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渡良瀬遊水地から足利・渡良瀬橋へ
2010年5月5日
初夏の陽気の中、日本最大の遊水地である渡良瀬遊水地から足利へ向かい、足利氏ゆかりの寺や森高千里の歌で有名な渡良瀬橋などを訪ねる旅。
2012.5.27森高千里「渡良瀬橋」情報追加
桜が散った後に雪が降ったり…と寒かった東京の4月も末になってようやく本来の暖かさが戻り、5月の連休は初夏を思わせる陽気が続いた。その最終日、5月5日の「こどもの日」に自転車でツーリングに出かけた。
実はこの3月にそれまでのクロスバイクからロードバイクに乗り換え、その走りの軽さに感動しつつ、すでに鎌倉や檜原村など、あちこちを走りまわっているが、今日はこの新たな相棒と初めて一緒に電車に乗り、JR宇都宮線(東北本線)の古河駅までやってきた。電車が埼玉県北部にさしかかると、あたりに靄が立ち込めていたが、利根川を渡って茨城県に入ると、すっかり晴れ上がって、青空が広がった。今日も引き続き天気は良さそうだ。
本日の予定は日本最大の遊水地である渡良瀬遊水地を探索してから、渡良瀬川を上流へと遡って栃木県の足利市まで走ろうと思っている。足利といえば、室町幕府を開いた足利氏の本拠地であり、一度訪ねてみたい町だった。あとは東京方面に向かってひたすら突っ走り、行けるところまで行く。そのまま自宅まで辿りつけたら最高、というのが今のところの考えである。
古河
駅前で自転車を組み立て、8時半に走り出す。飛び交うツバメの声を聞きながら西に向かい、途中のコンビニでおにぎりやお茶などを買う。
茨城県の西端に位置する古河市はまったく初めての街だが、駅前の案内地図を見ると、思いのほか、さまざまな史跡があるようで、心を惹かれる。
考えてみれば、室町時代に関東地方を統治した鎌倉府の長官(鎌倉公方)・足利持氏が室町幕府に反旗を翻して討伐された永享の乱(1438年)の後、鎌倉府が分裂状態となり、応仁の乱(1467年〜77年)に先がけて関東が戦乱の世に突入した際(享徳の乱、1455年〜83年)、持氏の遺児・足利成氏が本拠としたのが、ここ古河だった。そういうわけで、古河周辺だけでも一日かけて歴史探訪サイクリングが楽しめそうなのだが、今日は一切無視。
渡良瀬遊水地
古河の市街地を抜けると、目の前に緑におおわれた土手が見えてきた。利根川の支流・渡良瀬川の堤防だ。そこに架かる三国橋の袂から上流(北)に向かって土手の上の道を走る。土手下はゴルフ場になっているが、このあたりも渡良瀬遊水地の一部なのだろう。
栃木・群馬・埼玉・茨城の4県にまたがる渡良瀬遊水地は渡良瀬川に巴波(うずま)川、思川が合流する低湿地帯を堤防で囲んで造成した広大な遊水地で、その面積はおよそ33平方キロメートル、周囲延長約30キロ、総貯水容量は約1億7,180万立法メートルだという(現地で入手した「渡良瀬遊水地ガイドマップ」による)。
(田中正造翁遺徳之賛碑。ゴルフ場の彼方に渡良瀬遊水地第一排水門が見える)
まもなく、草地にベンチとテーブルがあったので、そこで朝食。おにぎりを食べていると、けっこうロードバイクが走り過ぎていく。こんなサイクリングロードが家の近くにある人が羨ましい。
ところで、そばに「田中正造翁遺徳之賛碑」というのがあった。田中正造(1841-1913)といえば、栃木県議、衆議院議員を歴任し、公害問題の原点と言われた足尾銅山鉱毒事件の解決と被害民の救済のために尽力し、1901年には天皇直訴まで決行した人物である。
