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《信州新緑紀行 1993年5月》 Part1

安曇野から駒ヶ根へ
 

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大糸線の車窓より 夜汽車の朝。安曇野はまだ朝靄の底で静かにまどろんでいた。
 穂高の駅前通りに人影も車もほとんどなく、穂高神社の境内で放し飼いの鶏たちの声だけが聞こえてくる。大柄な雄鶏が道路の真ん中にまで進出してコケコッコーと誇らしげに雄叫びをあげている。このくらいの鶏語なら僕にもわかる。「朝が来たぞ!」と言っているのだ。たぶん…。

 ところで、今回の旅は信州各地の美術館めぐりを兼ねて、あちこち歩き回ろうというのが趣旨である。
 5月の信州は初めて。真っ青な空にそびえる残雪の北アルプス、さわやかな風にそよぐ新緑の木々・・・そんな光り輝く風景ばかり思い描いていたのに、天気予報によれば晴天は本日限り。明日以降は下り坂だという。それで今日の貴重な青空を充分に満喫すべく急遽予定を繰り上げ、昨日のうちに東京を発って、慌しく夜行急行「アルプス」でやってきた次第。
 あまりに早く着きすぎたので、いったん信濃大町まで行って、引き返してきたのだが、それでもまだ6時前である。まぁ、いいか。構わず安曇野散策に出発。

     安曇野

 鬱蒼とした杉林に囲まれた穂高神社に参拝してから田園風景の中を歩き出す。
 町並みをはずれて振り返ると、さっきまで青白い影を麓の水田に映していた北アルプスはいつしか姿を隠してしまい、少しがっかり。安曇野でアルプスが見えるかどうか、この差は実に大きい。風景の印象が決定的に違ってしまう。

 しかし、安曇野の風景はいつも優しい。
 賑やかに朝の挨拶を交わす小鳥たち。冬枯れの梢にようやく芽を吹き始めた木々。満々と水を湛えた田んぼに影を落とす白壁の土蔵…。
 清冽な湧水を集めた養鱒場。冷たく澄んだ水の中を泳ぎ回る魚の群れ。それを上空から狙うトンビ。目標を定めて急降下しては失敗。また舞い上がる。
 レンゲ畑に菜の花畑。畦道を彩るタンポポ、ナズナ。緑の絨毯に青い星屑を撒いたような可愛い花はオオイヌノフグリ。誰がこんなひどい名前をつけたのかと思う。
 アルプスの雪解け水を集めて流れる穂高川。その水面をかすめるように波形を描いて飛ぶセキレイ。川辺の土手にはこの土地で生まれた「早春譜」の歌碑が立っている。
 遠くの草地でケンケンとキジが鳴き、雑木林からはチョットコイ、チョットコイとコジュケイが呼ぶ。
 小高い丘の松の木の下では、この地を開いた昔の人々が眠っている。

 そして、あちこちで出会う道祖神。この夫婦一対の神々は隣り合って合掌しているかと思えば、夫が妻の肩を抱いていたり、互いにひしと抱き合っていたりする。ほんのりと紅をさした口元に浮かぶ笑みにも素朴なエロティシズムが感じられる。

 

 観光名所の「大王わさび農場」もまだ森閑として、小鳥のさえずりと湧水のせせらぎが聞こえるばかり。雑木林の中を豊かに流れる万水川に緑の影がゆらめき、水車がゴトリゴトリと回っている。わさび田では可憐な白い花がひっそりと咲いていた。

  

 水と緑と光と風の中をのどかな気分で歩くのは本当に楽しい。これでアルプスの山々がくっきりと姿を現わしてくれたら、もっといいのだけれど…。
 ただ、安曇野に来るたびに、草の生えた土の道が次々とアスファルトの路面に変わっているのが少し寂しい。滅多に車の通らない農道をこんなに立派に舗装してどうするのか、と思う。これも土建国家ニッポンの宿命ということか。

     碌山美術館

 町なかに戻って、今度は駅の北方の碌山美術館を訪れる。穂高町出身の彫刻家で「日本のロダン」といわれた荻原碌山のブロンズ作品を中心に集めた美術館である。
 緑豊かな敷地にヨーロッパの教会を思わせるレンガ造りの建物。尖塔の先には風見鶏。這い上がるツタが次々と葉を広げ、レンガの壁を覆い隠そうとしていた。

     駒ヶ根へ

 穂高9時49分発の電車で松本に戻り、さらに快速に乗り換えて駒ヶ根へ向かう。
 うららかな陽気と寝不足のせいで、うつらうつらするうちに電車は岡谷・辰野経由で飯田線に入り、12時12分に駒ヶ根着。
 駒ヶ根市は南アルプスと中央アルプスの間に開けた伊那盆地に位置する小都市である。ここでの目当ては今年(1993年)4月8日に中央アルプス山麓に開館したばかりの駒ヶ根高原美術館。タクシーで、タンポポに彩られた田んぼの中の坂道を約10分、1,290円で到着。

