このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

MY FAVORITE TRAIN TRAVEL

東京〜大垣間夜行

    

名古屋駅に停車する大垣夜行。

写真は臨時便

1994-3 名古屋駅にて

 

 

 

乗車日 1991年3月、1992年1月、7月、1993年3月、1994年3月、1995年2月、2002年8月(他にもまだあるだろう)

乗車区間 大垣→東京間(私は上りしか乗ったことがない)

 

 現在は「ムーンライトながら」となり、むしろそっちの名称の方が定着した感がある。だが私が学生時代は、全て自由席の普通列車で、利用者から「大垣夜行」「垣ドン」と親しまれていた。私が大学を卒業した後の1996(平成8)年に、特急用の373系電車の使用となり、全席指定となり、「ムーンライトながら」の愛称がつけられた。

 私は「ムーンライトながら」となった後は利用したことがなく、僅かに2002年に165系による救済臨時、2004年に189系を使った「ムーンライトながら91号」に乗ったくらいである。だからこの夜行、愛称がなかった165系時代のイメージの方が強く残る。また面白いことに上り列車にしか乗ったことがないのである。

 初めて乗ったのは、1991(平成3)年の3月である。以前からこの列車が「青春18きっぷ」が使えるシーズンは混雑が激しいことを知っていたが、どういったものなのだろうかと思っていた。最もその乗車当日は臨時も運転されていたが、定期列車、臨時列車ともに20時ごろから駅に列が出来ていた。

 前述のように急行型電車の165系を使う。1963(昭和38)年に誕生した急行型電車のスタンダードだが、どちらかと言うと山岳路線向けの電車である。だが急行が少なくなるにつれて165系も余剰となり、そして車両自体の老朽化もあって、この頃から活躍場所を減らしていった。確かにかなりくたびれていた。そして4人がけである。だが昭和40年代の夜行列車の車内を雑誌などで見ていると、この大垣夜行にはそんな雰囲気があったと思う。

 順番待ちの時点でそんな感じはあった。そして車内は若い男女で賑わっていた。勿論年配の方もいた。しかし当時、鉄道趣味の印象は世間一般的にあまり良いものではなかった。私の周りでも、4人がけのボックスシートで一夜を明かす、これをいうと何度失笑されたことか。だが実際にその列車に乗ってみるとこれだけ混雑する。不思議なものである。利用客全員が鉄道ファンとはとても思えないのである。

 

 2度目は、私にとって最初で最後のプリプリの武道館ライブに行った時であった。1992(平成4)年のお正月である。車内には既にそれらしき人もいた。交通費節約のためにそうしていたのであろう。しかし冬の大垣夜行は寒かった。

 それ以降、上にあるように学生時代は多く乗車した。決して快適ではない、そして大垣夜行で着いてからは眠たくなる。こんな状態が続きながらも、リピーターとなっていた。大学時代にはかなり乗ったものだ。

 かつてブルートレインが「走るホテル」と言われた時期があった。確かに「あさかぜ」が20系客車となった頃はそういわれたし、現在では北海道系統の「カシオペア」「トワイライトエクスプレス」あたりがその条件を満たしているだろう。だがこの大垣夜行、「走る学生寮」と言った感じもあった。

 

 その大垣夜行も、前述のように1996年3月に全席指定の「ムーンライトながら」と変わり、大垣駅の順番待ちも、臨時便が出るとき以外は見られなくなった。くしくもこの年、プリプリが解散し、一つの時代が終った、と感じた年でもあった。私も社会人2年目になろうとする頃だった。

 

 

 

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