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赤穂城

再建<昭和30年>された三の丸隅櫓(二重二階)と三の丸大手門(左奥)

忠臣蔵のふるさと
 
 播州赤穂

赤穂城(あこう)データ

別 名
 仮屋(かりや)城  加里屋城    
所在地
 兵庫県赤穂市上仮屋(JR播州赤穂駅から南へ徒歩約15分)
 
築城年・築城者
 正保2年(1645)、石高53.500石をもって常陸国笠間(現在の茨城県笠間市)から転封された浅野長直(ながなお)が慶安元年(1648)から寛文元年(1661)まで13年を費やして築いた城。
地形種類
 甲州流軍学の海岸平城。往時はニノ丸の南半分と三ノ丸の西側が瀬戸内海に面していた。
 

 
 現在の赤穂城広域周辺図
 
縄 張
 本丸とニノ丸の関係は、本丸をニノ丸が完全に取り巻く輪郭式。ニノ丸と三ノ丸は梯郭(ていかく)式に配し、櫓10箇所、門12箇所、枡形5箇所を設けて防備の要としている。近世城郭史上非常に珍しい変形輪郭式の海岸平城。
 
沿 革
 赤穂城は、近世になって発達した軍学・兵法に従って縄張された城であり、本丸、ニノ丸、三ノ丸のすべての郭が残された貴重な近世城郭遺構であることから、昭和46年(1971)に国史跡に指定された。現在見ることのできる赤穂城は、浅野内匠頭長直が寛文元年(1661)に完成させたものである。城は熊見川(現在の千種川)河口の西岸に位置し、南は瀬戸内海に面した海城で、変形輪郭式の平城である。縄張は藩の軍師であり、甲州流軍学者であった近藤三郎左衛門正純が行い、12の城門と10の隅櫓を築いた。

 本丸には藩邸や、池泉庭園、天守台が、ニノ丸には大石頼母良重(たのもよししげ)の屋敷や、錦帯池を中心としたニノ丸庭園、遊水池、米蔵、馬場などがあった。また、三ノ丸には大石内蔵助良雄をはじめとした重臣たちの屋敷が配されており、城と熊見川との間には藩の米蔵と船入が備えられていた。現在では大石良雄(よしたか)宅跡長屋門と近藤源八宅跡長屋門が江戸時代の建物として残されている。

 城内、城下には熊見川から取水し、各戸給水を成し遂げた上水道が敷設されており、日本三大上水道の一つに数えられている。上水道の余水は、邸宅に設けられた庭園池泉にも使われた。池泉庭園のうち「本丸庭園」と「二ノ丸庭園」は江戸時代の大名庭園「旧赤穂城庭園」として、平成14年(2002)に国の名勝に指定された。
復元整備
 昭和30年(1955)三ノ丸大手門、三ノ丸隅櫓が再建。
 平成14年までに本丸庭園、本丸門、ニノ丸米蔵、大手門枡形を復元・整備。
 
 復元された本丸門
遺 構
 本丸・ニノ丸・三ノ丸・天守台・石垣・堀

赤穂義士の話〜元禄14年(1701)3月14日、将軍の住む江戸城に天皇の使者を迎える儀式の日、接待役に任命された赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、江戸城“松の廊下”で吉良上野介に遺恨をもって斬りつけるという事件が起こった。
 当時の武士社会の慣習法では、喧嘩は双方とも罰せられることになっていましたが、時の将軍徳川綱吉は吉良上野介を無罪とし、一方、浅野内匠頭はその日のうちに切腹させられた。
 浅野家の筆頭家老・大石内蔵助を首領とする47人の家来たちは、翌年(元禄15)12月14日、吉良上野介を討ち、うち足軽1名を除き自首して切腹の判決を得ました。自らの命を捨て、幕府への不公平な判決を自分達の手で解消し、主君への忠誠を果たした。そんな彼等の行動を人々は讃え、以来、「赤穂義士」として全国的に有名になりました。

