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国指定史跡
会津若松城
福島県会津若松市追手町>

若松城の見どころのひとつである本丸東側の高石垣(扇の勾配)。朱塗りの橋は廊下橋

鶴ヶ城と若松城
 昭和9年(1934)鶴ヶ城が国の史跡に指定され当時の文部省は所在地名を登録名としました。このため、公式には「若松城」と登録されました。一般的には「鶴ヶ城」が有名ですが、古い文献などでは「会津城」と書かれていることが多いようです(現地説明板より)

歴史
 会津若松城(正式には若松城、別名・鶴ヶ城)は、当初、黒川城と呼ばれ、至徳元年(1384)に蘆名直盛が東黒川館を築いたことに始まる。会津地方を治める蘆名氏歴代の本拠として利用された。戦国時代には、奥州制覇をもくろむ伊達政宗が蘆名氏を攻略し入城。政宗のあと、伊勢松阪から蒲生氏郷が天正18年(1590)に黒川城に入り、会津の領主となる。城の改修を行い、文禄2年(1593)に7重の天守が完成。氏郷は「黒川」と呼ばれていた城下を「若松」と変え城名を「鶴ヶ城」と改める。

 その後、城主は上杉景勝、蒲生氏郷の子・秀行と代わる。慶長16年(1611)に大地震が起き、石垣は崩れ、塀や櫓は倒壊し、天守も傾いたとされる。寛永4年(1627)には伊予松山より加藤嘉明が入封。その子明成のとき、7重の天守が5重に改められ、西出丸、北出丸が整備される。これによって現在見られる姿となった。時は移り、寛永20年(1643)には加藤明成が会津40万石を幕府に召し上げられ、3代将軍徳川家光の弟・保科正之が最上(山形)から23万石で入封。以後、保科・松平家が220年間続く。江戸時代には「会津城」と呼ばれた。

若松城地図
(現地説明板より)

会津若松駅から、まちなか周遊バスにて「鶴ヶ城三ノ丸口」下車。三ノ丸側(県立博物館側)より訪城(平成30年10月再訪問)


二ノ丸東門跡
 三ノ丸と二ノ丸(手前側)間の門跡。ここから二ノ丸へ向かうと、まず見えてくるのが廊下橋と本丸の高石垣、さらに本丸堀。

廊下橋・本丸の高石垣・本丸堀
 廊下橋周辺の高石垣は加藤氏時代に築かれ、高さは20mにも及ぶ。


二ノ丸南側から見た廊下橋・本丸の高石垣・本丸堀

茶壺櫓跡から見た本丸高石垣と廊下橋
 茶壷櫓は、側面攻撃するための横矢が掛かる城壁を形成している。


二ノ丸から望む廊下橋と廊下橋門跡
 廊下橋門後方に見えるのは若松城天守閣。廊下橋は本丸から二ノ丸へ通じる朱塗りの橋で、加藤明成の大改修までは、ここが大手口であった。蘆名時代には屋根のついた廊下造りだったので、廊下橋と呼ばれた。


廊下橋南側の高石垣
 左端土塁上の鉢巻石垣は茶壷櫓跡。横矢を掛けるため城壁を曲げてある。


廊下橋北側の高石垣
 廊下橋を渡った所の廊下橋門は枡形虎口となる。


廊下橋門の枡形石垣
 枡形を過ぎると本丸まで右写真の石垣が続く。


本丸と本丸帯郭を画する石垣
 この石垣の先が本丸埋門となり、天守がそびえる。

本丸埋門(うずみもん)
 天守閣の北東にあって本丸奥御殿の北側から本丸帯郭に通じる枡形の城門である。城内の他の門や建築物に比較して低い門構えで埋門の形態をとっていた。大手口が東であった築城当時は表門であったが、寛永16年(1639年)に完成した加藤時代の改修後は裏門となっている。本丸奥御殿の勝手口としても重要な門である。


本丸埋門跡から望む若松城天守
再建された若松城天守

層塔型、五重五階、鉄筋コンクリート造りの天守は、昭和40年(1965)に復元。
天守台は野面積みで、黑い7層の天守だった当時(氏郷時代)の数少ない遺構。


大広間跡から望む。右より、天守、走長屋(はしりながや)、鉄門(くろがねもん)、南走長屋


右より、鉄門、南走長屋、干飯櫓(ほしいやぐら)
 南走長屋と干飯櫓は、平成13年(2001)に木造で復元。


鉄門
 昭和40年(1965)に天守とともにコンクリートで復元。鉄門の名は鉄張りの門扉であったことに由来。


鉄門上部は南走長屋と干飯櫓、鉄門手前は走長屋


天守台内部~天守台の内部は穴藏になっていて、冷涼な環境を活かして塩などの貯蔵庫として利用されていたため、「塩蔵(しおぐら)」と呼ばれている。常時「かます」に入れられた塩が積み重ねられており、また保存用食料として乾燥したタニシなども備蓄されていた。

天守から望む本丸跡(上・下)~御三階跡、茶室「麟閣」、本丸御殿跡など。

月見櫓跡
 この櫓には常に武器が納められていた。また、櫓にかかる月が一際美しかったことからこのような名で呼ばれた。役割としては城下南方の物見櫓、また内濠から続く本丸南側の石垣の横矢掛(よこやがかり)としても重要な櫓だった。


