このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください |
MY FAVORITE TRAIN TRAVEL
磐越西線
乗車日 1990年3月
乗車区間 新津→郡山間(会津若松、猪苗代にて途中下車)
会津若松市のシンボル、鶴ヶ城(会津若松城) 1990年3月撮影
ここは列車の写真を撮り損ねた(かなり後悔)のため、沿線の城下町の観光地、そして白虎隊で知られる会津若松市内の「鶴ヶ城」の写真でも・・・。
さて、磐越西線であるが、郡山と新津を結ぶローカル線で、蔵とラーメンで有名な喜多方までは電化されており、喜多方から新津までは電化されていない。管理人がこの磐越西線に乗ったときは、新津から会津若松、さらに猪苗代を経て郡山へと乗車した。折角東北に行くのだから、観光くらいしないと、と思いつつ、583系の夜行急行「きたぐに」で新津に向かい、そこで快速「あがの」に乗り換える。この快速「あがの」は、新潟と郡山を結ぶ快速列車で、かつては仙台まで足を伸ばす急行であった。愛称は沿線に流れる「阿賀野川」からつけられたものである。
この快速で新津を出発する。車窓はやがて田園風景となる。米どころ、新潟、といった感じであった。そして咲花あたりから阿賀野川が車窓に迫る。阿賀野川と国道49号線との併走となる。三川駅の手前で阿賀野川をオーバークロス。非力なエンジンのキハ58系はエンジンの音を響かせる。カーブも多くなっていくが、車窓はなかなかのものだ。
「ローカル線って、いいなぁ」。初めての鉄道旅行だったということもあるが、こんな言葉を思わず出しそうになったのである。
鹿瀬。ここは昭和電工の工場が近くにある。昭和電工と阿賀野川、かつては「第二水俣病」が起きた所でもあるが、ここでは公害の話はしないことにしよう。
列車は「平瀬トンネル」に突入した。長いトンネルだ。
野沢の手前で阿賀野川と分かれる。
喜多方に10時24分に到着。新津発が8時37分だから、2時間かからないわけだ。ここで下車した客も多く、また乗ってきた客も多い。蔵のある城下町、そして馬車で町を回る人が多い観光地である。この喜多方はラーメンも有名になっている。これを知ったのは会津若松に着いた後なのだが。ここからは交流50Hzの架線の下を走る。電車による快速列車「ばんだい」もここまで足を伸ばす列車もある。当時はED77形という磐越西線専用の電気機関車が牽引する客車や、貨物列車も走っていたが、電気機関車は会津若松以北には乗り入れなかった。10時40分、会津若松着。新津から2時間3分である。このあとの各駅停車だと、ディーゼル機関車が牽引する客車なのだが、3時間近くかかるのである。
この「あがの」は会津若松で進行方向を変え、郡山まで行くのだが、私はここで下車した。会津若松は白虎隊で知られる城下町で、先ずは鶴ヶ城へ。天守閣に入る。その後、会津武家屋敷→飯盛山→御薬園とバスで巡回。途中飯盛山の食堂で昼にしようとしたところ、ラーメンをすすめられた。喜多方ラーメンというものをはじめて食べたときであった。またこの飯盛山は「スロープコンベア」なるエスカレータの様なものがある。しかしこれを利用するのは当時18歳だった管理人にとってオッサンくさく見られたくないということで歩いたのだが、若かったなぁ。いまだと250円を払って使うだろう。それにしてもこれが昨日の出来事のように思い出すのは年をとったことか(爆)
会津若松に戻り、今度は電車で猪苗代へ。かつて急行用だった455系電車が、ローカル電車として走っている。クリームに小豆色のツートンカラーで、上野と東北各地を特急に負けずに飛ばしていた急行時代の面影はなく、3両の短い編成で、クリームに緑の帯である。猪苗代駅で下車し、バスで湖畔にある国民宿舎で一泊した。
翌日、湖畔の宿舎で目覚めた私は朝食の後、タクシーで猪苗代駅に向かい、そこから快速「ばんだい4号」のお世話になる。猪苗代で乗車したときは満員。立ちんぼうになる。郡山までの距離を立っておくのはさほど苦にはならないが、それでもデッキつきの2ドア車だとしんどいものである。それでも車窓の猪苗代湖が何とか見えたのはよかった。
現在、磐越西線は快速「あがの」は郡山〜会津若松間が廃止となって、車両もJRになって造られたキハ110系ディーゼルカーに変わった他、直通する特急「あいづ」も廃止となり、快速「ばんだい」も名無しの権兵衛快速になっている。貨物列車も僅か1本になっている。磐越西線沿線も磐越自動車道が開通し、苦戦しているようだが、C57形SLによる「SLばんえつ物語号」の運転などで、新たな魅力を作り出している。
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