このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください


ロケ地探索(!?)

「ショーGEKI大魔王」さんのHPにあったこれらのロゴや背景等を無断使用しております。断りを入れると、「こういうページを作ったから見てね〜」と宣伝しているみたいでいやだったのでやむなく黙ってお借りしました。問題ある場合はメールを頂ければ即刻掲載を中止する所存でございます。
新撰組 維新士


ショーGEKI大魔王 の舞台「新撰組/維新士」を観てにわか幕末ファンになったが、それが高じてついに京都に足を運ぶまでに至った。お芝居なので「ロケ地探索」ではないのだが、劇中の人物やシーンに縁のある場所を訪れ、あの楽しく劇的だった10日間を思い返す旅となった。
そういう訳で本ページは普通の幕末紀行とはちょっと異なり、時として奇妙な事が記されている。

なお、本紀行を実行するにあたり、e京都ネットさんの 京のさんぽ「新撰組の足跡を訪ねて」 の全頁をA6サイズに出力して持ち歩き、ほぼその通りに巡った。史実に関してはこちらのページをはじめ、いくらでもWEB上に情報があるので、ここでは深くは記さなかった。




30-AUG-2003
光縁寺
山南敬助らの墓碑
沖田氏縁者の墓碑


門の前には「新撰組之墓」という石碑が立ち、横の小門横には一般の参拝が可能である旨の看板がかけられている。中に入ると「墓見物お断り」と厳しく書かれており、僕がやろうとしている事と一致しそうでちょっと不安になる。拝観料を払うと同時にお線香も購入し、墓前に供える事にした。

新撰組関連の墓は境内の北西の角にある。端から2番目が山南敬助のものである。 つい先日、自刃の瞬間に立会い涙した訳だが、あれは本当にあった話で、目の前にあるのは本物の山南氏の墓であり、ちょっと複雑な気分だった。墓碑には他数名の名前が刻まれている。

その横にある「沖田氏縁者」の墓に葬られているのは、沖田総司の内縁の妻との説がある。 もしやおきん?と、ちょっと胸をときめかしもしたが、しかし彼女が斬殺されたのは大政奉還(10/13)と龍馬暗殺(11/15)の間であり、この女性の命日は同年の4/26なので残念ながら該当しなかった。また後でよく調べてみると実際にはもう少し素性が明らかになっているようである。

追記:(07-OCT-2003)
そしてさらによく調べてみると「油小路の旅館里茂の娘おきん」も実在の人物のようである。いくら検索をかけても出てこなかったのでてっきり架空の人物かと思っていたのだが、まさか「東雲太夫」での検索で発見するとは!彼女の名前が出てきた時には心臓が飛び出るかと思う程ぶったまげた(←なんでこんなに過剰反応?)。
このへんが「にわかファン」の辛い所である。

追記:(08-OCT-2003)
そしてさらによく調べてみると何と「おきんが沖田氏縁者」という説まで飛び出し、これにはもう本当に驚き、ついげたげたと笑い出してしまった。なにしろ知らず知らずの間におきんさんの墓参りまでしていたのだから。
結局の所、いろんな説がありすぎる(明里だという説まで!?)が故に「謎の女性」という事で締めくくられる事が多いようであるが、沖田氏縁者がおきんである可能性があり、その墓参りが無事出来たというだけで充分満足なのであった。





旧前川邸
光縁寺前の道(綾小路通)を西に進むと、古い建物が多い京都の町中でも特に異彩を放つお屋敷が現れる。

旧前川邸は新撰組の初期の屯所の1つであり、山南の切腹や古高俊太郎の拷問(御所に火を放ち帝を連れ去るという例の計画が露見)が行わた事で有名である。
また中には刀傷や近藤勇の落書き等も残り、現存する新撰組遺蹟の中では最も彼らの生活臭の残る場所なのであろうが、現在は個人の住居となり、その魅惑の内部は残念ながら非公開である。
その壮大な外観だけでも拝見し、山南が出窓越しに明里と別れを惜しんだ情景でも思い浮かべようと邸の前に来て驚愕した。大きな門が全開になっているのだ。恐る恐る内部の様子をうかがうと、そこから見える光景はまるで映画のセットのよう…いや幕末にタイムスリップしたかのようである。
建物の玄関部分には数脚の腰掛けが置かれ、グッズ販売を行っているような気配がある。門には邸内の写真が額に入って飾られ、反対側には京都博物館で行われている新撰組の催し物のポスターがやはり額に入って吊るされている。どう控えめに考えてもこれは観光客の為に行われているようにしか見えなかった。
そのグッズ販売店兼玄関までまた恐る恐る入ると、店員さん兼住人の方が迎えてくださった。なんと今年(2003年)の7月からこういう形で、邸内の一部を一般公開しているのだという。ありがたい話だ。絶対に観る事は出来ないと思っていただけに喜びはひとしおだ。先程額に入れられていた写真は絵葉書であったので迷わず購入した。

隣接する工場がある付近は100坪程の広さがあり、隊士たちが剣術の稽古に勤しんでいたらしい。勝先生や大久保先生を迎えたのはここだったのだろうか?