足尾銅山の精錬所から排出された鉱毒が周辺の山々やそこから流れ出る渡良瀬川をまさに“死の山河”に変え、下流域の田畑にも大きな被害をもたらしたこの事件から1世紀以上が経過し、多くの人々の努力により足尾の山々にも緑が回復し、渡良瀬川も清らかさを取り戻したように見えるが、今でも渡良瀬川といえば、足尾銅山の鉱毒により汚染された川というイメージを完全には払拭しきれていないようにも思う。そもそも、20世紀初頭に造成計画が始まった渡良瀬遊水地には洪水防止などの治水目的だけでなく、汚染された渡良瀬川の水をせき止めて鉱毒を沈殿させる目的もあったようだ。
とにかく、簡単な朝食を終えて、堤防上のサイクリングロードを時速25〜30キロぐらいで軽快に走る。これから走るのはまったく初めての地域ばかりで、地図も忘れてきてしまったので、どこをどう走ったらいいのか、実はよく分からないのだが、とりあえず足利までは渡良瀬川に沿って行けば着けるはず。まぁ、道路の方面標識を頼りに行けば、なんとかなるだろう。当面は前方を行く自転車のあとをついていけば、いいサイクリングができるに違いない。
すぐに茨城県古河市から栃木県野木町に入り、しばらく北上すると、野渡橋という橋が渡良瀬川本流にかかっていた。渡良瀬川に思川が合流する地点のすぐ下流である。橋は車両通行止めで、車止めの柵の隙間を通るには自転車を担がねばならなかった。
(野渡橋より北望。渡良瀬川に画面右から思川が合流)
橋を渡ると、そこはもう遊水地の中で、ヨシ原や河畔林の中を行く。再び堤防上の道に出ると、西側には湖のような貯水池(谷中湖)が望まれた。それにしても渡良瀬遊水地は広大だ。北海道の釧路湿原やサロベツ原野にいるのかと錯覚しそうなほど広々としている。あまりに気持ちがよくて、ここだけで一日過ごせてしまうなぁ、と思う。
上空からヒバリのさえずりが降りそそぎ、ヨシ原からはオオヨシキリの「ギョギョシ、ギョギョシ」という賑やかな声が聞こえるのどかな道。キジも至るところで「ケン、ケン」と鳴いているし、「チョットコイ、チョットコイ」と呼ぶコジュケイや「ヒッヒッヒッヒ」というセッカの声も耳に届く。もちろん、ウグイスもたくさんいる。前方を走っていたサイクリストはノンストップで飛ばしているが、僕はそばで鳥の声が聞こえるたびに自転車を停める。実際、オオヨシキリやキジは何度も姿まで確認できたし、一応写真も撮れた(下写真)。ついでにカラスもたくさんいる。
(キジとオオヨシキリ)
とにかく、果てしなく続くような草原の中の道をどこまでも北へ北へと走っていくが、このまま走り抜けてしまうのももったいない気がして、途中で西へ折れて土手を下り、立ち枯れた木々が独特の景観を生んでいる川(下写真)を渡って、木々の新緑が美しい2車線道路を行くと、展望タワーのある観光地風の場所に出た。駐車場や売店、キャンプ場などもあり、ここが遊水地観光の拠点であるようだ。レンタサイクルもある。
(立ち枯れた木々が独特の景観をなす湿地と新緑の道)
まもなく谷中湖の岸辺に出た。谷中というのは、かつてここに存在した村の名前で、鉱毒事件の後、村民は強制的に移住させられ、谷中村は1907年に廃村となり、この遊水地が造られたとのこと。広大な渡良瀬遊水地の大部分はふだんは水のないヨシ原や草原や林だが、ここだけは常に水を湛えた貯水池になっていて、失われた村の名前にちなんで谷中湖と呼ばれているわけだ。湖は堤によって三つに分かれており、その堤の上にも道があり、散歩やサイクリングが楽しめるし、釣り人の姿もあちこちで見られる。足を滑らせたのか、水の中に落っこちて、「泳ぐにはまだ早いぞ」とまわりの釣り仲間に笑われている人もいた。
(谷中湖)
ゆがんだハート形の谷中湖に沿って走るうちに栃木県から群馬県に入り、また栃木県に戻る。群馬県側は板倉町(邑楽郡)で、栃木県側は藤岡町(下都賀郡)と表記されていたが、実は今年3月29日に藤岡町は合併により栃木市の一部になっていたことをあとで知った。
(栃木・群馬県境)
(渡良瀬遊水地を行く)
桐生足利藤岡自転車道〜渡良瀬川に沿って
