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北海道への旅
近海郵船・東京〜釧路航路「ブルーゼファー」 1998年8月

 東京と北海道・釧路を30時間以上かけて結んでいた近海郵船の長距離フェリー。「サブリナ」と「ブルーゼファー」の2隻が就航していましたが、1999年の秋にその役目を終え、東京・釧路航路の旅客部門は廃止となりました。
 これは1998年夏、北海道自転車ツーリングの際に利用した「ブルーゼファー」の乗船記であり、同時にAcoustic Touring 北海道シリーズ’98のプロローグでもあります。


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 北海道を一度でも旅すると病みつきになる。
 こうなるだろうとは思っていたが、やっぱり今年の夏も北海道を自転車で走ることになった。でも、まさかいきなりこんなことになるとは…。銀座のド真ん中でタイヤがパンクした。
 初めはなぜタイヤの空気が抜けてしまったのか原因が分からず、バルブが緩んでいたのかもしれないと、とりあえず東銀座で空気を入れて走り出したが、勝鬨橋を渡った頃にはまた後輪からゴツンゴツンと硬い震動が伝わってきた。これは明らかにパンクだ。一体、どうしてしまったのだろう。キャンプ道具一式を積んだ荷物が重すぎるのだろうか。これから始まる長旅を思うと、いささか不安になったが、タイヤを調べてみると、大型のホッチキスの針みたいなものが刺さっているではないか。なんだ、こういうことか。原因がハッキリして、いくらか安心した。街路灯の下で荷物をすべて下ろして、自転車を倒立させ、車輪をはずして、タイヤチューブを交換。これが今回の旅の最初のエピソードとなった。それにしても、先が思いやられる。

 北海道自転車ツーリングは去年に続いて2度目だが、今回も北海道までは近海郵船の釧路行きフェリーを利用する。釧路までの2等運賃が14,700円。それに自転車が2,100円で、合計16,800円。
 有明の東京フェリーターミナルには21時頃到着。船はすでに接岸しており、闇に浮かぶ大きな船体に「ブルーゼファー」の文字が見える。昨年乗った「サブリナ」の姉妹船で、全長186.5メートル、総トン数12,524トン、旅客定員694名、1990年就航の大型フェリーである。
 乗船を待つ駐車場には自転車もかなり多く、数えてみると50台近い。女性も十数人はいるし、外国人もいる。
 乗船手続きの際に自転車の乗船開始は22時半の予定と言われたが、実際には23時過ぎまで待たされた。重い自転車を押してスロープを上がり、車両甲板に愛車を残し、船内で必要な荷物だけ持って客室へ階段を上がる。
 船内の様子は「サブリナ」と全く同じで、昨年とは違う船であることを忘れそうになる。フロント嬢の1人も見覚えがあって、確か「サブリナ」のコーヒーラウンジの担当だった子である。
 とにかく、乗船券に示された302号室3番の2等寝台(ツーリストベッド)に荷物を下ろす。1区画に2段ベッドが4つで定員8名。カーテンを閉めれば、とりあえず個人空間を確保できる。どうせ航海中、ここでじっとしているわけではないから、僕にはこれで十分だ。
 入浴時間は24時までなので、さっそく大浴場に出かけると、すでに大変な混雑ぶり。洗い場でも隣から不意にシャワーのお湯をかけられるわ、シャボンは飛んでくるわ、といった状態。しかも、背後で順番待ちの人の気配を感じるから、急かされる思いで慌しく汗を流してきた。