旧八木邸
同じく新撰組の初期の屯所。旧前川邸とは逆に、積極的に内部を公開している。
僕はどうもこういった観光地っぽい所は苦手であり、前述の旧前川邸のようにさりげない方が好きである。邸内は写真撮影禁止という事もあり、入場は見送った。

新撰組結成初期に、近藤と共に局長を務めた芹沢鴨が暗殺された場所である。
日頃の素行が悪かったとはいえ、酔っ払って帰舎した所を何者かに(とたてまえ上はなっていたが、後に土方、山南、沖田、原田と、かなり具体的に明らかになる)に急襲されてしまうのだから、おちおち酒も飲めない。芝居を見た後に飲酒し、電車がなくなりタクシーで帰っても殺される事のない今の生活が好きだ。





壬生寺
旧前川邸/八木邸から目とハナの先にある壬生寺は、軽く100m四方はある広大な敷地を持つ。幼稚園や老人ホームが無かった頃は、土嚢めがけてならば本当に境内で大砲をぶっ放せた事だろう。

そんな敷地の一部に、新撰組隊士を奉った「壬生塚」がある。お芝居に登場した人物で関係するのは、近藤勇の銅像と遺髪塚といった所だ。

塚の出口付近に置かれていた落書きノートに、今回のお芝居の事を記そうと思ったが、「維新士」の「い」の字はどう書くんだったかちょっと不安になった。その時財布の中にチケットの半券が入っていたのを思い出し、事無きを得た。半券は5枚もあった(しかも1枚はコンビチケット!)ので、うち1枚をノートに挟んで来た。しかしただ挟んだだけなのですぐになくなってしまうのではないか?テープで止めておけばよかった(受付に置いてあった)と、ちょっと後悔した。







島原大門
島原の内と外とを結ぶ島原大門。目の前にこの風格ある門が突如現れた時には、そのあまりの非日常さにびっくりした。このようなものが道路のまん中にあり、車が門の中を行き来しているのだ。

門の向こう側にはいかにもな魅惑の街が広がっているかのように感じるが、現在では門の向こうも普通の街並みである。ただかつてを忍ばせる建物が多いのもたしかである。

以前は西側にも「島原西門」があったが、交通事故で倒壊した。昭和52年の事だったが、島原の長い歴史からすればつい最近の事だ。まったくもって惜しい。この門もいつ車がぶつかってもおかしくなく、ハラハラするが、やはり時々ぶつかるらしい…





輪違屋
MINOLTA AUTOCHORDにて撮影。例によって色が紫っぽくなる症状が出てしまっている 今回の旅のお供である「京のさんぽ〜新撰組の足跡を訪ねて〜」で描かれている地図は、島原に関しては随分アバウトである。しかし「島原大門」さえみつければ、そこから西へ向かって歩き、一本目の通りを右折すればすぐにわかる。

古い建物は好きだが別段詳しくない僕にでもただならぬ気配を感じた。入口には「観覧謝絶」と厳しく書かれている。きっと今までにも多くの無謀な観光客がこの門を叩いたのだろう。そのくせ入口の小さな扉は開いているのだから罪な話だ。





角屋
同じく、島原大門から西へ進むと現れる。輪違屋と違い、予約をすれば内部見学が出来る時期もあるようだ。八木邸と前川邸の関係と似ている。

慶応3年の正月(旧暦)に、伊東甲子太郎、長倉新八、斎藤一らが切腹覚悟で門限破りを決行。どうせ死ぬんだからと3日間ここで飲み明かし、4日目に近藤らの使いにより屯所に連れ戻された。幸いにも切腹は免れ謹慎処分で済んだ。

角屋の斜向かいの中華料理店は量が大変多い。汗だくだったのでビールも頼んでしまった事もあり、全部たいらげるのに苦労した。






油小路通
インターネットで「油小路」を検索すると「油小路の変」の事ばかりが出てくる。2日間に渡って凄惨な光景が展開された油小路七条にて。ここで斬り殺された元隊士の傷の様子を記した文献を見ると本当に恐ろしくなる。

