このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

安芸城跡

安芸城水堀と土塁


安芸(あき)城大手門「桝形の石組」

 安芸城は、鎌倉時代の延慶元年(1308)安芸親氏によって築かれたという。安芸氏は、この地方の有力な豪族の一人で、戦国時代には土佐七雄の一人といわれた。

 城は安芸平野のほぼ中央の小高い丘にあり、本丸(詰の段)からは平野が一望できる。東に安芸川、北に城ヶ淵、西に安芸川支流の矢の川、南に溝辺の堀があって、これらを外堀とした天然の要塞であった。また、内堀を掘った土で土塁を築き城壁とし、南の大手門には桝形の広場も見られる。

 戦国時代の末、永禄12年(1569)長宗我部元親に攻められ、激戦の末落城、城主・安芸国虎は降伏し切腹、安芸氏は滅びた。

 その後30年間長宗我部氏が支配したが、慶長6年(1601)山内一豊の土佐入国とともに山内氏の重臣、五藤氏が安芸を治めることとなり、ここに居館を構え、安芸城は安芸土居と称された。城は江戸時代の初期にはすでに取り壊されていたようだが、五藤氏によって、周辺が整備され、今に至っている。
(城内説明板を参考)

 
安芸城は、北東を流れる安芸川を外堀とし、小高い丘に築かれた。山麓には、五藤氏時代に整備された水堀や土塁が残る。
所在地高知県安芸市土居
史跡区分安芸市指定史跡 
立地標高約41mの独立丘に本丸((つめ)の段)を置き、山麓には領主屋敷を構えた、山上と山下が一体となった平山城
遺構五藤氏時代に築かれた堀、土塁、大手門、井戸、石垣、曲輪など

  
左<安芸城水堀のスイレンと土塁> 右<大手門桝形の石垣>

周辺図 土佐くろしお鉄道ごめん・なはり線「安芸駅」下車。

安芸城跡は、市街地から約2Kmほど北に入った土居に位置する。

自転車(ぢばさん市場にてレンタサイクル無料貸出)で約15分。

徒歩で約30分。その他、タクシーも有。
安芸駅からの安芸城跡アクセス 安芸駅に隣接する「ぢばさん市場」

ぢばさん市場のレジに申し込めばレンタサイクル(無料貸出)を利用できます。

利用可能時間
4〜9月  7:00〜18:00
10〜3月 7:00〜17:00
※雨天時は貸出不可

安芸城跡/遺構
 
=本壇(本丸・詰の段)への登り口 B=本壇下の石垣 C=五藤家安芸屋敷 D=大手門桝形の石組 (現地案内板に追記、転載)

 土居廓中(どいかちゅう)は安芸平野のほぼ中央、安芸川の西岸に位置し、周辺は条里制の遺構がよく残る古代から開けた土地です。慶長5年(1600)の関ヶ原合戦後、長宗我部氏に代わって土佐へ入った山内一豊は、山間部が多く東西に広い土佐国を治めるため、佐川、宿毛、窪川、本山、安芸の五ヵ所の土居に家老または重臣を置きました。本来、「土居」とは、土手に囲まれた領主屋敷のことで、五ヵ所の土居には、家老屋敷を中心に小規模な城下町が形成された。その一つ、土居廓中は、安芸土居に置かれた五藤氏の城下町です。城下は、武家地のみで構成され、町人地は2Kmほど南の安芸浦や土居廓中までの街道沿いに形成されました。



山裾から頂上の本壇を望む
 左下の説明板の所が登り口。 

山裾の城跡敷地内
 敷地内には、現在、安芸市立書道美術館(左の建物)、安芸市立歴史民俗資料館(右の建物)が建ち、五藤家安芸屋敷、水堀、土塁、井戸、大手門等が残る 

 安芸城(土居)の水堀と土塁
(西側から大手門方向を眺めた写真)