 さて、出航時刻は23時55分。いつものように後部甲板に出て、風呂上がりのさっぱりした気分で船出の様子を見守る。
 船底の機関室からエンジンの重低音が微かな震動とともに伝わってきて、今にも動き出しそうな巨大な船体を岸壁に繋ぎとめていた太いロープが地上作業員によって次々と解かれ、船上のローラーで巻き取られると、自由になった「ブルーゼファー」はゆっくりと東京港の岸壁を離れた。
 陸地との間に少しずつ広がる海面は複雑に泡立ち、波立ち、やがてそれがひとすじの航跡へと変わっていく。
 フェリーターミナルの灯が少しずつ遠ざかり、東京港中央防波堤の赤と緑の光を放つ灯台の間を抜け、航路を示す標識灯を左右に見ながら船は真っ暗な海をなおもゆっくりと進む。
 星の瞬く夏の夜空。湿り気を含んだ夜風。ここはまだ東京なのに、あまりにも日常からかけ離れた風景に旅の情感が高まってくる。
 深夜の湾岸都市の夜景も、高層ビル群の赤いランプが焚き火の残り火みたいで、どこかもの寂しい。わけもなくセンチメンタルな旅の始まりである。


 眠りの底でベッドが揺りかごのように揺れだして、東京湾を出たのかな、と微かに意識したのも束の間、またすぐ深い眠りに落ちて、気がついたら朝だった。
 ぼんやりと低い天井を見つめていると、ベッドがフワーッと持ち上げられてはグーッと沈んでいく不思議な感覚とエンジンの微かな震動が伝わってきて、改めて海の上にいるのだと思う。
 時計を見ると6時20分。本日の日の出は4時45分ということで、夜明けの海を眺めることはできなかった。

 まだ眠っている人たちを起こさないように静かに寝床を抜け出す。
 エントランスホールの航路図に電光表示された現在の航行地点は千葉県九十九里海岸の沖あたりだが、甲板に出てみても陸影は見えない。周辺の海上には漁船が数隻いるほかはミズナギドリが大きな円を描きながら海面すれすれを滑空しているばかり。昨夜の東京湾とは同じ海といえども、まるで別世界である。

 驚いたことに、そんな広い海の真ん中を1匹の赤とんぼが飛んでいる。一体、どこからやってきて、どこへ行くのだろう。その小さな命の冒険は人間の目にはあまりに心細いものに映るが、彼らは常に自然(カミ)とともにあり、生きることにも死ぬことにも不安などありはしないのだ。

 7時頃、犬吠埼沖を通過。船内にはファクシミリで送られてきた新聞が貼り出され、テレビもちゃんと受信してはいるけれど、果てしない海がこの船と俗世間との間の隔たりを確実に押し広げていく。釧路到着は明朝7時半。あと24時間は世界から隔絶されたまま、青い水の星の表面をゆっくりと滑るように移動していくのだ。洋上の一日はまだ始まったばかりである。

 10時頃、まもなく「サブリナ」とすれ違う旨、船内アナウンスが流れる。東京と釧路を結ぶ「ブルーゼファー」の僚船である。
 甲板に出ると、左舷前方から「サブリナ」の真っ白な船体が接近しつつあった。洋上でのフェリー同士の出会いというのはいいものである。双眼鏡で見ると、あちらの甲板上にも多くの人影が見えた。
 双子の姉妹のようにそっくりな「サブリナ」が南へ遠ざかってしまうと、「ブルーゼファー」の周囲には再び青い海以外に何も見えなくなった。カメラやビデオを手に甲板に集まっていた乗客たちも三々五々散っていった。さすがに退屈になってきた。
 船内にどんな設備があるかといえば、レストラン、コーヒーラウンジ、テレビコーナー、売店、ゲームコーナー、カラオケルーム、展望浴場(10時〜22時)など。要するにテレビ、読書、昼寝、散歩ぐらいしかすることはない。

 朝のうち雲が広がっていた空に青さが戻り、気温も上がってきた。後部甲板にはデッキチェアを出して日光浴を楽しむ人が増えてくる。僕も日陰にチェアを引っ張っていって身を投げ出し、音楽を聴きながら無為な時間を過ごす。

