このページは、2019年3月に保存されたアーカイブです。最新の内容ではない場合がありますのでご注意ください

 あまぎ
天城陣屋    倉敷市藤戸町天城

 多くの橋名の案が出されたが、「佐々木盛綱」藤戸渡海先陣のいわれにちなみ、時の県知事によって「盛綱橋」と命名された。

 多くの人々になじみ、親しまれ、風雪に耐えた「盛綱橋」も老朽化し、昭和の時代が終わると共にその役割を終えたのである(写真は大正15年完成のトラス橋)

 江戸時代、寛永16年(1639)岡山藩家老「池田由成」が天城に居館を築き、土屋敷を中心に町づくりを行い、「かち渡り」や「渡し」であった藤戸・天城の間に、正保4年(1647)に藤戸大橋・小橋を架け交通の便をはかった。以後、岡山城下栄町を起点として妹尾・早島・林・児島・下津井に至る「四国街道」の往来を容易にし、江戸時代後半には、金比羅参詣の信仰の高まりと共に参詣の人々がこの橋を往来した。また、倉敷川に架かる藤戸大橋の周辺は、川湊として近隣農村部の物資の集散地となり、おおいににぎわった。交通機関の発達と道路網の整備に伴い、藤戸大橋の架け替えが必要となり、大正14年架橋工事を始め、同15年4月にトラス橋が完成した。

 今見る藤戸・天城の山丘はかっては藤戸海峡に浮ぶ島であった。その後、次第に開発されかつて海の姿は消え、僅かに南北に流れる倉敷川が藤戸海峡のなごりをとどめているのみである。この橋の上流一帯が「平家物語」や謡曲「藤戸」で知られている、源氏の武将「佐々木盛綱」が渡海先陣で功名を挙げた、源平藤戸合戦の古戦場で多くの伝説・史跡を今に伝える。

 平成元年総工費1億円を懸け2代目「盛綱橋」の誕生を見たのである。歴史の流れを伝えんとして、橋上に8百年の昔、馬上姿で藤戸海峡を波きって渡る「佐々木盛綱」の銅像を造り架橋記念とした。

(文・トラス橋写真は現地説明案内文より転載)

上〜倉敷天城高校左の樹木部分が陣屋跡。
上〜サブグランドへの登り口。この奥に陣屋跡の石碑が建つ。
(左)陣屋跡の石碑
※幕府の一国一城令(1615)により、岡山で城郭を構えたのは備前国(岡山城)・美作国(津山城)・備中国(備中松山城)に限られた。大名でもそれ以外のものは陣屋を構えるにとどまり、知行地に陣屋を置いた。

【天城陣屋跡周辺図】
天城陣屋跡は、倉敷天城高校正門前を左折し、高校敷地に沿って右に曲がると数10m先の左手に高校サブグランドへの登り口があり、そこを登った所に陣屋跡の石碑が建っています。天城陣屋門が移築現存されている静光寺の程近くにある正福寺には、下津井城の城門が移築され残っています。

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盛綱橋の歴史

江戸時代・寛永16年(1639)、下津井城は廃城となり、時の城主岡山藩家老「池田由成」は、天城に陣屋を構えて移った。現在、岡山県立倉敷天城高校のサブグランド入口に陣屋跡の石碑(下の写真)が残る。なお、陣屋門が近くの静光寺に移築現存する。


▼天城陣屋の移築現存門

岡山藩領備前国
岡山藩家老の陣屋


◆天城陣屋跡周辺の史跡◆

経ヶ島
(後方は「盛綱橋」)

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