さて、谷中湖をあとに渡良瀬川右岸の道を北へ走り、ようやく渡良瀬遊水地を抜けたら、そこから渡良瀬川沿いに「桐生・足利・藤岡自転車道」というのが整備されていることが分かった。次の目的地・足利へはこれを行けばいいわけだ。
(渡良瀬川と東武日光線の鉄橋)
すぐに東武日光線の下をくぐって、相変わらず気持ちのいいサイクリングロードを軽快に走りだしたが、すぐにまた群馬県に入るあたりで、堤防補強工事のため通行止めとなっており、「迂回路」の案内表示に従って一般道(県道57号線)を走ることになった。その舗装面がひどく荒れていて、高圧タイヤのロードバイクだと無茶苦茶な乗り心地でウンザリだったが、少し行くと路面もだいぶマトモになった。
東北自動車道の下をくぐり、館林市に入る。埼玉県の熊谷市などとともに夏の猛暑でたびたびニュースに登場する地名で、今日も5月にしてはかなり暑い。あたりは麦畑が多く、吹き渡る風で緑の穂波がサワサワと揺れている。
ずいぶん走ってようやく県道から離れ、東武佐野線と交差すると、まもなく堤防上の自転車道に復帰。
河川敷に放牧されたホルスタインや青空に泳ぐ鯉のぼりの写真を撮りながら、のんびり走る。のんびりと言っても、ロードバイクだから、それなりにスピードは出るのだが、僕の場合、「あ、牛がいる」とか「鯉のぼりだ」とか「おっ、水門だ!」とか、やたらに停まる回数が多いのだ。そして、そのたびに写真を撮る。
(菜の花の咲く道を行く)
(河畔に放牧された牛)
(きょうはこどもの日。都会では滅多に見なくなった“屋根より高い鯉のぼり”)
(矢場川水門。水門名を記した銘板の文字は地元・足利市の小学6年生によるもの)
ところで、渡良瀬といえば森高千里の名曲「渡良瀬橋」、ということで、古河をスタートして渡良瀬川に出合って以来、実は頭の中ではず〜っとあの曲が流れっぱなしである。時には実際に口ずさんでいたり、口笛となって出てきたりもするが、とにかくエンドレスで連続自動脳内再生しているのだ。渡良瀬橋は足利市に実在する橋で、確か近年、歌碑も建立されたという話を思い出した。足利に着いたら探訪してみよう、という気持ちもすでに固まっている。
足利
ずっと渡良瀬川の右岸(南岸)を続いてきたサイクリングロードは足利市内の福猿橋を渡って左岸に移るが、気づかずにそのまま右岸を進み、次の福寿大橋を渡って渡良瀬川の北側に広がる足利市街に入り、結局、JR両毛線の足利駅前に着いたのは11時40分だった。古河からの走行距離は45キロ。予定ではもう少し早く着いて、昼前には足利をあとにするぐらいの心づもりだったが、ちょっと遅くなった。まぁ、いいか。
(足利駅と駅前に静態保存されたEF60−123)
駅前に「あしかがの自然水」という水道があった。説明板によれば、「東の京都といわれる山紫水明の地足利の自然のろ過作用によりみがかれ、浄化された地下水で、しかも天然のミネラル分を豊富に含んだ自然水です」とのこと(「東の京都」と書いてあるが、これはいくらなんでも大きく出過ぎで、実際は少し控えめに「東の小京都」と称しているらしい)。とにかく、ありがたい水をちょうど空になったペットボトルに詰めて、さっそく喉を潤し、もう一度満タンにしておく。
それにしても、予想以上に暑い。あとで新聞で調べたら、この日の東京の最高気温は27.6度だったが、内陸の熊谷では30.4度、前橋では30.0度の真夏日だったから、足利も似たような気温だったに違いないし、直射日光の下ではこれより遥かに高い数字だったはず。実感としても真夏と変わらない暑さに思えた。ただし、湿度は低く、カラッとした暑さだ。
さて、駅前に「はなまるうどん」があったので、そこで手っ取り早く昼食を済ませ、まずは駅からも近い、足利氏の氏寺である鑁阿(ばんな)寺に参拝。このお寺が今回の足利訪問の第一の目的だ。
僕は足利尊氏の生涯を描いた吉川英治の『私本太平記』を愛読しており、最近も杉本苑子の『風の群像・小説足利尊氏』を読んだばかりなので、足利氏ゆかりのこのお寺を一度訪ねてみたかった、というわけである。
