
しばらくは風景の美しさに感動を覚えつつ走っていたが、やがて、それどころではなくなった。まずは風。正面、あるいは横から強い風が吹きつけ、ペダルが重い。そして坂。海へとせり出した丘陵に行く手を阻まれ、道はその丘を乗り越える以外に進路がなくなり、長くて急な坂が始まる。お尻を浮かして全力でペダルを踏み込むが、すぐに息切れして、ひと休み。そして、また全力でペダルを踏み込む。
ようやく丘を越えて、一気に下ると、また次の丘越え。体力的にも精神的にも消耗する。何より不安なのは、ボトルの水が残り少なくなってきたこと。宗谷岬で補充しておくべきだったのに、うっかりしていた。
コマドリ
草原の丘を2つ越えると、今度は海辺を離れて、森林地帯に分け入る。
今まであまり見かけなかった「動物注意」の標識が現われた。そういえば、今回の旅ではまだシカにもキツネにも会っていない。
まったく人里離れた原生林の中を黙々と走っていて、思わず自転車を停めた。
森の奥からコマドリの美しい声が聞こえてきたのだ。
この声は愛用の野鳥図鑑の付録CDに収録されているが、ナマで聞くのは初めてである。コマドリは漢字だと「駒鳥」で、鳴き声が馬のいななきに似ているというので、この名がついた。図鑑には「ヒンカラカラカラ」と鳴くと書いてあるが、もっと小刻みで、文字で表記するのは難しい。
それにしても、コマドリは深山幽谷の鳥というイメージがあったから、まさかこんな海岸近くで声を聞くとは思わなかった。
コマドリが奏でるトレモロの金属的な響きにしばらく耳を傾け、再び走り出す。
疲れが一気に吹き飛んだ心地だが、飲料水がないという重大問題は今のところ解決のしようもない。
森を抜け、坂を下って、再び海岸部に出ると、東浦という集落があったが、人家が数軒あるだけで、商店は見当たらない。あぁ、喉が渇いた。宗谷岬まではさほど「最果て」という感じはなかったが、ここへ来て、がぜん日本の果てを痛感する。
猿払村
東浦を過ぎて、稚内市から猿払村に入る。
知来別という集落で、ようやく食料品店を見つけた。まるで沙漠で発見したオアシス。ペットボトルの水のほかにアイスも買って、しばしの休憩。
家々には月遅れの七夕飾りが風に揺れ、道では子どもたちが遊んでいた。
猿払村に入ってからは、静かな砂浜に沿った平坦な道になった。
1983年9月に大韓航空の旅客機がサハリン付近を飛行中にソ連軍に襲撃される事件が起きた時、乗客の遺体が多数漂着したというのはこのあたりだろうか、と考える。
浜辺の草原にはエゾカワラナデシコが濃いピンクの群落をつくっていた。
(ナデシコの咲く海岸を行く)
シネシンコという不思議な地名の土地を過ぎて、浜鬼志別までやってきた。
ここから少し内陸に入った鬼志別の丘陵地帯をかつて歩いたことがある。この地方にまだ鉄道が走っていた頃、列車の車窓に連なる雄大な丘の風景に心惹かれて途中下車したのだった。丘の頂上をめざして坂道を登っていくと、鉄条網が張り巡らされた自衛隊の演習場に行き当たり、ガッカリしたのを思い出す。
当時、高校生だった僕は丘の彼方に広がっているはずのオホーツクの風景を空想してみたものだが、その後、その丘の彼方の海岸にまさか自転車でやってくることになるとは思わなかった。
浜鬼志別を過ぎて、近代的なサイロが点在する広大な牧場とオホーツクの浜辺の間をまっすぐに伸びる道を行くと、まもなく道の駅「さるふつ公園」があった。
広大な村営猿払牧場の入口にあり、「風雪の塔」というオランダ風車の姿をした展望塔や温泉、レストラン、ホテルなどが揃っているほか、牧場の中を巡るサイクリングコースもある。ただし、閑散としている。
また、海岸にはインディギルカ号遭難犠牲者の慰霊碑というのがあった。昭和14年12月にカムチャツカからウラジオストックに向かっていたソ連船インディギルカ号が暴風雪の中、猿払沖で座礁転覆するという事故があり、猿払の村民が懸命の救助にあたったものの、約700名の犠牲者を出す大惨事になったそうだ。当時の資料を展示した日露記念館も公園内に建てられている。
しばらく休憩するうちに、僕より速いスピードで走っているはずのO君がそろそろ追いついてくるのではないか、と思ったが、まだ姿は見えない。
道の駅をあとに猿骨、浜猿払と進むうちに、国道は海岸を離れ、ホルスタインがのどかに草を食む牧場や泥炭湿原の広がる大陸的な風景の中を行くようになる。なだらかなアップダウンがあるものの、気持ちのよい道である。
前方に旅のマウンテンバイクが見えてきた。あまり速くないので、どんどん追いついてしまう。「こんにちは」と声をかけて追い抜いたが、顔を見たら、おじいさんだった!
(クッチャロ湖が見えてきた)
浜頓別
宗谷岬から60キロ。16時半に浜頓別町の中心集落に着いた。宗谷地方のオホーツク海側では比較的大きな町で、この町のユースホステルには何度か泊まったこともあるから懐かしい。
あの頃は天北線というローカル線が通じていて、浜頓別からは興浜北線という支線も分岐していた。今は鉄道は完全に消滅し、かつての浜頓別駅の跡地はバスターミナルになっていた。
浜頓別市街の近くにはラムサール条約登録湿地で白鳥の飛来地として知られるクッチャロ湖が広がり、その湖畔にキャンプ場があるので、今日はそこにテントを張る。利用料金は200円。「はまとんべつ温泉」というのが隣接していて、ありがたいが、それにしても、最近は日本中の市町村が競って温泉を掘っていて、地盤沈下を引き起こさないかと心配になるほどだ。大丈夫だろうか。
クッチャロ湖畔キャンプ場は家族連れやライダー、チャリダーなどで大賑わい。広い芝生のサイトに大小さまざまなテントがカラフルに並んでいた。
O君がいつ来るかと思っていたが、結局、どういうわけか会えなかった。旅行後にもらった手紙によれば、彼もこのキャンプ場に来て、僕を探したというのだが。夕方以降、僕は入浴やら買い物やらに出かけたので、O君はその間に着いたのだろう。ちなみに、宗谷岬から浜頓別の途中で彼の自転車のタイヤがパンクしたそうだ。
本日の走行距離は114.8キロ。明日はこのキャンプ場に連泊して、付近一帯を走ってみようと思う。
ベニヤ原生花園・クロバーの丘・天北線廃線跡・カムイト沼を訪ねる
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