このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

復元のみどころ《屋根瓦と築地塀造り》
瓦は、焼成時間を変えて数種類の色調に仕上げ、より古代に近い雰囲気を表現し、また、軒先を飾る文様瓦が出土していないため軒丸瓦・軒平瓦とも使用せず丸瓦の空洞部分には漆喰を埋め込んでいる。このような例は全国でも珍しく、発掘調査の成果を忠実に復元した。築地塀造りにおいては、土を人の手でつき固めながら積み上げる版築という古代と同じ工法で造られている。門手前の平坦な道は、政庁へと向かう復元された大路。

■古代の人々は天地の異変や病気からのがれるために自然のいろいろなものを「まつり」、「まじない」を行った。
秋田城跡でも鵜ノ木地区の古代沼の水辺や井戸跡から「まつり・まじない」に使われた道具(祭祀具)が出土した。
人形(ひとがた)、馬形(うまがた)、人面墨書土器(じんめんぼくしょどき)、刺串(さしぐし)は祓(はら)いの道具で水に流されたものです。

復元された外郭東門と築地塀

   古代城柵官衙遺跡・国史跡

【所在地】秋田市寺内焼山

秋田城跡<外郭東門と築地塀>

■排泄の後始末に使用した木のヘラ

交通
●秋田駅より秋田中央交通バス、将軍線、寺内経由 土崎線で約25分、護国神社前下車
●秋田駅よりタクシーで約15分



※説明文等は、現地案内リーフレット、小学館刊「日本の城」「名城をゆく」を参照。

(左上)木製の当時の1升(約700CC)枡と櫛
(右上)木製の下駄
(左)和同開珎(わどうかいちん)

■水洗式厠舎跡パネル写真。厠舎跡は東西3間×南北3間の総柱建物。建物の中、北の1間には3基の便槽が並び、それぞれから直径約45cm、長さ約6mの木樋が緩い傾斜で北側の沼地に延びている。

北側

秋田城
 秋田城跡は奈良時代から平安時代にわたって、東北地方の日本海側(出羽国)に置かれた大規模な地方官庁<官衙(かんが)>の遺跡で、古代の政治、軍事、文化の中心地であった。
 天平5年(733)に、秋田村高清水岡に遷(うつ)された当初は「出羽柵(いではのき)」と呼ばれ、やがて760年ごろ秋田城と呼ばれるようになった。奈良時代には出羽国の政治をおこなう「国府」が置かれ、また、津軽(青森)・渡島(北海道)のほか大陸の渤海(ぼっかい)国(中国東北部)など対北方交易の拠点としても重要な役割を果たしていたと考えられている。
 昭和14年には、遺跡の重要性が認められ国の史跡に指定、現在は高清水公園として整備され、瓦葺きの築地塀と東門が平成10年に復元された。
秋田城跡の調査と保存
 昭和34年から37年までの4年間は国が直接、発掘調査を行い、その後、昭和47年からは秋田市教育委員会が年間を通し、現在も継続して発掘調査を実施している。
 また、発掘調査によって明らかにされた竪穴住居跡や掘立柱建物跡、井戸跡などは、平成元年度から計画的に整備され、歴史公園として生まれ変わりつつある。なかでも平成6年度から4年間にかけて実施した外郭東門と築地塀の実物大復元は、1200年の時を超えていにしえの歴史を語りかけてくれる。
秋田城の範囲「外郭」と城の中心部「政庁」

 高清水丘陵上に作られた秋田城は、土塀に屋根を上げ瓦で葺いた「築地塀」で囲まれていた。その範囲は、東西南北約550mで総延長2.2km.にもなり、これ(写真Bの部分)を「外郭築地塀」と呼んでいる。
 外郭築地塀に囲まれたほぼ中央にさらに東西94m、南北77mの横長の一画(写真Aの部分)が政庁跡。写真C部分に、外郭東門が復元されています。外郭東辺の外側にある鵜ノ木地区は、建物跡や井戸跡、沼跡さらに全国的な例を見ない古代の水洗式の厠舎(便所)跡が発見された重要地域。
復元された大路と古代沼
秋田城跡出土品
<秋田城跡出土品収蔵庫展示物より>

■外郭東門・大路の外側に広がる鵜ノ木地区。
鵜ノ木(うのき)地区から建物跡、井戸跡、沼跡、厠舎跡などが発見された。

■胞衣壺(えなつぼ)
城内、外郭東門を入った南側で「胞衣壺」と呼ばれる須恵器が発見された。「胞衣壺」は生まれた子供の成長と立身出世を祈り土の中に埋めるもので、中には胎盤と奈良時代のお金である萬年通宝5枚が入っていた。

(左)井戸跡出土木簡
木簡には「天平六年月」の文字が書かれている。
(下)井戸跡から発見された井筒の板
秋田城の位置する高清水岡(たかしみずのおか)は名のとおり、良質な飲料水が湧く場所ということで、調査でも奈良時代から中世までの井戸跡が見つかっている。奈良時代の井戸跡は地表から約5mほど掘り下げた巨大なもので、水の溜まる井筒は6枚の厚い板を円形に組合わせています。

■城外側の大路。東門後方にも大路が続きます。秋田城の外から東門を通り、政庁に向かう重要な道路。素掘りの側溝の跡が発見され、それから推定すると道路幅が12mになる。ただ、敷石などが発見されていないので土の道路だったと考えられる。

■史跡公園に復元された沼跡。飛び砂によって川がせき止められて出来たといわれる自然の沼。

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