足利氏は清和源氏中興の祖・八幡太郎源義家(1039−1106)の孫にあたる源義康(1127-57)が下野国足利庄を父・義国から相続し、足利氏と称したことに始まるが、その居館に2代目の足利義兼が大日如来像を奉安したお堂を建立したのが鑁阿寺の起源で、建久7(1196)年のことである。知らなければ絶対に読めない寺の名前は義兼の法号に由来する。以来、足利氏の氏寺として伽藍がととのえられ、今でも足利市民からは「大日様」として親しまれているとのこと。ちなみに足利尊氏(1305−1358)は足利氏第8代当主にあたる。
鑁阿寺と足利学校跡が並ぶ一帯は道も石畳で、古い商家が並び、なかなか風情がある。立派な足利尊氏の銅像もあり(右写真)、その前にも「あしかがの自然水」の水道があった。
とにかく鑁阿寺にやってきた。正式には金剛山仁王院法華坊鑁阿寺といい、真言宗大日派の本山である。周囲に濠と土塁をめぐらし、東西南北に門をもつ境内は足利氏の居館跡でもあり、「日本100名城」のひとつにも選定されている。
鯉の泳ぐ濠にかかる橋を渡り、山門をくぐると、参道の両側に露店が出ていて、参拝客で賑わっているが、鎌倉時代の建築という本堂は改修中で、シートに覆われているのだった。とりあえず、工事中の本堂にお参り。本尊の大日如来は厨子の中で、その扉は閉じられていた。
ご朱印をいただく。これまであちこちのお寺でご朱印をいただいたが、ご朱印といえば、どこでも300円だった。なので、当然、ここも同じだろうと財布から百円玉を3枚用意していたら、「400円です」とのこと。「えっ、400円ですか?!」と思わず聞き返してしまった。
(改修工事中の本堂とご朱印)
鑁阿寺の次はすぐ南東側にある足利学校跡(国指定史跡)を見学。その創立年代については奈良時代説、平安時代の小野篁創建説など諸説あるようだが、恐らくは鎌倉時代に足利氏が一族の子弟の学校として設立し、確実なところでは室町時代の1439年に関東管領・上杉憲実(鎌倉公方・足利持氏の補佐役。のち持氏と対立し、室町幕府の将軍・足利義教と結んで主君を倒す)が再興してから大いに発展した「日本最古の学校」である。フランシスコ・ザビエルによって「日本国中、最も大にして最も有名な坂東の大学」として海外にも紹介されたといい、最盛期には「学徒三千」が儒学・易学・漢方医学などを学んだと伝えられている。
(足利学校)
足利学校は明治5年にその役目を終えたが、国宝や重要文化財を含む二千冊に及ぶ典籍が保存され、孔子像を安置する孔子廟や学校門など江戸時代の建築が残るほか、平成2年に方丈や書院、庫裡、庭園などが復原され、江戸中期の姿が蘇っている。
入口で料金400円を払うと、「足利学校入学証」と書かれたチケットが渡された。
渡良瀬橋
足利にはほかにも見どころがいろいろあるのだが、とりあえず森高千里の歌で有名になった渡良瀬橋だけは見ておこう(自転車で走りだすと、また脳内再生がスタートするのだ!)。
足利市内を西から東へ流れる渡良瀬川には市の中心部だけでもいくつかの橋がかかっているが、渡良瀬橋は街の西寄りに位置している。昭和9年に完成した6連のトラス橋で、歩行者と自転車は併設された人道橋を通ることになる。橋そのものはいかにも昭和っぽい、無骨な造りで、取り立てて風情があるというわけではないが、確かに歌われている通り、ここから眺める夕日はきれいなのだろうとは思う。いずれにせよ、足尾銅山の鉱毒で汚染された川という渡良瀬川のイメージを一気に浄化してしまったという意味で、森高千里と「渡良瀬橋」の功績は非常に大きいというべきだろう。歌碑が建立されたのも当然といえば当然だ。
(渡良瀬橋)
渡良瀬橋で見る夕日を あなたはとても好きだったわ
きれいなとこで育ったね ここに住みたいと言った♪
(橋から見た渡良瀬川)