赤穂城跡散策

大石内蔵介良雄像
 JR播州赤穂駅前のロータリーに建つ。内蔵介は討ち入りの装束に身をまとい、手にもつ采配を大きく振り上げている。

旧赤穂上水道モニュメント
 赤穂旧上水道は、良い飲料水を得るため約7km上流の千種川から取水し導水路を経て城下町・城内へ配水した。江戸の神田上水や備後の福山上水とともに日本三水道の一つといわれている。


息継ぎ井戸
 元禄14年3月14日に江戸城松之廊下で浅野内匠頭による刃傷事件が起こった。早水藤左衛門と萱野三平がその事件を知らせるため、江戸から早駕籠に乗り4日半かかって19日の早朝赤穂城下に到着。その時、この井戸で二人の使者が水を飲み一息継いで赤穂城へ向かったと伝えられています。


花岳寺山門
 山門はもと西惣門であったものを明治6年(1873)に移築したもので、赤穂市指定文化財となっている。
三之丸
三之丸大手門と隅櫓
 昭和30年(1995)、復元された三之丸大手門の高麗門(左)と二重二階の三之丸隅櫓(右)
古写真で見る三之丸大手門と隅櫓(明治初年に撮影)
 大手門の高麗門と隅櫓の間、土塀の後方に櫓門が見える。ここは桝形門であった。写真は城内説明板より転載。

三之丸隅櫓
 初重には唐破風付出窓が配されている。

高麗門
 大手門桝形を構成する門。
大手門桝形
 赤穂城の表虎口である三之丸大手門は、石垣を方形に積上げた桝形と高麗門、櫓門の二重の城門を備えた最も厳重な桝形門であった。桝形は打ち出す兵を待機させたり、敵兵を閉じ込めて攻撃するためのもので、その規模は長辺10間(約19.8m.)、短辺6間(約11.8m)、面積234㎡である。現在ある高麗門は、隅櫓、土塀とともに昭和30年(1955)に再建されたものである。
 
 桝形石垣は、明治19年(1886)にその形状を大きく改変され、その後周辺は赤穂大石神社の境内となっていたが、文化庁の国庫補助事業によって公有化が図られ、平成15年(2003)に石垣の修復及び周辺整備が完成した。
 
 発掘調査によって、桝形石垣、櫓門跡、番所跡、上水道施設、排水枡、大石内蔵助屋敷土塀石垣など多くの遺構が見つかっている。櫓門は、幅4間半(約8.9m)、奥行2間(約4m)であったことが明らかとなり、新たに板石を埋め込んで礎石の位置を示している。

三之丸大手門の高麗門を入った所の桝形石垣
 突き当たりの石垣右側が櫓門跡。

三之丸大手門の櫓門跡
 両側の石垣の間には櫓門が築かれていた。石垣後方が桝形跡と高麗門。


櫓門跡から見た三之丸大手隅櫓
 左の平屋建物は番所跡に建てられた休憩所。当時、番所には門番として足軽3名、下番2名が詰め、大手門の警護にあたっていた。


桝形内から眺めた高麗門(右)・櫓門跡(石垣部分)・大手隅櫓

近藤源八宅跡長屋門
 赤穂城の設計を担当した近藤三郎左衛門正純の子、近藤源八正憲の屋敷の長屋門。赤穂市指定文化財(建物)。

大石内蔵助良雄宅跡長屋門
 大石家は代々浅野家に仕えた重臣で、赤穂入封から断絶まで家老として大手門内側の一画に屋敷を構えていた。江戸時代建築のひとつで、昭和54年には解体修理が行なわれた。刃傷事件を知らせる早かごが叩いたのがこの門である。


赤穂大石神社

清水門跡
 「川口門」とも呼ばれた清水門は、刃傷事件の赤穂城明け渡しの際、大石内蔵助良雄が最後に城と惜別した舞台として知られる門である。後の白壁の土蔵風の建物は、往時には米蔵があった場所に建てられた赤穂市立歴史博物館。

二之丸

二之丸外堀

二之丸門跡
 二之丸の入口として、切妻式櫓門が構えられていた。


大石頼母屋敷跡
 二之丸門を入ると右手には大石頼母屋敷があった。大石頼母良重(おおいしたのもよししげ)は大石内蔵助良雄(よしたか)の実の大叔父に当たる人物で家老職にあった。


