このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 国指定史跡 ・ 日本100名城  明石海峡を望む丘陵に築城された平山城
 
           
 高石垣上に建つ重要文化財の坤櫓(左端・ひつじさるやぐら)と巽櫓(右端・たつみやぐら)。両櫓(三重櫓)を結ぶ白壁の長塀は復元 

■明石城の築城
●元和三年(1617)、小笠原忠真(おがさわら ただざね)が信州松本より明石に国替えとなり、現在の明石城より南西約1km程の所にあった船上(ふなげ)城に入ったことから明石藩が生まれた。現在の明石城は、元和四年(1618)徳川二代将軍秀忠が、西国諸藩に対する備えとして、藩主忠真に新城の築城を命じたことに始まる。秀忠は姫路城主であった本多忠政の指導を受けるように命じ、3ヶ所の築城候補地をあげ、現在の地が選ばれた。幕府は普請費用として銀壱千貫目(時価31億円程度)を与え、3名の普請奉行を派遣している。

●石垣の普請(=現在の土木工事)は元和五年(1619)の正月に始められ、工事は町人請負で行われたとされる。本丸、二の丸等の城郭中心の石垣、三の丸の石垣、土塁及び周辺の堀の普請が同年八月中旬に終わり、幕府より派遣の普請奉行はその任を終え江戸へ帰参している。幕府直営工事は本丸、二の丸、三の丸までで、その他の郭の石垣・土塁工事は幕府と小笠原氏の共同工事で行われている。普請を終え、同年九月から藩主忠真により櫓、御殿、城門、塀などの作事(=現在の建築工事)が始められ、その用材は幕府の一国一城令により廃城となった伏見城及び同国の三木城などの資材を用いて建てたとされている。創建当初の坤櫓については次の資料があり、伏見城の建物を幕府からもらい受け、移築されたことを示している。
   「坤ノ櫓ハ伏見御城ノ櫓ナリシヲ此度公儀ヨリ公エ下サレコレヲ建ル」『小笠原忠真年譜』
   「幕府から伏見御城の三重櫓一つ下され、御本丸未申の角に立候也」『笠系大成附録』

●各建物の建築は翌元和六年(1620)四月に完了した。築城当初の明石城は、本丸に御殿を築き、四隅に三重の櫓を配したが、天守台の石垣は築かれたものの、天守は建てられなかった。 
(文は現地案内パンフレットより)

◆明石城概略◆
■別 名喜春(きしゅん)
 五代目城主松平信之のとき、儒学者片山兼山に命じて明石城内十景を選んだがそのとき「喜春城」の雅名が生まれた。この出典は中国の故事「塩鉄論」にいう。「君主は仁を以って政を行わねばならず、あたかも春の草木を育てるごとく、善を賞するを貴ぶ」からとふれている。喜びの春と戦は縁遠いもの。戦をやめて太平の世となったといわれる元和5年(1619)に築かれた明石城にふさわしい異名といえる。 (現地発行リーフレット、その他資料より)
■所在地 兵庫県明石市明石公園
<JR明石駅より見る明石城>
 プラットホームからは、本丸の白壁の長塀と左右の坤櫓・巽櫓など、城の中心部がよく把握でき見学スポットの一つ。

 明石城へは、JR明石駅から北に歩いて約5分。
 
■遺 構 天守台、石垣、堀、曲輪跡(東の丸・二の丸・本丸・稲荷曲輪など)、重要文化財の(ひつじさる)(たつみ)

二の丸から見た巽櫓
 巽櫓の東面で、第三層の妻部に対して、第一層に千鳥破風を置き、第二層は直線としている。

本丸からみた坤櫓
 東面(櫓の左部分)、北面(右部分)は城内に向く面で、東面には第一層に入口があり、第二層は唐破風の上に千鳥破風が重なる二重破風の豪華なつくり。

 天守台
 中央の巨大な石垣。

 本丸に天守台は築かれたが、天守は建てられなかった。
■修復・復元
(修復)阪神・淡路大震災で被災した巽櫓、坤櫓、石垣(復元)本丸土塀
<巽櫓(西面)と復元土塀>
 巽櫓と坤櫓が白い土塀で結ばれ「喜晴城」の美しい姿が甦った。土塀前には見学しやすいように展望台が敷設。巽櫓右後方には、微かに明石海峡大橋が見える。
■現 況明石城跡を中心に兵庫県立明石公園として整備
<明石城正面入口>
 中堀に架かる土橋を渡ったところは、かつて三の丸・居屋敷曲輪への虎口である太鼓門があった場所。