橋の北側の少し下流寄りに「渡良瀬橋歌碑」があった。2007年4月28日に除幕式が行われたそうだ。歌碑の横には歩行者用信号機の押しボタンみたいなスイッチがあり、これを押すと実際にスピーカーから歌が流れる仕組みになっている。
(歌碑の向こうに渡良瀬橋が見える)
そもそも「渡良瀬橋」(1993年)は足利(歌詞の中に足利という地名は出てこないが…)に住む女の子と遠い街(東京か?)に住む彼氏との実ることなく終わった恋の歌である。電車にゆられてはるばる彼女に会いに来ていた彼は「この街が好きだ、ここに住みたい」と言ってはいたけれど、結局は二人の日常の地理的な隔たりが心理的な距離をも遠ざけることになったのか、結ばれることなく別れてしまい、でも、彼女は過ぎ去った彼との日々を忘れられないまま、この街(足利)で生きている、そんな歌である。渡良瀬橋はそこから見る夕日が好きだと彼が言っていた思い出の場所なのだ。ま、こういうことは言葉で説明するより、歌を聴いていただくのが一番ですね。ということで、
森高千里「渡良瀬橋」
をどうぞ。
碑に刻まれた「渡良瀬橋」の歌詞を眺めていて、渡良瀬橋や渡良瀬川以外にも具体的な場所が出てくることに改めて気がついた。「八雲神社」と「床屋の角にポツンとある公衆電話」である。実際にこの近くにあるのだろうか。ムクムクと探究心が湧きあがってくるではないか。こういう場合、自転車の機動力が最大限に発揮されるのだ。
先ほど、街なかで手に入れた足利市役所発行の「まちなか散策マップ」を広げてみる。すると、「床屋の角の公衆電話」はさすがに出ていないが、八雲神社はあった。でも、3か所もある。いずれも渡良瀬川の北側だ。歌に出てくる彼氏は東武伊勢崎線に乗ってやってきて、川の南側の足利市駅で降り、渡良瀬橋を渡って、川の北側の市街に住む彼女に会いに来た、ということなのだろう。
歌碑のスイッチのボタンを押して、森高千里の歌声が流れだすのを確認し、そこでじっと聴いているのは妙に恥ずかしいので、すぐに走り出す。
渡良瀬橋から道なりに北へ行き、両毛線の踏切を渡ると、街を東西に貫くメインストリートの県道(旧国道50号線)に出た。そのすぐ北の小高い山の中腹に足利の守護神を祀った織姫神社があり、その麓に八雲神社がある。ここが渡良瀬橋に一番近いので、とりあえず大本命だろう。あとの2つは鑁阿寺の近くと、もっと西の足利公園の近くだ。
八雲神社は一応それでいいとして、あとは「床屋の角の公衆電話」である。これも近くにありそうな気がする。県道をJR足利駅方向に少し行ったところに床屋の斜め前の公衆電話はあったが、角ではない。今度は県道を西へ行ってみたら、あった! 通7丁目交差点に面して理髪店があり、その角に公衆電話があるではないか。そばに寄ってみると、店の脇に地元町内会の掲示板があり、「森高千里さんの渡良瀬橋に歌われた電話ボックスです」とあり、矢印がそこにある公衆電話を指している。
床屋の角にポツンとある 公衆電話おぼえてますか きのう思わずかけたくて なんども受話器とったの♪
掲示板にはビニールケースが提げてあり、中には渡良瀬橋歌碑の観光パンフレット(千里さんのメッセージ入り)が用意してあり、その地図によって「八雲神社」が先ほどの場所ではなく、足利公園の隣にあるのが正解であることも判明した。JR足利駅および東武・足利市駅を起点に歌碑と八雲神社と公衆電話を巡るコースも設定されているのだった(このパンフレットは当然、両駅にもあります)。
ちなみに千里さんによれば、「以前、足利工業大学の学園祭の帰りに渡ったことのある渡良瀬橋へ、歌詞を作るにあたり実際出掛けて行き、河原を歩いたり橋を歩いて渡ってそこで綺麗な夕日を見たことや、街を見ながら感じたことなどを書いて出来上がったものです」とのこと。
とにかく、足利公園の隣の八雲神社にも行ってみた。平安時代に創建されたという古社で、こちらには「渡良瀬橋に出てくる神社」というような説明書きは見当たらなかったが、「渡良瀬橋」という名のお酒が奉納されていた。