     駒ヶ根高原美術館

 中央アルプスに抱かれた美術館からは眼下に駒ヶ根市街、彼方には青く霞んだ南アルプス連峰を望むことができる。絶好の景勝地。立派な美術館だが、閑散としている。
 館内には版画家・池田満寿夫、写真家・藤原新也、彫刻家・瀬戸剛の3氏がそれぞれ個別の展示スペースを与えられ、各自が思いのままに作品を展示している。
 展示作品について言葉で書いても仕方がないけれど、個人的には藤原氏が「メメント・モリ(死を想え)」の主題で円形にレイアウトされた写真パネルの連環によって、生と死をめぐる思想を鮮烈に表現していたのが心に残った。

 そして、ここにはもうひとつ素晴らしい作品がある。それは大きな窓の額縁の向こうに広がる南アルプスと伊那谷の雄大な風景。四季折々、時々刻々の変化の中で永遠と瞬間の美を同時に表現する神の芸術。こんな作品は人間には到底創れない。我々にできることは、せめて神の作品をこれ以上汚さないようにすることだけだ。

     光前寺

 さて、芸術鑑賞の次はすぐ隣にある光前寺。貞観2(860)年に開かれたという天台宗の古刹で、こちらは人が多い。
 仁王門をくぐり、樹齢数百年という杉並木の参道を抜けると、境内には秘仏の不動明王を本尊とする本堂をはじめ、美しい三重塔や重要文化財の弁天堂、賽の河原などがあって、思いのほか、大きな寺である。
 鬱蒼とした境内に木漏れ陽が光の模様を描き、萌黄色の若葉は明るく輝いたり、重なり合って濃緑の翳りをつくったり…。その光と影の穏やかな調和が人の心を静かにしてくれるような気がした。

     駒ヶ根高原

 光前寺参拝を終えて、これからどうするか。迷った時はとりあえず歩く、というのが僕の旅では普通である。
 高原の奥へとあてもないまま坂道を登っていくと、あたりの風景は高原リゾート風に変わってきた。
 午後の光線に霞む中央アルプスを望む小さな人造湖。テニスコートやロッジもある。こんなところへ来るつもりはなかったんだけどなぁ、と思いながら林の中を歩く。



     駒ケ岳

 それからしばらくして、僕は思わぬ場所へ向かうバスに揺られていた。たまたま見つけたバス停にちょうどバスが来たので、数人のハイカーと一緒に乗り込んでしまったのだ。
 しらび平行き。
 バスは一般車通行禁止の狭い道を何度も急カーブを切りながら、急勾配を登っていく。ハンドル操作を誤れば、たちまち谷底へ転落しそうな険しい山道である。陽の当たらない斜面には雪も残っている。
 突然、バスが速度を落とした。
「あら、猿だわ」
 乗客の間からそんな声が聞こえ、見れば、道端に数匹の野猿がいた。バスを恐れる風でもなく、悠然としている。
 バスはさらに登り続け、約40分で終点のしらび平に着いた。標高1,662メートル。季節は早春に逆戻り。間近に雪の中央アルプスがそびえている。
 ここからはロープウェイがある。往復2,060円もするが、ここまで来たら、とことん上をめざす。

 ゴンドラがぐんぐん高度を増すにつれて、眼下の樹林帯が途切れ、一面の雪に覆われた岩峰が眼前に迫ってくる。
 7分で千畳敷駅に到着。標高2,162メートル。「日本最高所の駅」と書いてある。しかし、それほど寒さは感じない。

 氷河時代の爪痕であるカール地形の千畳敷は夏が来れば、美しい高山植物が咲き乱れ、遊歩道も整備されているそうだが、今はまだすべて深い雪の下。
 前面にそそり立つ宝剣岳(2,933m)は名前の通り、氷河に侵蝕されて剥き出しになった岩峰がまるで剣を束ねたように天を突いている。まさに自然の造形の妙である。
 振り返れば、眼下に雲が浮かび、彼方に南アルプスの3千メートル級の峰々が遠く連なっている。駒ヶ根市街は遥か下界にせせこましくうずくまっている。
 とんでもなく高いところまで来てしまった。山が遠い昔から神々の領域として信仰の対象であったことを思えば、人間どもがロープウェイなんかでこうして気軽に登ってこられることが果たしていいことなのかどうか。そんなことも考えた。

 


     下山バスは…

 しらび平15時40分発の下山バスは通路にもぎっしり人が立つほどの超満員。途中、猿ばかりか道路際の斜面に特別天然記念物のニホンカモシカまで姿を見せて感動したけれど、混雑のせいであまり景色を楽しむこともできないまま駒ヶ根高原の中心地、菅の台に到着。ここでドッと降りる。降りる。降りる…。えっ、残ったのは僕だけ?!
 しらび平までの登山道路は一般車通行禁止なので、マイカー利用者は菅の台の駐車場で車を降りて、ここから先はバスに乗り換えるシステムになっていて、要するに今降りていった人たち、つまり僕以外はここでみんな自分たちの車に戻るわけである。電車やバスといった公共交通機関だけを利用して旅行している僕みたいな人間は今やまったくの少数派ということか。
 結局、完全貸切状態のまま、駒ヶ根駅前には16時半頃に着き、この日は上諏訪に出て、駅近くの安ホテルに泊まった。


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