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MY FAVORITE TRAIN TRAVEL

寝台特急「あさかぜ」

    

(写真左)博多まで直通していた「あさかぜ4号」(当時) 食堂車も連結していました。 

1992-8 早川〜根府川にて

 

(写真右)末期の「あさかぜ」。1994年12月以降は下関折り返しの1往復体制でした。

2002-6 大竹〜岩国間にて

 

乗車日 1990年3月、1997年11月

乗車区間 東京→宮島口間(90-3)、広島→東京間(97-11)

 あさかぜ、それは戦後初の東京〜九州間直通夜行特急で、日本初の寝台特急列車でもある。

 1956(昭和31)年11月に東京〜博多間に誕生し、2年後の1958(昭和33)年10月に20系客車となった。この20系の車体が青いことから「ブルートレイン」と呼ばれ、やがて寝台特急を指す言葉として定着した感がある。最も寝台特急には電車による列車もあるし、最近では「トワイライトエクスプレス」(大阪〜札幌間)や「カシオペア」(上野〜札幌間)の様に車体がブルーでないものもあるのだが・・・。

 この「あさかぜ」は新幹線博多開業までは最大で3往復が運転されていたが、新幹線が博多まで開業した1975(昭和50)年3月で博多行き1往復、下関行き1往復の2往復に減便された。B寝台はその後3段から2段になったのだが、A寝台は1両のみとなって、下関折り返しの「あさかぜ」にいたっては食堂車もA寝台もないスタイルとなっていった。これでは飛行機や新幹線に乗客を奪われて当然だろう

 この「あさかぜ」も、国鉄からJRになる頃に、博多行きの「あさかぜ」が列車全体がグレードアップされた。従来の2段式B寝台は床を絨毯に張替え、B寝台の2人用個室の「デュエット」、4人用個室の「カルテット」ヶ連結され、シャワールームの新設、食堂車の内装のグレードアップがなされた。東京と九州を結ぶブルートレインは、飛行機に押されて利用客が減少傾向にあったが、「あさかぜ」は流石に博多まで直通する客は少ないものの、広島〜下関間での固定客が比較的多く、これで暫く安定かと思われた。1990(平成2)年には下関止まりの「あさかぜ」もA寝台個室とラウンジカー、シャワールームが連結されるなどグレードアップがなされた。

 だが、これらは北海道方面の「北斗星」の布石と言った感じが強かった。特に博多行きの「あさかぜ」は国鉄末期のグレードアップの後はこれと言ったてこ入れがなされず、「のぞみ」が博多に乗り入れた1993(平成5)年3月には、折角のオリエント急行風食堂車も営業をやめてしまった。そして1994(平成6)年12月に廃止。残った下関行きの「あさかぜ」も、利用客の減少に歯止めがかからず、2005(平成17)年3月、約48年の歴史に終止符を打った。廃止直前こそきっぷが発売と同時に売切れたりし、廃止された日はマスコミが報道するなどだったが、現実問題として末期の平均乗車率は30%だったのである。

 

 しかし、昭和50年代に少年時代を過ごした管理人にとって「あさかぜ」はブルートレインの代名詞のような存在だった。管理人は線路際の家ではなかったが、当時通っていた小学校では、線路際に住む人は「あさかぜ」が毎日見れる、とか言って羨ましがったりしたものである。今でこそブルートレインの代名詞はすっかり北海道行きの列車になった感があるが、当時は「あさかぜ」をはじめとする東京〜九州間特急、とりわけ広島に住む人には「あさかぜ」の知名度は高く、父が出張時に時間の都合で「あさかぜ」を使わざるを得ないこともあって乗ると聞いた時は、羨ましかったものだ。ちなみに当時は新幹線は開業したものの0系のみで、広島〜東京間は5時間近くを要し、広島空港もジェット化されていなかったか、ジェット化されても定員の少ないB737を使っていたかだったと思う。場所も今は「広島西飛行場」となっているところであった。

 

 この「あさかぜ」に乗ったのは、東北方面を周遊券で旅行した帰りに、まだ2往復体制だった「あさかぜ」のうち、食堂車が連結され、シャワールームのある博多行きの「あさかぜ1号」であった。当時は東京〜博多間の「あさかぜ1・4号」を「博多あさかぜ」、東京〜下関間の「あさかぜ3・2号」を「下関あさかぜ」または「山陽あさかぜ」と呼んでいたりした。

 その時は始めて一人で乗るブルートレイン、と言うこともあったが、疲れがあったのか良く眠れ、西条の手前で目が覚めて慌てたのを覚えている。食堂車も当時は連結されており、営業していた。高校を卒業した管理人には少々高かったが、貴重な体験をしたと思う。最も管理人が小学生の時に多く出回っていた鉄道の本には「あさかぜ」をはじめとする九州行きブルートレインには「関門定食」や「ちゃんぽん」などがあったようで(「関門定食」は食べてみたかったな)、このときは流石にそういうものはなかったが。

 その頃の食堂車は賑わっており、3年後に食堂車が営業休止になるとは思いもしなかったのだが・・・。

 また、このときに乗ったときは宮島口で下車した。宮島口は日本三景の一つ、「安芸の宮島」の玄関口で、新幹線が博多まで開業する前は多くの特急列車が停車していたのである。だが新幹線の博多開業でこれらの特急列車が廃止となったが、宮島町(当時、宮島町は現在は市町村合併で廿日市市になりました)の要請?だろうか、寝台特急列車の停車駅となり、新大阪〜下関間の「安芸」(1978年10月で廃止)、名古屋〜博多間の「金星」(1982年11月で廃止)が停車し、「金星」廃止後は「博多あさかぜ」が停車ていた。管理人は家が広島駅より宮島口の方が近いので、ここで下車したのであった。

 

 

 だが、前述したように博多行き「あさかぜ」は1994(平成6)年を持って廃止・・・。

 

 東京と下関を結ぶ「あさかぜ」が生き残ったのである。下関止まりの「あさかぜ」は1970(昭和45)年10月に東京と広島を結ぶ寝台急行「安芸」を下関延長の上呉線経由を山陽本線経由に変更し、特急格上げしたものであった。後発組が残ったのだ(宮島口停車はこの「あさかぜ」が引き継いだ)

 

 

 その後、1997(平成9)年11月に「あさかぜ」に乗車する機会があった。当時は「のぞみ」は300系のみであり(管理人は300系に乗車するのが嫌いである)、連休中だったこともあって90年に乗ったときほどではなかったが、それなりにお客は乗っていたように思えた。この下関発の「あさかぜ」(これが最後に残った「あさかぜ」である)は東京着が7時28分(乗車した当時)であり、広島空港を朝一番に出る飛行機が羽田に着く前に到着することで、結構重宝していたのだが、やはりカーテン1枚のB寝台に6300円払うのは高い・・・。これは1998(平成10)年に「サンライズエクスプレス」が登場すると、「あさかぜ」からは遠のいた。夜行で上京する必要があるときも岡山まで新幹線で出て、「サンライズエクスプレス」で東京、と言うパターンが多くなっていった。

 

 そして2005(平成17)年3月、「あさかぜ」は廃止。最終運転日の東京駅などは鉄道ファンやメディア関係者でホームがあふれていたと言う。

 

 48年と4ヶ月の間、ご苦労さんでした。

 

 そしてあまり触れられていないが、宮島口に停車する特急もなくなり、戦後1953(昭和28)年から50年以上の歴史に終止符を打ったのである(戦前の特急も停車していたのだが、これは戦争で一時廃止されている)

 

 

 

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