 今でも中堀には、満々と水が湛えられている。

中堀

中堀越しに見る「明石城正面入口」
■城 図
 東から西へ、東の丸・二の丸・本丸・本丸より一段低く稲荷曲輪を一直線に並べた連郭式の縄張。
上記城図、現在地の堀が中堀。
 この中心部の遺構は比較的よく残るが、本丸の北に桜堀を隔てたところに置かれた北の丸(現在は球技場・図書館)、本丸の南に配された三の丸(現在は武蔵の庭園)、居屋敷曲輪(現在は野球場)、本丸の西側の山里曲輪(現在は陸上競技場)は破壊され、外郭や外堀はJR明石駅や山陽電鉄明石駅その他市街地となっている(城図は現地案内板に加筆)

国指定重要文化財<坤櫓・巽櫓>
文化財指定日(昭和32年6月18日) 2棟とも三重三階櫓・本瓦葺・入母屋造


本丸跡
 本丸には、四囲を守護した坤・巽・乾・艮の4基の三重櫓が建てられていたが、現在は、「坤櫓」・「巽櫓」2基のみ現存。

巽櫓
 本丸南面に建つ巽櫓。手前には展望台が設けられている。左側の石垣は、二の丸から本丸への虎口である「登の門」跡。


天守台(稲荷曲輪側)

天守台と坤櫓
 
手前は「稲荷曲輪」跡。


本丸内から見た天守台

天守台の上部
 この場所に、天守建築がいつでも造れる準備ができていた。


巽櫓と本丸土塀(復元)

稲荷曲輪石垣(左奥)
 本丸より一段低く「稲荷曲輪」跡がある。本丸石垣(右側)と稲荷曲輪石垣の間の石段を登った所に天守台が位置する。

(写真左) ■巽櫓(南面) 本丸の南東端に築かれた層塔型。 第一層の軒先に唐破風、第二層の軒先に千鳥破風を設けている。 (写真下) ■巽櫓台の石垣 左方は、左奥の坤櫓と、両櫓を結ぶ復元された土塀。
坤櫓
■三の丸跡からみた坤櫓 坤櫓の南面は、第一層を千鳥破風、第二層は唐破風とし、屋根の妻部を南北に向け、櫓の方向が巽櫓とまったく異なっている。 東面の第二層は、唐破風の上に千鳥破風が重なる二重破風の豪華な造りである。 右辺に巽櫓、北(後側)に天守台がある。
■天守台からみた坤櫓 天守が造られなかった明石城では最大の規模を持つ櫓。 天守台のすぐ南にあり、天守に代わる役割を果たしたとみられ、伏見城からの移築といわれている。 千鳥破風と唐破風を巧みに組み合わせた構造で、城内側の北面には第一層、第三層に窓がある。 なお、坤櫓の後方はJR明石駅方面となります。
巽櫓

太鼓門跡
 中堀に築かれた土橋から見た枡形を形成する「太鼓門」跡。枡形を過ぎるとかつての「三の丸」跡、「居屋敷曲輪」跡に至る。
 現在の明石城正面入口。


太鼓門跡(城内側)

二の丸石垣
 石段下の「三の丸」跡(現・武蔵の庭園)から「二の丸」跡へ通じる石段。
石段を上がった所が右写真。


二の丸跡に入る門跡
 中央の樹木一帯が「二の丸」跡。
  
 薬研堀(やげんほり)
  堀底が鋭く尖っている堀のこと。

  
 桜堀 
  「本丸」と「北の丸」の間にある堀。
  
 武蔵の庭園
  宮本武蔵が明石城内に「樹木屋敷」を造ったという記録があり、
 武蔵の庭園として整備した。
  
 松平直明公遺愛お茶の水
  明石城内でもっとも良い水の出る「井戸」として昔から親しまれてきた。八代城主直明公在城中(1682〜1701)日常この水を使用してお茶を点てられた。

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明石城跡
本丸跡・天守台・門跡・堀・井戸

櫓台下から仰ぎ見る坤櫓。右奥は巽櫓

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