 11時半に塩谷埼を通過。やっと福島県沖に到達した。
 船はのっぺりとした群青の海面を切り裂き、白波を立て、ラムネ色の航跡をまっすぐに描き、淡い煙を棚引かせて、黙々と進んでいる。
 海の色は光線の加減や雲や波の具合で千変万化、あらゆる種類のブルーを見せてくれる。ずっと眺めていると、不思議な感覚にとらわれる。
 この船の真下に広がる深遠な闇の世界を想像すると、気が遠くなるほど圧倒的な海の大きさに戦慄を覚えたり、はたまた一方では、この地球もじつはぽっかりと宇宙に浮かぶ濡れた石ころに過ぎないんだ、と考えてみたりもする。いずれにせよ、地上での傲慢なふるまいが虚しく思われるほど、人間という存在はちっぽけなものなんだと実感する。広い海の上にいると、頭の中が妙にテツガク的になってくる。

 といっても、いつまでも高尚なことばかり考えていたわけではなくて、レストラン「プリマベーラ」が昼食営業を開始すると、さっそく行ってみた(朝食は持ち込みのパンで済ませた)。900円の海老ピラフを食べる。セルフサービスなどではない、わりと本格的なレストランで、ウェイターやウェイトレスの数も多い。味も悪くなかった。

 14時頃には仙台沖を通過。
 午後になって海の色は深みを増し、北方の海らしくなってきた。東京は昨日やっと梅雨明けが発表されたが、東北地方の上にはいまだに梅雨前線がかかっている。やがて、北の空に雨雲の帯が見えてきて、その下にさしかかると、海の色も青から灰色へ一変した。
 青さを失った海面をじっと見つめていると、ゆらめく波の描く模様がだんだん現実味まで失って、まるでサイケデリックなアニメーションのように目に映り、スッと気が遠くなるような奇妙な感覚に陥ってしまう。
 そこへ、映画『ジョーズ』で見たような黒い三角形が波を切って船とすれ違っていった。サメだろうか。僕のほかにも同じ物体に目を留め、指差している人がいるから、少なくとも幻覚ではないだろう。昨年も北海道の帰りに船のすぐ横を泳ぐシュモクザメの姿をはっきり確認したし、その前年も徳島沖で同じ種類のサメを目撃したから、あれがサメであったとしても不思議ではないが、今回は背びれらしきものを見ただけだし、どんどん遠く離れていってしまったから、もうそれ以上は確かめようがない。

 三陸沖でついに雨が降り出した。することがないので、暇つぶしに風呂に入る。
 外はいつしか濃霧が立ちこめ、西の空が茜色に染まることもないまま青い夜が訪れた。ちなみに船内に掲示された本日の日没時刻は18時43分とのこと。

 夜の訪れとともに賑やかな明かりをともした船は針路を北から北東へ変えて次第に本州から遠ざかっていく。
 テレビの天気予報によれば、明日の釧路は曇り時々雨とのこと。気温は最低が16度で、最高は19度。去年の北海道も雨続きで寒い日が多かったが、今年も同じなのだろうか。
 とにかく、明日の朝には北海道に上陸だ。


 午前3時半。こんな時間に目が覚めた時は、また眠ることに専念すればよいわけだが、カーテンで仕切られた狭い空間に身を横たえたまま、真っ暗な海を進み続けているであろう船の揺れに意識を集中していると、ふと外の様子が気になりだす。今はどの辺だろうか。
 こんな未明に船内を歩き回るのは我ながら奇異な行動だと思うが、トイレに行くために起きるのだという口実で自分を正当化しつつ、他人の迷惑にならぬようにそっと足音を忍ばせてベッドを抜け出した。
 人気のないエントランスホール。ひとりだけソファーの上に横になっている人がいる。航路案内図に示された本船の現在位置は北海道襟裳岬の東方である。併設のレーダー画像にはすでに北海道の陸影も映っている。釧路まであと4時間である。
 天気はどうだろう。ホールの大きなガラス窓に額を押しつけ、両手で目の両脇を覆うようにして、外の様子を窺うと、まだ雨が降っている。やっぱり…。ただ、今のところ、さほどひどい降り方ではないようだし、予報から判断しても大雨になることはなさそうだ。あるいは、朝には止んでくれるかもしれない。まぁ、どうにでもなれ、といった気分で、ベッドに戻って、もうひと眠りする。

