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《東京の水辺》


旧江戸川・妙見島探検記

東京都と千葉県の境を流れる旧江戸川に浮かぶ妙見島。地図を見ていると、ちょっと気になるこの島に行ってみました。


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 東京の島というと伊豆諸島や小笠原のような太平洋上の離島か、あるいは夢の島だの平和島だの城南島だの…といった東京湾の埋立地が思い浮かぶが、そのどちらでもない島が都内にある。それが妙見島。千葉県との都県境を流れる旧江戸川に浮かぶ天然の島である。地図上で測ると、南北の長さ800メートル弱、東西の幅が最大で200メートルほどあり、元来、島というより中州というべき存在だったと思われる。昔から「流れる島」とも言われ、川の流れによって北端部が浸食される一方で、南端部には土砂が堆積し、上流から下流へと少しずつ移動していたという。もちろん、コンクリートで固められた現在は動くことはない(たぶん)。
 妙見島に関する記録は中世にまで遡り、江戸時代に書かれた『南総里見八犬伝』にも登場する。かつては漁民が住みついていたと思われるが、現在は完全に工業地帯化されているようだ。一体どんなところなのか、実際に訪ねてみた。

 まずは東京メトロ東西線に乗って浦安駅に向かう。電車は東京都内最後の駅・葛西を出て、まもなく旧江戸川を渡るが、この時、北側の車窓に見えるのが妙見島である。武骨な工場が立ち並ぶ島は南端部が舳先のように尖がって、まるで軍艦のようだ。

(東西線車窓から見た妙見島)

 川を渡ると、千葉県に入って浦安駅に到着。ここで下車。
 駅を出て、東京方面に戻るように歩くと、やがて浦安橋にさしかかる。この橋が旧江戸川の真ん中に浮かぶ妙見島を跨いでおり、橋の中間部から島へ下りられるのだ。

 

(都県境)

 妙見島東側の水路の中央部で千葉県から東京都に入り、歩道から階段で島へ“上陸”。ちなみに妙見島はかつては千葉県に属していたが、明治28(1895)年に江戸川が境界と定められて東京府(当時)に編入され、今は東京都江戸川区東葛西3丁目となっている。




(島の入口にある案内図。工場ばかりの島だとわかる。地図の左方が北。)

 島に入ると、橋の南側にラブホテル、大衆食堂(廃業?)、船宿などがあるものの、あとはほとんど工場ばかりの島なので、いかにもヨソ者、部外者、侵入者といった気分になる。島へ出入りする車はほとんどトラックやダンプカーである。

 

 まずは島の西側へ潜入。妙見島は旧江戸川の西寄りに位置しているので、東京側の“本土”との間の水路はごく狭く、釣り船や屋形船がたくさん係留されている。一応、道が続いているが、荒れた雰囲気で、雑草が生え、建物にはツタがからまっている。ただ、フェンスで囲った家庭菜園風の小さな畑もあった。

 
(島の西側。左写真は浦安橋上から。手前に小さな畑、遠くにスカイツリー。)

 
(荒れた感じの西岸地域だが、フェンスで囲まれた畑もある)

 (ツタの葉は赤く色づいて…)


 今度は東岸沿いの道路を北へ。旧江戸川との間は高い防潮堤で隔てられ、川は見えない。旧江戸川は東京湾の潮の干満の影響を受け、潮位が変動する感潮河川で、島は東京ディズニーランドのある河口から3キロ余りの地点にある。
 メインストリートの車道は猛獣のような大型車が頻繁に往来し、怖いが、一段高い歩道があるので、安心だ。でも、歩いているのは僕だけ。
 工場や産業廃棄物の処理施設ばかりで、人間社会の温かみはまるで感じられないかと思いきや、塀に可愛い壁画が描かれていた。ほとんど消えかかっているけれど。

 
(橋上から見下ろした島の東側のメインストリート。大型車の通行多し。高い防潮堤がある。右は島内で見つけた壁画)


 少し行くと、道路沿いに小さな石仏があった。如意輪観音だろうか。だいぶ風化が進んでいるが、造花が供えられている。

(古い石仏)

 猫の姿もちらほら。

 

 350メートルほど行くと、ニューポート江戸川というマリンクラブに突き当たる。レストランもあるようだ。ここだけが部分的にリゾート地っぽい(?)。
 小型船舶が係留された岸壁の部分だけ防潮堤が切れている。実はマリンクラブの敷地を囲む塀が堤防になっていて、つまりマリンクラブは堤外地になっているのだ。マリンクラブに出入りするためのゲート部分にも、いざという時のために陸閘と呼ばれる防潮扉が設置されている。高潮や津波などの危険がある場合、この扉を閉めることで、マリンクラブ以外の土地への浸水を防ぐのだ。

 


(ニューポート江戸川のゲートの内側に赤い防潮扉が設置されている)