今でも 八雲神社へお参りすると あなたのこと祈るわ
願い事一つ叶うなら あの頃に戻りたい♪
(最初に訪ねた渡良瀬橋に一番近い八雲神社)
《2012.5.27 追加情報》
You Tube 森高千里公式チャンネル
より
「渡良瀬橋」について
渡良瀬橋「歌碑」
八雲神社
床屋と公衆電話
千里さん、3つの八雲神社に全部お参りしていますね。歌詞のモデルはどこか、についての言及はありません。
利根川の渡し船に乗る
渡良瀬橋からの夕日を見てみたい気もするが、それはまたいつの日にか、ということにして、足利の街をあとにする。
東武伊勢崎線・足利市駅前から県道38号線をひたすら南下。とにかく、この道を行けば、いつかは熊谷かどこかJR高崎線沿いの町に出るだろう。そこまで行けば、いつでも電車に乗れる(もう東京まで自走は諦めた)。
自転車は当然車道の左端を走るわけだが、クルマに注意するだけでなく、道路の端っこというのは、小石や砂利が散乱していたり、路面に亀裂や穴があったり、舗装が道路と並行に山脈状に盛り上がっていたり(乗り上げると転倒の危険あり)、ゴジラが出没したり(右写真)と注意すべきことがいくらでもあり、気分的にも疲れる。おまけに自分がどこを走っているのかもよく分かっていないのだ。方面標識によれば、この先には「千代田」という町があるらしいが、一体どこなんだ?! 地図もないので、唯一、太陽の位置だけを頼りに方角を判断して、とにかく南へ南へと走る。GPS時代とは思えない原始的なサイクリングである。
群馬県に入って、太田市、大泉町とまるで土地勘のないところをひた走る。麦畑や野菜畑の中を行くカンカン照りの道。暑い。
東武小泉線の小泉町駅の西側を過ぎ、やがて千代田町に入る。まだ群馬県だ。このまま走れば、埼玉県行田市に通じているらしい。行田なら高崎線にそういう駅があるので、なんとなく分かる。
この先、群馬・埼玉県境で利根川を渡るはずだが、しばらく行くと「赤岩渡船」の案内標識があった。利根川に今でも渡し船があるのだろうか。利根川に新たな橋の建設を求める立て看板を見かけたから、このあたりには利根川に架かる橋がなく、かわりに両岸を結ぶ渡船がある、ということなのだろう。それなら自転車も乗れるはずだ。おもしろい!
群馬県邑楽郡千代田町赤岩で利根川に出た。流域面積としては日本最大の大河である。自転車道にもなっている土手に上がると、すぐ下が渡船乗り場で、対岸からそれらしい船がやってくるのが見える。
説明板によれば、赤岩渡船の歴史は古く、上杉謙信の文献にも登場するといい、江戸時代には熊谷方面と足利方面を結ぶ交通路であると同時に利根川水運の中継地としても栄えたという。利根川にはかつて16カ所の渡船場があったというが、現在も残るのは3カ所のみ。赤岩渡船は熊谷と館林を結ぶ県道の一部ということになっていて、大正15年から群馬県が運航してきたが、昭和24年以降は県の委託を受けて千代田町が管理運営に当たっているとのこと。運航時間は4月〜9月が8時半から17時まで、10月〜3月は8時半から16時半まで。あくまでも公道の一部なので、料金はタダである。
さて、船が着岸した。行楽らしい家族連れでいっぱいだ。自転車もいる。これから乗る方もけっこうたくさんの人が待っていて、往復乗船の人も少なくないようだ。船は「千代田丸」という動力船で、定員は乗員2名を含む25名。自転車は僕も含めて2台。
ほぼ満員の客を乗せて、千代田丸は岸を離れ、利根川を渡っていく。相変わらず陽射しは強いが、川面を吹き渡る風が心地よい。ただ、水上バイクが走りまわり、騒がしい。
(利根川を渡る。遠くに大きな水門が見える)