本丸櫓門から見た大石頼母屋敷跡
 屋敷跡は平成10〜11年(1998〜1999)に発掘調査が実施され、土塀基礎石垣や建物礎石などの遺構が検出された。

米蔵
 水手門脇に外観を復元的に休憩所として建てられた米蔵。米蔵は、米など穀物の集積所または備蓄倉庫として、城内に建てられた。

水手門(みずのてもん)
 かつて赤穂城は、東に熊見川(現在の千種川)、南はヨシ原が広がる干潟に面しており、満潮時には海水が石垣まで迫っていた。水手門には、物資を運んできた船を泊めるための「船着場の雁木」や船を波から守る「突堤(波止場)」など、海城の特徴を伝える貴重な施設が、発掘調査などに基づき復元されている。


潮見櫓台
 二之丸東南端に位置し、潮見櫓と呼ばれた二重櫓が存在した。現在は櫓台の石垣のみが残されている。南沖櫓とともに海上監視のための櫓で、城南面の守りを固めていた。


船入跡
 熊見川に開口した船入で、昭和59〜61年(1984〜86)にその一部が発掘調査された。船入の内部は石垣護岸となり、桟橋状の突堤が付設されていた。
本丸
          
 本丸内部には天守台・御殿及び番所・倉庫等の付属建物・池泉等があった。本丸の表玄関となる本丸門は、一の門である櫓門と二の門である高麗門及び桝形から構成される。本丸門は廃城後取り壊されたが、平成4〜8年(1992〜96)にかけて復元された。
 
 藩邸である御殿は大きく表・中奥・奥に分けられる。表御殿は藩庁としての公的施設、中奥は藩主の私的な部屋、奥御殿は奥方・女中達の施設であった。この御殿の南東に天守台、南には大池泉があり、大池泉は昭和59年(1984)の発掘調査によって全容が明らかにされ、復元整備されている。
 
 隅櫓台4箇所のうち、東北隅櫓台のみに二重櫓が築かれ、ほかは横矢桝形として配されていた。本丸へ入る門は、本丸門、厩口門(森時代には台所門)、刎橋門(裏口非常門)の3門からなる。

        
本丸門
 復元された本丸門は、平成4年文化庁の地域中核史跡等整備特別事業として、全国で初めて採択され、国・兵庫県の補助を受けて平成8年3月に完成。木材には欅・桧・杉など国産(内地)材を使用し、石材に赤穂産花崗岩を用いた伝統工法で仕上げている。一の門(脇戸付櫓門)は木造本瓦葺入母屋造り、幅13m、高さ11m、二の門(小戸付高麗門)は木造本瓦葺切妻造り、幅4m、高さ6mである。


本丸石垣
 本丸門手前の中道から見た打込みハギ石垣。左端は東北隅櫓台。


二の門(高麗門)

桝形
 一の門と二の門の多門で桝形を構えている。


一の門
 二の門から見た本丸櫓門(外側)

一の門
 本丸櫓門(内側)


一の門
 本丸櫓門2階内部
御殿跡と本丸門
 天守台上から、中奥に設けられた坪庭、その上方の表御殿跡と本丸門を望む。
天守台
 四方石垣の独立したもので、当初から天守閣は造られなかった。石垣は打込みハギを主としている。昭和12年に崩壊部と石段が修復された。
本丸庭園
 天守台から見た本丸庭園。庭園は潤沢な旧上水道の水を引き込んだ池泉(ちせん)を持つことが大きな特徴。左上の石垣は本丸の裏口非常門の刎橋門。
本丸庭園と天守台
 本丸庭園の大池泉越しに見た天守台。庭園は地中に埋没していたが発掘調査によって発見された。現在は修復整備がなされ、往時の庭園風景が再現されている。

復元整備された厩口門
 本丸門を構成する櫓門から見た厩口(うまやくち)門。


厩口門(内側)
 浅野時代の名称で、森時代には台所門と通称されていた。

本丸石垣(復元整備)

浅野長矩の辞世句
 赤穂駅構内の壁に掲げられている額縁。

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