茶壷櫓跡
 この櫓の下には、茶室「麟閣」があり、櫓内には主に貴重な茶器類が納められていたためこの名がある。茶壷櫓は廊下橋の側面の守りとしても重要な櫓である。廊下橋両側の石垣は高さ約20mと城内で最も高く美しい石積みである。

月見櫓の横矢掛
 石垣をよく見ると、「横矢がかり」というジグザグになっている部分が見られる。これは敵を側面から攻撃するための工夫。


廊下橋から見た御弓櫓の横矢掛
 御弓櫓は廊下橋北側に位置し、後方の屈曲した石垣上が御弓櫓跡。

太鼓門の石垣と若松城天守
 
太鼓門は本丸北側に設置された城門で、北出丸から本丸への登城道にある。


鈎の手に曲げられている太鼓門跡
 北出丸から本丸に通じる大手門(追手門)のことで、ここには多聞櫓と呼ばれる櫓が建てられ、直径五尺八寸(約1.8m)の大太鼓を備え、藩主の登城や非常事態、その他の合図に使用したことから太鼓門と呼ばれた。
 石垣の大部分は、石材を加工した切込接ぎ、また打込接ぎの技法が使用されている。

武者走り(むしゃばしり)
 この石垣は、鶴ヶ城の大手門の渡り櫓などへ簡単に「昇り」「降り」ができるように造られています。V字型に造られており「武者走り」とも呼ばれている。


太鼓門の遊女石
 太鼓門内西面内側の石垣の一部。右手は椿坂となり、北出丸へと至る。右下の楕円形の石垣のことで、城内最大の石材。

 

椿坂
 北出丸(手前側)から本丸(後方)へと通じる城への玄関口。

北出丸から本丸帯郭を望む
 右側の土橋は椿坂。土塁上の石垣は、鉢巻石垣となっている。


北出丸
 寛永16年(1639年)加藤明成のとき、北馬出を出丸に造りかえたもので、本丸を守る重要な出丸であった。東は二ノ丸と伏兵郭(ふくへいくるわ)に、南は本丸に、西は西出丸に濠をへだて相対し、攻防の際には最も重要な位置にあったため城の生命線であった。北出丸に侵入した敵は三方からせん滅することができるので「鏖丸(みなごろしまる)」ともいわれていた。


枡形石垣
 ここに見られる石垣は今から約370年前の加藤時代に整備された石垣です。若松城の大手門として堅固な石垣に囲まれ(枡形)、さらに右に曲がった場所には内部を見透かされないように門(北出丸大手門)がありました。この枡形は敵を三方から攻撃できる利点がありました。

大手門石垣の大腰掛
 敵を迎え撃つための大腰掛が残る

北出丸の大手門(追手門)跡
 この先の突き当りを右に(枡形)を進むと北出丸となる。


追手前西堀越しに見た北出丸
 出丸とは、城の外周部に築かれた防御区画。


南町通堀越しに見た南出丸
 櫓台は、西北角櫓跡。
 
白虎隊の像

若松城から飯盛山を望む

飯盛山登り口

白虎隊十九士の墓

白虎隊自刃の地
【会津戦争と白虎隊】 
 慶応4年(1868年)、鳥羽伏見で旧幕府軍と新政府軍が激突し、この後続く一連の戦い(戊辰戦争)は東北へと移った。幕末最後の会津藩主・松平容保(かたもり)は、京都守護職として、藩兵を率い、京都に乗りこんだことが会津戦争の直接的契機となった。当時の京都は、薩摩・長州をはじめとする勤皇の志士と新選組が争っていた。容保は職務がら、勤皇の志士を弾圧する最先鋒にあった。

 戊辰戦争にあたって、薩摩藩・長州藩を中心に編成された新政府軍首脳にしてみれば、会津藩攻撃は松平容保に殺された志士たちの恨みを晴らす機会として位置づけることにもなった。東北諸藩の大名たちは、新政府軍が会津を攻めるのは必死とみて奥羽列藩同盟を結び、さらに、越後などの藩が加わって奥羽越列藩同盟となり、新政府軍と対立し、会津藩を支援することになった。1868年、松平容保は軍制改革に着手。藩士を年齢別に組織する4隊編成をつくる。
 ●玄武隊・50歳以上 ●青龍隊36~49歳 ●朱雀隊18~35歳 ●白虎隊16~17歳の4隊である。このほかにも藩士以外の郷士から志あるものを募集し、全藩あげての抵抗戦の構えを組織した。しかし、流れは「官軍」としての新政府軍の側にあり、奥羽の関門ともいうべき白河城、さらに平城、二本松城、猪苗代城が次々と落とされ、いよいよ鶴ヶ城(若松城)が攻められる段となった。

 白虎隊にも出撃命令が出て、新政府軍の会津城下への侵入を防ぐため戸ノ口原で戦い、敗れ配送中、20名の隊士がはぐれてしまった。これが「白虎隊の悲劇」につながる。城へ戻る道が新政府軍によって押さえられたため、飯盛山に出たところ、鶴ヶ城が焼けているいるのが見えた。これを落城と勘違いし、「城が落ちてしまった以上、生きていてもしかたがない」と、全員、そこで自害した。のち、一人が蘇生して、その状況が知られ、「白虎隊の悲劇」として語り伝えられることになった。じつは、このとき、鶴ヶ城は焼けておらず、城下に放たれた火による煙が城の上にたなびいていただけであった。結局籠城1ヵ月後、松平容保は降伏し、会津戦争は終わった。

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