対岸がぐんぐん近づいて、わずか5分ほどで埼玉県に着いた。あっという間だったが、貴重な体験ではあった。船は通常は群馬県側にいるので、埼玉県側から群馬県側に渡りたい場合は待合所に設置されたポールに黄色い旗を上げると、船が迎えに来てくれるとのこと。対岸の船が動き出すのを確認したら、旗を降ろして、乗り場へ行くわけだ。今日は連休中で大賑わいだったが、ふだんの平日はどのぐらい利用者がいるのだろうか。年間利用者は「数千人」とのことだが…。
(埼玉県側の乗船場。河川敷のバス停と対岸の船を呼ぶための黄色い旗)
福川水門と利根大堰
さて、上陸地点は熊谷市(旧妻沼町)の葛和田という土地である。河川敷にバス停があり、熊谷駅からバスが通じているようだ。このままバスのルートを通って熊谷駅まで走って終わりにしてもいいのだが、もう少し走りたい。
ということで、利根川沿いの自転車道を下流へ向かう。海から159キロの標識がある。河口の千葉県銚子市まで、また途中で分かれる江戸川経由で東京湾まで、いずれもず〜っとサイクリングロードが続いているようだ。いつか全区間走ってみたいな、と思う。
まもなく福川という支流が合流し、そこに福川水門があった。利根川の対岸からも見えていたが、3連ゲートの立派な水門である。広々とした田園風景の中に佇み、都会の水門とはまた違った風情がある。
(福川水門)
水門を渡ると行田市に入り、さらに下流へ向かってどんどん走っていくと、利根川の水をせき止める利根大堰があった。ここで利根川の水を取水して、武蔵水路を通じて荒川に流し、さらに荒川の秋ヶ瀬取水堰を経て東京都民の水道用水として供給しているわけだ。
その利根大堰には魚が遡上できるように魚道が設置されており、地下の観察室から水中が覗けるようになっていて、小さな魚の姿を見ることができた。
(利根川の水をせき止める利根大堰と地下の水中観察室)
さきたま古墳公園
さらに利根川沿いに行きたい気持ちもあるが、今日はここで利根川と別れ、再び南へ向かう。利根川から取水された水は武蔵水路のほか、見沼代用水、埼玉用水などに分かれて流れていくが、僕は武蔵水路に沿っていく。どこかでJR高崎線とぶつかるはずである。
本当に夏みたいに暑いので、行田市荒木のコンビニでアイスを買って休憩。今日は150キロぐらいは走れるかと思っていたが、まだ100キロにも届いていない。やっぱりサイクリングにとって暑さは大敵なのだ。
再び走り出し、秩父鉄道の線路と交差して、さらに武蔵水路沿いに行くと、「さきたま古墳公園」というのが近くにあることが分かったので、本日最後の寄り道。ここには埼玉(さきたま)古墳群として知られる9基の大型古墳を中心に多くの古墳が集中し、その中には5世紀末の雄略天皇に同定されるワカタケル大王の名が彫られた鉄錯銘鉄剣(国宝)が出土した稲荷山古墳(全長120メートルの前方後円墳)や武蔵国では最大の全長138メートルの墳丘をもつ双子山古墳、日本最大の円墳・丸墓山古墳(直径105メートル)などがあり、稲荷山古墳などは墳丘上に登ることもできるのだった。
ちなみに埼玉県の県名はこの土地の名に由来し、現在の地名も行田市埼玉(さきたま)である。
(さきたま古墳公園。左の稲荷山古墳は墳丘上に登ることができる)
先を急ぐので、とりあえず有名な稲荷山古墳の上に登ってみただけで満足することにして、古墳公園をあとに、ここからは鴻巣方面に通じる県道77号線を南東に向かい、上越新幹線の高架をくぐって、国道17号線を越え、旧中山道に合流。鴻巣駅前で高崎線に出合ったが、もう少し走って、結局、17時半頃、桶川駅でゴールということにする。先ほどまで頭の中で流れていた「渡良瀬橋」がいつの間にか、同じく森高千里の「ハエ男」に変わっていた。「あいつはいつも漕いでる、チャリ男♪」ってか?!
本日の走行距離は103.6キロ。これだけ走っても、ず〜っと関東平野だったから、土手の上り下りを除けば、坂道はほとんどなかったような気がする。
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