西爽亭御成門
所在地=倉敷市玉島3丁目8ー25
構 造=木造2階建
平成12年10月18日に国登録有形文化財に指定 | 本邸は天明年間(1781〜1789年)の建築といわれ、柚木本家、または菅茶山(儒者 1748〜1827年)の命名により西爽亭とも称する。柚木家は代々備中松山藩(現高梁市内)藩主板倉候に藩の諸役として仕え、藩候が玉島領内を巡回の際本邸に宿泊するのが習わしだった。従って本邸は、大名の宿泊施設にふさわしい風格を持った構えと造りと装飾がなされ、また庭園の石組みにも由緒があり、格別の趣がある。
幕末動乱期の慶応4年(1868年)鳥羽伏見の戦いにおいて幕府方は敗戦し、大阪城にて老中板倉候護衛の任にあたった藩老熊田恰矩芳(1825〜1868年)は、藩候の命により帰藩しようと隊士(150余名)を率いて海路玉島港に上陸するが、備前藩軍兵によって包囲される。熊田恰(くまた あたか)は藩の責任を一身に背負い、部下の助命と藩の安泰、戦火の回避を嘆願して、慶応4年1月22日、本邸にて切腹。これにより玉島は戦火の災から救われた。本邸は玉島人にとって忘れ難い維新史の悲壮な1頁をそのまま遺している。(現地説明板より) |
御成門(おなりもん)
本瓦葺きの薬医門形式で、屋根の四隅に意匠の凝った鬼瓦を乗せている。西面する御成門を入ると式台玄関がある。
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式台玄関
入母屋の屋根には、凸型に緩やかに傾斜したむくりのある唐破風様の妻飾がついている。幅2間。 |
次の間(つぎのま)
慶応4年(1868)、この部屋で備中松山藩の家老・熊田恰が自刃し、幕末の戦火から玉島を救った。広さ10畳の部屋。後方は庭園、右には上の間が位置する。
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上の間(かみのま)
殿様の御座所。比較的天井が高く、ゆったりとした数寄屋風の書院。広さ10畳の部屋。床・違棚・付書院がそなわっている。この部屋に、備中松山藩の板倉候が宿泊した。
開館時間=午前9時00分〜午後5時00分
休館日=毎週月曜日、年末年始(12月28日〜1月4日)
入館無料
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