このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

MY FAVORITE TRAIN TRAVEL

東海道、山陽新幹線0系

    

世界に誇るSHINKANSEN

この新幹線のシンボルは、長らく0系だった。

かつては「世界で一番早い列車」でもあった。

電車王国日本、それを象徴する名車であろう

 

 

 

乗車日に関しては多いので割愛させていただきます。

 

 1980(昭和55)年くらいまで、「世界で一番早い列車は何でしょう?」と聞かれたら、鉄道に興味の無い人でも「新幹線」「ひかり号」と答えたものである。

 その「新幹線」を英語で言うと、和英辞書で調べたら「New Trunk Line」である。だが英語の教科書でも「Shinkansen」と書かれ、すでに万国共通後のようになっている。それはフランスに当時の新幹線の最高時速210km/hを上回る「TGV」(←「ティージーブイ」と書かれ、それでも通じるがフランス読みにすれば「テージェーベー」が本当の読み方らしい)が運転を開始しても、現在まで変わっていない。

 さて、その新幹線だが、長らく0系が新幹線の主役であった。そしてこの0系、1964(昭和39)年に東京オリンピックを数日後に控え、東京〜新大阪間に華々しくデビューし、以後、管理人の誕生日でもある1972(昭和47)年3月には岡山に、そして1975(昭和50)年3月には博多へと延びた。そして新幹線も、開業当初の車両は老朽化が目立ち、1976(昭和51)年から置き換えが始まったのだが、なんと国鉄末期の1986(昭和61)年まで22年の間、0系の置き換えは0系、と言う感じで新旧交代を行っていた。実際には窓が小さくなったり、普通車のシートがリクライニング機構になったり細かい部分での改善はされてきたが、素人目には「開業当初の電車が今でも走っている」と見られても仕方が無かった。そしてその間に国鉄の財政は悪化し、新幹線と並行する区間では飛行機に乗客を奪われていった。

 

 さて、この0系新幹線だが、新幹線がまだ東海道、山陽のみだったころは「0系」と言う呼び名は存在しなかった。単に「新幹線電車」と呼ぶのが普通でもあった。だが1982(昭和57)年に東北・上越新幹線がそれぞれ開業し、グリーンの帯を巻いた200系電車が運転を開始した。その区別のために「0系」と呼ばれ、定着していったのである。

 

 私は鉄道ファンでありながら、自分の意思で旅行を始めたのは高校を卒業する頃と遅かったのだが、それまでに0系は何度かお世話になっている。修学旅行は、小学校と高校でお世話になった。最も小学校の頃は東海道及び山陽新幹線は0系のみだったのだが。ちなみに初めて新幹線に乗ったのは、小学校1年の頃らしいが、それはあまり記憶にはない。ウチの家族旅行は大体クルマだったのだ(いまだと珍しくもないが、当時は中国自動車道すら全通していなかった)。

 

 

 

 ちなみに当時、新幹線が「世界で一番早い特急列車」だったころは、新幹線はあまり興味は無かった。しかし世界の特急を並べられたとき、「ひかり号ってすごいなあ」と思ったものである。

 

 私の通っていた小学校は、在来線(山陽本線)に近い地区に住む人と、(山陽)新幹線の近くに住む地区の人が通学区域であり、私は新幹線の近くだった。ちなみに広島の廿日市地区は、山陽新幹線と山陽本線ははなれたところに走っている。

 そして、新幹線を見ても、決まって0系だった。今思うとちょうど0系もマイナーチェンジの時期にあり(大窓車が小窓の車両に取り替えられていった)、大きい窓を連ねた16両の0系など、今思うと貴重だったなと思っている。

 

 また、私は広島東洋カープのファンでもあるが、カープと0系というのは意外にも伝説がある。もっともプロ野球チームは12球団問わず移動に新幹線を使うことも多いので、どのチームもそうかもしれないが、カープの場合、初優勝の1975(昭和50)年に広島を通って博多まで開通し、同年の10月15日に後楽園球場のジャイアンツvsカープ戦で優勝を決めて、開業したばかりの新幹線で広島へと帰っているのである。

 また、3度めのリーグ優勝を果たした1980(昭和55)年は、甲子園球場のタイガースvsカープ戦のデーゲームを終え、この日の神宮のスワローズvsドラゴンズ戦で、その年2位のスワローズが負ければ優勝、という場面で、スワローズはドラゴンズに負け、その瞬間にカープの優勝が決定、その時当時の古葉監督はじめ、選手は新幹線で新神戸から広島へと移動中であった。もちろん時代からして0系以外考えられないであろう。その時使われていた0系も今は無いだろう。

 

 この0系も、今や風前の灯になってきた感がある。最終生産から既に20年以上が経ち、残っているのが不思議なくらい。またイメージアップのために色を塗り替えられた車両も存在する。

 

しかし日本を支えた象徴でもあるだろう。私は最近、東京に行くのに「サンライズ瀬戸」を使うのがマイブームだが、岡山までは時間の許す限り「こだま」、特に0系使用列車を使っている。

 

 

 

 

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