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MY FAVORITE TRAIN TRAVEL

急行「ちどり」

 

米子行きの最終日の「ちどり」 1990-3-9

スイッチバックと延命水の出雲坂根駅にて

 

乗車日 1990年3月9日(米子行き最終日)

乗車区間 広島→米子間

 陰陽連絡、というと山陽地区と山陰地区を連絡することである。だが広島からの陰陽連絡は今となっては高速バスかマイカーが主役となっており、鉄道で広島から山陰、と言うの人は殆どいない。鉄道旅行が好きな管理人も、山陰に行くとなればマイカーか高速バスを使うだろう。

 だが、1990(平成2)年3月までは、広島と山陰を直通する急行が存在していた。急行「ちどり」である。広島から芸備線を北上し、備後落合駅で向きを変えて木次線を北上し、松江、米子を目指す急行列車であった。それが松江城の別名、「千鳥城」からネーミングされた急行「ちどり」である。一時は広島と山陰を結ぶエース的存在で、最盛期は夜行を含めて4〜5往復が広島と米子を結び、一部は岩国〜鳥取間と言うロングラン列車も存在した。

 だが、広島市と松江市を結ぶ国道54号線が整備され、広島〜松江間に広電、一畑電鉄共同による直通バスが走り始めると、乗客はバスに奪われ、1980(昭和55)年に夜行便が廃止、やがてグリーン車の連結もなくなり、1985(昭和60)年1往復のみとなった。

 この間、1983(昭和58)年3月に中国自動車道が全通、1985(昭和60年)には広島自動車道及び山陽自動車道の広島jct〜五日市ic間が開通し、広島〜松江間のバスも五日市〜三次間を高速道経由に変更してスピードアップ。広島からの陰陽連絡バスはその後1988(昭和63)年に鳥取行きの「とっとりメリーバード」、1989(平成元)年に米子行きの「よなごメリーバード」が運転を開始した(メリーバード系統は何れも広電、日の丸自動車、日本交通。但し鳥取行きは現在広電の担当はない)。また松江行きもノンズトップ便が運転を開始し、これで「ちどり」の使命は失われたと言ってよかった。末期は2両のディーゼルカーが、敗戦処理投手のごとく、広島と米子を5時間以上かけて走っていた。岡山だと振り子式電車でまずまずの乗車率(それでも落ちていると言われているが)の特急「やくも」があるのに対照的である。

 

 この急行「ちどり」の最後の日は1990(平成2)年3月9日。管理人が高校の卒業式を終えた8日後であった。初めての一人旅・・・。

 しかも、「ちどり」に乗ることを卒業前に担任の先生に言うと、島根大学時代によく夜行の「ちどり」で実家に帰ったりしていたことを教えてくれた。

 

 その米子行きの最終「ちどり」は8時45分に広島を出発する。9番線に国鉄時代からの朱色とクリーム色のツートーンカラーのディーゼルカー、キハ58系の2両編成が止まっている。このころ広島支社の急行用ディーゼルカーは塗色変更が順次行われていたが、さすがに最終日は国鉄色だった。いつもはがらがらで、7番線で電車を待つ通勤客が車内を待合室代わりに使っていたりもしたくらいだったが、今日は鉄道ファンやかつて山陰地区に行くのに使ったことがあるような年配の客、そしてマスコミ関係者であふれていた。しかし座る座席はある。立客までは出なかった。このあたり広島と米子を5時間18分(上り)もかかる前時代的な急行であり、列車としての使命ももう失ったことである。JRも広島からの陰陽連絡は系列会社の中国ジェイアールバスに任せているくらいなのだから。

 

 さて、「ちどり」は備後落合までは芸備線を北上する。芸備線は広島に向かうのが下り、広島から三次、東城、新見方面に向けて画上りになる。このあたり広島が中心だとわかりにくいが、それこそかつて「ちどり」が陰陽連絡列車のエースだったころは、「ちどり」の始発駅の鳥取、米子、松江から山陰本線の下り路線を宍道まで走っていたし、一部の「ちどり」は岩国発着であったので、こうなったのだろうか?現在は芸備線は狩留家あたりまでは広島近郊区間であり、シティ電車区間となっている(電車は走れないのに)。すれ違う列車はローカル線とは思えないほど人が乗っている。もっともこれは沿線道路の整備が遅れているのもあったのだが。