 旅に出ると早起きになるのはいつものことだが、5時半にはもう寝ていられなくなって起床。
 日の出時刻は昨日より30分も早まった4時15分で、外はすでに明るいが、相変わらずの小雨模様。甲板に出てみると、北の海は水平線が茫洋と霞み、至るところで三角の波が立っては白く砕け散っている。海風は強くて冷たい。ここはもう夏の本州とはまるで違う世界なのだ。
 波を切り、風を切って黙々と進む「ブルーゼファー」。船のまわりをオオセグロカモメが飛び回るようになった。まるで釧路の港から迎えに出てきてくれたみたいで、なんだか懐かしい気持ちになる。
 鈍色の海面をぼんやり眺めていると、船の針路とは垂直の方向に三つの背びれらしきものが見え隠れしながら、飛沫を上げて遠ざかっていくのが見えた。イルカだろうか。軽い興奮を覚えるが、すぐに波間に紛れて、正体は確認できなかった。
 さらに今度はマンボウらしき魚が体を横にした状態でプカプカ浮いているのを発見。昨日も海を見ていた女の子3人が「あっ、マンボウ!」などと声をあげるのを聞いたけれど、船旅というのは単調なようでいて、いつ何が出現するか分からないから油断できない。

 とうとう左舷に雨に煙る北海道の影が見えてきた。釧路港を出てきた貨物船ともすれ違うようになった。31時間35分にも及ぶ長い長い航海もいよいよ終わりが近い。
 テレビの気象情報に多くの人が見入っている。予報は昨日より少し悪化して、今日の釧路は一日中雨だという。もう覚悟はできているが、やはり気分は冴えない。
 再び甲板に出て、釧路入港を待つ。双眼鏡を手にしたバードウォッチャーも数人、熱心に海鳥を観察している。僕も双眼鏡は持っている。昨年の北海道でいろいろな野鳥や動物に出会った経験から、今年は倍率10倍の双眼鏡を新しく買って持ってきたのである。
 また、海面に黒い三角形が出現した。今度は船と並走するようにゆっくり泳いでいて、背びれしか見えないうえに少し遠いのだが、イルカかクジラの類であることは間違いない。3、4頭ほどいるようだ。肉眼で確認した後、双眼鏡を覗いてみるが、無限に広がる海上で小さな背びれを双眼鏡の視界に捕らえるのはなかなか難しく、探しているうちに、どんどん遠ざかってしまった。

 7時を過ぎると、すでに下船の準備をととのえた乗客がエントランスホールに集まってきた。
 「ブルーゼファー」は速度を落として釧路港に接近していく。僕も荷物をまとめて待っていると、航海中は閉鎖されていた車両甲板への通路が開放される。階下の車両甲板へ下りてしまえば、接岸の様子は一切見ることができず、それがちょっとつまらないのだが、とにかく愛車のもとに戻り、固定ロープを解いてやる。
 大型トレーラーの固定具が次々と解除され、そのたびに耳をつんざくような金属音が巨大格納庫のような車両甲板全体に響く中、いつのまにか接岸作業が完了したらしく、クルマやバイクの後にようやく自転車の下船となる。ほぼ定刻通り7時半に到着したようである。

 自転車を押してランプウェイを下ると、外はシャワーのような雨になっていた。先ほどまでより明らかに雨足が強い。天を恨めしく思うが、とにかく、これからまたしばらくは自分の体力だけを頼りに、重い荷物を積んだ自転車で広い北海道を走ることになるわけだ。


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