 川沿いを北上してきた道路はマリンクラブに行きあたって西に折れる。曲がり角にガードマンがいて、行き交う大型車の交通整理をしている。
 さらにマリンクラブに沿って、北へ曲がると、左側にはどこかの会社の従業員寮と思われる集合住宅がある。

 その先に島の名前の由来となった妙見神社があった。
 19世紀初頭に編纂された地誌『新編武蔵風土記稿』(巻之二十八 葛飾郡之九)に次のような記述がある。

「東一之江村 妙覚寺 妙見堂 貞治元年の勧請と云、此妙見は千葉代々尊崇の像にて、古は利根川の中なる妙見嶋と云所に安置せしが、其後小松川村に移し、又當村に移すと云」

 貞治元年とは南北朝時代の1362年にあたる。この年に妙見(菩薩)を勧請したというのだが、これは妙見島に安置した年とも読めるし、妙覚寺に移された年とも解釈できる。妙見菩薩は当時、この地方を支配した下総の豪族・千葉氏(桓武平氏の支族)の守護神であった。
 ちなみに、「利根川の中なる妙見嶋」とあるのは当時、江戸川が利根川の下流部だったためで、それ以前には太日川と呼ばれて渡良瀬川の下流部だったこともある(その頃の利根川は現在の中川の流路だったと思われる)。現在の旧江戸川という河川名は、蛇行しながら流れる江戸川下流部の治水対策として大正8(1919)年に河口から9.5キロほどの地点で分水し、市川市で東京湾に注ぐ放水路が完成し、現在はそちらが江戸川となっているため、分流点以南の旧下流部が旧江戸川と呼ばれているわけだ。



 

 話を妙見神社に戻すと、そもそも妙見菩薩は北極星を神格化した存在であり、中国の道教と関係が深いようだが、それが仏教にも取り入れられ、日本でも神仏習合の中で密教や日蓮宗で特に信仰されたという。明治以降、神仏分離の流れで、妙見島では神社に祀られるようになったのだろう。妙見島から妙覚寺(日蓮宗、江戸川区一之江6丁目)に移されたという尊像は、後日、寺を訪ねてみたところ、もはや現存せず、今の妙見像は比較的新しいものらしかった(下写真)。

 (妙覚寺の妙見堂と妙見菩薩)


 さて、妙見神社の先で道路は島を代表する企業、月島食品工業の工場に突き当たり、ここで右折。再び東岸に出て、北へ折れる。その先が道路の終点で、そこにはビールの醸造所である浦安橋ブリューワリーがある。
 とにかく、島内は工業施設だらけで、工場マニアにとっては萌える場所なのかもしれないが、僕はそれほどでもない。騒音と排気ガスの島といった印象。

 

(防潮堤上より)

 道路の行き止まり近くに防潮堤に上る階段があるが、堤防の外側には降りられないようになっていた(上写真)。しかし、実は別の機会にもう1回、島を訪れた時は防潮堤の外に出ることができて、島の北端部に立ってみた。尖った南端部とは対照的に、こちらは丸みを帯びたカーブを描いていて、島はまさに船のような形をしている。
 突端からは旧江戸川の浦安側に当代島水門、そして葛西側には新川東水門があり、上流には旧江戸川に合流する新中川の今井水門が見えていた。でも、本当は堤防の外側は部外者が立ち入ってはいけない場所だったのだと思う。

  
(島の北端より。左から新川東水門、7連ゲートの今井水門、当代島水門)

 とにかく、これで妙見島探検は終わりである。あとは浦安橋の上から島の南端部を眺め、島をあとにした。


(島の南端。ゴミ収集車の駐車場になっている。向こうは東西線鉄橋)


(新川東水門付近から見た妙見島の北端部。堤防内は月島食品の緑地)

 
(島の北端。アオサギが1羽)


(島の西側は北から順次、護岸と堤防の改修が進んでいる)

 
(島の南端。ユリカモメが1羽)


  (2011.10.15追記)

 この記事を最初にアップした2日後、『タモリ倶楽部』で妙見島が取り上げられました(2011.10.14深夜)。「毎度おなじみ流浪の番組…」というタモリの第一声は新川東水門付近。タモリ一行は妙見島をリゾートアイランドに見立てて上陸。島の名産品として月島食品工業のマーガリンを試食したり、ニューポート江戸川のマリーナから島一周のクルーズを楽しんだり、島のパワースポット・妙見神社を参拝したり、島の西側が「秘境ゾーン」として紹介されたり、島の唯一の“リゾートホテル”(実はラブホテル、昼間なのに客室が7割ほど埋まっていた)が登場したりしました。ホテルの隣の食堂が廃業して食事ができないため、最後は島外から店屋物をとって、僕が猫の写真を撮った駐車場にテーブルを設置して食べて、おしまい。


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