 

 この「ちどり」も、三次まではシティコミューター的性格で、三次で下車する人もいた。最も今日は木次線内や、松江、米子あたりまで通して乗る人が多く、車内はまだ多い。ボックスは全て最低2人は乗ってる感じであった。

 この三次から備後庄原あたりまでは、中国自動車道と併走する。また、併走していなくても、芸備線自体は三次〜新見の間はもろに中国自動車道と被り、三次から先は本数が激減する。この「ちどり」の乗客が減少したのもこの中国自動車道の整備である。かつては芸備線には陰陽連絡の「ちどり」だけでなく、津山行きの「やまのゆ」も走っており、「たいしゃく」も新見まで直通していたが、この中国自動車道の開通後はマイカーやバスに乗客を奪われて、1980(昭和55)年に「やまのゆ」が廃止され、「たいしゃく」も途中からは普通列車である。

 

 備後落合に着いた「ちどり」は進行方向を変える。そのために5分間停車する。かつては木次線との分岐でにぎわった面影はなく、ひっそりした駅である。また駅周辺の民家も少ない。過疎化が進んでいるのであろう。それでも今日は折り返し時間に立ち食いうどん、そばやに向かう人が多かった。ここのうどんやそばはおでんの具を入れてくれるのである。管理人もちくわに厚揚げを入れてもらった。食べたのは車内であるが・・・。なお、この立ち食いうどん・そばも、「ちどり」が備後落合止まりになって暫くして閉店になった。「ちどり」とともに歩んだお店だろう。

 「ちどり」は、運転開始当初はSLが客車を牽引しており、この備後落合駅で芸備線用のC58から、木次線用のC56に交代をするための長時間停車があった。ディーゼルカーになったとも、進行方向が変わることや、ここまで他の急行との併結列車もあって、停車時間が長かった。それでうどん屋も繁盛したのだろう。今では「ちどり」で山陰に行く人も数える程度しかいないのだろう。

 さて、木次線に列車は入る。まだこのあたりは雪が残っていた。暖冬暖冬と言われるが、スキー場もある県境付近はそれなりに雪はあるのだろう。やがてスイッチバックと延命水で有名な出雲坂根に到着。ここで乗客は延命水を求めに降りる人もいる。相席だった人はここから下りの「ちどり」で広島に戻るようだ。駅近辺は道路工事が始まっている。こののちに「おろちループ」となったところである。

 この木次線、かつては廃止対象路線となったのであるが、沿線の道路の整備が遅れて廃止を免れた経緯の路線である。だが道路が整備されるとどうなるのだろう?と当時は不安視したものである。最もそれはループ橋の景色を逆手にとって、トロッコ列車を走らせたりしたのだが、当時はよく生き残れたと思った位人が少なかったのである。

 宍道から山陰本線を行く。電化区間となり、木次線をゆっくり走っていたディーゼルカーは速度を速め、宍道湖を眺めながら快走する。松江着。ここで普通列車となって、立ち客も出るほどの盛況となった「ちどり」は米子までラストスパートをかけた。5時間18分で米子着。

 もう、米子駅で「広島行き」の発車案内表を見ることはできなくなった。

 

 その後、「ちどり」は、備後落合と広島を結ぶ急行として生き残った。「ちどり」の愛称は松江城の別名、「千鳥城」から来たものだが、松江まで行かないので愛称を「たいしゃく」とする計画もあったようだが、比較的知名度の高い愛称のせいか、愛称は残された。しかし急行区間はやがて全ての急行で三次までとなり、2002(平成14)年には愛称がすべて「みよし」に統合されている。

 しかし、いつの間にか芸備線は急行最多運転本数の路線となっているのである。

 

 確かに今は特急が主流の時代である。しかし特急と言うのは本来「特別急行」の略であり、急行が存在して特急があるものであるのだが。

 

 

 

 

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