 中世の土佐では豪族の居館を土居と呼んだが、関ヶ原合戦後、土佐に入国した山内氏が土佐国を治める拠点として佐川、宿毛、窪川、本山、安芸に置いた支城も土居と呼ばれた。

南西隅の水堀と土塁

南東隅の水堀と土塁
 建物は歴史民俗資料館と書道美術館。奥中央の小高い丘が本壇。

   安芸城大手門「桝形の石組」と「土塁」

 安芸城は、安芸氏代々の居城であったが、永禄12年(1569)長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)の攻撃に敗れ、その後は長宗我部氏が約30年間支配した。

 慶長6年(1601)土佐へ入国した山内一豊は、安芸城に重臣を配置した。安芸城を預けられた五藤氏は、ここに屋敷を構え、城の入口には櫓門と桝形を設け、東西の土塁上には石垣と練塀を築いた。

 土居の外には、家臣団の居住地である廓中を整え、ウバメガシや土用竹の生垣で囲まれた町なみは、武家屋敷の面影をとどめている。

大手門桝形の石組と土塁(城内側)
 桝形の石組を大きく捉えたのが右写真。


大手門桝形の石組

毒井戸跡(書道美術館入口前に残る)
 永禄12年(1569)7月、安芸城は圧倒的な長宗我部軍に包囲された。敵に背後をつかれ、不覚をとりながらも安芸勢は城を打って出ては奮戦、籠城24日に及んだが、ついに城の東安芸川の対岸の岡より火矢を放たれ、城は炎上した。
 この間敵に内通するものあり。機をみて城の井戸に毒を投じ、長宗我部の陣に走った。為に城内の兵ら倒れる者多数、士気は著しく衰え、覚悟を決めた城主安芸国虎は、残された全将兵と領民の助命を条件に、自らは菩提寺である浄貞寺に入り自決した。以来、この毒井戸は、安芸落城を早めた原因の一つとして、今に語り伝えられている。


五藤家安芸屋敷
 五藤家は、江戸時代土佐藩家老として高知城の南に高知屋敷を、また安芸土居にも屋敷を構えた。安芸城のふもと一帯には屋敷や蔵、馬小屋などが幾棟も並び、広い土居屋敷を構えていたが、明治になってすべて取り壊された。
 明治20〜30年代にかけて、寄棟造りの主屋や離れなどが建てられ、その南面には庭園が作られた。平成20年(2008)に国の登録有形文化財に登録された。

本壇の状況 

本壇下の石垣
 安芸城は、独立丘(頂上が本壇)を中心に築かれた丘城である。この石垣は独立丘南側に残る。


登って最初の曲輪跡
 安芸城は、独立丘と山麓にそれぞれ曲輪を配置した山上部分と山下部分とで構築された城で、山上部分は、頂上に本壇(本丸、または詰)を置き、その前後に段状の曲輪を配する縄張である。


本壇(詰の段、本丸)
 登り口から5分位で辿り着く。この本壇までに、二つの段状の曲輪跡が確認できる。


本壇南側に残存する土塁

廓中
<平成24年7月に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定>

一般公開屋敷 武家屋敷(野村家)
 ここ野村家は、与力・騎馬として五藤家に仕えた上流の家臣であり、地元の財政、家臣の人事等の惣役(元締)を行っていたといわれる。家屋は幕末の建造らしく終戦後炊事場と縁側を一部改造しているが、間取り等は当時の武家様式がみられる。登録有形文化財。

江戸時代のまま残る道と玉石
 土居廓中には、江戸時代そのままの道路が多く残っている。道の両側には玉石で囲まれた浅い溝が残っている。この溝は、雨水の排水用であるが、江戸時代の絵図にも描かれており、当時を伝える貴重な遺構といえる。


瓦と玉石を使った塀
 割れ瓦を積み重ねた練り塀と、河原石と赤土の練り塀でできている。練り塀の上に土佐漆喰で塗り固め内側に屋根をつける。瓦練塀は安芸地域でよく見られる塀。


野良時計
 明治20年(1887)頃、この地の地主だった畠中源馬氏が人々の便利のために、手作りの時計を一人でで仕上げた。登録有形文化財。

<現在地は歴史民俗資料館の建つ辺り。その下(南側)が大手門(桝形)となり、周囲を水堀が囲っている>

 

歴史民俗資料館に掲示>
 
土佐湾

訪問日/2014年2月(2回目)




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