ここから南(写真後方)へ進むと、伊東甲子太郎が絶命した本光寺、伊東遭難の地がある。そこから木津屋橋通りを西に進むと伊東が招かれた近藤妾宅跡があり、彼の人生の最後を遡る旅が出来る。またここから北に進むと北小路の変跡、天満屋事件跡がある。

そしてこの通りのどこかにおきんの父親が経営していた旅館「里茂」があったはずである。





三縁寺
宮部鼎蔵らの墓碑
吉田稔麿、北添佶磨らの墓碑


都の洛北、岩倉にあるこのお寺には、池田屋事件で亡くなった吉田稔麿、宮部鼎蔵、北添佶磨、その他志士達の墓がある。

三縁寺はコンクリ(?)の白壁と巨大なガラス窓が印象的な近代的なお寺である。16時をやや過ぎたこの時間には人の気配がまったくなく、門も閉ざされていたが、脇にある車用の鉄門が僅かに開いていたので恐る恐る入る。幸い誰にも会わずに墓地までたどり着いたが、どう考えても不法侵入であった。
(インターホンで許可を受けられるらしい)

彼らの墓は、斜面状の墓地の中でも一番高い所にある。ここからの眺めはかつてはなかなか良かったであろうが、現在はゴルフ練習場の巨大なネットが視野のほとんどを占める。
…と思ったのだが、三縁寺がこの地に移転してきたのは昭和54年。それまでは「縄手通り三条下ル大黒町」こと、現在の京阪三条駅のバスターミナル付近にあった。池田屋とも小川亭とも極めて近い場所なのであった。






06-SEP-2003
竹屋町通
「ええんじゃないか!」が流行り始めた…つまり桂さんたちが最初に工作を始めたと思われる竹屋町通り。ここから池田屋は近い(とも言える)。

この通り、西から東への一方通行であり、交差する全ての通りが一時停止である為、車で行くとSTOP&GOの繰り返しで周りの風景を見る余裕がまるでない。徒歩で制覇すべきである。
通りの東方はほとんどビル化されてしまっていて、当時の面影を知るよしもないが、二条城の近くには古い家屋が僅かだが残っている。





番外編 誠の湯
こんな写真しかありませんでした島原大門から角屋に向かう途中、道の左側に「誠の湯」なる風呂屋がある。

2回目の京都訪問は車で行ったが、東京近郊を22時頃出発し、目的地としたこの誠の湯に到着したのは翌日の17時の事であった。その間ほとんど睡眠を取っていなかった為、この湯につかり、ロビーでビールを飲んだ(←またぁ?)らその場で二時間も爆睡してしまった。そして酔いを覚ます為に再び風呂に入り、露天風呂の洗い場で寝転んでいたら再び爆睡し、風邪をひいた。







24-SEP-2003
池田屋跡 四国屋跡 近江屋跡 小川亭跡

御存知な方には御存知な場所である。
池田屋はパチンコ屋、四国屋は高級(?)料亭になっている。近江屋は坂本龍馬並びに藤吉が殺された場所である。

劇中「歌詠み姐さん」として登場した松尾多勢子は、実際には50を少し越えた「歌詠み婆さん」であった。小川亭の説明に「勤皇ばあさん」という言葉が出てきたので行ってみたのだが、ここの老主婦「小川テイ女」の事であった。
小川亭は肥後藩邸から近く、肥後藩士に好まれ密会に使用された。宮部鼎蔵、河上彦斎らの他、桂小五郎なども出入りしていた。





三条大橋のたもと
禁門の変以降、朝敵となった桂小五郎が乞食に扮して身を潜めたという三条大橋の下(二条大橋の下という説もある)。この間恋人の幾松がにぎり飯を運び、数日の後京の脱出に成功する。
三条大橋ではその他にも数々のドラマが展開されたが、新撰組の最期を飾るあまりにも悲しい晒し行為も行われた(あまりにも悲しくて記述出来ない)。

この橋は昭和25年にかけられたものであり、現代からすれば相当古い部類になるが、この時代からは80年も後に架けられた「未来の橋」なのである。





寺田屋
龍馬が常宿としていた京都伏見にある寺田屋は、今も健在である。「○○跡」が続いただけに、夢のような光景である。そして驚く事に現在でも旅館としての営業も行っている。

右手の庭には龍馬の銅像や各種石碑の他、お登勢を祭った神社もある。龍馬とお龍の仲を取り持った事から、男女の守り神となっている。








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