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あきづきじょう
秋月城
【所在地】福岡県朝倉市 【城郭形態】平城
【築城年・築城者】寛永元年(1624)・黒田長興
秋月城<秋月陣屋> | |
【秋月の由来】 秋月という地名は正暦3年(紀元992年)9月20日に筑前国府宛に大宰府が出した官符によると、紀元940年代にこの地が筥崎八幡宮の荘園になった時に秋月荘と名付けられたからのようである。山に囲繞されたこの盆地は外敵の侵入を防ぐには便利な土地である。 従って昔から覇権を狙う者は根拠地とした。遠くは神功皇后が古処山に拠った羽白熊鷲を討たれた。下っては鎌倉幕府の2代将軍源頼家が、原田種雄(はらだたねかつ)に建仁3年(紀元1203年)に秋月荘を贈ったので、種雄は秋月氏と称し古処山城を中核に覇を張り16代385年間、天正15年の豊臣秀吉の九州征伐まで盛衰の歴史を繰り返した。ここの地名は俗に梅園という。黒田長政の死後、その3男長興(ながおき)が5万石貰って分封され秋月藩主となった。とき元和9年のことである。以来廃藩置県まで12代246年間、黒田氏はここの館にすんでいたのである。(文は現地説明板より。以下同じ) 初代藩主 黒田長興公の画像 | |
秋月城は、「陣屋」造りの城郭で、西辺を水堀と石垣によって区切り、石垣上に5基の櫓を配していた。現在、この部分の石垣と堀が残っている。 中央に大手門の土橋である瓦坂を渡って大手門が位置し(今は渡れません)、南側に裏門を構えている。大手門は枡形となり、その奥に表御殿があったが、現在では中学校の敷地となっている。裏門は長屋門で、その奥には奥御殿が位置していた。大手門と裏門の間の道は中学校正門に至る坂道。 かっての藩士の登城道である「杉の馬場」通りには、藩校「稽古館」や、秋月郷土館が建っている。 杉の馬場通り | |
城跡巡り | |
秋月城北西隅部の櫓台石垣。ここには隅櫓が構えられていた。 | 中学校正門へ至る坂道から見た堀と瓦坂。右手に石垣が残る。 |
秋月中学校 | 表御殿、奥御殿があった城の中枢部は、中学校敷地。 |
瓦を縦に並べて土の流れを防ぐ。 瓦坂と呼ばれる土橋を通って大手門に至る(かっては黒門があった)。大手門は枡形虎口となり、両脇には櫓が配されていた。 秋月黒田藩時代のお館正門。 | |
【秋月城長屋門】 この門は、秋月藩主黒田家の居城である秋月城の裏手門として使用されていたものである。老朽化に伴い昭和62年から3年間、保存修復工事及び発掘調査を実施した。その結果、北棟のさらに北側に古い礎石が発見され、原形に近い形(北6間、南7間)での復元がなされた。 秋月城内で唯一現地に残る建物であり、秋月城の面影を最もよく伝えている。 「写真下左・右」 城内側から見た長屋門。 | |
【秋月城本門(黒門)】 この門は、2回移築されている。もとは秋月氏の本城である古処山城の搦手門で、それが秋月藩の成立後(1623年)、秋月城の大手門として、現在の秋月中学校前の瓦坂の奥に移されたといわれている。 さらに明治13年(1880)、垂裕神社の門として現在の場所に移された。まさにこの門は、中世以来の秋月の歴史を見つめてきている。 | |
【 江戸時代、ここには兜堀と呼ばれる堀があった。この堀は、初代藩主黒田長興が寛政元年(1624)以降、家老堀平右衛門を総指揮者として城下町の整備をした際に掘られたものである。 整備の概要は、秋月盆地の南東隅にあった黒田直之の館跡を修復して本丸とし、盆地中央を流れる野鳥川と盆地南端の浅ヶ谷を堀でつないで二ノ丸とする計画であった。この二ノ丸造成の手始めに掘られたのが兜堀であった。しかし、平右衛門が長興と対立し、寛永5年(1628)に退却すると、二ノ丸造成が取りやめとなり、この堀だけが残ったといわれている。 江戸後期に書かれた「望春随筆」では、兜堀の名の由来を、堀の掘削工事をする際に兜がでてきたから、或いは大きな蚊が生息していたからという二説をあげている。 | |
秋月城周辺の関連施設 | |
秋月郷土館入口(戸波家長屋門) 秋月の歴史資料と美術品を公開する総合的な郷土の資料館。 | 藩士戸波家屋敷跡と母屋 秋月藩の上級武士だった「戸波家」の屋敷地と藩の学校「稽古館」の跡地を用いた郷土館内には「戸波家」の旧家屋と庭園の回りに、郷土美術館と二棟の歴史資料館が配置されている。 |
秋月藩士 「戸波半九郎屋敷母屋」の玄関式台。 明治以降改修の手が施されているが間取り、床ノ間、座敷、玄関式台などには秋月藩高禄の武家屋敷の特徴が残っている。 | |
歴史資料館の内部 | 藩校「稽古館」跡地に建つ郷土美術館 |
【秋月目鏡橋】 この石橋は文化7年(1810)に架けられたもので、ことに花崗岩使用は国内でも珍しく、昭和31年4月県指定有形文化財(建造物)に指定されている。 ところで、この橋が架けられる以前は、板橋でありそのため、一度大雨が降れば野鳥川が氾濫し、橋の流されることが度々で、その都度、藩では橋の架け替えに手を焼いたものである。 そのころ秋月藩は長崎警備の代番を命ぜられ、長崎へ赴く者が多かった。それらの人々は中島川に架かる石橋に目をとめて、あんな橋が秋月にも、と思わない者はなかった。これに裁断を下したのが首席家老の宮崎織部舒安である。かくて長崎の石工に頼み工事は着々と進められた。完成までに数年を要し、一度は竣工間際に崩壊するという事態もあったが、さらに慎重を期し再度着工、見事に完成したのが現在の橋である。 橋名は初め長崎橋、だが今は目鏡橋に定着している。 | |
秋月城アクセス | |
■バス 甘木鉄道甘木駅から甘木観光バスで秋月郷土館前下車 ■車 ●甘鉄甘木駅より約10〜15分 有料駐車場有 ●福岡方面より386号線「久光橋」信号を左折後386号バイパス「持丸北」信号を左折秋月へ ■地域別訪問城に戻る |
【秋月城の現況】 ■遺構として、城の西辺に残る水堀、櫓台石垣、城門、土橋(瓦坂)など。 ■城跡は県史跡。長屋門と本門が県指定有形文化財(建造物)。主要部は秋月中学校敷地。 ■現在も旧城下町の敷地割りや道路・水路網などの基本構造がほぼ当時のまま利用され、武家屋敷・町家・寺社などの秋月重要伝統的建造物群保存地区として、城下町の歴史的景観を伝えている。 |
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